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第五話 戯作者の生きる道

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 海からの風を受けて、蔵之介は顔をしかめた。

 思ったよりも天候は悪くなっていた。南からの風は強くなる一方で、足に力を入れていないと、その場に立っているのもしんどい。時折、巻きあげられた海の水が顔を叩く。

 視界の先では、背の高い楠があおられて右に左に揺れていた。

 灰色の雲も先刻から激しく流れている。すでに日射しは遮られており、周囲は昼間と思えないほどの暗さだ。雨が降るまで、さして時はかかるまい。

 状況は最悪だったが、おかげで余人を巻きこまずに済みそうだ。周囲に、人影はない。

 蔵之介は、中川にほど近い砂村新田の地に赴いていた。鎮守の八幡宮にほど近い農家に、隠密の住み処があると聞いてのことだ。

 知らせをもたらしたのは宗左衛門であった。隠密をつけて場所を特定したという。それには大岡も手を貸しており、今回の蔵之介の働きはお上の公認であるとのことだった。

 それを真に受けてよいのかわからないが、本拠が明らかになったのはありがたい。

 自分の手で決着をつけることができる。

 蔵之介は八幡宮の裏手を抜けて、農家に向かう。

 藁葺きの建物が視界に入ってくるまで、さして時はかからなかった。

 農家は小川に囲まれていて、近づくには正面の細い道を使うしかなかった。小さな橋を渡れば、出入り口である。

 背後は雑木林で、風にあおられて激しく枝が揺れている。

 人の気配はない。彼が近づいていることに気づいていないのか、あるいは気づいていて準備を整えているのか。

 蔵之介は、背中の太刀に手をかける。

 今日、彼が持ってきたのは、刀身三尺一寸の野太刀で、先祖伝来の逸品である。重く、振り回すのは難儀であるが、どんな敵でも一撃で切り捨てることができる。

 今回は手加減する余裕がない。

 最大の武具を使って、敵を薙ぎはらう。それだけだ。

 蔵之介が橋を渡ると、雨粒が顔に当たった。小道の色がたちまち変わる。

 雨に濡れるのも気にせず、蔵之介は屋敷に近づく。

 蔵之介は戸口の前に立つ。

 引き戸に手を伸ばしたところで、背後から殺気が来た。

 何の前触れもなく、いきなりだ。

 反射的に蔵之介は太刀を抜き、力まかせに振り回した。

 強烈な一撃は、背後から迫る敵の横っ腹を叩き切った。腹の半分がえぐり取られて、黒装束の男は声もなく倒れる。

 つづけざまに、上から敵が来る。

 これも黒装束の男で、脇差を手にしている。

 すさまじい速さであったが、蔵之介の動きはそれを超えていた。横から敵の刀を叩いて軌道を変えると、相手が着地したところをねらって、右袈裟の一撃をかける。

 肩から腹まで切り裂かれて、敵はあおむけに倒れた。

 衝撃的な情景に、敵は怯む。姿は見えないが、動揺しているのがはっきりとわかる。

「どうした。これまでか」

 蔵之介はわざとあおった。

「京の隠密もこの程度か。たいしたことはないな」

 気配がさらに揺れる。数は九。動揺してくれたおかげで、どこにいるのかはっきりとつかむことができる。

 蔵之介は、戸口の前で仁王立ちとなった。

「たいした連中だよ、おぬしたちは。世話になったしず殿を殺そうとしたばかりか、旗本の仕業に見せかけて、『たいそう』まで焼こうとしたのであるからな。それが尊き天子様に仕える者のやることか」

 返事はないが、怒りは感じる。うまく、こちらのあおりに乗っている。

「疾く京に戻れ。『たいそう』から手を引けば、見逃してやる」
「そんなことはできぬ。仲間のかたき、ここで果たす」

 どこから声が聞こえてくる。暗く、陰鬱な声だ。

「余計なことをしてくれた。おかげで、我らは多くの仲間を失った」
「我らは身を守っただけに過ぎぬ。おぬしらが手を出さなければ、見逃した」
「我らは江戸の有様を京に伝えねばならぬ」

 声は右へ左へと動く。居所はよくわからない。

「我らは、長年、幕府に虐げられてきた。天子様はいわれなく御所に閉じこめられ、寺社に参拝することもままならぬ。公家の方々も食い扶持を押さえられ、生きていくので精一杯という有様。これは、余りにもひどいやりよう」
「……」
「すべてを取り返す。幕府をひっくり返し、天子様の輝きが広がる世を作る。そのために我らは動いている」
「馬鹿なことを。京にそんな力があると思っているのか」

