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トモヤ
扉〜とびら〜
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「俺の金で、ええ思いしてきたやろ。おまえが、どうしたいか、全然わからへんわ。何が不満なんや!」
イワタの持って生まれたプライドが、自分から離れて行こうとする者へ、牙をむかせた。
「自分を取り戻したい」
トモヤは答えた。
うすうすイワタも、こんな日が来ることは、覚悟していた。トモヤの父が病院に入院したころから、変化に気がついていた。しかし、トモヤから別れを切り出されるとは、思っていなかっただけに、動揺した。自分が終止符を打つと、脳裏の片隅に思い込んでいただけに。
少し冷静になったイワタが、それ以上、トモヤを責める言葉を吐くことはなかった。
妻、とくに子供を、捨てることなどできない。ましてや、社会的地位も。トモヤを引き留めることなど、本来できないと思い直した。
いままでの二人は、恋愛しているように見せかけて、足りない何かをごまかすために、寄り添っていたのだろう。
「ありがとう」
トモヤはホテルのロビーから、高層階行きエレベーターのほうへ去って行くイワタの背中を、真っ直ぐ見据えた。声に出さずに礼を言った。
医師から、コウゾウの余命宣告をされた。
主治医が、ノートパソコンで、コウゾウのレントゲンやCTスキャンの画像データを見ながら説明した。
そこには、肺に写っている影や、そこに溜まっている水までもが写し出されていた。
トモヤとリョウコは、テレビドラマのように、泣いたり詰め寄ったりしなかった。ただ現実を粛々と受け止めた。
そして、本人に告知することも、承諾した。
トモヤはひとつだけ、腑に落ちないことがあった。それはコウゾウが大病を煩って以来、定期的に通っていた病院のことだった。
循環器系が無いとはいえ、「ガン」しかも「末期」まで、その担当医は、なぜ、異変に気がつかなかったのだろう。今までの診察に、抜かりは無かったのだろうか。
六ヶ月。容態次第では、さらに短くなることも覚悟してください。医師から、そのように説明された。
正直、頭のなかが真っ白になった。今まで、自分が生きるだけで必死だった。親孝行など未だにできていない。ましてや父には、心配をかけどうしだと思っていた。
コウゾウの期限付きの人生に、トモヤはどう接したらいいのか、自宅の部屋で考えていた。
ふと、デスクの上に置いてあったデジタルカメラが目に入った。
電源を入れた。何の気なしに、今まで撮影したものを見ていると。家族旅行で、那須に行ったときに写した、画像が表示されていた。
三人でベンチに座ったもの。父と母がこちらに向かって微笑んでいるもの。目頭が熱くなった。
気持ちが高揚したのち、トモヤは決心した。
「父に対して、自分の悔いが残らぬようにしよう。泣いても笑っても、これが最後の親孝行だ。育ててくれた恩返しをしよう」
悲しみは過ぎ去ってしまっていた。
トモヤは、仕事帰りに病院に行くために地下鉄を乗り継ぎ、渋谷駅にでた。そこから、広尾の病院に行くには、バスに乗る。
駅のコンコースから、バス乗り場に向かう道すがら、東横のれん街に入った。
コウゾウが、うなぎの蒲焼が食べたいと言っていたことを、思い出したからだった。
店のショーケースの前で、悩んでいた。
下は二一〇〇円から、上は三一五〇円まであった。しかし、ここで、安いほうを選んだら後悔すると思い、思い切って高いほうを買った。
コウゾウは、とても喜んでくれた。だが、全部は食べられないと言い。トモヤは、うなぎの蒲焼きを半分と、ご飯を多めに、お裾分けしてもらったぶんを、蓋を皿代わりにして食べた。
「昨日、デジカメの画像を整理したら、那須旅行のときの画像があったから、持ってきたよ」
コウゾウは、それを見ながら微笑んで言った。
「また、行きたいな」
コウゾウが、写真に見ながら呟いた。
「そうだね。行きたいね」
絶対に行けないことは、わかっていたが、なぜだか、トモヤは行けるように思えた。
帰り際は、いつも切なく思っていた。
「じゃ、また来るから。何か欲しいものある?」
とトモヤが言った。
「特にないよ。気をつけて帰りなさい」
「じゃ、明日」
トモヤが、軽く右手を上げた。
コウゾウが、それに答えるように、少し右手が上がった。
ナースステーションの前を通るときに、軽く頭を下げた。
エレベーターに向かって進むと、左側にソファーやテレビが置かれた面会スペースがあった。その窓から大きく、見えているのは、東京タワーだった。
それは、冬に比べてやや、輪郭がぼやけていた。
タワーは、東京の明るい闇のなか、赤い血管を巻き付けて、呼吸しているかに見えた。
ふと、「あのタワーもいつか、死ぬのだろうか?」と疑問を持った。
その後も、コウゾウの見舞いの後、この面会スペースから、東京タワーにも、「また、明日」と告げることが、習慣になった。
東京タワーの輪郭も、暑さでだいぶぼやけている。
最近では、コウゾウが、自分の死後の整理をトモヤに託す言葉が増えた。
