扉〜とびら〜

直哉

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日常

扉〜とびら〜

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  「またよろしくお願いします」
 マンションの玄関で、リュウが明るく答えた。
 リュウは、笑顔をしまい込み部屋のベッドに戻った。シーツをベッドから剥がし、新しいシーツをベッドに掛け、使用済みのタオルとシーツを、丸めたまま洗濯機に放り込んだ。

 リュウは、港区の新築マンションの一室を出て、上の階にある事務所へ向かった。
 八階。
 店の男やボーイに、軽い挨拶を交わしながら、マンションの一室にある事務所に入る。
「さっきの、客の代金です。」
 と、リュウは感情なく言う。
「お疲れさま。じゃ、これ今のギャラね、ここにサインお願いね」  
 と、オネェ口調の男が言った。 
 いつもの変哲のないやりとりで、男が言葉を言い終わる前に、リュウはギャラの受け取り帳にサインを終えた。
 店とは言っているが、看板等ない。インターネットにホームページがあり。「ボーイクラブ TT」というロゴマークと、ボーイについての簡単な情報と店へのアクセス方法があるくらいだ。
 マンションの一室が事務所兼待機場所、他の二部屋が客とのプレイのために用意されている。
 客はボーイに対して、プレイ時間分の金を支払うというシステムだ。
「ボーイクラブ TT」は男らしい筋肉質な男やイケメンと呼ばれる男が多い。客は年齢層が広く、港区のマンションに三室も賃貸しているので、客はそこそこいるようだった。
 金がどうしても必要というよりも、小遣い稼ぎがしたい学生やサラリーマン、役者の卵(自称)、数割はセックスホリック的な輩もいた。
 とりたてて性格が悪い男もおらず、ボーイ同士の会話には、ジョークが滲んでいた。待機場所の和やかさだけ見れば、カラダを売って金を貰っているようには見えないだろう。  
 勿論、水商売という感覚さえも、働いている彼らには薄い。
 リュウも同様だ。

 リュウは、TTが入るマンションから、最寄り駅の地下鉄までの道すがら、歩みが緩やかになる場所がある。
 いつものように、リュウは、JR浜松町駅を背に、地下鉄大門駅がある前方を見上げた。
 季節によって様子が変わり。見る側の気持ちによっても様子を変える。リュウはそんな東京タワーが好きだ。
 今夜のそれは、寛容で暖かそうだった。灯はリュウの姿に陰影を彫り込んでいた。

「池田さんは九〇分だから、お願いね」
 オネエ口調の男が言った。
「はい。わかりました」
 と、素っ気なくリュウが言った。

 土曜日の昼下がり、TTの事務所兼待機場所には、いつもより多くボーイが待機していた。
 けだるい空気が、漂っている部屋のなかで、多くは携帯をいじりながら談笑をしたり、ゲーム機でゲームをしていた。だがあまり指名がかからないボーイ達は、潔く海外ドラマシリーズを、まとめて見る意気込みらしい。そのあいだも指名はかからないことも想定に入っているようだ。
 そんななか、ボーイがプレイした部屋から戻ってきたり、また部屋に向かったりと、玄関付近とオネエ口調の男の周りだけは、どこか落ちつきのない空気が漂っていた。
 
 リュウは、そのけだるさがわかっていたので、予約時間の十五分前に事務所に寄り、鍵を受け取り、プレイ用の部屋に向かった。
 予約時間ちょうどに、マンションのインターホンに、店側があらかじめ部屋番号を教えていた池田が写し出された。
「どうぞ」
 インターホンの通話ボタンを押して、リュウが言った。

 ほどなくすると、池田が玄関に入ってきた。
「こんにちは」
 と、リュウが挨拶した。
「おお。元気だった?」
 と、還暦にちかい池田が、大きなダミ声で言った。
「今日は、お天気いいっすね。どこかお出かけの帰りっすか?」
 リュウには、池田が持っているデパートの紙袋が目に入った。

