やってきたのは柳生十兵衛最後の弟子! -止水流道場始末記-

中岡潤一郎

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第一話 切腹って痛いんだろうなあ

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 井ノ原五郎いのはらごろうは、稽古場で正座していた。もう二刻になる。

 立ちあがらねばならぬのだが、その気力が出ない。視線は先刻から泥まみれになった床板に向けられたままで、傍らに転がる竹刀が目に飛び込んできている。その先には、掛け軸が無惨に切り刻まれて、投げ捨てられている。見ているだけで、気が滅入るが、顔をそむける元気はない。

 すべてが嫌になっていた。

 断っているのに、連中は何度となく押しかけ、この道場をさんざんに荒らし回っていく。名札掛けは粉々に砕かれ、床の間は刀で斬りつけられて、傷だらけだ。稽古場の傍らには、小便の跡も残っている。

 止めようとした五郎は、周りを取り囲まれ、逃げ道をふさがれたところで、左右から撃ちこまれて全身、痣だらけになった。真剣を突きつけられ、喉をつらぬかれたくなければ、その場で頭を下げて謝れとも言われた。

 耐えられず、五郎がひざまずくと、嘲られ、罵られた。

 冷たい目で見おろされたときの哀しさは、今でも心に残っている。

 未来永劫、彼らは五郎を責めたてる。そのたびに、父から残された道場は怪我されていくし、五郎を罵る町の声も大きくなっていく。

 事態は悪化する一方で、立て直す余地はどこにもない。

 ならば、いっそ……。

「腹を斬るか」

 五郎の言葉は、静かな道場に響いた。

 切腹して、すべてを終わらせる。

 死後の世界には、誰も追って来ない。罵詈雑言からは無縁の穏やかな場所だ。

 一九年の人生は短いが、致し方あるまい。

 技量がない者に生きる資格はないのだから。

 五郎は立ちあがり、稽古場の片隅に放り投げられていた脇差を取った。

 抜き放つと、刀身が陽を浴びてきらめく。

 手入れは万全なので、この場に座って、思いきり突きたてれば、それですむ。何の問題もない。しかし……。

「きっと、痛いんだろうなあ」

 自分の身体に刃を突きたてるなんて、ありえない。考えただけでもつらい。

 介錯もないので、長い間、ひどい苦痛に耐えねばならない。

 楽になるために苦しまねばならないなんて、理不尽そのものではないか。

 それでも五郎はため息をついて、腰を下ろした。着物をはだけると、脇差を抜く。

 刃を腹に軽くあてると、氷を思わせる冷たい感触が広がる。

 やっぱり痛そうだ。ここは無理せず、日を改めるべきか。

 別に、切腹は逃げはしない。

「いや、駄目だ」

 これ以上、笑われるのは嫌だ。

 もう逃げ場はないのだから。

 五郎は脇腹を両手で握り、思いきり腹の前で振りあげる。気力を振り絞って、切っ先を腹に突きたてようとした時、かすかに声がした。

「ごめんください」

 五郎は手を止めた。

 聞き違いかと思ったが、声はなおもつづいた。

「すみません。こちらは井ノ瀬勘三郎先生のお宅とうかがってきました。どなたか、いらっしゃいませんか」

 確かに、ここは井ノ瀬家の屋敷だ。八百石と石高は小さいが、大坂の陣で、将軍徳川秀忠の陣を最後まで守って戦った功を評価されて、神田鍛冶町の近くに屋敷を賜った。父の勘三郎は、この屋敷を気に入り、最後の瞬間まで手入れをつづけていた。それは間違いないが……。

「どなたかいらっしゃいませんか」

 声はつづく。

「私は、流拓之進ながれたくのしん。井ノ瀬勘三郎様に用があって、参りました。どなたかいらっしゃいませんか」

「ああ、もう」

 耐えられず、五郎は立ちあがった。屋敷に戻って玄関に回ると、若い武士が立っていた。

 緑の小袖に、野袴、黒の羽織といういでたちだ。網袋をかけ、脚絆に草鞋という格好を見れば、旅をしてきたことがわかる。羽織の汚れが目立つところを見ると、長旅だったのかもしれない。

 年は、五郎より若そうだ。一五、六か。顔立ちは整っていたが、右の眉毛の上にわずかに傷があるのが気になった。髪は惣髪で、縦に長い顔の輪郭と合っている。

 身体は細かったが、不思議とひ弱な印象はなかった。迂闊に近づけない圧力を感じる。

「何か用か」

 五郎の口調はぶっきらぼうだったが、若侍は気にした様子もなく応じた。

「はい。私の名前は流拓之進。井ノ瀬勘三郎かんざぶろう様にお目にかかりたくて、大和からやって参りました。取り次いでいただけますか」
「父ならいない。半年前に死んだ」
「おう。それは」

 拓之進は大仰に驚いて見せた。不思議な反応をする男だ。

「どういうわけで」
「病だ。昨年の春から父上は体調を崩されていてな。安静にしていなければならないところに、無理をしたら、血を吐かれた。床についてからは、あっという間だった」
「それは、残念です。一度、お目にかかりたかった」
「申し訳ない。すまないが、帰ってくれ」

 今は人と話をしたくない。早々に決着をつけねばならないのだから。

 五郎が背を向けると、やわらかい声が響いた。

「はい。帰ります。ですが、その前に、一度でいいので、お父上に挨拶させていただけますか。縁はありませんでしたが、せっかく来たので」

 断るのはたやすいが、わざわざ大和から来た客人に、不要だから帰れというのはさすがに失礼であろう。礼には礼を持って報いよと、父にも言われてきた。

 振り向くと、拓之進は真っ直ぐに五郎を見ていた。その目には邪気はない。

 子供のように澄んでいるが、どこか達観した印象も与える。こんな目をする人物は、今まで周りにはいなかった。

 五郎はゆっくり口を開いた。

「あがれ」
「ありがとうございます」

 拓之進は頭を下げると、草鞋に手をかけた。

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