龍は暁に啼く

高嶺 蒼

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第三部 新たな己への旅路

大森林のエルフ編 第二話

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 言いようのない胸騒ぎに、一人森の中へ駆けだしたシェズは、森のざわめきに耳を澄ます。
 もちろん、木々の声は聞こえない。
 だが、狩人として森の生き物達の気配やざわめきを感じ取る事に長けた彼女は、そう遠くない場所で移動する獣の集団の気配に気づくことが出来た。

 胸騒ぎの源が、果たしてその獣の暴走に関係があるかどうかはまだ分からないが、他に気になる情報も無かったので、取りあえずそちらへ向かうことにしたシェズは、風の乙女の力を借りて木の上へと飛び上がる。
 地上を行ってもいいのだが、木々の枝を渡って行った方が格段に早いことを、彼女はこれまでの経験で知っていたからだ。

 己の魔力を風の精霊に捧げ、再度協力を乞うてから、シェズは足下の枝を蹴ってその体を宙に躍らせる。
 そしてそのまま、木々の枝を足がかりにして、軽やかな足取りでまっすぐに目的地を目指すのだった。

 そうやってしばらく進むと、眼下に獣の群が見えてきた。
 大森林に数多く生息する固有種、森林狼の群れである。
 他の地域の狼よりも遙かに強靱で大きな体躯を誇る彼らは、力強く大地を蹴り前へ前へとわき目もふらずに進んでいた。
 上空の木々の間を縫うように跳躍を繰り返すシェズの気配に気づくことすらなく。


 (獲物を追っているのか……?)


 土煙を上げて走る森林狼の群れを眼下に見ながらシェズは思う。
 だが、そうだと言い切るには少々群れの規模が大きすぎた。
 通常、森林狼達の群れの規模は、それほど多くはない。多くて十頭前後が妥当な群れの規模だ。
 だが、眼下を駆ける狼達の数は、それを遙かに上回っていた。
 恐らく、複数の群れが一緒に行動しているのだろう。
 複数の群れが、縄張り争いに発展することなく行動を共にすることは、非常に珍しい事だった。少なくとも、シェズが今まで見たことがないくらいには。


 (これほどの数の森林狼を引きつける獲物が、この先にいると言うことか?)


 考えながら、シェズは再び風の精霊に願い、進行速度を更に早めた。
 この先に、森林狼がねらう獲物がいるのだとしたら、急がねばならないと思ったからだ。
 それはなぜか。理由は簡単だ。
 狩人として、一人大森林で生きるシェズは、この森の事を良く知っている。だから、森林狼が追う方向にまっすぐ進み続けた先にあるものの事も良くわかっていた。

 このまま進む先にあるもの、それは大地を切り裂くように走る深い谷だ。
 ちょうどこの辺りは谷の幅が広く、精霊の力を借りたエルフであっても飛び越えるのは不可能だと言われている。
 もう少し下流か上流へ移動すれば橋がかかっている場所もあるのだが、そこにたどり着くまでにはかなりの時間を要するのだ。
 つまり、谷に追いつめられた獲物は選択を迫られることになる。
 追っ手に追いつかれる危険を冒して谷を迂回するか、一か八かの賭で谷底へ身を投げるか。
 追っ手と戦うという選択肢もないではないが、背後に谷を背負っての戦闘は、正直無謀であるとしか言いようがない。

 森林狼が追う獲物が何なのか、シェズにはまだ分からない。追われているのが、ただの獣であれば放置するつもりではいる。
 だが、シェズの勘はそうじゃないと訴えていた。
 その勘の通り、追われているのが、もし人であれば。
 その時は、なんとしてでも助けてやらねばならない、そんな使命感を胸に、シェズは先を急ぐ。
 その甲斐あってやっと森林狼の群れの先頭を追い抜くことが出来た。だが、もうじき森も切れる。
 早く、追われている者を見つけなければ……そう思ったその時、シェズの目がとうとう追っ手から逃げる小さな背中を捕らえた。