 部屋の低いベッドに、池田が腰をおろした。
 リュウは、冷蔵庫からペットボトルのウーロン茶を、グラスに流し入れていた。
「リュウ君と食べようと思って、寿司買ってきたよ。昼飯はもう食べた?」
 池田が、そう言うと、紙袋から寿司をテーブルに出して置いた。 
 ワンルームで狭いこの部屋では、ベッドに腰掛けるとテーブルがちょうどよい位置になった。

「すげー、うれしいっす!まだ食べてないっす」
 体力勝負の仕事ということもあり、すでにTTに来る前に食事は済ませていたが、寿司ならなんとか入りそうだと思った。
 しかし、この部屋で生ものを食すことは、やや抵抗があった。
 
 池田がリュウを指名するのは、今回で三回目だった。
 
「若いのに、土曜日も仕事してえらいなー」
 と、大きなダミ声で、リュウを褒めた。
「いや~。そんなことないっすよ。また、指名してもらえて嬉しいっすよ」
 箸で、まぐろの握りを摘んで、口のなかに入れた。きっと、旨い寿司だろうが、この場所で味わう気にはなれず、ノドに詰まらせないほどに噛み砕き、飲み込んだ。
 池田は、なんら抵抗もないように食していた。
「この、寿司うまいっすね~。池田さんは、いつもこんな贅沢してるんっすか?」
「贅沢はしてないよ。ここのデパートでよく買い物するから、買う事が多いだけだよ」
「それって、世間では贅沢っていいますよ」
 と、リュウが微笑みながら、池田に言った。

 最後に、甘エビが残った。リュウはこれだけは、この部屋で食べたくなかった。
「池田さん、どうぞ」
 と、リュウが、池田に甘エビを譲ったが、せっかくだからと、逆に譲られて、断る訳にいかなかった。
 口に入れた瞬間、やはり性的な味に感じたれた。ミネラルウォーターでそれを、胃に流し込んだ。
 それをごまかすように、すぐに池田に話しかけた。
「池田さんって、四谷でしたよね。このデパート近いですよね」
「そうなんだよ。よく覚えていたね。ついここで、すべての買い物済ませてしまうんだよ」
 やはり贅沢だと、リュウは思った。四谷で一人暮らしが長い池田が還暦間際だというのに、身ぎれいに感じるのは、豊さの表れのようにも思っていた。

 池田と会って五〇分が過ぎたころ、リュウが池田に、シャワーを促した。
 狭いユニットバスで、リュウは池田のカラダにボディーソープをつけて、丁寧に洗った。その間、池田は何度もリュウにキスを求めた。そして抱きついてきた。
 しかし、ベッドに戻ってからのプレイは、とても淡白なものだった。
 残り少ない時間を、池田が名残惜しそうに会話してきた。
「やっぱり若いっていいね。羨ましいよ。次回も宜しくな」
 にやけた池田はそう言うと、リュウの股間を握った。
 
 池田が去ったあと、後片付けをしながら、リュウは老いたときに独りになるのはどんな感じだろうかと、考えていた。ゲイである以上結婚は望めない。やはり寂しくて、話し相手が欲しくなり、ボーイを買うのだろうか。
 そう考えると、他人事ではない気持ちと同時に、池田に同情した。
 そして、次回も食事を買ってきてくれるのなら、いくら美味しくても、生ものではなく、火の通ったものにしてほしいと思っていた。



「ヤマザキさん、三番に内線です。」
 自らがフリーズしていたことを、自覚していなかったことに戸惑った。内線電話をまわしてくれた、女子社員に礼を言いつつ受話器を取った。
 
 「リュウ」は店での源氏名。本名は、ヤマザキ トモヤ 二九歳。店では、二五歳とサバ読んでいるが、聞き返されたことは無かった。
 年齢が若い方が、指名が入りやすい。だから、年齢を偽っていた。
 
