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第五話 戯作者の生きる道

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 襖が開いて気配が書院に入ってくると、やわらかい声が響いた。

「面をあげよ」

 言われるがままに、蔵之介はわずかに視線をあげる。

 鉄紺の小袖に灰色の袴の武家が上座に座っていた。思いのほか軽装なのは、蔵之介に気をつかわせまいとする配慮なのか。懐に扇子をさしているところにも余裕を感じられる。

 髪は白く、顔にも皺が目立つが老いたという印象はない。背筋もまっすぐで、若い旗本よりも覇気の強さを感じる。

「待たせたな。私が大岡主膳だ」
「お初にお目にかかります。手前は小普請方、辻蔵之介と申します。今日はわざわざ時間を作っていただき、恐縮です」
「かまわん。このたびは色々と手間をかけさせた」

 大岡は手を振った。

「おぬしのおかげで、細野主水の件は大事にならずに済んだ。露見していたら、儂の首も飛んでいた。命に恩人に礼を尽くすのは当然よ」

 大岡は笑った。好好爺のような印象を与えるが、目の奥底にある鋭い輝きは残ったままだ。

 侮ることはできない。

 大岡は、武蔵岩槻二万石の当主で、文化年間に家督を嗣ぐと、日光祭礼奉行、奏者番を務めて、天保九年には若年寄の地位に就いた。

 世情が揺れる中にあって、幕政の安定に努め、百姓一揆や異国船問題に的確に対処している。昨年には江戸城本丸の普請奉行を務めて、その功で三〇〇〇石が加増された。

 十年にわたって幕政の中心にあり、水野忠邦の失脚にも巻きこまれることなく、その地位を保っているところからも並の人物ではないことがわかる。

 実のところ、大岡は出版とも深いかかわりがある。

 天保十二年、蔵之介と同じ小普請の中西忠蔵なかにしちゅうぞうが木活字本を出した際、その内容に問題があるとされて議論になった。中西の書物には、将軍家に関する記述があり、それが御法度に反するとみなされたのである。

 その時、昌平黌しょうへいこうに諮問したのが大岡であり、彼の主導で書物の吟味が進められた。

 結局、忠蔵はお咎めなしとなったが、その際にも大岡の意見が反映され、これが契機となって、徳川家歴代の事蹟についての出版物が刊行できるようになった。

 その大岡から呼び出しがあったのは、三日前のことだ。細野家の件が話したいことがあると言われては、断るわけにはいかない。

「細野主水の件、おぬしも知りたいであろう。あれではいかにも半端だ」

 主水は彼の前で自害して果てた。その後のことは大岡にまかせており、あれから一月が経った今でも、事実はわからないままだった。

「怖い顔をしているな。まあ、気持ちはわかるが」

 大岡は笑ったが、それも一瞬で、すぐに容色を改めた。

「おぬしも察しているとおり、細野主水は京との深いかかわりがあった。朝廷に贈り物をしていただけでなく、御所とも密かにつなぎをつけて、金や品物を送っていたようだ。確かめただけで千両にも達する。細かく調べていけば、さらに出てくるだろう」
「……」
「それと時をほぼ同じくして、京から人を受けいれている。朝廷の意を受けた者ばかりで、奉公人や下男、下女、さらには商人、連歌師など数えあげればきりがかない。細野家で働く者がほとんどであるが、幾人かは屋敷を出て、大店の手代や寺の取次として働いていた。かの者たちは、仕事に精を出す一方で、京に江戸の内情を送っていた。米や油の値から呉服屋や廻船問屋の仕事ぶり、さらには我らお上のふるまいと、あげればきりがかない。気づいたことは、すべて書付にして送っていた者もいるぐらいだ。我らのふるまいは筒抜けになっていたであろうな」
「それでは、細野家は」
「うむ。京の手先であった。いや、隠密と言っていいかもしれぬ。それほどの働きをしておった」

 大岡の言葉は、重々しく響いた。

「どう思う。おぬし」
「と申しますと」
「儂の言葉を聞いて、どう思うか訊ねている。どうせ、ここには誰もおらぬ。思ったことを申すとよい」

 蔵之介は、しばし間をあけてから応じた。

「薄々は察しておりました。主水は手前と会った時、京の天子に忠義を尽くす旨を語っておりましたから。腕のたつ者も数多く抱えていました。自ら望んで、江戸の事情を探っておりました」
「そうか。おぬしは直に向こうの隠密と渡りあったのだったな。どうだった、腕前は」
「かなりのものかと。手前も危うい目にあいました」
「我らの隠密と比べてどうか」
「それは、何とも。やりあったことはございませんので」
「どうかな。おぬしは相当にできると聞いている。頭に思い浮かべるぐらいのことはできるだろう」
「いったい、どこで、そんな話を」

