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第2章
【2.2.1】 美しき精霊。
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その穏やかそうな雰囲気をした青年、きっと浦島太郎であろうその人物が、そこにいた子供たちを見回す。しばらくじりじりと後ずさりしていた子供たちは、堰を切ったように「うわーっ!」と大声を上げて、一斉に逃げ出した。
「え?え?」と言って逃げ遅れた倫太郎を、浦島太郎が見下ろしている。その様子は穏やかで、怒っている風では無いことに少しほっとする。耳元で、「こんな御馳走は久しぶりだ。」とクロが呟いた。
その場にしゃがんで、倫太郎の目線の高さに自分のそれを合わせた浦島太郎は、「亀は、逃がしてやろうな。」と、優しく言った。
彼には、倫太郎たちのことも、子供たちの仲間に見えているのだろう。うまく言葉が出ず、倫太郎がただしっかりと頷いて見せると、彼はその優しげな目を細めてにっこりと笑い、立ち上がって倫太郎の頭をぐしゃぐしゃっと撫でると、その大きな亀を海の方へと誘導してやり始めた。
「やだ、ちょっとカッコいい。」
子供の見た目の岸間が何か呟いているが、もう放っておくことにする。
ゆっくりと、亀が動き出す。その背中を見守るようにして、倫太郎たちはただそこに立ち尽くしていた。
この先の話は、知っている。その邪魔をしてはいけないとでも言うように、皆静かにその光景を見守っている。海と空と砂浜しか無い風景の中、大海原に向かっていく一人と一匹のその姿は、一枚の絵のようでもあった。
浦島太郎に押されるようにして波打ち際まで移動した亀が、その首を伸ばして浦島太郎を見上げた。波の音が響いて声はここまで届かないが、おそらくは竜宮城へ誘っているのだろう。
驚いた様子の浦島太郎だったが、ついにはその亀の背に跨り、彼はその背を優しく撫でた。彼らはこちらを振り返ることも無く、海の方へと向かっていく。
「た、助けなくて良いのかな。」
岸間が少し焦ったように、倫太郎の袖を引いた。
助けたら、どうなるのだろうか。ここが人間が作り出した空間であると言うのなら、今ここに見えている全ては「作り物」ということなのではないだろうか。それこそ、形あるもののようで、形無き「そうぞう物」。
目の前で起きていることが、霞んでいくような気がして、倫太郎は背筋を伸ばし、両手で目を擦った。
「本当の浦島太郎は、もう千年以上前に死んでいる。」
倫太郎の後ろに隠れるようにしていたギンが、困った子供でも見るようにして岸間に言った。
目の前にいる浦島太郎が、幻想のものであることをはっきりと告げられ、景色がまた薄くなった気がした。それでも、いつまでも見ていたい風景だった。
消さないで欲しい。
倫太郎がそう強く思う度、浦島太郎の姿は小さくなっていく。
そしていよいよ、海の中に、消えた。
語り継がれた世界が今ここにあるのは、人間が作り出した気の溜まり場を、倫太郎が具現化したから。つまり、彼は浦島太郎であって、浦島太郎ではない。
倫太郎がそうだと思い込んでいるだけの空間に、自分たちはいるのだ。人間という枠組みでさえ、あって無いような場所。
それなのに。
この心に残る、取り残されたような寂しさと、知らぬふりをした罪悪感はなんだ。———倫太郎は、心臓を握りしめるかのように、胸の前で拳を握った。
「おじいちゃんに、なっちゃうよ。」
そうだ。浦島太郎はこの後、竜宮城でしばらく過ごした後、こちらに帰ってきて、既に何百年もの時が過ぎてしまったことを知る。そして、もらった玉手箱を開け、出て来た煙によっておじいさんになってしまうのだ。
『その玉手箱を、乙姫の愛だと言う人もいれば、浦島太郎の魂だという人もいる。』
社会科教師の言葉が、頭の中に蘇る。
竜宮城で流れる時間と、人間の世界で流れる時間の違いが、彼を不幸にする。いや、もしかしたら、乙姫に出会えて幸せな人生だったと、彼は言ったかもしれない。そんなことは、浦島太郎本人にしかわからないことだ。
「精霊に、時間という感覚は無い。」
ギンが、浦島太郎の姿の無くなった大海原に視線を向けながら言った。
「そもそも、時間なんてものが必要の無い存在なんだ。ただ生まれて、食って、消滅するだけの存在だったはずだ。」