 そして、トモヤの本業は、銀座にある小さな出版社で、社内デザイナーをしていた。毎月発刊される雑誌のレイアウトデザインや、広告のデザインを担当している。
 内線を切り、ふと自分の携帯電話に目をやると、モデル事務所からだった。
 携帯を手に取り、廊下に出て、メッセージを確認した。
「この前のオーディションの件ですが、残念ながらNGです。スケジュールをバラしてください。」
 モデル事務所のスタッフからだった。
 毎回のことだが、どこか世間に拒絶されているようで、胸が痛んだ・・・。
「俺には、需要がない」と、頭の中で呟いた。
 
 トモヤは出版社で、デザインや企画に携わっていたが、クライアントに評判が悪いデザインは、社内の担当営業から文句を言われるが、評判が良い場合には、何も労いの言葉もない。   
 労いの言葉が欲しいというわけではない。必要とされているという実感が欲しかっただけだった。しかも、帰りは深夜になる事も頻繁にあり、「やりがい」を期待できない分、メリハリのある勤務ができる会社にしようと思い、この出版社に転職を決めたのだった。 
 毎月の発売日が決まっているので、校了と呼ばれる日の一週間前からは、超多忙を極めるが、それも、校了日までと思えば、乗りきれた。以前は自分が関わった仕事を、街で見かけても、なぜか他人事のように思っていた。  
 本を読むことが好きで、暇さえあればよく本屋に通っていたトモヤは、好きな作家の本と、小さく名前が記された、自分の関わった雑誌が、同じ屋根の下、並んでいるというだけで、充実感があった。
 しかし反面、時間的に余裕ができたぶん、退屈に思うこともあった。その退屈さが、今後を不安にさせた。

 「出版社のデザイナー」
 「モデル」

 いつも、不安になると、この二つのキーワードを思い出した。そして、優越感で不安感を塗りつぶした。
 大学に通ったことがない。まして卒業もしていない。このことが、トモヤにはコンプレックスだった。最終学歴、専門学校卒業。  
 それがゆえに、人とは違う、他人からみて羨ましく思うキーワードを、トモヤは欲しがった。それをコレクションすることで、満たされているかのように思えたからだ。もっと不安を塗りつぶす、優越感を増やしたい。
 

 大門駅近くのオーガニックサンドイッチの店で、トモヤは、エビとアボカドのサンドイッチと、チキンに、アクセントとしてカレー味のするサラダを、白のグラスワインで流し込んでいた。
 トモヤのほかにも、その店は、仕事帰りのOLや、外資系勤務と思われる外人達で、程よく席が埋まっていた。
 リュウは、彼のことを指名してきた客について、チキンサラダに入っていた、セロリをフォークで刺しながら、薄ぼんやり考えていた。「確か、今回が五回目の指名で。ディズニーランド好きな巨漢だったな。」
 ブルガリの腕時計で、時間を確認すると、そろそろ店に出勤の時間だった。口の中の残るセロリのほのかな薫りをワインで一気に飛ばした。店の外に出て、ベージュのコートの襟を上品に立てた。
 
