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第五章 竜が啼く
風の導き 1
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もうじき、日が暮れてしまう。
リナは窓の外を伺いながら、手にした布巾でイルギネスの額の汗を拭った。
イルギネスは先ほどまでは朦朧と意識を保っていたが、体力も気力も限界を超え、今はもう眠りに落ちている。額の切り傷はさほど深くはないが、出血が多かった上に全身に打撲や傷を受け、右腕を砕かれた痛みも容赦なく体力を奪っていた。怪我の程度を見てみれば、ここまで歩けたことが奇跡のような状態だった。
治癒をかけるなと言われたが、自分の魔力よりも、イルギネスの生命源があまりに下回ってしまうと、簡単な治癒すらかけられなくなる。山小屋に辿り着いたイルギネスがほとんど口も聞かずに横たわったままなのを見て、リナは危機感に苛まれ、許容範囲と思える限界までの治癒を試みた。
だが、思うほどの回復には繋げられなかった。
イルギネスの生命源が下がっていたのも原因だが、ダリュスカインに繰り出した魔撃で、自分で感じた以上の魔力を消耗してしまっていたようだ。それでもなんとか結界を張り、井戸の水を汲んで来て、荷物の中に積んできた薬草から使えそうなものを煎じ、イルギネスの怪我の処置に集中した。
<大丈夫>
きっと、帰って来る。
心細さを必死に追い払いながら、リナは待った。しかし、先ほどの戦いや緊張の連続で、魔力だけでなく心身ともに消耗している。リナもいつしか、イルギネスの傍で壁にもたれてうとうとしていた。
ふと──
人の声が聞こえた気がして、リナは目を開けた。
小屋の中は薄暗くなってきている。万が一のことを考え、その場で慎重に窓の向こうに目を凝らした。そこに見えたのは──沈み行く西陽に照らされて、互いを支えながら歩いてくる二つの人影だ。
リナは立ち上がった。
「啼義! 驃!」
呼び終わるより先に、転びそうな勢いで外に飛び出していた。
二人の元に辿り着いたリナは、目の前の光景に言葉を失った。支え合っている二人揃って、正視するのを躊躇うほど血にまみれ、砂や土をかぶって散々たる有様だ。
「二人とも……ひどい怪我……」
リナの表情がみるみるうちに喜びから心配へを変わるのを見て、啼義は狼狽した。このままではリナが泣き出しそうだ。安心させてやらなければ。
啼義は咄嗟に、出来うる限りの笑顔を作り、努めて明るく告げた。
「ただいま!」
だがその途端、リナの瞳からは涙が溢れ、結果、彼女は泣き出した。啼義の笑顔は一気に困惑顔に変わり、驃の顔にも、口には出さずとも「あーあ」という文字が浮かんでいる。
「行ってやれ」
驃が小さく囁き、啼義の肩にかけていた腕を外した。彼は剣で自分の身体を支えると、「ほら」と啼義の背中を左手で軽く突く。
「えっ」
押し出され戸惑いながらも、肩を震わして泣いているリナに、他にどうしていいか分からず、啼義はとりあえず一歩ずつ近づいた。迷いながら、リナの目の前に立った時──
「……本当に、よかった──!」
リナが、啼義に飛びついた。
「わっ!」
勢いに若干よろけた啼義の全身が、駆け上がるように熱を持つ。
「ちょ……っと、ま──」
衝動的に舞い上がる自身の気持ちを落ち着かせるように、彼は大きく息を吐いた。ちょうど、自分の目の下にあるリナの金の髪は、砂埃で汚れて乱れたままだ。
<こんなになっちまって>
少しでも直してやりたくなり、そっと撫でてみた。手と、身体の触れた部分から、華奢な全身の、本当に微かな振動が伝わってくる。
<怖かったよな>
この震えを、止めてやらなければ。
そんな思いが湧くのと同時に、啼義は自然にリナを抱擁していた。意識して、腕に力を込める。
「ただいま、リナ」
リナの手がキュッと、啼義の背にかかるマントを握った。
「お帰りなさい」
そうしてみれば、まるで昔からこの感覚を知っていたかのような不思議な安心感に包まれ、二人はしばらく、互いの存在を確かめるように抱き合っていた。少しばかりその感覚に酔いしれていると──
「戻って来たか」
温もりのある声が、啼義を現実に引き戻した。小屋の入り口にイルギネスが立っている。柱にもたれ、添え木を当てた右腕をさすりながら穏やかに微笑んでいるが、その顔には焦燥の色が濃い。
啼義は唐突にこみ上げてきた恥ずかしさを悟られないようそっとリナから離れ、イルギネスの方へ歩み寄った。
「イルギネス、大丈夫か?」