生命保険証書の保管場所や、固定資産税などの税金に関わることまで。
今まで、コウゾウがやっていたことを、長男であるトモヤに一任したのだった。また、コウゾウの葬式の段取りまで、トモヤに伝えていた。
近いうちにくる「父の死」を、トモヤは受け入れていた。死後の話も冷静に聞くことができた。それらを忘れぬように、すべてメモを取った。
またトモヤは、コウゾウの主治医とも積極的に会話した。入院中のコウゾウに関して、家族が決めなくてはならないことや、今後の治療方法。大事なことは、トモヤを経由して、リョウコに伝えられていた。
「リュウ君、今日が最後なんて、名残惜しいわよ。まだまだ、稼げるのに。もったいないわ」
オネェ口調の男が言った。
リュウは、苦笑いをした。
「また、復活したかったら、いつでも連絡ちょうだいね。しかし、ナンバーツーなのにねえ。いっそ、家庭に入って、妻になるとか、普通のゲイになるとか言うのかしら!」
少し皮肉めいた、はなむけの言葉だった。
「お世話になりました」
リュウが一言だけ言った。
最後のギャラを財布に入れ、マンションの扉を閉めた。
いつもの使っていた、この薄暗い廊下や、今閉めた鉄の扉まで、もう関わることはないだろう。そう思うと、そらぞらしく、居心地の悪い空間に思えた。
なにかが、変わり始めていた。頭のなかが冴えていく感覚になった。
日曜日の夕暮れどき。
大門駅近くのオーガニックサンドイッチの店内には、デートを楽しむ男女や、外国人の若い家族連れが、ベビーカーをテーブルの横に置いていた。なかには、スーツを着た男や女が、ノートパソコンや、スマートフォンを駆使して、仕事をしているようだった。
トモヤは、襟が白いダークブルーの半袖のポロシャツを着ていた。入ってすぐに、レジでアイスコーヒーを買い求めた。
初夏の夕暮れだというのに、まだ気温が高かった。
いつもは、道路に面したガラスに渡されたカウンター席に座るのだが、今日は、店内を見渡せるベージュのソファー席に座った。
アイスコーヒーを一口飲んだ。
TTでは、「需要」を認識できたのだろうか。確かに、指名を多くもらった。でも自分が辞めたいまは、今まで自分を指名してくれた客達は他のボーイや他店のボーイを、きっと指名するだろう。
リュウだからできたことでない。「供給」の一つになったに過ぎない。
固く口を結び、左の口角が少し上がった。
店内に入ってくる人々は、この気温のせいか、頬が赤らんでいるように見えた。そして、少しの熱気を店内に持ち込んだ。
モデルの仕事は、ほとんど開店休業状態だった。最近では、モデル事務所よりも、TTを優先していたので、ますます仕事が減っていた。そもそも、トモヤは「預かり」だった。「専属」ではないので、事務所を複数登録しても構わない契約だ。そのぶん専属よりも不利だった。
トモヤは、芸能人になりたいわけでなかった。「需要」を探るために、少しでもアンテナを広げおきたいと思って所属していた。
どこに、それが落ちているのかが、わからないからだ。
しかし、誰かに見られるために頑張ることに、意味のなさを感じた。もうここには求めているものは無い。だからモデル事務所も辞めていた。
コンプレックスを、覆い隠して安心するためのキーワード集め。
もう、トモヤには必要なかった。
父の看病ができていること。そのことに感謝してもらえていること。他は、なにも要らなかった。
いままで、素直になれずに、互いに気を使っていたこと。それらが、春の流氷のように解けて、親子という海の一部となった。
「お父様が倒れました。至急、病院まで来てください」と、看護士から、トモヤの携帯にメッセージが残っていた。
慌てて、銀座の職場から、広尾の病院までタクシーで向かった。
車内から、自宅に電話すると、カズエが出た。どうやら、リョウコも病院へ向かっているようで、安心した。
車窓からは、日比谷公園や、警視庁が流れていった。混んでいない道なのに、ずいぶん遅く感じられた。
六本木交差点付近は、渋滞ほどではないが、やや自動車が多かった。
目を瞑り、祈るしかなかった。
「どうにか、持ちこたえてほしい」
ほどなく、病院に着き、ICU室に急いで向かった。
部屋のロッカーに荷物を入れて、鍵をかけた。備え付けの洗面台で、手を洗ったのち、アルコール消毒をした。
部屋の前にインターホンがあり、「ヤマザキ コウゾウの息子」であること告げて、自動ドア開いた。
広い室内には、患者のベッドよりも、各ベッドに付随している機器が目にはいってきた。不気味なほど清潔だった。上からは蛍光灯の光が、必要以上に青白く、それらを照らしていた。みなマスクに、白い着衣か、青い着衣を着ていた。とても無機質な部屋だった。
ベッドの脇に置かれた機器によって、患者の容態の深刻さが、窺えるようだった。
自動で開いたドアの先には、看護士が待っており、コウゾウのベッドまで、案内してくれた。
四○分ほど経ち。冷静を装っているが、不安げにリョウコが入って来た。
揃ったことを看護士に伝え、やがて、担当医がやって来た。
「肺に血栓が、飛んだようです。肺塞栓症です。問題の血栓は、薬で溶かしましたが、また飛んでくる可能性があるため、手術でフィルターを入れ、再発を防ぐようにしました」