「太田さんは、今日は一二〇分だって。宜しくね」
 オネェ口調の男から、部屋の鍵を受け取った。
 渡された鍵のキーホルダーが、異様なほど色が派手で、センスが無かった。昔誰かが、旅のお土産に買ってきたのだろう。しかも、なんとなく。毎回、鍵のキーホルダーを見て、リュウは、時代が八〇年代で止まってしまったようだと思っていた。ファンシーさが、余計に不憫に思えた。
 マンションの事務所の一室を出て、エレベーターに乗り、客とプレイする部屋に向かった。
 客が来る前に、リュウは、ざっとシーツの皺を直した後、少し暇を持て余して、携帯のメールチェックをしていた。
 今日で五回目の指名。ディズニーランドが好きな、太田がマンションの部屋のインターホンを鳴らした。
 太田が部屋に入って来ると、軽い雑談が始まった。
「リュウ君、会いたかったよ。ますますカッコ良くなったね」
と太田はリュウの容姿を褒めた。
「そんなことないっすよ。ところで、太田さん、ディズニーランドには行っていますか? 最近のお勧めってなんっすか?」
 太田は、質問に答えるまえに、リュウを抱きしめはじめた。太田は、少し荒い鼻息まじりで、リュウの質問に答えた。
 ところが、リュウは、太田に教えてもらったアトラクションを知らなかった。というより、ディズニーランドに、全く興味をもったことがなかった。
「そっか~。参考にしますね」
 と、リュウは答えた。 
 その後も、興味のないディズニーランドの話を質問した。
 意味のない会話に、リュウは少し微笑みながら、BGMに仕立てた。
 リュウは、わかりきった質問も、邪見に扱うことのないように心がけている。それは、会話している時間が長くなれば、セックスする時間が少しでも短くなるからだ。セックス重視の客は、常に条件の良い男が現れると、心変わりするのだ。ましてリピート率が低く、割に合わないからだ。
 バスルームでは、太田の肥満しきった腹の出たカラダを、リュウが丁寧に、ボディーソープで股間と胸のあたりを中心に洗ったあと、バスタオルで、頭から順番に、顔、胸と下に向かって拭いた。そして、ベッドに向かった。
「今夜もナオミって呼んでね」
 太田はリュウの目をみて、プレイのメニューをオーダーした。リュウもいつものことなので、気にも止めない様子だった。
「いつものっすね。」
 とだけ答えた。
 プレイが、はじまると、何度も太田は、鼻にかかった声で、「リュウ」の名前を連呼し、あたかも、自分がリュウの女になり、激しく攻められるという設定に没頭した。
 太田の激しい歓喜の声と、汗とオイルが混じり合ったものが、ベッドにシミを創り続けていた。太田は、リュウの汗が浮かんでる男らしい胸筋や小さく引き締まった尻を、自分の中の女を確かめるように、撫で回した。リュウは陰茎を入れたままで、太田のカラダを、くねらせ、女にさせた。
 何度も。何度も。
 プレイ中の薄暗い部屋でプレイしていると、リュウは、視覚よりも聴覚が鋭くなり、耳で情事を把握した。目を瞑ると、ピンクから、アイボリーのグラデーションが部屋一面に広がり、今度は、頭の中の、「義務・アビューズ(虐待)」の文字が、部屋のあちこちに転がっていた。やがて、太田の鈍い色の悲鳴にも似た声で、シュウリョウした。
 しばらくして、粉々になった破片を拾い集めるように、リュウが、太田の汗と、オイルでヌルヌルしているカラダの脇に、自分のカラダを滑りこませながら話かけた。
「太田さん、ケツ大丈夫っすか? 痛くないっすか?」
「ああ、大丈夫」
 と、疲れ果て、声にならない声で、太田はつぶやいた。
 ふと、リュウはベッドの脇のサイドテーブルに置かれた、大きな目覚まし時計で、時間を確認する。
「あと、四〇分か・・・。あと四〇分もナオミという妖怪。いや、太田と、ディズニーランドネタで、会話を頑張らなくては」とリュウは、言葉を飲み込みながら消耗しきった体を仰向けにした。

 視覚的に、太田はサイかゾウを思わせる。やはり、プレイシュウリョウゴの、この匂いたつ部屋では、太田の体臭は、相当鼻に付く臭いだ。たちまち、リュウは飼育員の気持ちになった。ただしリュウと飼育員が違うのは、彼らは「動物愛」が原動力にあるのに対し、リュウにあるのは「義務」それだけだった。「あと二〇分たったら、シャワー浴びさせて退散願おう」。
 腹に張り付くだらしない太田の陰茎が視界に入り、何気なく視線を天井に反らした。
 そして、残り二〇分を埋めるBGMのような会話を続けた。
 
 太田を部屋の中から見送り、いつものようにリュウはベッドのシーツを取り替え、使用済みのシーツとタオルを洗濯機に押し込んだ。
 部屋を出る前に振返り部屋を見渡しながら、心の中で指差し確認をした。

