龍は暁に啼く

高嶺 蒼

文字の大きさ
33 / 248
第一部 幸せな日々、そして旅立ち

第五章 第一話

しおりを挟む
 暗闇に一人の女がいた。暗闇よりなお暗い目をして。絶望と憎しみに塗り潰された、そんな目をして。
 骨と皮の様な体に、げっそりと肉がこそげ落ちてしまったような顔。
 かつては美しかったであろう彼女の美貌を蝕んだのは、長年の苦労と決して癒えぬ病。
 彼女に残された時間はもう残り僅かだった。
 そんな彼女の胸を苛む想いは二つ。
 ただ一人の息子への尽きせぬ愛情と不安、そしてかつて愛した男への憎悪と怨嗟。

 かつて。

 彼女が若く美しい娘だった頃。
 彼女は一人の男と恋に落ちた。

 男は村の者ではなかった。浮草の様な旅の行商人で、彼女とは季節が一巡りするだけのほんの僅かな時間を共に過ごした。
 やがて、別れの時が近付き、男はまるで現実味のない甘いだけの言葉を残して去って行った。
 今の彼女であれば、決して信じないような言葉を、当時の彼女は信じた。まだ、子供だったのだ。

 そんな不実な男の子供を宿していると気が付いたのは、彼が出て行ってすぐの事だった。
 堕胎する事など考えなかった。きっとすぐに、男が迎えに来てくれると信じていたから。
 だが、一年たち、二年たち、たちまち五年の歳月が過ぎても男は現れなかった。

 その頃には彼女も薄々気が付いていた。あの男が戻る事はないと。
 だが、子供は日に日に大きくなり、父親の稼ぎのない家庭は貧しかった。
 ある日、肋の浮いた息子の身体を抱きしめ、彼女は決意する。あの男に会いに行こうと。
 自分の息子を見れば、無責任なあの男もきっとかつての愛情とそれに伴う責任を思い出してくれるに違いない。
 五年という、決して短くない歳月の流れを経てなお、彼女は愛した男の愛情と良心を信じていた。

 しかし、現実は残酷だった。

 しばらく会わぬ間に店を構え、大店の亭主となった男には既に家庭があり、子供も二人いた。
 彼は、訪ねてきたかつての恋人をまるで虫けらを見るような目で見た。
 そして問うたのだ。
 その子供は本当に自分の子供なのか、と。
 もちろんそうだと答える女に、男は金の入った袋を放ってよこした。
 そして言ったのだ。
 その子供は自分の息子とは認めない。金をやるからもう二度と来るな、と。

 愕然とした。
 自分が愛したのはこんな男だったのかと。金の為に来たわけじゃないと突っぱねたかった。だが、苦しい生活がそれを許さなかった。
 屈辱を押し殺し、はいつくばるようにして金を拾った。袋からこぼれた硬貨も余す事が無いように。
 その様子をしばし嘲笑うように見つめた後、男は去った。二度と振り向く事なく。何の未練も見せずに。

 男が憎かった。殺してしまいたいほどに。
 父を父とも呼べぬ息子が哀れだった。そして、そんな息子を残して死なねばならぬ我が身の不幸を呪った。

 -ああ。

 彼女は吐息を漏らす。

 -ああ。

 尽きせぬ怨念と無念を吐き出すように。

 -ああ。

 その瞳から涙が溢れる。赤い赤い、血の涙が。
 いっそ鬼になってあの男の首をひきちぎってしまえたら。
 あの男から全てを奪い、それを残らず息子に与えてやれたら。
 そんな人の道を外れた思いに心が染まり始めた時、その声は聞こえた。

 -力がほしいか?

 小さな声だが、なぜかとても鮮明に耳に届いた。
 周囲に人影はない。薄暗い家の中にいるのは彼女一人。息子は外に遊びに出ている。誰の声もするはずはないのだ。
 それなのに。

 -力が、欲しいのだろう?

 その声は聞こえてくる。
 低く、誘惑するように。

 -お前の望みを、全て叶える力をやろう。

 どこまでも魅力的な声が、邪悪な誘いをかけてくる。彼女に、抗う術は無い。

 -力が、欲しいか?全てを手に入れる為の力が。

 優しく、彼女の心を絡めとるように問いかけてくるその声に。
 まるで操られているかのように、何の抵抗も無く。
 彼女は頷いていた。
 それは、彼女が人としての己を捨てた瞬間。

 -ならば与えよう!