「植物と、なんら変わらんような言い方をするな。」
クロが倫太郎の肩の上で立ち上がり、ギンを見下ろすようにして言った。今の倫太郎は子供の姿だ。立ち上がらなければ、見下ろせなかったのだろう。尻尾が立ち上がり、怒っているようだ。
「本来は、そんなもんだったはずだ。消えていった同胞の最後はどうだった?意思無きものだっただろう?」
ギンに言い返されたクロは、何も言い返さないままそっぽを向いたようだ。黒い尻尾が倫太郎の顔にべしりと当たる。
「精霊が、本来の精霊としての形ではなく、今その形であるのは、人間に出会ったからだ。」
グワリと世界が歪む。急に体が重たくなったことで、図書館に戻ってきたことを知る。
「ひやっ!」という声が聞こえて倫太郎がそちらを見れば、岸間が座り込んでいた。もうそれも、ずいぶんと見慣れた景色に思えた。
「だから、乙姫は失敗したんだろう。」
ギンはその手に持っていた浦島太郎の絵本のページを捲る。そこには、玉手箱を開けて、煙にまみれた浦島太郎が描かれていた。
失敗とは、浦島太郎を彼が生きていた時間とは違う時間に送ってしまったことだろうか。乙姫のいる場所と、浦島太郎のいた場所の時間の流れが違うということを、そもそも知らなかったということだろうか。それともそれを知っていて、わざと失敗したとでも言うのだろうか。
「浦島太郎にとって、精霊はとても美しいものだったのでしょうね。」
うっとりとした声で、お岩さんが言った。
そうか。乙姫の姿は、浦島太郎が作り出したものということになる。クロが黒猫であるように、シロが羊であるように、そしてお岩さんが幽霊であるように、人間がそうだと思い込んで作り出したその見た目は、本来はそこにないはずの「そうぞう物」。
人間をおびき出してその何かを食べていた精霊を、彼は「姫」と言ったのだ。彼にとって初めて出会った精霊が、いかに美しいものに見えていたのかを知る。
彼は、乙姫にとってただの餌だったのだろうか。最後に返されたのが「彼の魂」であったとするならば、彼は許されたのだろうか。それとも、それは彼とは違う別の魂だったのか。
それが、愛だと言うのなら…。
だから、乙姫は失敗したのだろうか。
思わずそこまで考えて、クロを見る。倫太郎を、餌にしているという黒猫。倫太郎と目が合って、クロは気づかなかったとでも言うように、目を逸らした。
倫太郎は背筋に何か冷たいものを感じ、ぶるりと震えた。
「え?え?」と言って逃げ遅れた倫太郎を、浦島太郎が見下ろしている。その様子は穏やかで、怒っている風では無いことに少しほっとする。耳元で、「こんな御馳走は久しぶりだ。」とクロが呟いた。
その場にしゃがんで、倫太郎の目線の高さに自分のそれを合わせた浦島太郎は、「亀は、逃がしてやろうな。」と、優しく言った。
彼には、倫太郎たちのことも、子供たちの仲間に見えているのだろう。うまく言葉が出ず、倫太郎がただしっかりと頷いて見せると、彼はその優しげな目を細めてにっこりと笑い、立ち上がって倫太郎の頭をぐしゃぐしゃっと撫でると、その大きな亀を海の方へと誘導してやり始めた。
「やだ、ちょっとカッコいい。」
子供の見た目の岸間が何か呟いているが、もう放っておくことにする。
ゆっくりと、亀が動き出す。その背中を見守るようにして、倫太郎たちはただそこに立ち尽くしていた。
この先の話は、知っている。その邪魔をしてはいけないとでも言うように、皆静かにその光景を見守っている。海と空と砂浜しか無い風景の中、大海原に向かっていく一人と一匹のその姿は、一枚の絵のようでもあった。
浦島太郎に押されるようにして波打ち際まで移動した亀が、その首を伸ばして浦島太郎を見上げた。波の音が響いて声はここまで届かないが、おそらくは竜宮城へ誘っているのだろう。
驚いた様子の浦島太郎だったが、ついにはその亀の背に跨り、彼はその背を優しく撫でた。彼らはこちらを振り返ることも無く、海の方へと向かっていく。
「た、助けなくて良いのかな。」
岸間が少し焦ったように、倫太郎の袖を引いた。
助けたら、どうなるのだろうか。ここが人間が作り出した空間であると言うのなら、今ここに見えている全ては「作り物」ということなのではないだろうか。それこそ、形あるもののようで、形無き「そうぞう物」。
目の前で起きていることが、霞んでいくような気がして、倫太郎は背筋を伸ばし、両手で目を擦った。
