臭いモノには花

植澄 紗

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第一章【遭逢】

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 昨晩酒を飲みすぎたせいだろうか。その日は頭痛と吐き気という最悪な目の覚ましようであった。

「どうでしょう。具合はよくなりましたか?」

 痛みの止まない頭の中に、ソプラノの声がガツンと響き渡った。

「…嗚呼、そうだね。まだ気持ち悪いのだが幾分かは良く、なっ、…。え?」

 初めは気の所為かと思った。まだ酔いは覚めていないのかと。二日酔いの後遺症が珍しい形で出たのかと。こんな男くさい部屋に女の、しかも若すぎる位の声が聞こえるはずが無い。強盗といった犯罪の線は、性別かつその齢から考え難い。幻聴か、幽霊か。ところが振り向くと見覚えのない少女の姿がしっかりとそこにあった。スカートで隠れては居るが足もちゃんと在る。透けてもいない。窓辺からの日差しに照らされ、床には影も浮かんで見える。

 嗚呼、人間だ。


「おはようございます。と言ってももう十一時でございますが。」

 私は大変驚いていた。目を覚ました時間じゃあ無い。人間だと目視出来たとてそれはそれで問題なのだ。目を覚ました瞬間に見知らぬ女児、更にはこの田舎町とは不釣り合いの金髪青眼。俗に言うロリータ服を纏った幼い少女が座っていたのだ。
 この状況は三十年近く生きてきた流石の私も初めてであった。何が可笑しいのかクスクスと笑う彼女は何ひとつ動じず、私の横たわっていた寝具の背面にぴたりと正座をしたままである。動きを崩さず淡々とした風貌がより一層私を不安に掻き立てた。

 一方のこちらはと言うと暫くの間言葉の一つすら出ず、きょとんと見つめていたままであった。最も頭の中は思考で埋め尽くされている訳だが。
 しかし当然であろう。これを寛容的に流す方がどうかしている。同時に昨日は家に一人で帰った記憶が鮮明にあるものだから完全に混乱を極めていた。そもそも酔っ払っていたとは言え、こんな女児を家に上げるはずが無い。腐っても良い年齢の男だ。増してそのような趣味も無い。

 考えても埒が明かぬと遂にはその行為すらも放棄した。この悩ましい時間も億劫になり意を決し率直に聞いてしまおうと、少女と対になる形で足を組んだ。

「…えぇと、まず、君は誰なんだい。」
「まぁ!覚えていらっしゃらないのですか?私です。ロシェですよ。」

 はて、聞き覚えはさっぱり無い。更には昨晩自己紹介をお互い済ませたかのような口振りである。そんな私の困惑した表情を察してか少女は続けた。


「なんと。本当に覚えていらっしゃらないのですね。昨晩あんなに大粒の涙を流しながら、ベランダに足をかけ、死んでやるぅ!もう死んでやるぅ!と叫んで居られましたのに。」


 私は頭を抱えた。

 記憶には無い、記憶にはさっぱり無いが彼女の言う行為はまさに昨晩の自分であればやりかねない行為なのである。酒に溺れ自暴自棄になっていた。バーで酒を飲み、自宅でセンチメンタルになって、友人に会いたくて堪らなくなって、そんな自分を消すようにまた酒を仰いだ。その後の記憶は確かに持ち合わせていない。このような事を人は心当たりと呼ぶのであろうか。

「私、その後慌ててこの部屋まで来まして、どうやら扉の鍵は閉め忘れていたようですのでそこから入室し、急いで貴方を引き止めに。」
「いや、良い。もう良い、判った。」

 私は皆まで聞くのも辛くなり、そのまま台所へ向かう。ふらりふらりと足取りは覚束ない。自らの粗相でこんな小さな女児に迷惑をかけるとは。穴があったら全力で入りたい。

 蛇口を捻りコップに溢れんばかりの水を入れれば、それを一度も止めることなく飲み干した。


 落ち着こう、一旦落ち着こう。 


「…そうか、それは世話をかけた。私もひとりの大人だ。どれ、お詫びと言っては何だがお嬢さんの何か欲しい物を買ってやろう。」

「欲しい物?」

「なんでも良いのだよ。こう見えて私は節約家でね、日頃から余り使わない分金はある。お人形さん、おままごと、お洋服…。女の子はそのようなものが好きだろう?お嬢さんの好きな物、今欲しい物を言ってごらん。」

「…それは何でも良いのですか?」

「ああ、何でも言ってご覧なさい。」

 だってもう最期なのだから。

 お金を使うことなんてもう無いのだから。
 私の財産を受け渡す人なんて周りに居ない。それならばいっそ使い切ったとしても心残りは何一つ無い。否、むしろ見知らぬ少女とは言え自らの力を与え喜ぶ姿を見ることが出来るのであれば、それはそれで良い最期になるのではないか?昨晩は酒を大量に飲み、身体を温めるために贅沢をと金を使ってしまったが、まだ十二分に金は残っている。何だって買える自信があった。もう一文無しになっても怖い物なんて無いのだから。 



「では『ヒトの生活』を。」




「…は?」


 小さなアパートの一室には一瞬にして静寂が通り過ぎた。それも少女から出てくるとは予測できなかった言葉のせいだ。『ヒトの生活』?今彼女は『ヒトの生活』と言ったのか?