 高らかに、宣言するようにその声が答えた瞬間、彼女の中を風が吹き抜けた。
 それはものすごい風だった。
 彼女の全てを持っていこうとする突風を耐え抜いた後。そこにはそれまでとは全く違うモノになった彼女がいた。
 病に窶れ、疲れ果てた女の姿はもうどこにも無い。
 そこにいるのは、匂い立つような女。
 全ての男が振り向き、求めずにはいられないような、抑え切れぬ色香を放つ、美しい女。

 -望む力は全て与えた。後は好きにするがいい。

 与えるだけ与えて、その見返りすら求めずに。その声も気配も、唐突に消えた。
 紅い紅い、血よりもなお紅い唇を歪めて女が笑う。禍々しく、そして壮絶なまでに美しく。
 あの声が何を考えて力を与えてくれたのかは分からない。何らかの思惑もあるのだろうが、そんな事はどうでもいい。
 自分はただ、与えられた力を使って望む事を果たすだけ。ただ、それだけ。

 -まずはあの人の…

 その時、勢い良く扉が開いた。澱んだ空気を吹き込んだ風が吹き飛ばし、女は毒気を抜かれたように目をしばたく。

 「ただいま、母さん」

 まだ声変わりをしていない少年の声。何より愛おしいその声を耳にした瞬間、彼女の顔に母性が宿る。

 「おかえりなさい。今日は早かったのね」

 蕩けるような笑顔を浮かべ、息子の細い身体を優しく抱きしめた。

 「だって母さん、今朝はいつもより調子が悪そうだったじゃないか。何だか心配だったから」

 そう言いながら母の顔を見上げ、少年は絶句する。
 病に窶れ果てていたはずのその顔が余りに美しかったから。

 「かあ、さん?」

 「なぁに?」

 微笑んだ顔の妖しいまでの美しさ。
 その、ある種異様とも言える変貌に、ゾクリと寒気が背筋を這い上る。
 何かがおかしいと思った。
 だが、少年はその思いを飲み込み、母親にすがる様に抱き着いた。

 彼女だけなのだ。彼にとっての家族は。
 守り、育て、愛してくれた。彼女だけが、なんの見返りすら求めずに。
 そんな母親を。
 たとえどんなに変わり果ててしまったとしても。
 見捨てられる訳がないのだ。離れられる訳がない。


 「身体はもう大丈夫なの?」

 「ええ。もう何ともないわ」

 「良かった」


 不安を押し殺し、母親の身体を抱きしめる。
 いい匂いがするはずのその身体から、なぜか死んだ生き物の匂いがした気がした。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

『急所』を突いてドロップ率100%。魔物から奪ったSSRスキルと最強装備で、俺だけが規格外の冒険者になる

仙道
ファンタジー
 気がつくと、俺は森の中に立っていた。目の前には実体化した女神がいて、ここがステータスやスキルの存在する異世界だと告げてくる。女神は俺に特典として【鑑定】と、魔物の『ドロップ急所』が見える眼を与えて消えた。  この世界では、魔物は倒した際に稀にアイテムやスキルを落とす。俺の眼には、魔物の体に赤い光の点が見えた。そこを攻撃して倒せば、【鑑定】で表示されたレアアイテムが確実に手に入るのだ。  俺は実験のために、森でオークに襲われているエルフの少女を見つける。オークのドロップリストには『剛力の腕輪(攻撃力+500)』があった。俺はエルフを助けるというよりも、その腕輪が欲しくてオークの急所を剣で貫く。  オークは光となって消え、俺の手には強力な腕輪が残った。  腰を抜かしていたエルフの少女、リーナは俺の圧倒的な一撃と、伝説級の装備を平然と手に入れる姿を見て、俺に同行を申し出る。  俺は効率よく強くなるために、彼女を前衛の盾役として採用した。  こうして、欲しいドロップ品を狙って魔物を狩り続ける、俺の異世界冒険が始まる。 12/23 HOT男性向け1位

この世界、イケメンが迫害されてるってマジ!?〜アホの子による無自覚救済物語〜

具なっしー
恋愛
※この表紙は前世基準。本編では美醜逆転してます。AIです 転生先は──美醜逆転、男女比20:1の世界!? 肌は真っ白、顔のパーツは小さければ小さいほど美しい!? その結果、地球基準の超絶イケメンたちは “醜男(キメオ)” と呼ばれ、迫害されていた。 そんな世界に爆誕したのは、脳みそふわふわアホの子・ミーミ。 前世で「喋らなければ可愛い」と言われ続けた彼女に同情した神様は、 「この子は救済が必要だ…!」と世界一の美少女に転生させてしまった。 「ひきわり納豆顔じゃん!これが美しいの??」 己の欲望のために押せ押せ行動するアホの子が、 結果的にイケメン達を救い、世界を変えていく──! 「すきーー♡結婚してください!私が幸せにしますぅ〜♡♡♡」 でも、気づけば彼らが全方向から迫ってくる逆ハーレム状態に……! アホの子が無自覚に世界を救う、 価値観バグりまくりご都合主義100%ファンタジーラブコメ!

