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第一章 蔵之介、持ち込みを断られる

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 蔵之介は、頭に思い浮かんだ情景を必死に記していた。

 右から来る妖怪に、月光の力を持った刀で立ち向かう主人公。月の輝きで敵の力を押さえるも、数が多くて、次第に追い込まれていく。仲間は彼から引き離されてしまい、助太刀できない。このままではやられてしまう。

 主人公が追いつめられたところで、蔵之介は大きく息を吐いて、筆を止めた。

 いけない。これは違う。

 蔵之介が原稿に手を伸ばしたところで、後から声がした。

「大丈夫ですか」

 驚いて振り向くと、玄庵が障子を開けて、彼を見ていた。

「声をかけたのですが、返事がなかったので」
「申しわけありません。夢中になっていたようです」
「邪魔ならば、退散しますが」
「いえ、かまいません。ちょうど一休みしたいと思っていたところです。よい物も持ってきてくださったようですし」

 玄庵の手は徳利と杯がある。

 時刻は亥の刻になろうとしており、一杯やるにはちょうどいい頃合いだ。

 二人は遠縁に出ると向かい合って座った。

 白い月明かりが互いを照らす。

「よい月ですな。美しい。牀前しょうぜん、月光をる。うたがうらくは、是れ地上の霜かと。そう申しますな」
「李白ですな。よく御存知だ」
「知り合いがよく吟じておりましてな。目に浮かぶではありませんか。月光の美しさが」
「さようで」
 蔵之介は、盃を手に取る。
「ですが、私は、昨日東楼に酔う、が好きですな。酒の好きな李白らしい」
「知っております。省せ不、楼を下るの時を、と最後に記していましたな」

 魯中都東楼酔起作は、李白が酔った翌日に読んだ詩句と言われる。東楼で、帽子を逆様にかぶるぐらい酔った。誰が馬に乗せてくれたのかも、どうやって楼を降りたかもおぼえていないと開き直って語っている。酔った時には実によくある話だが、それを唐屈指の詩人である李白が語っていることがおもしろい。

 彼の酒好きは有名で、他にも美しい酒の詩句はいくらでもあるが、蔵之介は魯中都東楼酔起作が最も好きだった。
 
 いずこの国も酒飲みは同じという思いがある。

 蔵之介と玄庵は互いの盃に酒を差した。ゆっくりとあおって呑むる

 実にうまい。

「どうですか、進み具合は」

 玄庵が語りかけてきたのは、ひとしきり飲んで、そこそこに酔いが回ってからだった。

「ずいぶんと根を詰めておられるようで」
「よくありませんね。いいところなのですが、なかなか先が決まらなくて」

 蔵之介は原稿を手に取った。一瞥すると、丸めて捨てる。

「今日は敵の妖怪と激しくやりあうところなのですが、今ひとつ流れが決まらなくて。勝てばいいというものでもないので、どうしたものかと」
「大変ですな」
「おもしろくなければ困りますから」

 蔵之介は、玄庵に戯作を書いていることを事前に明かしていた。

 その上で、用心棒を務めるにあたって、原稿を書きたいので、部屋を貸して欲しいと申し出ていた。

 それならばということで、玄庵は書庫代わりに使っている座敷を提供してくれた。

 そこは医学書のみならず、漢籍、さらには草双紙も積まれており、蔵之介にとっては宝の山だった。『世説新語せせつしんご』や『唐詩選とうしせん』を夢中になって読みながら、彼は執筆をつづけていた。

「まさか、『傾城水滸伝けいせいすいこでん』があるとは思いませんでした」

 蔵之介は本の山を見やった。

「読み直したいと思っていたので、助かりました」

 『傾城水滸伝』は曲亭馬琴の作品で、水滸伝の登場人物を女性に置き換えた野心的な作品だった。

 一〇八の星が近江賎ヶ岳に立てこもって、執権北条義時と後鳥羽院の寵姫亀菊に挑むという筋立てになっている。未完であり、続刊が熱望されていたが、今のところ版元から話は出ていない。