トモヤもリョウコも、肺がんが直接の原因でないことに、少し驚いた。
同時に、今後なにが起きるかわからない不安に、襲われた。
「いまは、術後なので、麻酔で眠っています。数値も今のところ安定してきました。目覚めるのは、明日になると思います」
二人は、丁寧に礼を言い。頭を下げた。
次の日は、トモヤは会社を休んだ。リョウコとカズエの三人で、見舞いに来ていた。
いろいろな管が繋がれており、コウゾウは声を出すことはできなかったが、頷いたりはできた。
三人が励ましの言葉を、コウゾウに掛けた。
今まで、我関せずだったカズエも、さすがに、コウゾウの姿を見て応えたのか、涙ぐんで励ましていた。
まわりのベッドの家族も、同じように、ベッドを覗き込むようにして、おのおの話し掛けていた。話し掛けられている当人が、意識があっても、無くても同じように。
三人は、ICU室を出て、コウゾウの病室に向かった。
テーブルの上には、あの黄色い包装紙があり、冷蔵庫の中には、一昨日、リョウコが買ってきた稲荷ずしが、いくつかまだ箱に残っていた。
きっと、次の日に食べようと思ったに違いないと、三人は口を揃えた。
コウゾウが食べたがっていた稲荷ずしを、倒れる前日までに、食べてもらえたことは、この先なにがあっても、後悔しないはずだと、リョウコは思った。
コウゾウは、四日ほど、ICU室にいたが、一般病棟に戻って来た。
さすがに自分で立ち上がることはできなくなっていた。
固形の食べ物を、食べることができなくなったからなのか、倒れる前と比べて、格段に衰弱したように見えた。入院直後のように、点滴で栄養を摂取するような状態に、戻ってしまっていた。
トモヤは会社の帰りに、見舞いに行く途中、病院近くのコンビニエンスストアに立ち寄った。ミネラルウォーターや、クラッシュアイス。それと、自分のための夕食に、弁当と缶のアイスコーヒーを買った。
一階の病棟受付で、いつも通りの挨拶の後、自分の氏名と、患者の氏名と病室を記入した。病院スタッフから、ICカードが渡された。
「父さん、来たよ」
「おお」
と、掠れた小さな声でコウゾウが応えた。
「水と氷は、冷蔵庫に入れておくから」
弱々しく、頷いた。
「痛みはどう?」
肺や腹の痛みを、コウゾウは訴えた。
肺塞栓症で倒れてからの、コウゾウの体力は衰弱し、抗がん剤治療に耐えられなくなっていた。さらに、肺や他の臓器にも、水が溜まりだしていた。
主治医からは、緩和ケアを勧められた。そのための同意書にトモヤが、サインをしていた。
それは、積極的な治療を止めて、病気による痛みを緩和する方法だった。
残された時間を、穏やかに過ごすために。
「外はまだ、暑いか?」
弱い声だった。語尾が若干震えていた。
「昼間はまだまだ暑いけど、今の時間は、ちょうどいいくらいで、気持ちいいよ」
「氷食べる?」
「お願いできるか」
コウゾウの答えの最後を聞き終わる前に、冷蔵庫からクラッシュアイスを、取り出していた。
コウゾウは、トモヤから、口にちょうどいい大きさの氷を、入れてもらい、目を閉じて舌の上で転がしながら、溶かした。
お互いに、「覚悟」ができていた。
「父さんの息子で、良かったよ。ありがとうね」
トモヤが、コウゾウの手を握りながら伝えた。
コウゾウの手は、皮膚が固く、皺に覆われた血管が浮きだっていた。
本当は、照れ臭くて、伝えることを、躊躇しそうになった。だが、後悔したくなかった。一生に一度は伝えなくてはいけない言葉がある。だから思い切って、コウゾウに伝えた。
コウゾウは、ゆっくりともう片方の手を、トモヤの手の上に重ねた。少し微笑みながら、瞼を閉じていた。
病室の窓の外では、月夜のなか秋の虫たちが鳴いていた。
「コウゾウが、息をひきとった。」
死の直前の一週間前から、「ヤマ」と言われた日々が続いていた。
このころには、もう話すこともできなくなっていた。
そして、ときより緩和ケアのための投薬により、妄想をおこし、看護士に静止されることも、しばしばあった。そのような薬を使用しないと、激痛に耐えられないのだった。
トモヤも、リョウコも目を背けてしまう場面が幾度もあった。
トモヤは思っていた。父さんは、十分苦労して頑張った。このヤマザキ家を守もり抜いた。これからは、自分の為に・・・楽になってほしい。たとえ、肉体として存在しなくても、自分達の心の中では、生き続けるのだから。
そう、信じて止まなかった。
夜中に病院から連絡があり、トモヤ、リョウコそしてカズエは、トモヤのBMWで、病院に向かった。
向かう最中も、携帯に何度も病院から、着信があった。
車内では、ほとんど会話を交わさなかった。みな、何かを祈っているようだった。
夜中の高速道路は、照明のオレンジ色に染まっていた。そのなかを、白い光が追い越し、赤い光を残していった。目の前には、いくばくの赤い光。
病院の駐車場に着いた。それと同時に、トモヤの携帯が鳴った。
「今、どこですか?早く来てください」
看護士が焦りながら言った。
三人は、足早に病室に向かった。
ベッドの横には、既に主治医が立っていた。その横には、さきほど電話を掛けてきた看護士がいた。