異世界に転移したらぼっちでした〜観察者ぼっちーの日常〜

キノア9g
ファンタジー
※本作はフィクションです。 「異世界に転移したら、ぼっちでした!?」 20歳の普通の会社員、ぼっちーが目を覚ましたら、そこは見知らぬ異世界の草原。手元には謎のスマホと簡単な日用品だけ。サバイバル知識ゼロでお金もないけど、せっかくの異世界生活、ブログで記録を残していくことに。 一風変わったブログ形式で、異世界の日常や驚き、見知らぬ土地での発見を綴る異世界サバイバル記録です!地道に生き抜くぼっちーの冒険を、どうぞご覧ください。 毎日19時更新予定。

ゲームの悪役パパに転生したけど、勇者になる息子が親離れしないので完全に詰んでる

街風
ファンタジー
「お前を追放する!」 ゲームの悪役貴族に転生したルドルフは、シナリオ通りに息子のハイネ(後に世界を救う勇者)を追放した。 しかし、前世では子煩悩な父親だったルドルフのこれまでの人生は、ゲームのシナリオに大きく影響を与えていた。旅にでるはずだった勇者は旅に出ず、悪人になる人は善人になっていた。勇者でもないただの中年ルドルフは魔人から世界を救えるのか。

【運命鑑定】で拾った訳あり美少女たち、SSS級に覚醒させたら俺への好感度がカンスト!? ~追放軍師、最強パーティ(全員嫁候補)と甘々ライフ~

月城 友麻
ファンタジー
『お前みたいな無能、最初から要らなかった』 恋人に裏切られ、仲間に陥れられ、家族に見捨てられた。 戦闘力ゼロの鑑定士レオンは、ある日全てを失った――――。 だが、絶望の底で覚醒したのは――未来が視える神スキル【運命鑑定】 導かれるまま向かった路地裏で出会ったのは、世界に見捨てられた四人の少女たち。 「……あんたも、どうせ私を利用するんでしょ」 「誰も本当の私なんて見てくれない」 「私の力は……人を傷つけるだけ」 「ボクは、誰かの『商品』なんかじゃない」 傷だらけで、誰にも才能を認められず、絶望していた彼女たち。 しかしレオンの【運命鑑定】は見抜いていた。 ――彼女たちの潜在能力は、全員SSS級。 「君たちを、大陸最強にプロデュースする」 「「「「……はぁ!?」」」」 落ちこぼれ軍師と、訳あり美少女たちの逆転劇が始まる。 俺を捨てた奴らが土下座してきても――もう遅い。 ◆爽快ざまぁ×美少女育成×成り上がりファンタジー、ここに開幕!

大和型戦艦、異世界に転移する。

焼飯学生
ファンタジー
第二次世界大戦が起きなかった世界。大日本帝国は仮想敵国を定め、軍事力を中心に強化を行っていた。ある日、大日本帝国海軍は、大和型戦艦四隻による大規模な演習と言う名目で、太平洋沖合にて、演習を行うことに決定。大和、武蔵、信濃、紀伊の四隻は、横須賀海軍基地で補給したのち出港。しかし、移動の途中で濃霧が発生し、レーダーやソナーが使えなくなり、更に信濃と紀伊とは通信が途絶してしまう。孤立した大和と武蔵は濃霧を突き進み、太平洋にはないはずの、未知の島に辿り着いた。 ※ この作品は私が書きたいと思い、書き進めている作品です。文章がおかしかったり、不明瞭な点、あるいは不快な思いをさせてしまう可能性がございます。できる限りそのような事態が起こらないよう気をつけていますが、何卒ご了承賜りますよう、お願い申し上げます。

高校生の俺、異世界転移していきなり追放されるが、じつは最強魔法使い。可愛い看板娘がいる宿屋に拾われたのでもう戻りません

下昴しん
ファンタジー
高校生のタクトは部活帰りに突然異世界へ転移してしまう。 横柄な態度の王から、魔法使いはいらんわ、城から出ていけと言われ、いきなり無職になったタクト。 偶然会った宿屋の店長トロに仕事をもらい、看板娘のマロンと一緒に宿と食堂を手伝うことに。 すると突然、客の兵士が暴れだし宿はメチャクチャになる。 兵士に殴り飛ばされるトロとマロン。 この世界の魔法は、生活で利用する程度の威力しかなく、とても弱い。 しかし──タクトの魔法は人並み外れて、無法者も脳筋男もひれ伏すほど強かった。

処理中です...