 大岡は笑うだけで、語ろうとしない。

 手の者はどこにでもいるということなのか。

「まあ、それはよい。話を戻そう。とりあえず、細野主膳は急病で亡くなり、家は嫡男が継ぐとが決まった。幸い嫡男は父が何をしていたか知らず、京とのつながりは断たれた。怪しい家臣は解き放つように言い聞かせておいたので、以前のように京の出城となることはあるまい。正直、事をあまり大きくしたくはない」
「戸田様はどうなるのですか。罪を問われたままでは、憐れかと」
「お咎めはなしだ。これまでと同じく勘定方に留まってもらう」
「それは何よりです」
「できる男のようだからな。すぐにでも吟味役に取り立てられることになろう」
「後は、手前が黙っていれば、すべてが終わりですか」
「察しがいいな。頭のよい男は好きだよ」
「お戯れを」

 では、これで事件は終わりか。一応、筋は通っているが、

 蔵之介が上目で見ると、大岡は懐から扇子を取りだし、掌を叩いた。

 どうやら話はまだつづきそうだが、あまりいい予感はしない。

「世情が揺れると、面倒な騒動が起きて困る」

 大岡は淡々と語った。

「まさか京の連中がここまで深く懐に飛び込んでいるとはな。いささか面食らった」
「前にもこのようなことがあったので」
「あったさ。京の連中も我らの意向は知りたい。伝奏や議奏を通じたやりとりは、あくまで上っ面。内情を知りたければ、江戸に出てくるしかない。これまでも京の意を受けた奉公人や商人はそれなりにいた」
「……」
「だが、ここまで大物に手を出してきたことはなかった。二〇〇〇石といえば、大身。政にかかわることもできる。細野は能吏であり、このままならば遠国奉行はもちろん、京の所司代、さらには町奉行になることもできた」
「さようで」
「江戸の治安を預かる者が京の出先などと、考えるだけでもぞっとする」

 主水が町奉行なら、江戸で何かあった時、お上よりも京の意向を優先するかもしれない。朝廷が地位の向上を求めて攻めてくることは十分に考えられ、幕閣は対応に苦慮しただろう。

「きわどいところだった」
「細野のこと、誰も気づいていなかったのですか」
「ある程度は察していたが、うまく隠されていて肝心な所はわからずじまいだった。おぬしたちが動いてくれたおかげで隙ができて、内情を知ることができた」
「我らはいいように使われたということですね」
「腹立たしいか」
「いいえ。偉い方には偉い方の都合がございますから」

 蔵之介は顔をあげて、まっすぐに大岡を見た。

「それに大岡様には助けていただきましたし」
「……書状は受け取ったようだな」
「はい。ただ、一つ、うかがいたいことが」
「なんだ」
「桐文堂とはどこで知り合ったのですか」

 蔵之介と一之新は細野家の謀略に追い込まれていたが、桐文堂からの書状で、細野家と京のつながりを知り、逆転につなげることができた。

 細かく内情が記されていたのだが、その情報を裏打ちしたのが大岡だった。実のところ、桐文堂からの書状に同封されており、内容に間違いないことが記されていた。

 翌日に来た大岡からの使者も、その旨を明言していた。

 桐文堂と大岡のつながりが、蔵之介たちを救った。

「聞いていなかったか」

 大岡は笑った。

「儂はずいぶん前から桐文堂の客なのだよ。いい本があれば買うし、貸本を頼むこともある。精右衛門とはたまに会って話をする。いい馴染みといったところだな」
「若年寄様が町の書肆と付き合いがあったと」
「おもしろい奴だからな」
「それだけですか」
「例の中山忠蔵の時にも話を聞いた。あの時にも為になった」

 信じがたい。武家と書肆の付き合いは否定しないが、大名が自ら店の者と会い、話をするものだろうか。

 大岡の言葉を鵜呑みにはできない。二人の裏には何かがある。

「他に何か訊いておきたいことあるか」
「いえ。今は何も。色々とありがとうございました」

 蔵之介はあっさり引いた。

 大岡は、魑魅魍魎ちみもうりょう跋扈ばっこする江戸城で若年寄まで登りつめた化物だ。腹芸で太刀打ちできる相手ではなく、うかつに挑めば返り討ちになるだけだ。

 蔵之介は頭を下げると、大岡のやわらかい声が響いてきた。

「よい引き際だ。やはりおぬしは頭がよいな」
「とんでもない。単なる小普請でございますよ」
「それよ。おぬしが無役でくすぶっているのはもったいない。すぐにでも取り立てよう。何かやってみたい仕事はあるか」
「遠慮させていただきます。手前は今の立場が気に入っておりますので」
「あくまで戯作にこだわると」
「御存知でしたか。まったくもってその通りで」
「いいように使われたくないか。まったく察しがいいな」

 蔵之介は何も言わなかった。

 これ以上、ここにいるのは危険である。さっさと話を切り出し、帰宅する。それか彼の頭にはなかった。
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