「天魅星宗江が春雨の大箱で、神行太保戴宗が韋駄天の夏目でしたな。何ともおもしろい置き換えです。改めてよいできと感じました」

「それはなによりです」

「ここには、本が多い。うらやましいですね」

 蔵之介は、冊子を手に取ってめくる。

「八犬伝もあるのですね」
「実は、東隠先生からの預かり物です。手元に置いておくのは恥ずかしいとおっしゃいまして」
「そんなこともないのですがね」

 草双紙は下賤の者が読む書と言われ、武士や学者からは侮蔑の対象となっている。

 その一方で隠れて読んでいる者は多く、さる大名の用心がうっかり八犬伝の話をして、主君から叱られたという逸話もある。

「玄庵殿は?」
「読みました。最初は貸本でしたが、後から先生から送られてきて、読み返しました。少し内容は違っていたのですが、おもしろかったですね」
「改めて読むと、違いがわかってよいですね」

 そのためにもできるだけ書は手元に残したいのであるが、金の都合もあり、思ったようにはいかない。

 しばし二人はかつて読んだ書について語り合った。それは草双紙だけでなく、漢書や古い和書にも及んだ。

「そういえば、悪さをしていた連中に文句をつけてくださったそうで。ありがとうございます」

 玄庵は頭を下げた。

「今朝、そのうちの一人が来て、いきさつを話していきました。あの山村を叩きのめしたそうで。手間をかけさせてしまい、すみません」
「いや、かまいませんよ。ならず者にやられては困りますから」
「ただ話を聞くと、辻様があわぬところがありまして」
「何と」
「その者が言うには、ならず者を送りつけようとはしたが、思いのほか手間取り、話をつけたのは三日前のことだったようです、まだ彼らを動かしておらず、話もついていなかったと」
「それは、なんとも」

 蔵之介は腕を組んだ。

「その男が嘘をついただけでは? いじめにかかわる輩ですから、何をやっていていたとしてもおかしくありませんよ」
「そうなのですが、他の話はすべて筋が通っていました。たまに猫の死骸とかを置かれていたことがあったでしょう。そのいきさつについても、すべてを話していきました」
「よくわからないのですな」
「ただ、これで騒ぎも収まるってくれればと思います。私は、彼らが悔い改めてくれれば、それでよいのです」

 玄庵は、小さく息を吐く。

「私も至らないところがありました。長崎遊学の話が出た時、つい気分よくなって、あちこちで吹聴しました。恥ずかしいかぎりで」
「いや、蘭学医なら、長崎は夢の地。知り得なかった知識がいくらでも手に入るはずで、血がたぎるのは当然のこと」
「ですが、やりようはありました。やり過ぎたおかげで、山村だけでなく、塾の古株にもにらまれてしまいまして。やりにくい日々がつづきましたね」

 東原塾の塾頭は三観さんかんといい、西国大名の典医を兼ねているが、長崎に赴いたことはなかった。もっぱら勉強は江戸でしており、医学の知識も書籍でしか手にしていなかった。

 都合よく遊学できる人物は限られており、今回はそれが嫉妬の対象になった。

「長崎には行くのですか」
「そのあたりは何とも。患者を放っていくのは心が痛みます。江戸でもできることは多いので勉強はつづけられますが、心が惹かれるのはまた事実かと」
「無理してでも行った方がよいのでは。半端なことをすると、悔いが残るような気がします」

 蔵之介は冊子を手にして、めくった。

 八犬伝の第六輯で、五一回から六一回が収められている。

「私も戯作に打ちこみたいと思っていますが、なかなかうまくいきません。日々、振り回されるばかりで。せっかく書きあげても、版元にはいい顔をされず、書き直しを命じられてばかりです」
「厳しいですな」
「それでも辞めようとは思いませんよ。ここで投げ出したら、一生ひきずると思います」
「やらずに後悔するのは、もっての他と」
「ですね。生意気を言うようですが」