 リュウは財布の中から、太田から支払われたプレイ料金二万円を、オネェ口調の男に手渡した。同時に本日のギャラ一万四〇〇〇円を受け取り、サインをした。
 事務所を出て、薄暗い人通りが少ないウラ通りを芝公園に向かって歩いていた。
 
 ジムで鍛えた、均整のとれたカラダや、モデルの仕事で身に付いた、背筋を意識した歩き方、それを彩るプラダのコート。だれが見ても、この男が、ちょっと前に、男にカラダを売ってきたとは、想像し難いだろう。

 今夜も、トモヤの帰り道には冬のダークブルーの夜空に、暖かそうな灯を纏って佇む東京タワーがいた。
 

 午後三時、銀座。
 ホワイトボードには、「資料探し」と書いた。アイデアにいき詰まったりすると、デパートや高級ブランド店を覗いた。
 今日は、デパートの地下にある、隠れ家的な場所に来ていた。    
 主にこの店は日本茶を売っているが、奥に小さなカウンターがあり、季節のお茶と和菓子を味わえた。間接照明の小さな店内で、宇治茶と、冷くず玉を、トモヤは味わっていた。冷くず玉の半透明で冷ややかで、上品な甘さに、トモヤは気持ちが高揚した。思わず、「こいつみたいな、素朴かつ、優しい男がいたら」と妄想に浸り、宇治茶の渋みに、「ばかな」と思い直して、心の中で苦笑いした。 
 トモヤは、心の中で自分と会話するのが好きだ。言葉として声に出すとあらゆるものが、安っぽくなってしまうようにも思っていた。    
 トモヤはカラダを売ることの罪悪感よりも、どんなカタチにしろ、自分にも「需要」があるという実感を得るほうが勝っていた。それがカラダを売るキッカケになった。
 退屈な出版社では、不満も少ないが、満たされることも少なかった。では学生時代から続けているモデルの仕事なら、少しは「需要を実感できるのでは」と思っていたが、会社があるので、そうそうオーディションに行ける機会もなく、事務所からは腰掛け的な存在に映っていた。たとえオーディションに行けたとしても、幾度もオーディションの不合格を聞かされると、自己否定に追い討ちをかけた。
 「自分には、世間からの需要が無い」
 トモヤは最近よく、このことを考えていた。
 
 今夜、店に行かなくてはならない。新規の客の予約が入っているのだ。
 会社の仕事を、午前中からペースを上げて仕上げた。電話は、極力最小限の時間におさえた。先方には、多少愛想がないと思われるだろうと思ったが、時間をロスすることを嫌った。
 今のトモヤには、会社の仕事よりも、自分への「需要」によって、「存在」を実感させてくれる客のほうが、大事だった。
 会社の仕事は、拗れそうなものは、次の日の朝にまわした。今日の夕方に、ゴタつくのだけは、避けたかった。店で働きだしてからは、客のほうが大事になった。仕事がダブルワーク(モデル業含めて、トリプルワーク)な訳だが、自己管理で時間内に終わらす緊張感に多少のスリルを感じていた。それらをこなした時の達成感が心地よかった。
 
 八時より少し前の一五分前、リュウはTTの事務所に着いた。
 挨拶も早々に、オネェ口調の男が続けて言った。
「新規のお客さんだから、サービスしてあげてね。とくに、毎回、電話でリュウ君を指名していたのに、あなたのスケジュールがあわなくてねぇ・・・。やっとよ。よかったわ!なんとか都合ついて」
「わかりました。頑張りますよ」
 リュウが答えた。
 何をどうサービスなのか、「?」というマークしか浮かんでこない。と同時に笑いがこみ上げてしまった。頭の中の「?」の部分を具体的なサービスにして考えるのと同時に、オネェ口調の男の声がして・・・。あの、目のつり上がった人の悪そうなオネェ口調の男が、サービスしている姿が浮かび、悪寒がした。