「どうなんですか?」
リョウコが言った。
「残念ですが、皆さんお別れを言ってください」
急いで駆けつけたのだろう。髪をぼさぼさにしながら、伏し目がちの主治医が言った。
みな、コウゾウの手を握りながら、別れの言葉を手向けた。
「ありがとう」
「ゆっくり休んでくださいね」
トモヤもリョウコも泣かなかった。ひとり、カズエだけが、涙ぐんでいた。
せめて、トモヤ達に、別れの時間を設けるために。主治医は、医療機器によって、逝く時間を遅らせてくれた。その証拠に機器の電源を落とすと、コウゾウの脈は、すぐに静かになってしまった。
主治医が腕時計を見て、死亡時刻を読み上げた。
コウゾウの顔は、この前までの苦しみが嘘のように、穏やかだった。
トモヤとリョウコは、その顔を見て安心した。
二人とも、悔いが残らぬよう頑張ってきた。だから、少し寂しいが、コウゾウの死を前向きに受け止めることができた。きっとこれからは、見守ってくれると信じていた。
もう、父・夫の苦しむ様子は、見たくなかった。
リョウコ、トモヤ、カズエ、そして主治医と看護士の順番で、割り箸の先に、白い脱脂綿を巻いたものを、容器から水を含ませ、コウゾウの唇を湿らせ、末期の水を取った。
三人は、主治医と看護士に深々頭を下げて、礼を言った。
神妙な面持ちで、彼らも頭を下げた。
面会スペースに電気を点けてもらい、コウゾウの死亡診断書を待っていた。カズエは相変わらず、すすり泣いていた。
トモヤは、ふと窓を見た。
東京タワーも、死んだように思った。
夜中で照明の消された建造物は、血を巡らせることはなかった。かわりに、数カ所が弱々しく、赤い点滅を繰り返すだけだった。
低い雲に覆われた闇夜に、それは、飲み込まれようとしていた。
病院の駐車場で、三人はクルマに乗り込んだ。
トモヤがガラスサンルーフ越しに見たのは、父が先ほどまで、入院していた病室だった。勿論電気は、もう消えていた。
トモヤが愛車で見舞いに来たときは、あの窓から、父が手を振って見送ってくれたことが、思い出された。
涙が頬を伝った。それを悟られまいと、エンジンスイッチを押した。すべてを一掃するように、エンジン音が唸った。
車内では、ショパンのエチュード「別れの曲」が流れた。
コウゾウを追うように、一年後。
リョウコも、息を引き取った。脳溢血だった。
コウゾウを、失ったショックは大きいようだった。家族からは、夫を失ってからも、気丈に、立ち振る舞っているようにみえた。
だが、リョウコの心に開いた穴を、埋めることはできなかった。
トモヤだけは、そんなリョウコの気持ちに気がついていた。
だから、月に一回。墓参りに連れ出した。
普段から、口数は少ないが、墓前では長く、コウゾウといろいろなことを、話しているようだった。
そして、リョウコは自分が逝くことを予想していたのかと、思うような出来事があった。
食卓で、夕飯を二人で食べていると、
「トモヤは、すっかり大人になったね。ひとりで生きて行けるね。お父さんも、喜んでいるわよ」
「どうしたの。急に」
突然で、意味がわからず、みそ汁を啜った。
「父さんが、入院中。トモヤは今日も来るかなって。何度も私に聞いてきたのよ」
「ほぼ、毎日見舞いに行っていたよ」
「それは、知っていますよ。母さんは、父さんにすぐ会えるけど、トモヤは、これからの長い人生を生きぬかなきゃいけないのよ。父さんは、残ってしまうトモヤのこと、常に心配に思っていたからこそ、あなたに、毎日会えることを、楽しみにしていたのよ」
リョウコがなぜ、すぐ父に会えると言うのか、トモヤには、わからなかったが、その時は、気にも留めなかった。
「父さんの葬儀、役所関係の手続きまで、しっかりやってくれて、感謝しているわよ。ほんとうに、助かったわ」
トモヤは、照れくさいと思ったが、やはり嬉しかった。
それから、一週間もしないうちに、リョウコは自宅で倒れた。
カズエが、階下から大きな物音を聞きつけた。倒れているリョウコを見つけ、救急車を呼んだが、病院に着くとすぐに、息を引き取った。
職場から、急いで駆けつけたが、残念ながらトモヤは、母リョウコの「死に目」には、間に合わなかった。
トモヤは、立て続けに両親を失った。
しかし、両親の死という経験は、トモヤを成長させた。
今まで以上に、彼らに守られているように感じていた。だから、寂しくはなかった。
息子として、愛され感謝されたこと。自分が、探し求めた「需要」とは、このことだったと気がついた。
だから、どこを探しても見つからなかったのだろう。自分を必要と思ってほしい人は、目の前に、ずっと前からいたのだ。
父・母よりも、先に逝かずに、トモヤが看取ることができたこと。それは子供として、最高の親孝行だと思った。
そして、「ゲイ」ということを、両親に隠しおおしたことは、育ててくれた両親への、ささやかな「配慮」だった。
東京郊外の、丘の上に建つコンクリート製の家に、留守がちな叔母カズエと暮らしている。二人分の余白を感じて。
もうすぐ、香田が来る頃だ。
オーブングリルでは、ジェノベーゼソースのラムが、焼き上がる頃だろう。
家のインターホンが鳴り、画面に香田が映っていた。