 蔵之介は顔をしかめた。

「幕府も馬鹿ではない。おぬしたちの動きはつかんでいる。無理をすれば、あっという間にやられるぞ」
「流れは変わる。幕府の力も以前ほどではない。必ず綻びが出る」

 声は正面で停まった。

「今は駄目でも、十年、二十年先はわからぬ。その時に備えて、我らは動くだけ」
「なんのかかわりもない宿の者を殺してか。それで、京の天子様が喜ぶのか」

 大きく気配が揺れて、居所が明らかになる。

 蔵之介は走って、左奥の敵に向かう。

 黒装束が左に跳ぶが、それも折りこみ済みだ。あわせるように跳んで、地面に足をつく前に野太刀を振りおろした。

 頭を叩かれて、男は倒れる。

 気配がいっせいに動いて、彼を取り囲む。

 動きは速いが、乱れが見てとれる。

 蔵之介は右前方に突っ込み、太刀を振るう。

 黒装束が跳んで、小刀を放つ。

 そのすべてを蔵之介は叩き落として、間合いを詰め、下からの太刀を振りあげる。

 足を切り飛ばされて、黒装束はその場に倒れ込んだ。

「おのれ」

 三つの気配が同時に迫ってくる。

 一つは左上、一つは右後方。もう一つは正面下だ。

 全員で包みこむようして攻め込んできて、逃げ場がない。

 蔵之介は反射的に後に跳んだ。

 いきなりのことにかわしきれず、背後の隠密は蔵之介とぶつかる。

 蔵之介は着地したところで、野太刀を振るい、背後の敵を叩き切る。

 ついで上から来る敵に太刀を投げつけ、左に跳ぶ。

 これまた奇襲を読み切れず、黒装束が野太刀につらぬかれる。

 最後の敵が刀を振りおろすも、動揺のためか、明らかに太刀筋は乱れていた。

 蔵之介はきわどいところでかわすと、懐に入って相手の太刀を奪い取る。

 そのまま首筋を断ち切ったところで勝負は決まった。血をまき散らしながら、その場に倒れ込んでしまう。

 蔵之介は敵の遺骸に歩み揺ると、野太刀を引き抜き、左右を見回した。

「さあ、どうする。あと三人だぞ」

 声をかけると、正面に黒装束の男が姿を見せた。背が高く、細身だ。

 男は覆面をとって顔をさらした。

 顔には見おぼえがある。確か大和屋で顔をあわせた……

「おぬし、あの番頭か」

 大和屋の番頭である錬治郎が彼の前に立ちはだかっていた。

 残りの二人の男も覆面をとった。一方は大和屋の手代、もう一人は関本家の家臣だった。

 蔵之介は驚いた。いったい、どこまで、彼らは食い込んでいるのか。

 本当に、京の朝廷は彼らが考えているように無力なのか。

「よくもやってくれましたね。せっかく、ここまで積みあげてきたのに」

 錬治郎は顔をゆがめた。

「おぬしが頭か」
「まさか。単なる小間使いですよ」

 錬治郎は悔しげに顔をゆがめた。

「見事に引っかき回してくれましたね」
「無茶をしたからだ。早めに引いていれば、つまらぬ犠牲は出さずに済んだ」
「違いますよ。辻様が邪魔をしたから、うまくいかなかったんですよ。他の奴らだったら、とうに決着はついていました」

 錬治郎は顔をゆがめた。

「私には信じられませんよ。余人が解けぬもめ事を片づけ、若年寄からも声がかかった方が、戯作になぞうつつを抜かしているとは。それこそ隠密として働けば、いくらでも功をあげることができたでしょうに。目付になるのも夢ではなかった。なのに、それをすべて打ち棄てて、馬鹿なことに……」
「それが私の望みだ」

 蔵之介はためらうことなく応じた。

「日々平凡な暮らしを営み、つまらぬことに悩み苦しみながら生きていく。江戸に住む者として泣き、笑い、怒り、喜びながら一生を終える。それのどこが悪い。無理して役目に就いたところで、どこかで歪みが出る。欲しい物は手にできぬ。ならば、静かに暮らしつつ、自分のやりたいことをやる。それでよかろう」

 戯作で人の心に安らぎを与え、生きる糧としてもらう。それが隠密の仕事より下だとは思えない。市中に静かに沈んでこそ見えてくるものもある。

「私は戯作者さっかだ。今もこれからも」
「大義を知らぬ者がよく言う」

 錬治郎が踏みこんで、横薙ぎの一撃を払う。

「新しい時代は我々が作る」

 切っ先は、彼の袖をかすめた。

 このままでは危ない。

 蔵之介は三人の位置を確かめると、前に出た。野太刀を振るって、錬治郎を牽制すると、地面に落ちていた敵の小刀をつかんで放り投げる。

 思わぬ一撃に、錬治郎は退いて下がる。

 それを待って、蔵之介は跳び、手代の前に立つ。

 相手がひるんで距離を取ろうとしたところで、野太刀を振りおろし、その頭を打ち砕く。

 さらに、関本家の家臣が迫ってきたところで、横からの一撃をかけて、その腹を切り裂く。

 鮮血が飛び散る中、錬治郎は声を張りあげて、彼に迫ってきた。

 敵を取りたいのか、それとも単なる意地か。

 蔵之介は前に出て、錬治郎の斬撃を大太刀で受け止める。

 鈍い音がして、錬治郎の刀が中途から折れる。

 怯んで下がったところで、強烈な突きを放つ。

「ぐわっ!」

 胸の骨を打ち砕かれて、錬治郎は膝をついた。血の塊を口から吐き出す。

 蔵之介が刀を抜くと、彼を見あげて口を動かしたが、言葉は最後まで出ることなく、力尽きて前のめりに倒れた。

 雨が、黒装束を濡らす。

 蔵之介は何も言わずに、誰も動かぬ戦いの場を見つめていた。

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