「本当の浦島太郎は、もう千年以上前に死んでいる。」
倫太郎の後ろに隠れるようにしていたギンが、困った子供でも見るようにして岸間に言った。
目の前にいる浦島太郎が、幻想のものであることをはっきりと告げられ、景色がまた薄くなった気がした。それでも、いつまでも見ていたい風景だった。
消さないで欲しい。
倫太郎がそう強く思う度、浦島太郎の姿は小さくなっていく。
そしていよいよ、海の中に、消えた。
語り継がれた世界が今ここにあるのは、人間が作り出した気の溜まり場を、倫太郎が具現化したから。つまり、彼は浦島太郎であって、浦島太郎ではない。
倫太郎がそうだと思い込んでいるだけの空間に、自分たちはいるのだ。人間という枠組みでさえ、あって無いような場所。
それなのに。
この心に残る、取り残されたような寂しさと、知らぬふりをした罪悪感はなんだ。———倫太郎は、心臓を握りしめるかのように、胸の前で拳を握った。
「おじいちゃんに、なっちゃうよ。」
そうだ。浦島太郎はこの後、竜宮城でしばらく過ごした後、こちらに帰ってきて、既に何百年もの時が過ぎてしまったことを知る。そして、もらった玉手箱を開け、出て来た煙によっておじいさんになってしまうのだ。
『その玉手箱を、乙姫の愛だと言う人もいれば、浦島太郎の魂だという人もいる。』
社会科教師の言葉が、頭の中に蘇る。
竜宮城で流れる時間と、人間の世界で流れる時間の違いが、彼を不幸にする。いや、もしかしたら、乙姫に出会えて幸せな人生だったと、彼は言ったかもしれない。そんなことは、浦島太郎本人にしかわからないことだ。
「精霊に、時間という感覚は無い。」
ギンが、浦島太郎の姿の無くなった大海原に視線を向けながら言った。
「そもそも、時間なんてものが必要の無い存在なんだ。ただ生まれて、食って、消滅するだけの存在だったはずだ。」
「植物と、なんら変わらんような言い方をするな。」
クロが倫太郎の肩の上で立ち上がり、ギンを見下ろすようにして言った。今の倫太郎は子供の姿だ。立ち上がらなければ、見下ろせなかったのだろう。尻尾が立ち上がり、怒っているようだ。
「本来は、そんなもんだったはずだ。消えていった同胞の最後はどうだった?意思無きものだっただろう?」
ギンに言い返されたクロは、何も言い返さないままそっぽを向いたようだ。黒い尻尾が倫太郎の顔にべしりと当たる。
「精霊が、本来の精霊としての形ではなく、今その形であるのは、人間に出会ったからだ。」
グワリと世界が歪む。急に体が重たくなったことで、図書館に戻ってきたことを知る。
「ひやっ!」という声が聞こえて倫太郎がそちらを見れば、岸間が座り込んでいた。もうそれも、ずいぶんと見慣れた景色に思えた。
「だから、乙姫は失敗したんだろう。」
ギンはその手に持っていた浦島太郎の絵本のページを捲る。そこには、玉手箱を開けて、煙にまみれた浦島太郎が描かれていた。
失敗とは、浦島太郎を彼が生きていた時間とは違う時間に送ってしまったことだろうか。乙姫のいる場所と、浦島太郎のいた場所の時間の流れが違うということを、そもそも知らなかったということだろうか。それともそれを知っていて、わざと失敗したとでも言うのだろうか。
「浦島太郎にとって、精霊はとても美しいものだったのでしょうね。」
うっとりとした声で、お岩さんが言った。
そうか。乙姫の姿は、浦島太郎が作り出したものということになる。クロが黒猫であるように、シロが羊であるように、そしてお岩さんが幽霊であるように、人間がそうだと思い込んで作り出したその見た目は、本来はそこにないはずの「そうぞう物」。
人間をおびき出してその何かを食べていた精霊を、彼は「姫」と言ったのだ。彼にとって初めて出会った精霊が、いかに美しいものに見えていたのかを知る。
彼は、乙姫にとってただの餌だったのだろうか。最後に返されたのが「彼の魂」であったとするならば、彼は許されたのだろうか。それとも、それは彼とは違う別の魂だったのか。
それが、愛だと言うのなら…。
だから、乙姫は失敗したのだろうか。
思わずそこまで考えて、クロを見る。倫太郎を、餌にしているという黒猫。倫太郎と目が合って、クロは気づかなかったとでも言うように、目を逸らした。
倫太郎は背筋に何か冷たいものを感じ、ぶるりと震えた。
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