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第2章
【2.0.1】 それは、悪意無き悪。
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「木嶋君?」
ふいに名前を呼ばれて、倫太郎は足を止めた。声のした方を見れば、図書館の貸し出しカウンターの手前で、本を抱えてこちらを見ている人と目が合った。ショートカットの溌溂としたした見た目には似つかわしくない、その大人し気な雰囲気の彼女を倫太郎は知っている。
思わず出かかった溜息を飲み込んで、倫太郎はひどく面倒臭いという思いを隠しながらその蟀谷を掻いた。
「久しぶり。木嶋君の家ってこの辺なの?」
何をどうして、こんな風に話しかけることができるのか。倫太郎は、その言葉さえも聞こえなかったかのように無視して、一人と一匹を探す。嬉しそうに走って行ってしまった彼らを、どうやら見失ってしまったらしい。いよいよ出てしまった大きな溜息に、彼女は申し訳なさそうに目線を落とした。
岸間春。
漢字は違うが、同じ「きしま」姓の彼女は、高校の元クラスメイトだ。倫太郎がまだ学校に行っている頃に、彼女は通信制の高校に編入したのだと聞いたが、そんなことは今の倫太郎にとってはもうどうでも良いことだ。それなのに、どこかに燻っていたらしい何かが、自分の中で存在感を示し始めていることを、倫太郎は認めざるを得ない。
彼女に会うことなど、もう一生無いと思っていたのだが。これも因縁みたいなものなのだろうか。
圏内有数の進学校である高校に受かったことは、倫太郎にとって最も自信に繋がる出来事だった。
中学生時代の倫太郎は、毎日のように自転車で塾に通っていて、通り道にあるその高校のことは、いつも気になっていた。あそこに入るのは難しいと、誰もが口を揃えて言うその高校の生徒達は、いつも生き生きとして見えた。知的な雰囲気を漂わせるその校舎の雰囲気と相まって、そこが憧れの場所になるのは必然だった。しかも、自転車で通える距離だ。狙わない手は無い。
倫太郎は、必死になって勉強した。そして、高根の花のような存在だったその高校の入学試験に見事合格を果たし、そこの一員となったのだった。
出席を取れば、同じ苗字の人間がクラスにいるということなど、すぐに気が付く。どうやら存在感の薄い隣の女子が、自分と同じ「きしま」だということに倫太郎が気が付いたのは、入学したその日のことだ。
だからと言って、「お前が岸間?」なんて話しかけるなんてことは無い。彼女はショートカットで溌溂とした見た目でありながら、休み時間はいつも小説を読んでいるようなそんな女子だったし、倫太郎もそこまで社交性のあるタイプでは無いのだ。
ただ時折ちらりと見ては、今時ハードカバーの本を手にしている奴も珍しいよなと考えていたのは憶えている。
入学して早々、クラスの交流を深めるという意味合いのあるらしい遠足と何ら変わらないような校外学習という行事があった。そして、それが終わってすぐぐらいのことだ。彼女のまわりに、妙にきゃいきゃいとうるさい女子たちが集まるようになったのだ。明らかに雰囲気が違うそれに違和感は感じていたが、だからといって何かをどうするという事でも無いだろうと、倫太郎は無関係を決め込んだ。
ところがだ。出所のあやふやな噂話でさえ、玩具にするような年頃だ。誰が言いだしたのか、変な噂が広まった。
「岸間春は、木嶋倫太郎のことが好きらしい。」
それは本当にありがちな、バカみたいな噂話だ。誰が誰を好きなんて話はそこら中に溢れていて、本当に好きかどうかなんてどうだって良いはずだ。それなのに、なぜかクラスメイト達は、クラス初のカップル成立だと勝手に沸き立った。
「お前ら、まじでいい加減にしろよ。」なんて、倫太郎が言い返そうなものなら、「いいじゃん、照れるなよぉ。」なんて、答えになっていない答えが返って来る。
皆、話題が欲しいのだ。勝手に盛り上がって、勝手にカップルにして、勝手に喧嘩までさせて、勝手に別れさせるのだろう。