トモヤは、玄関の「扉」を開け、香田を迎え入れた。
玄関脇のクリスマスローズのまわりを、蜂が飛んでいた。
イワタの持って生まれたプライドが、自分から離れて行こうとする者へ、牙をむかせた。
「自分を取り戻したい」
トモヤは答えた。
うすうすイワタも、こんな日が来ることは、覚悟していた。トモヤの父が病院に入院したころから、変化に気がついていた。しかし、トモヤから別れを切り出されるとは、思っていなかっただけに、動揺した。自分が終止符を打つと、脳裏の片隅に思い込んでいただけに。
少し冷静になったイワタが、それ以上、トモヤを責める言葉を吐くことはなかった。
妻、とくに子供を、捨てることなどできない。ましてや、社会的地位も。トモヤを引き留めることなど、本来できないと思い直した。
いままでの二人は、恋愛しているように見せかけて、足りない何かをごまかすために、寄り添っていたのだろう。
「ありがとう」
トモヤはホテルのロビーから、高層階行きエレベーターのほうへ去って行くイワタの背中を、真っ直ぐ見据えた。声に出さずに礼を言った。
医師から、コウゾウの余命宣告をされた。
主治医が、ノートパソコンで、コウゾウのレントゲンやCTスキャンの画像データを見ながら説明した。
そこには、肺に写っている影や、そこに溜まっている水までもが写し出されていた。
トモヤとリョウコは、テレビドラマのように、泣いたり詰め寄ったりしなかった。ただ現実を粛々と受け止めた。
そして、本人に告知することも、承諾した。
トモヤはひとつだけ、腑に落ちないことがあった。それはコウゾウが大病を煩って以来、定期的に通っていた病院のことだった。
循環器系が無いとはいえ、「ガン」しかも「末期」まで、その担当医は、なぜ、異変に気がつかなかったのだろう。今までの診察に、抜かりは無かったのだろうか。
六ヶ月。容態次第では、さらに短くなることも覚悟してください。医師から、そのように説明された。
正直、頭のなかが真っ白になった。今まで、自分が生きるだけで必死だった。親孝行など未だにできていない。ましてや父には、心配をかけどうしだと思っていた。
コウゾウの期限付きの人生に、トモヤはどう接したらいいのか、自宅の部屋で考えていた。
ふと、デスクの上に置いてあったデジタルカメラが目に入った。
電源を入れた。何の気なしに、今まで撮影したものを見ていると。家族旅行で、那須に行ったときに写した、画像が表示されていた。
三人でベンチに座ったもの。父と母がこちらに向かって微笑んでいるもの。目頭が熱くなった。
気持ちが高揚したのち、トモヤは決心した。
「父に対して、自分の悔いが残らぬようにしよう。泣いても笑っても、これが最後の親孝行だ。育ててくれた恩返しをしよう」
悲しみは過ぎ去ってしまっていた。
トモヤは、仕事帰りに病院に行くために地下鉄を乗り継ぎ、渋谷駅にでた。そこから、広尾の病院に行くには、バスに乗る。
駅のコンコースから、バス乗り場に向かう道すがら、東横のれん街に入った。
コウゾウが、うなぎの蒲焼が食べたいと言っていたことを、思い出したからだった。
店のショーケースの前で、悩んでいた。
下は二一〇〇円から、上は三一五〇円まであった。しかし、ここで、安いほうを選んだら後悔すると思い、思い切って高いほうを買った。
コウゾウは、とても喜んでくれた。だが、全部は食べられないと言い。トモヤは、うなぎの蒲焼きを半分と、ご飯を多めに、お裾分けしてもらったぶんを、蓋を皿代わりにして食べた。
「昨日、デジカメの画像を整理したら、那須旅行のときの画像があったから、持ってきたよ」
コウゾウは、それを見ながら微笑んで言った。
「また、行きたいな」
コウゾウが、写真に見ながら呟いた。
「そうだね。行きたいね」
絶対に行けないことは、わかっていたが、なぜだか、トモヤは行けるように思えた。
帰り際は、いつも切なく思っていた。
「じゃ、また来るから。何か欲しいものある?」
とトモヤが言った。
「特にないよ。気をつけて帰りなさい」
「じゃ、明日」
トモヤが、軽く右手を上げた。
コウゾウが、それに答えるように、少し右手が上がった。
ナースステーションの前を通るときに、軽く頭を下げた。
エレベーターに向かって進むと、左側にソファーやテレビが置かれた面会スペースがあった。その窓から大きく、見えているのは、東京タワーだった。
それは、冬に比べてやや、輪郭がぼやけていた。
タワーは、東京の明るい闇のなか、赤い血管を巻き付けて、呼吸しているかに見えた。
ふと、「あのタワーもいつか、死ぬのだろうか?」と疑問を持った。
その後も、コウゾウの見舞いの後、この面会スペースから、東京タワーにも、「また、明日」と告げることが、習慣になった。
東京タワーの輪郭も、暑さでだいぶぼやけている。
最近では、コウゾウが、自分の死後の整理をトモヤに託す言葉が増えた。
生命保険証書の保管場所や、固定資産税などの税金に関わることまで。
今まで、コウゾウがやっていたことを、長男であるトモヤに一任したのだった。また、コウゾウの葬式の段取りまで、トモヤに伝えていた。