 その背中はまだほんの子供のものの様に見えた。
 だが、遠目でははっきりと分からない。
 この大森林には、小人族のような小柄な種族も居住しているし、エルフの中にも小柄な者はいる。
 子供か、子供に見えるだけの成人か、その差を離れた場所から判断するのは困難だった。


 「おい!気をつけろ!!その先には深い谷があるぞ!!」


 声をかけるが、小さな背中の持ち主は振り返らない。
 恐らく、まだ、シェズの声を届かせるには距離が離れすぎているのだろう。
 早く追いつこうとスピードを上げるのだが、中々追いつくことが出来ずに首を傾げる。前を走る人物の、ただ人のものとは思えない、地を駆けるその足の速さに。


 (やはりエルフか??精霊の助けを、借りているんだろうか)


 思いながらも、とにかく追いつかねばと足を早める。これ以上は無理だという精霊をなだめすかしながら。
 だが、彼女が追いつけないうちに、目の前に渓谷が現れた。
 小さな背中は足を止め、谷をのぞき込むようにして身を乗り出している。そして、背後の追っ手を確かめるように、後ろを振り向くのが見えた。
 恐らく、次にどうするか、選択を迷っているのだろう。
 その隙を逃さず追いついてしまおうと、シェズは木の上から地面へと降り立った。
 だが、地面に降り立ち、顔を上げた彼女は驚愕に目を見開いた。
 崖際に立っていたはずの小さな背中が、どう言うわけか宙にその身を踊らせていたからだ。

 なんて事だと唇をかみしめ、谷へと駆け寄る。
 まだ、大丈夫だと自分に言い聞かせながら。
 谷底を流れる川に落ちるまでに、出っ張った岩や木に体を打ち付けなければ、助かる可能性はまだあるはずだ、と。

 ただの人であれば難しいかも知れない。
 谷底までかなりの高さがあるし、下がたとえ水であっても高所から叩きつけられれば、かなりのダメージになるだろう。
 だが、この大森林にいる人物が、ただの無力な存在であるとも思えない。
 最低限、なにかしら身を守る術くらい持っているはずだ。
 その可能性にかけて、彼女は叫ぶ。


 「諦めるな!すぐに助けてやる!!」


 恐らく、落ちていく相手には届かないであろう、その言葉を。
 そして、足をゆるめる事無く駆け、そのままの勢いで宙へ飛び出した。
 風の精霊に落下の速度をゆるめてくれるよう願いつつ、水の精霊にこれから落ちるものを、なるべく優しく受け止めてもらえるようにお願いをする。
 どこまで効果があるか分からないが、やらないよりはましなはずだ、そう思いながら。
 更に、己の身に身体強化の魔法をかけ、シェズは自分より遙か下に小さく見える相手に目を凝らした。

 暴れている様子はない。
 冷静に対処出来ているのか、それとも気絶をしてしまったのか。
 どちらにしろ、このまま暴れずに今の進路を確保出来れば、何とか川に落ちる事は出来るだろう。
 その後は、即死さえしなければ何とかなるはずだ、そんなことを思っている間に、先に落ちていた小さな体は、水しぶきをあげて川に着水した。
 そして案の定、沈み込んだまま浮かんでくる気配はない。
 恐らく、元々気絶していたのか、あるいは着水の衝撃で気絶してしまったのだろう。


 (急がないと、おぼれるな)


 がんばって急ごうーそう思いつつ、シェズは大きく息を吸い込み、着水の衝撃に備えた。
 指先からきれいに入水し、さほど衝撃を受けることなく水中に潜ったシェズは、川の流れに乗りながら、先に落ちたはずの小さな体を探す。
 幸いに、というか、捜し物はすぐに見つかった。
 恐らく、どこかから出血しているのだろう。
 流れ出た血が水を染め、その場所をシェズに教えてくれたのだ。