「えっ、と。」
「『ヒトの生活』。」
「いや、あの。」
「私に『ヒトの生活』を与えてください。」


 訳が判らない。何故。というか何だ、その要望は。どういう意図で。どういう意味で。その丸っきり検討のつかない発言に私は困り果てていた。それに先刻何だって買ってやれると信じていた自信は一瞬にして砕かれたのだ。
 まさかお金で解決出来ないような無理難題が要求されるとは誰も思うまい。それも目に見えるものかも目に見えないものかさえも判らないものだ。いや、そもそも物と言っていいのかさえ曖昧だ。


「ええと、その『ヒトの生活』とやらをお嬢さんは今体験していないのかい?」


 未だ何一つ判らないまま尋ねた。
 第三者から見ればこの人たちは何の会話をしているのだ、と思われるに違いない。自分だって理解出来ていない。『ヒトの生活』を望む動機が判らずとも目の前の少女は何処からどう見ても人間そのものなのだ。望む望まない以前にやりたくなくても人間の営みは勝手に遂行しているはずだ。

 混乱する脳を無理矢理にでも押し込み、一つ質問を投げかけたのは理由があった。『ヒトの生活』を望む理由をさておき、私にはまずその定義が知りたかった。仮に少女が人間では無かったとしたら、『ヒトの生活』が指すものは正真正銘その言葉の通りなのだ。まず人間では無いという仮定自体があり得ないが。しかしどちらにせよ彼女の求めている『ヒトの生活』はどの基準どの水準を指しているのかがさっぱり判らない。彼女の言う『ヒトの生活』が判らない限り平行線の会話は続くであろう。人間の行いなんて人それぞれなのだから。労働に命を費やしそれをやり甲斐としている人も居れば、休みの日を大切にのんびり過ごす者も居る。
 目の前に居る少女がどんな生活を送っていたかによって、求める『ヒトの生活』の定義は変化する。

「ええ。」

 質問に対し肯定の返答をした。つまりは彼女の中にある『ヒトの生活』は現状送ることが出来ていないということになる。そうなると大方実情に満足していないか、はたまた求める生活が訳在って送れていないということが考えられる。

「私は実母にはどうやら山で棄てられたようなのです。」

 嗚呼、後者で、あったか。なんて繊細な所を私はつついてしまったのだろうか。今更気づいてしまっても遅かった。後戻りは出来ない。そもそも欲しい物を聞かれて普通の人間は『ヒトの生活』なんて言葉は出てこない。何故このような簡単なことに先程まで気が付かなかったのか己の頭ながら些か疑問である。人間では無いかもしれないなどと一瞬でも考えた自らの過去を恥じた。私は勝手に人それぞれの人間の営みがあると決めつけていたが、目の前に綺麗に座る少女はその基準にすら立てていなかったのだ。

「あまりその時の記憶は無いのですが、」

 彼女は続ける。
 親を知らないのか。そうであればきっと彼女は愛を知らないのだ。家族を求めているのか。だから『ヒトの生活』をと望んだのか。彼女の中にある理想の家族像とやらに憧れを抱いているのだろう。後悔してもし切れぬどうしようも無い感情に浸る。


 ところが彼女の更なる言葉は、私の元にとんでもない衝撃を与えて飛び込んできたのである。


「あの山の、山羊の父様と母様に育てて貰っていたのです。」

「…ん?」

 さっきの自身の負の感情は何処やら。 
 私は聞いた事が無い話に興味が増す事を通り越して、心底疲れ果てていた。話が想像の斜め上過ぎる。おや、『ヒトの生活』を勘違いしていたと先刻恥じていたというのに本当に『ヒトの生活』を送っていないという意味で合っていたのか。しかも山羊?山羊との生活を今まで送ってきていた?嗚呼、頭がクラクラし始めた。

「ヒトからするとにわかに信じ難い話ではあると思いますが、私、昨晩下山しまして。この街に居る父様の知人のネズミ様から、あるアパートを格安で借りることが出来ると伺ったのです。それで、」 

「それで?」

「…。」

「え?もしかして、」

 こんな時、いっそ鈍感であればどれ程良かった事か。私は奇妙にも勘が冴えてしまっていた。

「はい、それがこのアパートなのです。私はこの部屋ではなく、隣の部屋のようですが。」

「…はあぁぁ。」

 私は堪らず大きなため息を零していた。だから私がベランダで叫んでいたというのにも気が付いたのか。このアパートに入居するために此処へ訪れていたのだから。いやでも話の中に鼠が出てくるなんてそれだけで可笑しい。
 つい昨晩メルヘンチックな話を聞いたばかりだと言うのに、それを決定づけるかのように更なる追い打ちを掛けられた気分であった。もううんざり。まだ夢から醒めていない、そう信じたかった。