近いうちにくる「父の死」を、トモヤは受け入れていた。死後の話も冷静に聞くことができた。それらを忘れぬように、すべてメモを取った。
またトモヤは、コウゾウの主治医とも積極的に会話した。入院中のコウゾウに関して、家族が決めなくてはならないことや、今後の治療方法。大事なことは、トモヤを経由して、リョウコに伝えられていた。
「リュウ君、今日が最後なんて、名残惜しいわよ。まだまだ、稼げるのに。もったいないわ」
オネェ口調の男が言った。
リュウは、苦笑いをした。
「また、復活したかったら、いつでも連絡ちょうだいね。しかし、ナンバーツーなのにねえ。いっそ、家庭に入って、妻になるとか、普通のゲイになるとか言うのかしら!」
少し皮肉めいた、はなむけの言葉だった。
「お世話になりました」
リュウが一言だけ言った。
最後のギャラを財布に入れ、マンションの扉を閉めた。
いつもの使っていた、この薄暗い廊下や、今閉めた鉄の扉まで、もう関わることはないだろう。そう思うと、そらぞらしく、居心地の悪い空間に思えた。
なにかが、変わり始めていた。頭のなかが冴えていく感覚になった。
日曜日の夕暮れどき。
大門駅近くのオーガニックサンドイッチの店内には、デートを楽しむ男女や、外国人の若い家族連れが、ベビーカーをテーブルの横に置いていた。なかには、スーツを着た男や女が、ノートパソコンや、スマートフォンを駆使して、仕事をしているようだった。
トモヤは、襟が白いダークブルーの半袖のポロシャツを着ていた。入ってすぐに、レジでアイスコーヒーを買い求めた。
初夏の夕暮れだというのに、まだ気温が高かった。
いつもは、道路に面したガラスに渡されたカウンター席に座るのだが、今日は、店内を見渡せるベージュのソファー席に座った。
アイスコーヒーを一口飲んだ。
TTでは、「需要」を認識できたのだろうか。確かに、指名を多くもらった。でも自分が辞めたいまは、今まで自分を指名してくれた客達は他のボーイや他店のボーイを、きっと指名するだろう。
リュウだからできたことでない。「供給」の一つになったに過ぎない。
固く口を結び、左の口角が少し上がった。
店内に入ってくる人々は、この気温のせいか、頬が赤らんでいるように見えた。そして、少しの熱気を店内に持ち込んだ。
モデルの仕事は、ほとんど開店休業状態だった。最近では、モデル事務所よりも、TTを優先していたので、ますます仕事が減っていた。そもそも、トモヤは「預かり」だった。「専属」ではないので、事務所を複数登録しても構わない契約だ。そのぶん専属よりも不利だった。
トモヤは、芸能人になりたいわけでなかった。「需要」を探るために、少しでもアンテナを広げおきたいと思って所属していた。
どこに、それが落ちているのかが、わからないからだ。
しかし、誰かに見られるために頑張ることに、意味のなさを感じた。もうここには求めているものは無い。だからモデル事務所も辞めていた。
コンプレックスを、覆い隠して安心するためのキーワード集め。
もう、トモヤには必要なかった。
父の看病ができていること。そのことに感謝してもらえていること。他は、なにも要らなかった。
いままで、素直になれずに、互いに気を使っていたこと。それらが、春の流氷のように解けて、親子という海の一部となった。
「お父様が倒れました。至急、病院まで来てください」と、看護士から、トモヤの携帯にメッセージが残っていた。
慌てて、銀座の職場から、広尾の病院までタクシーで向かった。
車内から、自宅に電話すると、カズエが出た。どうやら、リョウコも病院へ向かっているようで、安心した。
車窓からは、日比谷公園や、警視庁が流れていった。混んでいない道なのに、ずいぶん遅く感じられた。
六本木交差点付近は、渋滞ほどではないが、やや自動車が多かった。
目を瞑り、祈るしかなかった。
「どうにか、持ちこたえてほしい」
ほどなく、病院に着き、ICU室に急いで向かった。
部屋のロッカーに荷物を入れて、鍵をかけた。備え付けの洗面台で、手を洗ったのち、アルコール消毒をした。
部屋の前にインターホンがあり、「ヤマザキ コウゾウの息子」であること告げて、自動ドア開いた。
広い室内には、患者のベッドよりも、各ベッドに付随している機器が目にはいってきた。不気味なほど清潔だった。上からは蛍光灯の光が、必要以上に青白く、それらを照らしていた。みなマスクに、白い着衣か、青い着衣を着ていた。とても無機質な部屋だった。
ベッドの脇に置かれた機器によって、患者の容態の深刻さが、窺えるようだった。
自動で開いたドアの先には、看護士が待っており、コウゾウのベッドまで、案内してくれた。
四○分ほど経ち。冷静を装っているが、不安げにリョウコが入って来た。
揃ったことを看護士に伝え、やがて、担当医がやって来た。
「肺に血栓が、飛んだようです。肺塞栓症です。問題の血栓は、薬で溶かしましたが、また飛んでくる可能性があるため、手術でフィルターを入れ、再発を防ぐようにしました」
トモヤもリョウコも、肺がんが直接の原因でないことに、少し驚いた。
同時に、今後なにが起きるかわからない不安に、襲われた。
「いまは、術後なので、麻酔で眠っています。数値も今のところ安定してきました。目覚めるのは、明日になると思います」