 リュウは近くの駅前まで、「新規のお客」を迎えに行った。
 男から、伝えられた通りの服装の男性がいた。チェックのシャツにベージュのパンツ。清潔そうな感じだと、リュウの第一印象だった。そして好印象だった。
 頭の中からは、もう男が言うところの「サービス」という文字が消えていた。
 リュウは「新規のお客」が、自分を見つめる目に、少し戸惑った。真っすぐなのだ。
 
「香田さんですよね。リュウっす」
 リュウも少し緊張しながら話しかけた。

 なにかが、リュウのなかで、うごめき熱くかき乱した。

 香田は三十二歳。流通関係の仕事で、コンビニエンスストアのお弁当を、工場から店に納品する会社で勤務していた。主に、納品の管理やクレームのサポートだった。工場は二十四時間フル稼働で、
納品先は二十四時間営業の、コンビニエンスストアだった。
 シフト制のため、昼間に帰宅して就寝し、夜に出勤する日々が、ここのところ続いていた。

 大学生の頃から香田は、この会社でアルバイトとして勤務していた。
 深夜の時給が、他の昼間のアルバイトよりも魅力的だったことと、埼玉の実家から近いことも好条件に思えたからだ。 
 ただ、その頃の香田には大学卒業後も、ここで働くとは思っていなかったのだが。
 
 香田は決して派手なタイプではなかった。身長はどちらかというと高くはなく、学生時代は剣道をやっていたことから、周りからは、マジメな印象をもたれていた。
 「石橋を叩いて渡らない」という慎重な考え方で、三十二年間やってきた。
 そのマジメな性格から、現在も勤務している会社の上司から、大学卒業後に、バイトから社員になることを薦められた。
 香田も「新しく、何かをはじめるよりも、今の職場が自分を必要としてくれるなら、悪い話ではない。ましてや、もう、すっかり、バイトの中でも、上から数えた方が早いほど長く働いている。仕事の流れも、新しいアルバイトやパートのおばちゃんにも、仕事を教えるほどになっていた。だから、悪い話ではない」と思って、上司の話に快諾した。

 しかし、いまになって、少し後悔することが、たまにある。学生時代の友人との飲み会も、ここのところ、三回も続けて断っている。
 仕事のシフトとあわないのだ。
 周りは、土日に休むが、香田は、シフト制なので、なかなか、思うように休みが取れなかった。その理由に、自分を社員に推薦してくれた上司が、土日に休みをとってしまうことも、少なからず影響していた。香田の周りの従業員は、上司の都合のよいように、香田が振り回されていることに、「まるで、奴隷だよな」と影口を囁くものまでいた。
 香田も、アルバイト時代とは、立場が変わり、コンビニエンスストアの店主からの、「弁当が、まだ店に来ていない!」「弁当を買いにきた客に売る商品がなかった。お前が、弁償しろ!」等の理不尽な要求にも、極力低姿勢で対処してきた。
 営業車で早朝、店まで自ら納品して、頭を下げたにもかかわらず、嫌みの一言で、あしらわれたこともある。
 上司は、コンビニエンスストアを統括している本部の人間だけには、低姿勢だった。
 香田に対して、辛くあたりだしたのは、彼が社員になってからだった。
 不景気で、本部からの締め付けのストレスが、中間管理職の上司の機嫌を絶えず悪くしているのだった。また、工場のパートのおばちゃんや、配送トラックのドライバーからの現場の不満には、アルバイト時代から共に働いてきただけに、気持ちがわかった。
 それらを全く無視もできず、上司経由の本部の命令に、香田も板挟みになっていた。
 同じ会社なのに、アルバイト時代とは、とりまく環境が変わってしまった。
 しかし香田は、会社を辞めるわけにはいかなかった。
 