相手にするのも無駄だと思った倫太郎が、大きな溜息をつけば、隣の席ではうるさい女子たちがちらちらとこちらを見ながらきゃいきゃいと何かを言っている。囲まれている岸間は、困ったような顔をするだけで何も言い返さない。
偶然にも、同じ読みである苗字もそれを助長させる。分かりづらいから、名前で呼んだ方がいいとか、結婚後の苗字の変更も楽で良いよねとか、話だけが勝手に進んでいく。
(面倒くさい。)
そう思ってしまったのがいけなかったのだろうか。言われるがままに放っておけば、いつしか岸間が学校に来なくなった。そして、彼女が通信制高校に編入したと、今まで何の介入もしてこなかった担任が言った。
彼女が抱えている本は、最近話題になっているSF作家のものだ。そういえばよくハードカバーの本を読んでいたなと思い出せば、この図書館で借りたものだったのだと納得がいく。
「あの、色々と本当にごめんなさい。」
何も話さない倫太郎が怒っているとでも思ったのだろうか、岸間はひどく申し訳なさそうに頭を下げた。髪の毛が揺れて、その瞳を隠す。
「何が?」
そんな風に言い返しながら、自分もつくづく嫌な奴だなと倫太郎は思う。わかっていてわからないフリをする。あのクラスメイト達と、何も違わないという事に気が付いて自己嫌悪に陥る。
しかし、彼女はぐっと背を伸ばし、倫太郎の目をじっと見た。そして、はっきりと言ったのだ。
「何も言わないで、学校を辞めてしまったこと。」
ドキリとした。もしかして、自分が抱いていた彼女の姿というのは、間違っていたのだろうか。その凛とした姿に、倫太郎が驚いたような顔をすれば、彼女は唇を一度きゅっと引き結んでから、「ここにいても、無駄だと思ったの。」と言った。ともすれば、笑っているようにも見える顔で。
ここにいても無駄。
誰からも、羨ましがられるような高校。頑張って勉強して、何とか掴み取った合格。たくさんの夢を抱いて腕を通した、少し硬めの制服。賑やかな笑い声。
いたたまれない気持ちでいても、許してはくれないクラスメイト。無くなった居場所。
自分はここにいてはいけない人間なのではないかと、いつの間にか遠い場所に感じていたそこを吹き抜けたその言葉は、蟠っていた何かを吹き飛ばすかのように、倫太郎の中で旋風を起こしたようだった。
ふいに名前を呼ばれて、倫太郎は足を止めた。声のした方を見れば、図書館の貸し出しカウンターの手前で、本を抱えてこちらを見ている人と目が合った。ショートカットの溌溂としたした見た目には似つかわしくない、その大人し気な雰囲気の彼女を倫太郎は知っている。
思わず出かかった溜息を飲み込んで、倫太郎はひどく面倒臭いという思いを隠しながらその蟀谷を掻いた。
「久しぶり。木嶋君の家ってこの辺なの?」
何をどうして、こんな風に話しかけることができるのか。倫太郎は、その言葉さえも聞こえなかったかのように無視して、一人と一匹を探す。嬉しそうに走って行ってしまった彼らを、どうやら見失ってしまったらしい。いよいよ出てしまった大きな溜息に、彼女は申し訳なさそうに目線を落とした。
岸間春。
漢字は違うが、同じ「きしま」姓の彼女は、高校の元クラスメイトだ。倫太郎がまだ学校に行っている頃に、彼女は通信制の高校に編入したのだと聞いたが、そんなことは今の倫太郎にとってはもうどうでも良いことだ。それなのに、どこかに燻っていたらしい何かが、自分の中で存在感を示し始めていることを、倫太郎は認めざるを得ない。
彼女に会うことなど、もう一生無いと思っていたのだが。これも因縁みたいなものなのだろうか。
圏内有数の進学校である高校に受かったことは、倫太郎にとって最も自信に繋がる出来事だった。
中学生時代の倫太郎は、毎日のように自転車で塾に通っていて、通り道にあるその高校のことは、いつも気になっていた。あそこに入るのは難しいと、誰もが口を揃えて言うその高校の生徒達は、いつも生き生きとして見えた。知的な雰囲気を漂わせるその校舎の雰囲気と相まって、そこが憧れの場所になるのは必然だった。しかも、自転車で通える距離だ。狙わない手は無い。
倫太郎は、必死になって勉強した。そして、高根の花のような存在だったその高校の入学試験に見事合格を果たし、そこの一員となったのだった。
