やってきたのは柳生十兵衛最後の弟子! -止水流道場始末記-

中岡潤一郎

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第四話 帰ろう、お前のいるべき場所へ

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 五郎が下段に構えると、拓之進は半身で向かい合った。切っ先が彼に向く。

 殺気が幻のように消え、代わって冷たい気配が周囲をつつむ。

 瞳が黒く輝く。

 冷徹な意志がそこにはある。ただ、殺すというだけの。

 いまや、拓之進は、人を殺すための道具だ。

 このままでは、確実に道を踏み外す。それだけはさせない。

 五郎は半身に構えると、拓之進は前に出て、距離を詰めてきた。

 後の先を誘う、これまでのやり方とは違う。

 そうだろう。五郎が新陰流を使うことは、これまでの戦いでわかっている。ならば、それを見越しての仕掛けがおこなわれる。

 それこそ、柳生十兵衛三厳が生み出した究極の太刀筋にして、最後の切札。

 五郎が右に回ると、拓之進はそれを追ってくる。

 間合いは確実に詰まる。

 雲が日射しを隠し、風が梢を鳴らす。頭上で鳶が鳴き、空高く飛んで行く。

 汗がしたたり、灰色の大地に落ちる。

 わずかに刀を握り直したその瞬間、拓之進が動いた。

 上段からいつもの太刀筋で打ちおろしてくる。

 五郎はそれよりも少しだけ速く踏みこみ、肩をねらう。

 必殺の一撃になるはずだったが、拓之進は迫り来る刃を弾いて、かわした。

 そのまま下がることなく、最短距離で喉をねらってくる。

 やはり来た。それしかない。

 白刃のきらめきを感じたところで、五郎は反射的に動いていた。

 切っ先が喉元をつらぬく寸前、身体をわずかにずらして避けると、そのまま体当たりをかける。

 思わぬ一撃に、拓之進がよろめいたところで、五郎は右手の甲を斬った。

 血飛沫が舞い、刀が落ちる。

 五郎はそのまま拓之進を押し倒して、切っ先を喉元に突きつけた。

「勝負あった。俺の勝ちだ」
「ご、五郎さん……」
「わかるな。俺の勝ちだ。そのままでいろ」

 五郎はのしかかったまま、懐から真言を記した紙を取りだした。

「縛りを解く。これで終わりだ」
「待て、やめろ」

 信左衛門が駆けよってきたが、その時には、五郎は紙を中央から引き裂いて、破り捨てていた。

 直後、拓之進の表情が変わった。頬に赤みが差し、目元がゆるむ。

 瞳にも明るさが宿る。

 呆然としたままであったが、これまでとはまるで違う。かつての拓之進だ。

 五郎は彼から離れると、尻餅をついた。

「よかった。うまくいった」
「五郎さん。大丈夫ですか」
「俺は平気だよ。お前こそ身体の具合はどうだ」
「おう。少し身体が痛いですね。でも、平気です」

 拓之進は立ちあがると、手を差し伸べた。五郎はしっかりその手を取り、彼に立たせてもらった。

 拓之進は笑みを浮かべるが、まだ硬い。それは仕方ないか。
「よかったな。これで元通りだ」
「え。でも、私は五郎さんを……」
「気にするな。お前は操られていたんだから。そうでしょう。久我山さん」

 五郎が顔を向けると、久我山信左衛門がすさまじい表情で彼らをにらんでいた。

「さっき、破った真言、柳生家に伝わる人操りの術ですよね。稽古の時に、ひるんでいては使い物にならないから、心を操って、恐れをなくして、ためらうことなく飛び込むように仕向けると。必死の者はおそろしいですから。それを拓之進にも使っていたんですよね。師匠の柳生十兵衛様が」
「……」
「十兵衛殿が亡くなって、その縛りは解けたはずだった。だが、力が残っていることに気づいて、あの日、あなたは屋敷に来て、真言を突きつけた。それれで拓之進は言われるがままになり、撃ちこまれても逆らわないし、俺が相手でも平気で剣を突きつけるようになった。そうですね」

 久我山は、正面から五郎をにらみつけた。その身体は細かく震えている。

 柳生家秘伝の真言について教えてくれたのは、もちろん宗冬である。畿内を修行していた柳生石舟斎は、鞍馬山の修験者から人操りの技を習った。紙の真言と言葉を組み合わして、うまくはまれば、すべての意志を奪いとり、思うがままに人の心を操られるという。危険な技なので、石舟斎は伝授を迷ったようだが、結局、息子の宗矩に伝えられ、それは十兵衛に伝授された。