 結婚を約束した女性がいた。
 薫だ。
 
 香田と彼女は学生時代からの付き合いで、同じ埼玉の浦和市内に住み、家も車で二〇分くらいの距離だった。
 どんなに辛くても、薫と電話すると気が晴れた。

 薫は都内の銀行に勤務。シフト制の香田とは、なかなか会う時間を作れなかった。香田が就職したここ数年は、電話越しに喧嘩することも度々あった。
 とくに、ここ数ヶ月、薫が自分に対する態度に疑問をもっていた。    
 香田は、薫とのすれ違いの時間や、恋愛に対する温度差がどんどん開いている気がして、度々心配になった。

「前に一緒にご飯食べた夕子のこと覚えている?」
「ああ。覚えているよ。池袋で会った色の白い娘だよな」
「そうそう。婚約したんだよね。それが、外科医らしいだよね。彼の勤務している病院の近くってことで、白金に住むんだって。いいよね~。県民じゃなくて、区民だよ。しかも港区」。

 薫が香田に頻繁に話す内容は、次々と婚約する周りの同僚の結婚相手についてだった。
 彼らは、たいそう恵まれた環境の者であったり、将来を保証された者だった。
 どうやら、薫は彼らと巡り会えた彼女達に対して、妬んでいることは、香田にも伝わっていた。

 薫の職場の人たちと、それに関わる人々とは、前々から香田はどこか住む世界が違うように思っていた。
 そして以前にもまして、薫がそちら側の人間になっていくような気がしていた。

 香田は、いつもの薫がする会社の人間の結婚話に対して、
「そうなんだ」
 としか、答えることができなかった。
 そして、「薫が望む幸せを、与えることはできないのではないか」と、香田に隙間風のような気持ちが吹いた。
 だが考えまいと、自分の気持ちをごまかした。

 香田は、自分の気持ちが悟られまいと、話題を変えた。

 世間が不景気とはいえ、薫の職場は、安定していた。彼女の憧れる結婚相手どころか、彼女が思っている底辺の基準である同世代の男性行員と比べても、香田には有利な条件が「ひとつ」も無かった。
 彼らは裕福であり、安定もしていて羨むべき点はたくさんある。
 しかし自分もそうなりたいという希望を、もはや持つことはできなかった。
 香田は、無駄な希望は、持たないように生きてきた。世の中、思って叶うことなんて限られている・・・。漠然とそう思っていた。    
 とりたてて自分の強い希望や、夢は無かったのだが。
 

 香田が予想していた現実が、今彼の上に落ちてきた。
 薫から、メールで「別れたい」とあった。
 慌てて、香田は、薫に電話した。
 彼女は、少し押し黙った後は、殺人事件の自供をはじめる真犯人がするように。堰を切ったように、話し始めた。
 そして最後に、「結婚」することになったこと、また、ここ半年間は、同じ銀行の男と二股をかけていたことも、付け加えた。
 まさに、理不尽な結末だった。
 しかし香田は「ショックは、後から来るのだろうか」などと考えられるほど冷静だった。不思議なくらいに。
 香田は、この日がくることを、本心では予想していた。だが、別れたくないという感情がフタをしていたのだった。

 薫から別れ話を告げられた後、自分が思っていた以上に彼女との間には、とても深い溝が存在していたことに気づかされた。

 いろいろなことが腑に落ちた。

 香田は、他人の別れ話なのではないかとさえ錯覚した。
 
 冷静な頭の中では、さきほどの電話での会話が再生されていた。
 自室の椅子に寄りかかり、がくりと頭で天井を仰いだ。
「やはり、金なのか」
 と、香田はひとりごちた。

 世間では、「金」ではなく、「心」が大事というが、そう思っている女性はいるのだろうか。やるせない気持ちを感じながら疑問が沸き起こっていた。
 それは薫に対してだけではなく、「女性」に対してのものだった。