「これでは『記憶を消す花』の話が益々現実味を帯びてしまったではないか…。」

「え?『記憶を消す花』?」

「あぁ、いや、何でも無い。」

 私は犯罪者になりたくない一心でとにかくこの部屋から少女を外に出したかった。

「迷惑をかけたことには礼を言う。しかし残念なことに私も暇では無い。『ヒトの生活』は」

「昨晩死んでやるぅ!と申していたのですが。それなのにお忙しいものでしょうか。」

「…。悪いが私にはやらなくてはならないことが出来たのだよ。君の望みを叶えてやれないことは悔しく思うが、隣のよしみということでここは勘弁してくれ給え。」

「ほう。ちなみにそのやらなくてはならないこと、と言うのは…?」

 面倒くさい事はもう御免だった。話を聞く限り彼女は絶対に面倒事を運んでくるに違いない。少しの会話で得た疲労感がそれを決定付けていた。少女には申し訳ないがさっさとこの部屋から立ち去って貰おう。

「連絡の途絶えた昔の友人に会いに行くんだ。」

「連絡先はご存じなのですね。」

「いいや、知らないよ。当時は携帯電話も持っていなかったからね。」

「ほう、ですが何処に住んでいらっしゃるのかは判るとは。ヒトって矢張り凄いのですね。」

「いいや、それも判らない。だからこれから探しに行くんだ。」

「…つまり今から0の状態で探して会いに回る、と?」

「まぁ、そうだが。」

 押し問答は続き、私の現状を大方話す形になってしまった。まるで誘導尋問のように流れるように白状してしまう。だが一通り答えてまた強く後悔した。少女の目がキラキラと光っているのだから。途端嫌な予感が走った。

「ではその旅に!是非お供させてください!」
 矢張りか。

「旅?これは旅じゃ、…。いや、これは小さな子どもには少々苛烈過ぎる壮絶な旅になるんだ。」
 初めは旅を否定しようとした。そんな大きなものでも素敵なものでも無い。ロマンティックな要素なんてこれっぽっちも無い。それでも憶測も無い事を言い少女を諦めさせる作戦に移行することにした。これはお前の妄想に出てくる夢のような旅では無い、と。しかしそれはどうやら逆効果だったようで、目の輝きを一層増し、少女はこちらへぐっと身を乗り出した。

「でしたら尚更。ご同行したいです。ね、お願いします!」

 何故早くこの世を立ち去ろうとしている私が、他人と共に長期に渡る行動をしなくてはならないのか、その行為は誰よりも私が一番疑問に思っていた。それでもこのままだと埒が明かない気がして渋々飲み込んだ。今この頑固さを解くことが出来る力は私には無かった為だ。

「…はあぁ、判った。判ったよ。その『ヒトの生活』ってのを理解出来たら終わりだからな。」

 そして仮にも友人と再会したとて、少女と居る所を見られれば更に面倒臭いことになる。それは間違いないだろうに。

「はい!是非、宜しくお願い致します!」

 こうして私と少女の、友人探しの旅は始まったのである。

「あぁ。ええと、その、」
「どうされました?」
「君から名を聞いていながら、私が名乗っていなかったことに気が付いてね。失礼。私の名は双橋(ふたはし)、双橋一と言う。」
「双橋様、ですね。覚えていらっしゃらなかったようなので私ももう一度自己紹介を。私、名をロシェと申します。」
「えぇと、ロシェ、さん?それともロシェ、ちゃん…?」

 呼び慣れない西洋の名前に苦戦を強いられた。

「ふふ。ロシェで良いですよ。」

 気恥しい。なんともむず痒いこの感覚に慣れることは苦労しそうだ。
 隣では、私とは正反対にこの後の展開に期待するかのような満面の笑みを浮かべている彼女が見えた。喜びを抑えきれていないのがよく判る。彼女は何やら早速意気込んで、私の部屋の床で手紙を認め始めた。普通初対面の人の家で手紙を書き始める奴が居るだろうか。しかも床で。それでも時折窓の外に広がる青い空を見つめる瞳は本当に美しく、真っ白な雲は彼女の瞳に微かに薄く霞を帯びるように映り込んでいた。綺麗だ。純粋で汚れも知らぬ澄んだ瞳だ。

「嗚呼、そうでした。ひとつお尋ねしたい事が。」
「ん?」
「あの、大家様という方から渡されたのですが、この金属片は何ですか?」

 彼女は鍵を構えた。


 はぁ、何とも私はついていない。早速人間の常識を教える羽目になり、頭がまたクラリとよろめいた。鍵で扉を閉めることを知らないのか。それから床で手紙を書くことも辞めさせなくては。『ヒトの生活』とやらを全くも知らない少女の世話係。考えるだけで胃が痛くなりそうだ。




 こうして私と少女の非日常な日常が始まった。

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