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第五話 戯作者の生きる道

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 不機嫌なまま蔵之介が屋敷に戻ると、三左衛門が待っていた。

「おう。例の写本を持ってきたぞ。剪灯新話せんとうしんわの後半分だ。たまたま手に入ってな」

 剪灯新話は、唐の国で書かれた小咄を集めたものだ。

 三百年ほど前に中国で刊行され、寛文の御世にはこの国に入って数寄者が読んでいたという。上田秋成うえだあきなりの雨月物語には、剪灯新話を参考にしたと思われる話が入っている。


 霊魂が飛びかう物語で、蔵之介は前から興味を持っていたが、今日はとうてい読む気にはなれなかった。

「ああ、すまなかったな」

 無下な扱いをしたので、三左衛門は目を細めた。

「機嫌が悪そうだな。何かあったか」
「何もないさ」
「ふん。おおかた、つまらぬ話でも聞いてきたのだろう。腹にためてないで、しゃべってしまえよ」

 うながされて、蔵之介は、細野家の件も含めて、大岡と対面して話したことを明らかにした。

「なるほどね。それは腹立たしくもある」
「いいように使われた上に、まだ裏があると匂わされてはな」
「されど、そのおかげで、おぬしたちは命拾いをした。あのままだったら、一之新殿は切腹し、おぬしもどこぞの隠密に殺されていたやもしれぬ」
「あの連中は眉一つ動かさなかったであろうよ。我らは、取り替えが利く安物の刀よ」
「そうではあるが、何も言わずにすむところをおぬしと会って、わざわざ話をしてくれたのだ。身分の差を考えれば、礼は尽くしたと見るべきではないかな」
「騒がれたら面倒だと思ったのではないか」
「それはうがちすぎだ。おぬしにもわかっていよう」

 三左衛門の話はいちいち正論で腹立たしいかぎりだが、それを認めぬわけにはいかなかった。大きく息をつく。

「ああ。頭に血がのぼりすぎていたようだ。悪かった」
「いいさ。俺なら、お前の十倍は文句を並べたさ」

 三左衛門は笑う。おおらかなふるまいに、蔵之介の心もゆるむ。

「若年寄の話、いちいち真に受けることはない。何を考えているのかわからん連中だからな」
「承知している」
「ただ、役目の話はもう少し聞くべきだったな。ありがたく頂戴すれば、おぬしの生活も楽になったものを」
「どうだか。隠密にでもなったら、どこへ飛ばされるか」
「それもうがちすぎだ。おそらく最初は使番つかいばんで、おぬしの力を活かせるはずだ」

 使番は、本来、戦の場で伝令や戦功の監察を務める役目であったが、天下泰平の世になってからは、各国の動向を調べる監視役としての役割が重視されるようになった。二条城や大坂城といったお上の要地を視察したり、将軍代替わりごとに諸国の巡察をおこなったりする。

 目付とともに火消しの指揮を執ることもあり、お上の支配を支える重要な役目だ。

 出世する者も多く、若くて能力のある人物が就任することでも知られる。

「若年寄支配だからな。大岡様の口利きがあれば、たやすかろう」
「やめておく。口利きで入ったと知られれば、妬みの目で見られてやりにくい。ただでさえ息が詰まりそうなのに、重しがのってはやっていけん」
「金もかかるしな」
「そうだ。貧乏人に役目は務まらんよ」

 蔵之介は傍らの原稿を手に取った。

「私にはこれがある。それでいい」
「おぬしらしいな。欲のないことだ」

 三左衛門はそこで表情を引き締めた。

「ただ、一つ言っておく。ここのところ世情は大きく揺れている。一揆や異国船の襲来もつづいて、この先、どうなるかはわからぬ。五年、十年先、今と同じ世がつづいているとは限らん。その時になって慌てぬように、備えはしておけよ」
「大袈裟だな」
「どうかな。これでも俺は、穏やかな言い回しをしているつもりだよ」
「戦国の世が戻ってくるとでも」
「ありえる話だ」

 三左衛門の目は真剣で、蔵之介は驚いた。

 友人の思いはどこに向いているのか。異国か、それとも農民か。はたまたその先にある何かなのか。凡人である蔵之介には、思いもよらない。

 はっきりしているのは三左衛門が蔵之介を心から気にかけ、忠告してくれていることだ。

「わかったよ。おぬしの言葉、肝に銘じよう」
「そうしてくれ」
「ただ、私が戯作者を目指すことは変わらぬ。天下が揺らごうとな」
「かまわないさ。それがおぬしの意志なら」

 三左衛門はそこで息をついて、首の裏をかいた。

「ああ、いかんな。話が重すぎた。おぬしが若年寄と会ったなんて言うから、柄にもなく説教臭いことを言ってしまった。今日は別の用事があったのに」
「そういえば、おぬし、何をしに来たのだ。写本で忙しいのだろう」
「そうなんだが、急ぎで頼みたいことがあってな」

 蔵之介は目を細めた。嫌な予感しかしない。

「もしや、もめ事の仲裁か」
「そうだ。洲崎の先の船宿で、いろいろあってな。宿の連中を助けて欲しいんだ」
「あまりかかわりたくないな。ここのところ多すぎる」
「それはわかっているが、この手の仲裁ができる者は限られる。町方に話をすれば大事になるし、さりとて変な渡世人に話を持っていくわけにもいかぬ。顔役も荒事
にはかかわりたくないようだ」
「ということは、刃傷沙汰もありうるということか」
「そういうことだ。おぬしなら、うまく片づけることができよう」

 蔵之介は天を仰いだ。

 できることならば避けたい話であるが、そうもいかない。一之新の件にかかわっていたおかげで、懐具合が寂しい。一月もすれば米が尽きる。

 原稿が採用となれば、前借りもできるが、今の段階ではそれも怪しい。

 働かねば干からびるだけで、蔵之介はいつもの言葉を並べるよりなかった。

「わかった。それで、私は何をすればいい」
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