 香田は、椅子に寄りかかったまま、目を瞑っていた。


 両親と暮らす築三〇年の公団住宅の窓の外、夕方の橙色に染まる木々は葉を一枚も付けておらず、むきだしの枝が、刺々しさをあらわにした。ひどく冷たく感じられた。
 香田は、ようやく怒りで涙を流すことができた。
 睡眠不足のなか、愛車の軽自動車で出勤した。
 職場では、目の下に隈をつくった香田に、気にかける言葉もなかった。
 そして支えを失ったまま、毎日が過ぎ去った。
 そんなある日、香田のデスクには、いくつかのメモが貼ってあった。確認していくと、店からの納品に関するクレームだった。
 近年の不景気で、弁当を持参する会社員が多く、弁当の売上が思うように伸びないことから、コンビニエンスストアの店主が苛立ち、通常では何でもないことでも、クレームを入れてくるようになった。
 香田は、いつものように、詫びの電話をいれながら、受話器とともに平謝りした。


 「じゃ~、香田さんは、半年前まで、女と付き合っていたんっすか? 香田さんモテるでしょ。金出さなくても、イイ男見つかるでしょ」
 リュウと香田は、店が借りているマンションの一室で、二人ともベッドに腰掛けながら会話していた。
 最近見た韓国のドラマの、準主役の俳優に香田が似ているとリュウが言い出した。
 その俳優は、日本ではイケメン扱いというより、優しそうで、どこにでもいるような隣のお兄さん的な位置づけだった。
 実際、香田は、何度かその韓国人俳優に、似ていると言われたことがあり顔はすぐに想像できた。

 リュウは、物心ついた頃から、モデルのようなスマートな男より、スーツや作業着を着て、額に汗して働く男の方が好感を持った。
 素朴な印象の香田のことは、リュウにとって、気になる対象に違いなかった。

「香田さん、彼女とデートしているときに、男に目を奪われていたことあったんっすね。それでも、自分でゲイとか、まだ気づかなかったんっすか?」
 とリュウが微笑んだ。
「その時はまだ、カッコいい奴に対する妬みかなって思っていた。だから彼女と別れるまで、気がつかなかったよ」

 薫と別れてから、半年が過ぎていた。

「別れたら、気がついたってことっすか?」
 とリュウが言った。
「よく覚えてないな。そのへんのこと。意外と、無意識に行動していたように思う」
 と香田が答えた。
 結婚相手の二股や、仕事への不満という最悪の状況から、自暴自棄を起こした末、もしかしたら、男に興味があるのではないかと気がついた。そして、ゲイサイトを閲覧しているうちに、TTを見つけた。
 そのなかでも、リュウの画像を見て、とても興味が湧き、会いたいと思っていたこと。実際に会えて嬉しいが、緊張していることを、リュウに伝えた。
 だんだん、リュウと打ち解けた香田は、二丁目のことや、ゲイはどうやって出会うかなど、「ひと通り」を尋ねた。
 リュウは、このマイノリティの世界について、教えることができたこと。香田の役に立てたことを、とても嬉しく思った。
 また、自分には、「需要」があると思い、安心した。

「シャワー一緒に浴びましょう」
 とリュウが切り出した。
 初めての相手が自分でいいのか。リュウは、香田に好意を持ってしまっただけに、余計なことを心配した。

「最近、出会った男・・・いや女を入れても、一番純粋だ」
 なぜだか、抱き合っているとき、情事の最中に、その思いがこびりついて、拭えなかった。さらにリュウは、自分が香田を騙しているのでは?と心配になった。

 香田の純粋さが、周りに利用され、香田の思い通りにならない結果になっていることは、初対面の、しかも年下のリュウでさえも、わかった。
 リュウの周りは、「根回しを大事にし、それを利用して、上にあがるか」という考えかたの人間ばかりだった。
 それと、香田を比較すると、少し可哀想、いや可愛いくさえ思えた。そして、自分とは真逆な人間だとも。

 なぜか、香田と居ると静寂の中で、愛おしい暖色系の光に包まれているように感じた。
 大好きなモネが描く、あの風景に似ている。いや、冷くず玉かもしれない。

 やはり、香田に惹かれている。
 トモヤは、少し怯えた。
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