 玄庵は傍らの冊子を手に取り、ぱらぱらとめくった。

「辻殿の言うとおりですね。より多くの患者を救えるのに、その機会を見逃しては何にもならないと」
「そういうことです」
「ならば、赴くとしますか。早いうちに」
「それがよろしいかと」
「決まる時はこんなものですかな。何のためらいもありませんでした」

 玄庵は笑った。

「腹をくくっていたからですよ。遅かれ早かれ動いたかと」
「そうですね」

 そこで、玄庵は手を止めた。

「ああ、ここです。私がおぼえ間違えていたのは。この番作が信乃に刀を渡して自害するところです。口上は違っていたし、刀を渡すのももう少し遅いように思えたのですが、違うものですね」
「そうですね。思い込みとかありますから」

 蔵之介は冊子を受け取り、ぱらぱらとめくった。その手が中途で止まる。

「これは……」
「何かおかしな所でも」
「おかしなというよりは、これはまったく別の……」

 そこで蔵之介は視線を転じ、視線を外に向ける。

「何か」
「危ない。伏せて」

 蔵之介が玄庵を押し倒すと、障子に穴が空いて、彼らの上を矢がつらぬいた。

 まず一つ。ついで三つだ。

 立てつづけに矢が畳に突き刺さる。

「ねらわれています。下がって」
「いったい、何者が」

 玄庵は顔をゆがめる。

「まさか、塾の連中が……」
「いえ、これは違います」」

 塾生に弓矢が使えるわけがない。

 まったく別の手勢だ。

 蔵之介は冊子を懐にしまうと、玄庵を奥に押し込んで縁側に出た。

 さらに矢が放たれて、周囲に突き刺さる。

 かまうことなく蔵之介は走る。

 敵の気配を感じると、袖から短い縄を取りだした。

「そこか」

 蔵之介は遠縁を走りながら、縄を投げつける。

 大きく回転しながら、それは屋敷の外に、さながら見おろすかのように伸びている楠の枝を叩いた。

 ぎゃっと悲鳴がして、男が地面に落ちた。

 蔵之介が投げた縄には、両端に石がついており、命中すると、相手に腕や足にその縄が絡みついて自由を奪う。

 南蛮の武具らしく、草双紙に書かれていたものを蔵之介が真似して作った。

 これならと思ったところで、矢が縁側に突き刺さった。

 その先端は赤い。

 今度は鏃に火が付いており、たちまち遠縁を焼いていく。

 二本、三本と刺さったところで、蔵之介は声をかける。

「来てください。火です。早く消し止めないと」

 声に押し出されるようにして、玄庵が飛び出してくる。

 そこをねらって、楠で男が矢をつがえる。

「やらせない」

 蔵之介が庭の石を拾って投げつける。

 男は顎を打ち砕かれて、地面に落ちた。

「火を頼みます。玄庵殿。私は連中を」
「心得た」

 玄庵は屋敷の者に声をかけて、火を消しにかかった。

 蔵之介は住みこみの下男が駆けよるのを見ながら、屋敷から飛び出した。

 間を置かず、黒装束の男が斬りかかってくる。

 かろうじてかわしながら、蔵之介は吹き矢を加えた。相手の目に向けて思い切って放つ。

 悲鳴をあげて、敵はあおむけに倒れる。

 転げ回る男を見ながら、蔵之介は木から落ちた男たちに駆けよった。

 幸い二人とも息はあるようで、うめき声をあげて横たわっていた。

 覆面ははがれており、綺麗に月代を剃った顔が露わになっている。

 ならず者ではない。無論、単なる町民でもない。

「そうだろうな。ようやく見えた」

 蔵之介は、事件の真相を察した。

 これで、いきなり矢を打ちこまれた理由わけもわかる。動いていたのは山村ではなく、さらに上の……。
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