二人は、丁寧に礼を言い。頭を下げた。
次の日は、トモヤは会社を休んだ。リョウコとカズエの三人で、見舞いに来ていた。
いろいろな管が繋がれており、コウゾウは声を出すことはできなかったが、頷いたりはできた。
三人が励ましの言葉を、コウゾウに掛けた。
今まで、我関せずだったカズエも、さすがに、コウゾウの姿を見て応えたのか、涙ぐんで励ましていた。
まわりのベッドの家族も、同じように、ベッドを覗き込むようにして、おのおの話し掛けていた。話し掛けられている当人が、意識があっても、無くても同じように。
三人は、ICU室を出て、コウゾウの病室に向かった。
テーブルの上には、あの黄色い包装紙があり、冷蔵庫の中には、一昨日、リョウコが買ってきた稲荷ずしが、いくつかまだ箱に残っていた。
きっと、次の日に食べようと思ったに違いないと、三人は口を揃えた。
コウゾウが食べたがっていた稲荷ずしを、倒れる前日までに、食べてもらえたことは、この先なにがあっても、後悔しないはずだと、リョウコは思った。
コウゾウは、四日ほど、ICU室にいたが、一般病棟に戻って来た。
さすがに自分で立ち上がることはできなくなっていた。
固形の食べ物を、食べることができなくなったからなのか、倒れる前と比べて、格段に衰弱したように見えた。入院直後のように、点滴で栄養を摂取するような状態に、戻ってしまっていた。
トモヤは会社の帰りに、見舞いに行く途中、病院近くのコンビニエンスストアに立ち寄った。ミネラルウォーターや、クラッシュアイス。それと、自分のための夕食に、弁当と缶のアイスコーヒーを買った。
一階の病棟受付で、いつも通りの挨拶の後、自分の氏名と、患者の氏名と病室を記入した。病院スタッフから、ICカードが渡された。
「父さん、来たよ」
「おお」
と、掠れた小さな声でコウゾウが応えた。
「水と氷は、冷蔵庫に入れておくから」
弱々しく、頷いた。
「痛みはどう?」
肺や腹の痛みを、コウゾウは訴えた。
肺塞栓症で倒れてからの、コウゾウの体力は衰弱し、抗がん剤治療に耐えられなくなっていた。さらに、肺や他の臓器にも、水が溜まりだしていた。
主治医からは、緩和ケアを勧められた。そのための同意書にトモヤが、サインをしていた。
それは、積極的な治療を止めて、病気による痛みを緩和する方法だった。
残された時間を、穏やかに過ごすために。
「外はまだ、暑いか?」
弱い声だった。語尾が若干震えていた。
「昼間はまだまだ暑いけど、今の時間は、ちょうどいいくらいで、気持ちいいよ」
「氷食べる?」
「お願いできるか」
コウゾウの答えの最後を聞き終わる前に、冷蔵庫からクラッシュアイスを、取り出していた。
コウゾウは、トモヤから、口にちょうどいい大きさの氷を、入れてもらい、目を閉じて舌の上で転がしながら、溶かした。
お互いに、「覚悟」ができていた。
「父さんの息子で、良かったよ。ありがとうね」
トモヤが、コウゾウの手を握りながら伝えた。
コウゾウの手は、皮膚が固く、皺に覆われた血管が浮きだっていた。
本当は、照れ臭くて、伝えることを、躊躇しそうになった。だが、後悔したくなかった。一生に一度は伝えなくてはいけない言葉がある。だから思い切って、コウゾウに伝えた。
コウゾウは、ゆっくりともう片方の手を、トモヤの手の上に重ねた。少し微笑みながら、瞼を閉じていた。
病室の窓の外では、月夜のなか秋の虫たちが鳴いていた。
「コウゾウが、息をひきとった。」
死の直前の一週間前から、「ヤマ」と言われた日々が続いていた。
このころには、もう話すこともできなくなっていた。
そして、ときより緩和ケアのための投薬により、妄想をおこし、看護士に静止されることも、しばしばあった。そのような薬を使用しないと、激痛に耐えられないのだった。
トモヤも、リョウコも目を背けてしまう場面が幾度もあった。
トモヤは思っていた。父さんは、十分苦労して頑張った。このヤマザキ家を守もり抜いた。これからは、自分の為に・・・楽になってほしい。たとえ、肉体として存在しなくても、自分達の心の中では、生き続けるのだから。
そう、信じて止まなかった。
夜中に病院から連絡があり、トモヤ、リョウコそしてカズエは、トモヤのBMWで、病院に向かった。
向かう最中も、携帯に何度も病院から、着信があった。
車内では、ほとんど会話を交わさなかった。みな、何かを祈っているようだった。
夜中の高速道路は、照明のオレンジ色に染まっていた。そのなかを、白い光が追い越し、赤い光を残していった。目の前には、いくばくの赤い光。
病院の駐車場に着いた。それと同時に、トモヤの携帯が鳴った。
「今、どこですか?早く来てください」
看護士が焦りながら言った。
三人は、足早に病室に向かった。
ベッドの横には、既に主治医が立っていた。その横には、さきほど電話を掛けてきた看護士がいた。
「どうなんですか?」
リョウコが言った。
「残念ですが、皆さんお別れを言ってください」
急いで駆けつけたのだろう。髪をぼさぼさにしながら、伏し目がちの主治医が言った。
みな、コウゾウの手を握りながら、別れの言葉を手向けた。
