風は遠き地に

香月 優希

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第五章 竜が啼く

風の導き 2

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 カルムの町は、どこもかしこも収穫祭の準備で賑わっている。
「みんな楽しそうだな」
 啼義ナギが、微笑ましげに辺りを見渡しながら、腕の中の買い出し品の袋を抱え直す。しらかげも、飾り付けをしている店の軒先を目で追いながら「いいよな。祭りの雰囲気!」と屈託のない笑顔を浮かべた。
 そこにはもう、以前ダリュスカインを探して訪れた時に感じたような、不穏で重苦しい空気はない。昨日は、ルオから避難していた者たちが、収穫祭は自分たちの集落で迎えると言って帰って行った。
<こんなに明るいところだったんだな>
 子供たちの声が響き、町で一番大きな通りは色とりどりの布を旗のように繋げた飾りを施されて彩り豊かだ。歩いているだけで、心がなんとなく浮き足立つ。
 数日前の凄惨な戦いの記憶はまだ新しく、完全に気持ちが切り替わったわけではない。けれど、ひとまず人々の不安を取り除けたことに間違いはないようだ。


 あの壮絶な戦いから一夜明けた朝は、まだ生きた心地がしなかった。

 山小屋の暖炉が稼働したのは本当に幸いで、山の寒さにやられずに済んだものの、満身創痍の身体を引きずってルオに帰り着いた矢先、まず魔力の限界まで治癒をかけたリナが高熱を出した。イルギネスはリナの治癒のおかげで右腕の再起不能は回避できたものの、骨にも損傷が見られて油断はできない状況で、驃も、ダリュスカインとの激戦と崖への転落で負った怪我は軽くはなく、蓋を開ければ支えなしに歩くのもままならぬ具合だった。
 啼義もまた、莫大な力の放出によって、いつものような回復力は働かず、ルオに帰り着いた日はほとんど起き上がれずに過ごした。翌日には傷の回復力も上がり、その夜には少しの傷と倦怠感を残して、普通に活動するには支障がない程度には回復したのだが。
 次にはリナの熱が下がって調子を取り戻し始めたものの、医師のいない集落で、リナの治癒だけに頼るにも限界がある。そこで、集落の者たちが荷車を出し、カルムまで送り届けてくれたのが数日前のことだ。
 カルムに辿り着くまで、啼義は全く気が気ではなかった。イルギネスと驃の怪我もだが、リナは熱が下がっても本調子とは言えない上、自分の魔力が回復するや否や、彼らの治癒に回してしまう。啼義も、自身が回復する能力をどうにか他へ向けられないかと試行錯誤してみたが、徒労に終わった。
 そんな流れもあり、啼義はここへ来てようやく、晴れやかな気分になるのを感じ始めていた。自分たちが帰路に着く準備も始まり、もう前を向くだけだ。


 宿屋に戻り、部屋の扉を開けた先では、イルギネスが机に向かっていた。
「イルギネス、起きてたのか」
 しらかげが声をかけると、イルギネスは少し慌てた様子で机の上の紙を重ねた。
「何やってんだ?」いぶかしむ啼義の視線から隠すように、イルギネスは一番上に乗せた紙を左手で押さえる。
「いや、ちょっと……ディアにふみをだな」
 そうは言ったが、右腕は未だ添え木を当てられて固定され、自由なのは左腕のみだ。
「左手で書くつもりか」
 驃の言葉に、イルギネスは気まずい表情になった。
「そう思ったが……とても読める字にならん」眉間に皺が寄る。
「俺が代筆してやろうか」驃が面白がるように言うと、イルギネスは即答した。「遠慮する。何を書かれるかわかったもんじゃない」
 驃は悪戯いたずらっぽい笑顔になった。
「ちゃんと愛を綴ってやるよ」
「やめろって」
 年長者二人がふざけ合うのを、啼義は半分呆れながらも、妙に嬉しくなりながら眺めていた。
<俺、みんなとずっと一緒にいられるんだ>
 これから何が待ち受けているのかなど、分かりはしない。けれど少なくとも、彼らとの別れを考えなくて良いのだ。それは啼義にとって、この上ない安定要素だった。
 
 その時、扉がノックされた。
「啼義、いる?」リナの声だ。啼義はすぐに扉を開ける。「さっき帰ってきたんだ。そっちはどうだった?」
「いい魔術書が見つかったわ。魔法杖ワンドを使った術のことが書いてあったの」
「そうか。よかった」
 大事そうに胸の前で厚めの本を抱えたリナは、顔色も良くなり、すっかり元気そうだ。ほころぶ笑顔に、啼義も自分の頬が緩むのを自覚しながら「入るか?」と聞いた。
「あ、ええとね。お客さんが来てるみたいなの」
「俺に?」
 カルムに知り合いなどいない。それに、自分に会いに来るような人間の顔も、残念ながら思いつかない。
「啼義にっていうか──今、帰ってきたら女将さんが応対してたんだけど。多分、そうだと思う」
 リナにしては要領を得ない説明に、啼義は首を傾げる。彼女はもう少し、情報を捕捉した。
「黒髪で、ナギって名前の若い男の人って言ったら、やっぱり啼義じゃないかって」
「それは確かに、啼義っぽいな」後ろでイルギネスの声がした。いつの間にか斜め後ろに立っている。
「一緒に行ってみよう」
「うん」
 そうは言われても、啼義にはやはり見当がつかない。不思議に思いながら、イルギネスを従えて玄関口へ向かった。
 だが、女将の背中が見え、その前に立っている壮年の男の姿を確認した途端、

「あっ!」

 啼義と、女将が応対しているその男が声を上げたのは同時だった。驚愕に目を見開き、その場で一切の動きも忘れてしまったかのような啼義に、男は──

「啼義……様」

 と、敬称をつけて呼びかけた。
 男は短かく刈った伽羅色の髪に、暗緑色のマントを肩に流し掛け、細身ながらしっかり締まった肉体の腰元にはサーベルを装備しており、見るからに戦いの場に慣れているかに見える。その男が、啼義を焼きつけるように凝視している。

 啼義もまた、信じ難い思いで、男を見つめた。
<幻じゃないのか?>
 啼義は、現実が受け入れられずに数度、瞬きをしたが、やはり自分の目に映っている男の姿は消えない。どうやら、幽霊でもなんでもなく、彼はちゃんと存在しているようだ。
 啼義がにわかには信じられないのも無理はない。ここにいる男こそレキの一番の側近、その名を──

桂城かつらぎ
 
 啼義もまた幼い頃からよく知るその人物であった。

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