 強烈な十兵衛に怖れることなく立ち向かえたのも、人操りの技があったからだ。

「もう、いいでしょう。これからは拓之進の好きにさせてやってください」
「いいや、駄目だ」

 信左衛門は吠えた。

「放っておくことはできない。こやつには裏切り者の証しがある」
「さっきの太刀筋ですか。新陰流や……」
「言うな」

 真っ赤な瞳が五郎を射抜く。奥で輝くのは、怒りか憎悪か。

 立ち合いの最後で、五郎は、宗冬から伝授された新陰流の奥義を使ったが、それを拓之進は打ち破った。

 その剣さばきこそ、十兵衛が長い時間をかけて編み出してきた技。

 新陰流破りの太刀だった。

 十兵衛は江戸柳生を継ぐ前から、新陰流を超える剣術を常に模索していた。役目を致仕して柳生の庄にこもったのも、拓之進に新陰流を叩き込んで稽古相手にしたのも、いずれ新陰流を破り、新たなる一派を生み出すことを考えてのふるまいだった。

 十兵衛は果てしなく強さを求めていた。誰にも負けない剣術だけが目標で、そのために、すべてを犠牲にしていた。

 名誉も肉親も。

 そして、新陰流という流派さえ。

 すべてを捨てて鍛錬を積んだ結果、ついて新陰流破りは完成した。

 だが、十兵衛はそれを世間に示すことなく、切腹して果てた。

 完成したところで満足したのか、それとも、その先があることに気づいたからなのか、そのあたりははっきりしない。

 確かなことは、新陰流破りのことを知り、それを受け継いだのは拓之進のみであり、そのために柳生の者から目の敵にされていたということだ。

 信左衛門の拓之進に対する憎悪も、柳生破りに起因している。自分の愛する流派をわがままな当主が打ち砕こうとしている考えで、黒い劣情がこみあげてきたのである。それを押さえることは不可能だった。

 宗冬から話を聞いて、五郎の背筋は凍った。複雑にからみあった心の闇は、驚くほど深かった。

「もう終わりにしましょう」

 五郎は信左衛門に歩み寄って、小声で語った。

「十兵衛様の太刀筋について知っている者は、ほとんどおりません。拓之進と手前と、あとは内膳様」
「殿が御存知だと」
「拓之進に見せてもらったそうです。柳生の庄で」

 彼を逃がす前に、三日間、手合わせして、宗冬は新陰流破りの太刀筋を知った。

 今回、拓之進がその技を繰りだしてきたとき、かろうじて対抗できたのは、先だっての稽古で返し技を伝授されていたからだ。

「あっさり破られては、話にならぬからな」

 宗冬は笑っていたが、ほとんど見ていない太刀筋に立ち向かうためには、並々ならぬ苦労が必要だったはずだ。それができた宗冬も、間違いなく一流の剣士だった。

「これ以上、広まることはありません。もういいでしょう」
「その保証はない。新陰流は守らねばならぬ」
「我らが信じられぬと」
「そうだ」
「でしたら、その時には、我らを討ちに来ればよいでしょう」
 いつの間にか拓之進が五郎の横に立っていた。まっ青な顔で、信左衛門を見つめる。
「これより、師匠の剣を一度だけ披露いたします。すでに破られた太刀ではございますが、自ら打ち破る手筋を考えてみるのもよいかと」

 拓之進が顔を向けてきたので、五郎は刀を手渡した。すらりと抜き放つと身体の力を抜いて、信左衛門と向かい合う。

 信左衛門も刀を抜いた。

「いざ」

 拓之進が間合いを詰める。

 勝負は一瞬でついた。

 後の先を取った信左衛門の太刀をかわして、拓之進の一閃が右の眉毛をわずかに切り裂いていた。

 血が流れて、頬をつたう。

「すべて見せました。あとはご自由に」

 拓之進は刀を収めて、五郎に渡した。

「帰りましょう。五郎さんの屋敷に」
「そうだな。行こう」

 信左衛門に背を向けて、二人は原野を立ち去る。

 背後で人の声があがったが、二人の行く先に頭巾をかぶった侍が出てきたところで、静寂が広がった。

 五郎が頭を下げると、侍が頭巾を取って一礼した。

 宗冬である。その目線はあくまで穏やかだった。

 冬の風が吹きぬける。それは冷たく、強かったが、不思議なほど心地よく感じた。
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