 水の流れに翻弄されるように漂う目標に向かって、シェズは力強く水を掻き、あっという間にその体を腕の中に納めた。
 思っていたよりずっと華奢なその体に内心驚きながら、彼女は水を蹴り、水面へと急速に浮上する。
 そして、その小さな体を片腕に抱えながら、川の流れに押し流されつつも、時間をかけて何とか岸へたどり着くのだった。

 服が水を吸って重く感じる自分の体を何とか岸へ引き上げ、それから腕の中の小さな体を地面に横たえる。
 水を吐かせ、呼吸を確保し、命に別状は無さそうだと確信してやっと、シェズはほっと安堵の息をついた。
 息を整え、濡れた髪をかきあげながら周囲を見回せば、この場所が時折狩りに訪れる見知った場所だとわかり表情をゆるめる。
 シェズは意識を失ったままの子供を抱き上げてからもう一度周囲をぐるりと見回し、向かう方向を決めて歩き出した。


 (たしか、身を休めるのにちょうど良い洞穴があったはずだが……)


 思いながら歩くこと数分、大人数人が何とか入れそうな洞穴を見つけ、シェズは心持ち足を早める。
 腕の中の子供の意識は戻らず、その体は驚くほど冷たい。
 どこからか出血もしていたはずだから、出来るだけ早く手当をして体を温めてやらなければならないだろう。
 シェズは、洞穴に獣の気配が無いことを確かめてから中に入り込むと、濡れた服を手早く脱いで水気を絞った。
 そして、荷物の中からすっかり水を吸って重くなってしまった布切れを取り出し、火の精霊と風の精霊に魔力を渡して乾燥を頼んでから、一人洞穴の外に出た。
 下着姿のままだったが、どうせ見る者もいないだろうと気にせず落ちた小枝を手早く拾い集めると急いで再び洞窟へと戻る。
 そして、小枝に火を灯してくれるよう、火の精霊にお願いしてから、まだ目を覚まさない子供の顔をのぞき込んだ。

 遠目で見たときは、どうせ小人族か小柄なエルフだろうと思っていたが、その予想は見事に外れた。
 年の頃は十歳になるかならないかといったところだろうか?
 どうも人族の年齢はよくわからないのだが、それほど間違ってはいないのではないかと思う。
 ぐったりとした青白い顔は、丸い耳を見なければエルフかと思うほどに整っていた。


 「どうしてこんな幼い人間がこんなところに……?」


 独り言のように呟きながら、シェズは子供の額に張り付いた美しい黄金の髪をかきあげてやる。
 人間の年齢はエルフと違って見た目通りのはずだから、この子供はまだ成人してはいないはず。
 まだ親の庇護の元にあるべき年齢の子供がどうして一人で大森林などと言う危険な場所にいたのか……?


 「もしかして、親とはぐれたのか??なら、どうにかして探してやらないとな」


 とはいえ、この大森林ではぐれてしまったのであれば、生存の可能性は極めて低いといわざるを得ないが、と痛ましそうに幼い子供の顔を見つめ、その体温を確かめるように今度はその頬に触れる。
 柔らかで滑らかな曲線を描く頬の表面は驚くほどに冷え切っていて、シェズはただ一つ残された蒼い瞳を気遣わしげにそっと細めた。
 そうやって触れても身じろぎ一つしない事に不安を覚えつつ、シェズは子供が身につけている服へと躊躇うことなく手を伸ばす。
 濡れた服を着たままでは、いくら火をたいたところで体は温まらない。けがをしている場所も確認して手当をしなければならない事もあり、どうあっても服を脱がせる必要があった。
 意識を失っている相手の服を勝手に脱がせる事に抵抗はあったが、必要な事なのだから仕方がないと自分に言い聞かせ、まずは上に着ている服の襟元をくつろげていく。


 「すまないな、少年。だが、服を着たままでは体は温まらない。私も似たような格好だし、許してもらえるとありがたいな」


 言い訳の様な言葉をかけながら、てきぱきと服を脱がせ、下着まではぎ取ったシェズは、思わず首を傾げた。
 あるべきところにあるものが無く、無いはずのところに無いものがあるのを目の当たりにして。
 まあ、無いはずのところにあったものは、非常にささやかな膨らみではあったが。


