龍は暁に啼く

高嶺 蒼

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第一部 幸せな日々、そして旅立ち

第五章 第十話

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 「あなた」

 不意に後ろから声を掛けられて、男は立ち止まる。
 思わず周りを見回すが、他に人影も無く、男は聞き覚えの無い声に首をかしげながら振り向いた。

 女が居た。
 見たことの無い、だが妖しいほどに美しい女が。
 初対面のはずなのに、女は親しげに男の顔を見上げて微笑んでいる。
 男は内心首を傾げながら女の視線を受け止めた。
 こんな印象的な女に一度でも会っていれば忘れないはずだが、彼女は一体誰なのかと。

 「あなた、久しぶりね」

 その言葉にますます混乱を深める。
 久しぶりと言われるからには会ったことがあるのだろうが、まるで覚えが無いのだ。
 こんな女と一度でも関係を持っていれば、忘れてしまうはずも無いのだが。
 戸惑いを含んだ視線を感じたのだろう。
 女は自嘲するように軽い苦笑いをその面に浮かべる。


 「覚えていないのね。それも仕方ないのかもしれないわ。私みたいに目立たない女じゃ」

 「そんな事は無い」


 女の言葉に驚愕し、思わず言葉を返す。
 目立たないなどとんでもない。
 前に会った時の事こそ覚えはないが、これから先どんな人ごみの中であっても、彼女の姿を見落とすことはないだろう。
 それほどまでに存在感のある、美しい女だった。この場ですげなく別れてしまうのが惜しく思えてしまうほど。

 それなりの商人で、予定の詰まっている男は頭の中で今後の予定の算段をする。
 幸い、次の予定は身内の者との打ち合わせで、1時間以上先だ。目の前の女と仲良く過ごす時間は十分にある。

 「わたしに何か用かね?」

 問いかけながら女との距離をつめる。

 「用があったらお付き合いいただけるのかしら?」

 小首をかしげ、妖しくも可愛らしく女が微笑む。
 男は内心舌なめずりしながら女の腰に手を回した。
 男心をそそるその身体を抱き寄せながら、彼女の香りを吸い込んだ。
 甘い香り。
 その中にふと、何か不快な匂いを感じた気がして、男は僅かに眉を寄せた。
 何の匂いなのか、男はそれを確かめようと彼女の首筋に顔を埋めようとしたが、女はそれを阻むように唇を合わせてきた。
 性急に、濃厚に。

 甘く柔らかな唇に理性を奪われ、男は感じていた疑念も忘れて貪るようにくちづけに没頭する。
 女の舌を味わい、その身体を弄りながら、男は己の幸運に感謝した。
 これから先の自分の運命を知るすべも無く。

 「本当に私を覚えてない?」

 夢中で女の身体を味わう男の耳に、女のやけに冷めた声が響く。
 どう答えるべきか、行為の手を止めてしばし考える。
 だが、その答えを待たずに再び女の声が耳朶に届いた。

 「……いやね、私ったら。もしかしてまた間違えちゃったのかしら」

 間違い……?人違いだったということなのだろうか。
 もしそうだとしても、今更行為をやめるつもりも無いし、彼女も拒まないだろう。
 役得だったな……そんな事を思った瞬間、彼女の問いかけが耳に飛び込んでくる。

 「ねぇ、あなたの名前はスティーブ?」

 その名前には聞き覚えがあった。
 昨夜の村祭りの打ち合わせで顔を会わせた同業者の一人だ。中々羽振り良く商売をしているらしい。


 「いや。だが、彼のことは知っているよ」

 「本当に?彼のことを教えて下さらない?」

 「いいとも。あなたがこのまま、私に付き合ってくれるなら」


 そう答えて彼女の様子を伺う。
 否と答える様子は無い。彼女は意味ありげに微笑み、彼を導くように後ずさる。


 「どこへ?」

 「ここは落ち着かないわ。もっと人目につかない場所へ」


 そうしてそのまま彼の手を引き、雑木林の方へ連れて行こうとする。
 男は手を引かれるままについて行く。
 そうして歩きながらふと、村の集会で村長から伝えられた注意事項を思い出した。
 最近この周辺で物騒な事件が続いている。くれぐれも一人で人気の無い場所へ行かないように……確かそう言っていた。

 まさかな-臆病な自分を笑い飛ばし、女の腰を引き寄せ雑木林の中を歩く。これから始まる、お楽しみに思いを馳せながら。

 どちらとも無く足を止め、女が微笑み男を見上げる。男は荒々しく女の唇を貪り、その身体を草の上に押し倒した。
 己の足で女の膝を割り、胸を鷲掴みにする。
 かすかなうめき声を上げ女は男の首に腕を回し、その唇を男の耳元に寄せた。

 「ね、教えて」

 スティーブという男の事を問われたのだと、すぐに分かった。
 こんな場面で他の男の話題を出す女に、やや鼻白みつつも、同時に僅かな嫉妬心が胸を焦がした。

 彼女の服を乱暴に剥ぎ取り、その豊満な胸元に顔を埋めながら、男は口早に最低限ながらも必要だと思われる情報を女に告げた。
 女の唇が三日月のような笑みを刻む。
 その目が赤く輝いた。
 だが、女の身体に夢中になっている男はその事に気がつかない。
 彼女は凍えるような笑みを口元にたたえたまま、男の背中に手を回した。

 「ありがとう、あなた。お礼に、苦しまないようにイかせてあげる」

 物騒なその言葉の意味を男が理解するよりも早く、女の凶手は男の胸を貫いていた。
 心臓を一息に。男が痛みを感じる間すらなく。
 死のその瞬間、男は甘い香りに隠された彼女の異臭を感じ取っていた。
 それは生き物が腐敗していく匂い。
 あの時感じたかすかな匂い……あれは腐臭だったのか。
 意識の途切れるその瞬間、男はその事に気づき、こちらを見つめる女の、感情の無い美しくも紅い瞳に目を奪われ……そして、彼の意識は闇に沈んだ。
 永遠に。

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