「ありがとう」
「ゆっくり休んでくださいね」
トモヤもリョウコも泣かなかった。ひとり、カズエだけが、涙ぐんでいた。
せめて、トモヤ達に、別れの時間を設けるために。主治医は、医療機器によって、逝く時間を遅らせてくれた。その証拠に機器の電源を落とすと、コウゾウの脈は、すぐに静かになってしまった。
主治医が腕時計を見て、死亡時刻を読み上げた。
コウゾウの顔は、この前までの苦しみが嘘のように、穏やかだった。
トモヤとリョウコは、その顔を見て安心した。
二人とも、悔いが残らぬよう頑張ってきた。だから、少し寂しいが、コウゾウの死を前向きに受け止めることができた。きっとこれからは、見守ってくれると信じていた。
もう、父・夫の苦しむ様子は、見たくなかった。
リョウコ、トモヤ、カズエ、そして主治医と看護士の順番で、割り箸の先に、白い脱脂綿を巻いたものを、容器から水を含ませ、コウゾウの唇を湿らせ、末期の水を取った。
三人は、主治医と看護士に深々頭を下げて、礼を言った。
神妙な面持ちで、彼らも頭を下げた。
面会スペースに電気を点けてもらい、コウゾウの死亡診断書を待っていた。カズエは相変わらず、すすり泣いていた。
トモヤは、ふと窓を見た。
東京タワーも、死んだように思った。
夜中で照明の消された建造物は、血を巡らせることはなかった。かわりに、数カ所が弱々しく、赤い点滅を繰り返すだけだった。
低い雲に覆われた闇夜に、それは、飲み込まれようとしていた。
病院の駐車場で、三人はクルマに乗り込んだ。
トモヤがガラスサンルーフ越しに見たのは、父が先ほどまで、入院していた病室だった。勿論電気は、もう消えていた。
トモヤが愛車で見舞いに来たときは、あの窓から、父が手を振って見送ってくれたことが、思い出された。
涙が頬を伝った。それを悟られまいと、エンジンスイッチを押した。すべてを一掃するように、エンジン音が唸った。
車内では、ショパンのエチュード「別れの曲」が流れた。
コウゾウを追うように、一年後。
リョウコも、息を引き取った。脳溢血だった。
コウゾウを、失ったショックは大きいようだった。家族からは、夫を失ってからも、気丈に、立ち振る舞っているようにみえた。
だが、リョウコの心に開いた穴を、埋めることはできなかった。
トモヤだけは、そんなリョウコの気持ちに気がついていた。
だから、月に一回。墓参りに連れ出した。
普段から、口数は少ないが、墓前では長く、コウゾウといろいろなことを、話しているようだった。
そして、リョウコは自分が逝くことを予想していたのかと、思うような出来事があった。
食卓で、夕飯を二人で食べていると、
「トモヤは、すっかり大人になったね。ひとりで生きて行けるね。お父さんも、喜んでいるわよ」
「どうしたの。急に」
突然で、意味がわからず、みそ汁を啜った。
「父さんが、入院中。トモヤは今日も来るかなって。何度も私に聞いてきたのよ」
「ほぼ、毎日見舞いに行っていたよ」
「それは、知っていますよ。母さんは、父さんにすぐ会えるけど、トモヤは、これからの長い人生を生きぬかなきゃいけないのよ。父さんは、残ってしまうトモヤのこと、常に心配に思っていたからこそ、あなたに、毎日会えることを、楽しみにしていたのよ」
リョウコがなぜ、すぐ父に会えると言うのか、トモヤには、わからなかったが、その時は、気にも留めなかった。
「父さんの葬儀、役所関係の手続きまで、しっかりやってくれて、感謝しているわよ。ほんとうに、助かったわ」
トモヤは、照れくさいと思ったが、やはり嬉しかった。
それから、一週間もしないうちに、リョウコは自宅で倒れた。
カズエが、階下から大きな物音を聞きつけた。倒れているリョウコを見つけ、救急車を呼んだが、病院に着くとすぐに、息を引き取った。
職場から、急いで駆けつけたが、残念ながらトモヤは、母リョウコの「死に目」には、間に合わなかった。
トモヤは、立て続けに両親を失った。
しかし、両親の死という経験は、トモヤを成長させた。
今まで以上に、彼らに守られているように感じていた。だから、寂しくはなかった。
息子として、愛され感謝されたこと。自分が、探し求めた「需要」とは、このことだったと気がついた。
だから、どこを探しても見つからなかったのだろう。自分を必要と思ってほしい人は、目の前に、ずっと前からいたのだ。
父・母よりも、先に逝かずに、トモヤが看取ることができたこと。それは子供として、最高の親孝行だと思った。
そして、「ゲイ」ということを、両親に隠しおおしたことは、育ててくれた両親への、ささやかな「配慮」だった。
東京郊外の、丘の上に建つコンクリート製の家に、留守がちな叔母カズエと暮らしている。二人分の余白を感じて。
もうすぐ、香田が来る頃だ。
オーブングリルでは、ジェノベーゼソースのラムが、焼き上がる頃だろう。
家のインターホンが鳴り、画面に香田が映っていた。
トモヤは、玄関の「扉」を開け、香田を迎え入れた。
玄関脇のクリスマスローズのまわりを、蜂が飛んでいた。
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