やってきたのは柳生十兵衛最後の弟子! -止水流道場始末記-

中岡潤一郎

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第四話 帰ろう、お前のいるべき場所へ

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 紺屋町の角を曲がって、日本橋に向かう大通りに入ったところで、五郎は左右を見回した。

 正月も十日を過ぎれば、町の情景はいつもと同じになる。厚めの羽織を着込んだ商人や懐に手を突っ込んで足早に道を横切る職人で道はあふれている。

 視線を転じるとも大工が年末に焼けた表店を見て、家主と何か話をしている。

 野菜売りの声が白銀町の方面から響く。時刻は正午を過ぎていて、数は減っているが、それでも少し周囲を見回せば、棒手振の姿は目につく。

 頭上は厚い雲に覆われていて、吹きつける風も冷たかった。いつ雪がちらついてもおかしくない。

「早めに帰った方でいいですかね」

 かたわらでやわらかい声がした。

「降られると、厄介ですよ」
「でもなあ、せっかく出てきたんだから、うまい物でも食べていきたいよ。ここのところ、稽古ばかりで疲れた」
「五日まで休んでいたじゃないですか。やることをやらないと腕がなまってしまいますよ」
「そうは言ってもなあ」

 五郎が顔を向けると、拓之進の笑顔がある。

 あのやさしい表情だ。以前とまったく変わりがなく、思わず安心する。

 日ヶ窪での戦いを終えてから、拓之進は五郎の屋敷に戻って、静養していた。柳生屋敷のいじめで、怪我を負っており、それを治す必要があった。

 青あざだらけの姿を見ると、五郎は腹がたった。柳生家の家臣を叩きのめしたい気分にもなったが、拓之進はゆっくりと首を振った。もう済んだことだからと。

 宗冬が見舞いに来たのは、師走に入ってからで、柳生家でのふるまいを素直に詫びた。もう手は出させないと約束し、上役や幕閣の大物に、拓之進がこの屋敷で住めるように手配したと語った。これで何の問題もない。

 帰り際、宗冬は、役にたつだろうということで、結構な額の金子を置いていった。

 これまでのことを考えれば、少しの贅沢は許されるだろう。

「『ぶな』に食べに行こうぜ。結構、持ってきたから、たっぷり食えるぜ」
「よくありません、無駄遣い。そんなところに回すのでしたら、道場の手直しをしないと」

 拓之進は、正面から五郎を見つめた。

「屋根は壊れていますし、庇もたくさん傾いています。戸のたてつけもよくありませんし。一度、怡与蔵さんの知り合いに見てもらうって話になっていましたよね」
「そうだけどさ、ちょっとぐらいなら」
「他にもやることありますよね。滞っている支払いをすませるとか、庭の手入れをするとか。せっかく弥次郎さんたちが帰ってきたんだから、しっかり家を建て直していかないと」

 長く留守にしていた弥次郎夫婦は、十二月のなかば、屋敷に戻ってきた。拓之進が同居していることに驚いていたが、五郎が事情を説明すると、気を許して、ずっと面倒を見ると約束してくれた。

 拓之進が料理をできることにも驚いたようだが、それもすぐに受けいれて、おせんが献立を相談することもあった。

「まあ、仕方ない。ぶらぶら歩いたら、戻るか」
「それがいい思います。子供たちにはそのうち会えますよ」
「そうだな。よく顔を出しているしな」

 二人は駿河町まで下ると、あえて日本橋には向かわず、左に入った。瀬戸物町の細かい道を抜け、西堀留川にぶつかったところで左に曲がって、道浄橋を渡り、大伝馬町に入った。

 旅籠の多い町だけに、旅人の姿が目立つ。上方の言葉も時折、聞こえる。

「どうだ。柳生に帰りたいか」
「いえ、私はずっと江戸に住んでいたいです」
「そうか」

 拓之進の言葉に迷いはなかった。ならば、それでいい。

 五郎は灰色の空を見あげた。

「そろそろ、先のことも考えないとな。いつまでも無役というのもなあ」
「五郎さんなら大丈夫ですよ。剣の腕はあがっていますから」
「といっても、剣術指南役になれるほどではないからな。道場にも人は来ないし」
「今は、市之助さんが来てくれていますよ。そのうち増えます」
「それでも、できることはやっていかないと」

 血縁も地縁もほとんどなく、頼りにできる人物はいない。

 宗冬に頼めば、何とかしてくれるかもしれないが、そこまで甘えたくはない。

 自分の道は自分で切り開きたい。それぐらいのことはできるはずだ。

「拓之進はどうするんだ」
「わかりません。でも、しばらくは五郎さんといっしょです」
「どこぞの大名に売り込んでもいいんじゃないか。お前ならいけるぞ」
「いいんです。何か仕事を見つけてやっていきますよ。何とかなります」

 拓之進の口調は、ほがらかだった。そう言われると、何とかなりそうな気がするから不思議である。彼の声を聞くと、安心する。

「まあ、そうだよな。あまり考えても仕方がない。少しずつできることをやっていくしかないか」
「そうです。あ、怡与蔵さんですよ。あそこにいます」
 路地から姿を見せた怡与蔵は、彼らに気づくと歩み寄ってきた。
「ご無沙汰しています。お元気そうで、何よりです」
「おぬしもな。いい仕事をしているようじゃないか」

 怡与蔵は、保科家に気に入られて、今では屋敷に納める小間物のほとんどを仕入れているようだ。それを教えてくれたのは能登屋で、話をしている時には本気で悔しそうな顔をしていた。

「皆さまのおかげです」
「おぬしががんばったからだよ。そのうち行かせてもらうよ」
「でしたら、今日、いかがですか。いい髪飾りが入っています」
「おう。いいですね。弓子さんに買ってあげたらどうですか。喜びますよ」
「ええ、あいつにか」

 五郎は顔をしかめた。

 日ヶ窪に向かったあの日以降、弓子とはあまり話をしていない。あの日の態度が妙だったことに加えて、五郎自身も迂闊なことを言ったように思えたからだ。

 年始の挨拶で顔をあわせた時も、ぎこちなかった。弓子は何か言いたげだったが、五郎はあえて無視した。話をすることで、これまとは違う関係に踏みこんでしまうように思えて怖かった。

 このままではいけないと思ったが、どうすればいいのかよくわからなかった。

「いいよ。贈っても捨てられたりしたら、嫌だから」
「そんなことはありませんよ。ちゃんと贈り物をして、一声かければ、機嫌を直してくれますって。さあ、行きましょう」

 拓之進に背中を押されて、五郎は長谷川町に向かった。ゆるりと通りを歩きながら、顔をあげる。

 いつしか頭上の雲は南に流れ、青い空が見えるようになっていた。

 やわらかい日射しが道を照らす。それは、彼らの行くべき先を示すかのように、美しい輝きを放っていた。
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