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1章 哀れな牧人
6、「その先は聞きたくない」
しおりを挟むアンナは後ろ手に隠した手錠を取り出すと、それをユーゴの手に巻き、もう一方の輪を自分の手に通した。
カチャリ、という音がしたかと思うと、既に二人は鎖で繋がれていた。
驚いて顔をあげると、アンナは手錠の鍵をユーゴの前にかざして、小さく揺らした。
挑発的な視線に戸惑いながらもユーゴは鍵に手を伸ばした。
アンナはそれをさっとかわし、ユーゴの手がそれを追いかける。アンナは身をよじりながら、ユーゴの手から逃れる。
子どものときはユーゴの方が背が低かったため、よくこうして揶揄われたものだった。
アンナはあのときと同じ無邪気な声でキャッキャッと笑った。
「この辺でやめておこう。じゅうぶん楽しかっただろう」
ユーゴは言った。
「こんなのはまだまだ序の口よ」
「第一、どうして手錠なんかするんだ」
「ユーゴはきっと直前で逃げる」
「逃げ……」
十三歳にもなって同い年の女性から逃げると断言されたのは心外だった。
あるいは、自分だけ村を出てコンラッドさんの牧場で厩番をしていることすら、逃げたと見なされているような気がした。
「逃げるっていうのは、文字通り逃げ出すってことじゃないわよ? きっとユーゴは直前で私を助ける」
「そりゃ助けるよ」
アンナは「知ってる」と笑うと、手に持ったカギを襟首からドレスの中に入れて、深く影をなす胸の谷間に押し込んだ。
「私が死んだら取ってもいいよ」
「やめようよ。今日は楽しかったじゃないか。久しぶりに会えて、色んな話もして、子どものときみたいにはしゃいだ。じゅうぶんじゃないか。こうしよう。今日はここで別れて、また来週会うことにしよう。ここで。悪くないだろ? そうだ、明日うちの牧場に遊びに来てもいい。町まで迎えにくるよ。俺が育てたとっておきの競走馬に――」
ユーゴが言い終わらないうちにアンナが動いた。
アンナはユーゴの腰に差したサバイバルナイフを抜き取ると、ちらりと刃先を眺め、ほとんどためらわずに自分の手首に滑らした。
それからユーゴを抱くようにして、腕をバスタブの外に投げ出した。
「子どものときはよく一緒にお風呂に入ったわね」
ユーゴの頬に血が飛び散った。
その勢いは出血が少なくないことを物語っていた。
アンナの腕は背中に回され、バスタブの外に投げ出されており、ユーゴからは出血の量は分からない。
ユーゴは催眠術にかかったように動けずにいて、アンナの瞳をぼんやりと見惚れていた。
アンナの瞳は、腐った倒木のような色から、透き通ったグリーンに変わっていったからだ。
「ほかに方法があるはずだ。俺は君のためならなんでもする」
ユーゴの声はかすれていた。
「ううん、これしかないの」
「そうかもしれないけど……」
アンナの言う通りだった。
ユーゴにはトウセキからアンナを救う方法が思い浮かばなかったし、たとえそれがあったとしても、報復として村に置いてきた両親、アンナの家族、友人が無残な仕打ちを受けることは避けられなかった。
みんなを守るためにはアンナに我慢してもらうしかない――。
それがあの村の悲しい現実だった。
ポタッ、ポタッ、ポタッ、ポタッ――
背後で、アンナの腕から滴った血がシャワールームの床で跳ねる音が聞こえてくる。
ユーゴが思わず振り返ろうとすると、アンナが腕に力をこめてそれを防いだ。
「私の目を見て」
「君のためなら他になんだってする……でも、こんなことは……」
「私は幸せよ。ユーゴは違うの?」
「答えたくないよ」
「はあ……気分が良いわ……本当に久しぶりに……ユーゴの声を聞いた……」
アンナは恍惚とした表情で目を細めた。
ポタッ、ポタッ、ポタッ、ポタッ――
床ではじける血の音にユーゴの身体が震えはじめる。
「大丈夫よ、怖くない。救いなんだから」
アンナはユーゴの頭を無事な方の腕で撫でた。鎖で繋がれた腕が強く引っ張られる。
「こんなの、間違ってる」
「そんなこと言わないでよ。ユーゴ、お願い、私を褒めて……二年間も耐えてきたの。知ってるでしょう? 私がトウセキのところに行ってから、私の村は襲われなくなったのよ」
「知るもんか。俺はあのあとすぐに村を飛び出した」
「そう……」
アンナは悲しそうに微笑んだ。
「結婚させられるまでは、村の平和のために耐えてきた。いつか、解放してくれると思ってたし、先に誘拐された子たちのように、いつか飽きられると思ってた。二年よ? 二年間、新しく同じような年ごろの娘が現れるのを待ってたの。でも、トウセキはもう新しい娘を誘拐しなくなった」
「一か月後にはどうか分からないだろう」
「ううん、私はもう限界。褒めてよ。私が村のみんなを守ったの。たった一人で、二年間も。ユーゴには認めてもらいたいの」
「偉いと思うよ、よく頑張った……でも、……」
アンナは焦点の合わない目で、ユーゴを抱き寄せ、その口を塞いだ。ユーゴは目を見開き、アンナの変わりっぷりに、ただ泣きたくなった。
「その先は聞きたくない」
アンナは唇を離して言った。
「ああ……もう動くのが億劫だわ……。ユーゴを抱きしめてるのが面倒くさくなってきた。今度はあなたが私を抱きしめて……」
ユーゴは言われた通りに、アンナを抱きしめ、泣きそうになりながらアンナの瞳を見つめた。
瞳の動きは鈍く、感情が薄れていたが、それでもすがるようにユーゴを見つめてくる。
「よく頑張った……、よく頑張った……」
それは本音だった。二年という月日の長さにユーゴは気が遠くなった。
「えへへ、ユーゴに褒めてもらえるなんて期待もしてなかった」
「一緒に逃げよう。トウセキが追ってこないところへ」
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