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第一章 蔵之介、持ち込みを断られる

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 蔵之介は、暗がりで人影が動いたのを感じとった。


 鐘の音が消えてから、たいして時は経っていない。どうやら約束は守ったということか。

 蔵之介は声をかけた。

「山村殿ですか」
「そ、そうだ」
「連れてきてくれましたか」
「あ、ああ。おぬしの言うとおりにしたら、こうして……」

 蔵之介が提灯をかざすと、闇の彼方に人影が重なっているのが見てとれた。

 三人、いや、四人か。どうやら全員がお出ましらしい。

 先頭に立つのが山村で、これは見知った顔だった。

 夜の闇につつまれていても、顔色の青さがわかる。

 その後は恰幅のある男たちだった。いずれも剃髪しており、四幅袴に十徳といういでたちである。

 眼光の厳しさが弱い明かり越しに伝わってくる。

「おぬしが辻蔵之介か」

 山村を押しのけて、小柄な男が出てきた。正面から蔵之介をにらみつけてくる。

 それなりに迫力はあったが、彼は怯まなかった。

「さようです」
「いったい、なんのつもりで、こんな夜更けに呼び出した」
「話があるからですよ。三観さんかん様」

 三観と呼ばれた男は、顔をゆがめた。

 東原塾の塾頭であり、蘭学医としても名を知られている男にしては、ひどく下品なふるまいだった。

 彼らが顔をあわせたのは、深川三十三間堂の裏手だった。川を越せば木場であり、江戸の外れともいっていい場所だ。

 日が暮れてから半刻が経ち、周囲は静寂につつまれている。

 深川八幡から離れていることもあって、人の気配はほとんどない。

 江戸の外れであることを承知の上で、蔵之介は呼び出した。必ず来ると思っていたし、その読みは間違っていなかった。

「来たのは、心あたりがあるからでしょう」

 蔵之介は懐から冊子を取りだした。

「あなた方が欲しいのは、これでしょう」

 三観がさらに顔をゆがめる。

「八犬伝の第二肆。父が亡くした信乃しのが旅立つ。素晴らしい場面です。私も何度も読みました。ですが、この冊子は微妙に内容が違う。この一丁がまったく違ったものに差し替えられている」

 蔵之介は小刀で冊子をばらばらにすると、三観の足元に投げ捨てた。

「うまく本文に埋め込んでいますが、これは符丁ですね。頭の文字を横に読めば、いつ、どこで取引をするのかわかる。抜荷の薬草を」

「貴様!」

「仕掛けたのは、どちらなのかわかりませんが、あなた方は薬問屋の中川屋と手を組み、唐物の薬草を持ち込み、密かに売りさばいていましたね。いわゆる抜荷というやつです。そこの山村様がやっていた横流しにより、ずっと大きいものをね。かなり儲かったでしょう」

 蔵之介が笑うと、三観の目が吊りあがった。怒りを露わにしている。

「で、その時、仲間内でつなぎを取るために使ったのが、草双紙です。密かにばらして中味を入れ替えて、皆に回した。それでうまくいっていたが、ある時、東隠先生の書庫に紛れてしまった。そうですよね」

 顔色が変わったのは、三観の背後に控えていた男だった。小肥りの身体が細かく震えている。

「あなたが下手人でしたか。多分、借りた本を返した時に潜り込んだのでしょうね。必死に探して、ようやく玄庵殿のところにあるとわかった。素直に返してくれと言えばよいのに、中味を見られることを怖れて強引に取り戻そうとした。それがすべてのはじまりですよ」

 符丁をありかを知って、三観とその一味はすばやく動いた。

 玄庵と山村が仲が悪いことはわかっていたので、それを利用するべく、わざと対立をあおり、騒動が大きくするように仕向けた。

 その一方で、ならず者や送り込んで、玄庵に圧力をかけた。

 盗人を送り込んだのも彼らで、できれば、その時に盗み出すつもりだった。

 すべてが失敗し、しかも蔵之介の脅しで山村たちが手を引くと知って、三観たちは焦った。事が露見してはかなわないとのことで、三観の実家を動かし、家臣を借りて、玄庵の屋敷を襲った。

「いくら何でもやり過ぎです。すべてを隠すために、玄庵殿の命をねらうとは。もう許せません」

 屋敷を襲ったのは、筋目のよい武士だった。弓矢の使い方も優れていたし、何より主君の名に従うという強い意志を感じた。

 それに気づいた時、蔵之介は事の真相に気づいた。

 山村たちは単なる隠れ蓑で、彼らのせいにして、すべてを始末するべく、裏で何かが動いている。

 蔵之介は急ぎ三左衛門に声をかけ、知り合いも動かして、東原塾そのものに探りを入れた。

 出てきた答えは、塾頭を含む重鎮が抜荷に手を染めていたことだった。

「もう御番所には話をつけています。お偉いさんもかばってくれないですよ。素直に縛に就くのがよろしいかと」
「ふざけるな。おい」

 三観が吠えると、最も後に控えていた男が刀を抜いて迫ってきた。

 その顔には見おぼえがある。

 本所で彼らを襲ったならず者だ。

 名は名乗ったか。とりあえず覚えはないが。

 蔵之介は懐に手を入れる。

 それを見て、ならず者は左に跳んだ。さすがに吹き矢にやられるつもりはないか。

 左からの斬撃が来る。

 うまく下がって、蔵之介はかわす。

 つづく横からの一撃も、巧みに避ける。

「おのれ。ちょこまかと」
「やりあうつもりはありませんよ。私は剣が下手くそなのでね」

 ならず者に追い込まれて、蔵之介は川沿いに追い込まれる。もう後退はできない。

 それを見抜いて、ならず者はまっすぐに突っ込んできた。

 蔵之介はあえて動かず、吹き矢を口にあてる。

 ならず者は右に跳んで、痛い目にあった武具から逃げようとする。

 そこをねらって、蔵之介は間合いを詰め、その足を巧みに払った。

 耐えられず、ならず者はよろめき、蔵之介がその身体を押してやると、そのまま傾いて堀に落ちた。

 大きな水音があがって、水しぶきが辺りを濡らす。

「動きすぎなんですよ。おかげで、作らなくてもいい隙を作ることになる」

 蔵之介は医者の一団を見つめた。

「どうします。やりますか?」

 三観たちは目を見開いて下がる。

「この吹き矢、玄庵殿に頼んで強い薬を塗っていただきました。刺されば、すぐに痺れますし、あるいは身体の具合によっては、もっと悪いことになるかもしれません。試してみますか」

 返事はなかった。

 やわらかい風が吹いてきたところで、蔵之介は事件がおおむね片づいたことを察していた。

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