 「……あ~、先ほどの言葉は訂正しよう。少年などと呼びかけてすまなかった。君は、れっきとした女の子のようだ」


 恐らく、意識を失ったままの相手には届かないであろう謝罪の言葉を告げ、


 (でも、まあ、同性の方が色々やりやすくていいかもな)


 そんなことを思いながら、シェズは精霊が乾かしておいてくれた布の小さい方で少女の体の水気を拭っていく。
 抱き起こして背中を拭い、ささやかな胸の膨らみを拭い、そして腰回りから足下、血が付いている内ももまでしっかり拭いて、ああ、なるほどな、と一人納得して頷く。
 結論から言えば、少女はけがをしている訳では無かったらしい。
 女の身であれば、月に一度は当然の如く訪れるもの……つまり、月の障りが訪れていただけのようだ。
 あの大量の森林狼は、その血のにおいに惹かれて集まってきたのだろう。
 しかし、幼い身で大森林にいることだけでも危険を伴うというのに、月の障りの時期に何の準備もしないで大森林に入ることなど、自殺行為に等しい。
 保護者と一緒だったのかどうかは分からないが、目を覚ましたら、説教して色々と教えてやらねばならないな、シェズはそう思いながら、自身も濡れた下着を全て脱ぎ捨てて生まれたままの姿となる。
 その裸の胸元に意識の無い少女をすっぽりと抱き寄せると、乾かしてあった大きな布で自分と少女、二人の体を包み込んだ。
 そして、火の精霊と風の精霊に、自分達の服の乾燥を頼んで目を閉じる。

 魔力にも体力にも自信はある方だが、全速で木々の間を飛び回った後に、谷底へと飛び降り、意識のない者を急流から引き上げて、洞穴まで連れてきてといった、一連の行動でさすがの彼女も疲労を感じていた。
 腕の中の少女が目を覚ます気配もないし、少しでも疲れをとるために休んでおこうと、シェズはもう一度しっかりと腕の中の少女を抱え直してから、体の力を抜いた。
 そして、うとうととまどろみながらふと思う。
 でも、ただ一人の少女の血のにおいに、どうしてあれだけの森林狼が動いたのだろうか、と。
 月の障りで出血していたとは言え、その量はたかがしれている。
 たったそれだけの血の香りだけで、複数の群れが誘い出されあれ程の狂乱を呼び起こすとは思えない。
 唯一思い当たる可能性をあげるなら、思いつくのは腕の中の少女の魔力がけた外れであるという可能性。
 大森林に生息する魔獣達は、魔力の多い獲物を好む傾向にあり、それは先の森林狼にも言えること。
 奴らは、魔力を多く持つ者の血に狂乱するのだ。
 魔力の含まれた血をすすり、肉を貪ることによって、奴らは更に力を増し、強い存在へと進化していく。それがこの大森林独自の生態系であるともいえた。
 少女が流した血に、彼らを狂わせるほどの魔力が含まれていたとしたら、あるいは……シェズが見た森林狼達の暴走にも似たあの様子にも説明はつくのかも知れない。
 そこまで考えて、思わず苦笑を漏らした。
 まさかな、そんなわけないだろう、と声に出さずに呟いて、彼女は本格的にまどろみはじめる。
 まだ冷え切ったままの腕の中の小さな存在は、壊れそうなくらいに繊細な美しい人形の様で、とてもそんな化け物の様な存在には思えない。
 (きっと、なにか他に理由があったんだ。そうに……違いない)
 思いながらシェズは、重たい瞼を何とか持ち上げて、彼女の胸に半ば顔を埋もれさせて眠る少女の顔を見下ろし、口元を微かに微笑ませる。
 そして再び目を閉じると、今度こそゆっくりと眠りの淵へと落ちていった。
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