出席を取れば、同じ苗字の人間がクラスにいるということなど、すぐに気が付く。どうやら存在感の薄い隣の女子が、自分と同じ「きしま」だということに倫太郎が気が付いたのは、入学したその日のことだ。
だからと言って、「お前が岸間?」なんて話しかけるなんてことは無い。彼女はショートカットで溌溂とした見た目でありながら、休み時間はいつも小説を読んでいるようなそんな女子だったし、倫太郎もそこまで社交性のあるタイプでは無いのだ。
ただ時折ちらりと見ては、今時ハードカバーの本を手にしている奴も珍しいよなと考えていたのは憶えている。
入学して早々、クラスの交流を深めるという意味合いのあるらしい遠足と何ら変わらないような校外学習という行事があった。そして、それが終わってすぐぐらいのことだ。彼女のまわりに、妙にきゃいきゃいとうるさい女子たちが集まるようになったのだ。明らかに雰囲気が違うそれに違和感は感じていたが、だからといって何かをどうするという事でも無いだろうと、倫太郎は無関係を決め込んだ。
ところがだ。出所のあやふやな噂話でさえ、玩具にするような年頃だ。誰が言いだしたのか、変な噂が広まった。
「岸間春は、木嶋倫太郎のことが好きらしい。」
それは本当にありがちな、バカみたいな噂話だ。誰が誰を好きなんて話はそこら中に溢れていて、本当に好きかどうかなんてどうだって良いはずだ。それなのに、なぜかクラスメイト達は、クラス初のカップル成立だと勝手に沸き立った。
「お前ら、まじでいい加減にしろよ。」なんて、倫太郎が言い返そうなものなら、「いいじゃん、照れるなよぉ。」なんて、答えになっていない答えが返って来る。
皆、話題が欲しいのだ。勝手に盛り上がって、勝手にカップルにして、勝手に喧嘩までさせて、勝手に別れさせるのだろう。
相手にするのも無駄だと思った倫太郎が、大きな溜息をつけば、隣の席ではうるさい女子たちがちらちらとこちらを見ながらきゃいきゃいと何かを言っている。囲まれている岸間は、困ったような顔をするだけで何も言い返さない。
偶然にも、同じ読みである苗字もそれを助長させる。分かりづらいから、名前で呼んだ方がいいとか、結婚後の苗字の変更も楽で良いよねとか、話だけが勝手に進んでいく。
(面倒くさい。)
そう思ってしまったのがいけなかったのだろうか。言われるがままに放っておけば、いつしか岸間が学校に来なくなった。そして、彼女が通信制高校に編入したと、今まで何の介入もしてこなかった担任が言った。
彼女が抱えている本は、最近話題になっているSF作家のものだ。そういえばよくハードカバーの本を読んでいたなと思い出せば、この図書館で借りたものだったのだと納得がいく。
「あの、色々と本当にごめんなさい。」
何も話さない倫太郎が怒っているとでも思ったのだろうか、岸間はひどく申し訳なさそうに頭を下げた。髪の毛が揺れて、その瞳を隠す。
「何が?」
そんな風に言い返しながら、自分もつくづく嫌な奴だなと倫太郎は思う。わかっていてわからないフリをする。あのクラスメイト達と、何も違わないという事に気が付いて自己嫌悪に陥る。
しかし、彼女はぐっと背を伸ばし、倫太郎の目をじっと見た。そして、はっきりと言ったのだ。
「何も言わないで、学校を辞めてしまったこと。」
ドキリとした。もしかして、自分が抱いていた彼女の姿というのは、間違っていたのだろうか。その凛とした姿に、倫太郎が驚いたような顔をすれば、彼女は唇を一度きゅっと引き結んでから、「ここにいても、無駄だと思ったの。」と言った。ともすれば、笑っているようにも見える顔で。
ここにいても無駄。
誰からも、羨ましがられるような高校。頑張って勉強して、何とか掴み取った合格。たくさんの夢を抱いて腕を通した、少し硬めの制服。賑やかな笑い声。
いたたまれない気持ちでいても、許してはくれないクラスメイト。無くなった居場所。
自分はここにいてはいけない人間なのではないかと、いつの間にか遠い場所に感じていたそこを吹き抜けたその言葉は、蟠っていた何かを吹き飛ばすかのように、倫太郎の中で旋風を起こしたようだった。
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