尋ねると、イルギネスはおどけた様子で、青い瞳に悪戯っぽい光を湛えて答えた。
「それはこっちの台詞だ。お前たちの方が、ずっと酷そうに見えるぞ。でも──」
彼はふうと息をついて柱から身体を離すと、啼義の肩に左腕を回し、消耗を感じさせない力でぐっと引き寄せた。
「お帰り」
声が震えていることに、啼義は気づいた。両腕をイルギネスの背に回し、「ただいま」と言う自分の声も震えていた。イルギネスの、靂と同じ銀の髪も土をかぶり出血もあって、いつもの小綺麗さは微塵もない。それでも、啼義にはその髪の色がとても懐かしく思えた。
「さあ、みんなで帰ろう」
イルギネスが啼義の背中を軽く叩く。啼義は頷いたが、今にも泣きそうな顔を見られたくなくて、しばしそのまま、イルギネスにしがみついていた。
リナは窓の外を伺いながら、手にした布巾でイルギネスの額の汗を拭った。
イルギネスは先ほどまでは朦朧と意識を保っていたが、体力も気力も限界を超え、今はもう眠りに落ちている。額の切り傷はさほど深くはないが、出血が多かった上に全身に打撲や傷を受け、右腕を砕かれた痛みも容赦なく体力を奪っていた。怪我の程度を見てみれば、ここまで歩けたことが奇跡のような状態だった。
治癒をかけるなと言われたが、自分の魔力よりも、イルギネスの生命源があまりに下回ってしまうと、簡単な治癒すらかけられなくなる。山小屋に辿り着いたイルギネスがほとんど口も聞かずに横たわったままなのを見て、リナは危機感に苛まれ、許容範囲と思える限界までの治癒を試みた。
だが、思うほどの回復には繋げられなかった。
イルギネスの生命源が下がっていたのも原因だが、ダリュスカインに繰り出した魔撃で、自分で感じた以上の魔力を消耗してしまっていたようだ。それでもなんとか結界を張り、井戸の水を汲んで来て、荷物の中に積んできた薬草から使えそうなものを煎じ、イルギネスの怪我の処置に集中した。
<大丈夫>
きっと、帰って来る。
心細さを必死に追い払いながら、リナは待った。しかし、先ほどの戦いや緊張の連続で、魔力だけでなく心身ともに消耗している。リナもいつしか、イルギネスの傍で壁にもたれてうとうとしていた。
ふと──
人の声が聞こえた気がして、リナは目を開けた。
小屋の中は薄暗くなってきている。万が一のことを考え、その場で慎重に窓の向こうに目を凝らした。そこに見えたのは──沈み行く西陽に照らされて、互いを支えながら歩いてくる二つの人影だ。
リナは立ち上がった。
「啼義! 驃!」
呼び終わるより先に、転びそうな勢いで外に飛び出していた。
二人の元に辿り着いたリナは、目の前の光景に言葉を失った。支え合っている二人揃って、正視するのを躊躇うほど血にまみれ、砂や土をかぶって散々たる有様だ。
「二人とも……ひどい怪我……」
リナの表情がみるみるうちに喜びから心配へを変わるのを見て、啼義は狼狽した。このままではリナが泣き出しそうだ。安心させてやらなければ。
啼義は咄嗟に、出来うる限りの笑顔を作り、努めて明るく告げた。
「ただいま!」
だがその途端、リナの瞳からは涙が溢れ、結果、彼女は泣き出した。啼義の笑顔は一気に困惑顔に変わり、驃の顔にも、口には出さずとも「あーあ」という文字が浮かんでいる。
「行ってやれ」
驃が小さく囁き、啼義の肩にかけていた腕を外した。彼は剣で自分の身体を支えると、「ほら」と啼義の背中を左手で軽く突く。
「えっ」
押し出され戸惑いながらも、肩を震わして泣いているリナに、他にどうしていいか分からず、啼義はとりあえず一歩ずつ近づいた。迷いながら、リナの目の前に立った時──
「……本当に、よかった──!」
リナが、啼義に飛びついた。
「わっ!」
勢いに若干よろけた啼義の全身が、駆け上がるように熱を持つ。
「ちょ……っと、ま──」
衝動的に舞い上がる自身の気持ちを落ち着かせるように、彼は大きく息を吐いた。ちょうど、自分の目の下にあるリナの金の髪は、砂埃で汚れて乱れたままだ。
<こんなになっちまって>
少しでも直してやりたくなり、そっと撫でてみた。手と、身体の触れた部分から、華奢な全身の、本当に微かな振動が伝わってくる。
<怖かったよな>
この震えを、止めてやらなければ。
そんな思いが湧くのと同時に、啼義は自然にリナを抱擁していた。意識して、腕に力を込める。
「ただいま、リナ」
リナの手がキュッと、啼義の背にかかるマントを握った。
「お帰りなさい」
そうしてみれば、まるで昔からこの感覚を知っていたかのような不思議な安心感に包まれ、二人はしばらく、互いの存在を確かめるように抱き合っていた。少しばかりその感覚に酔いしれていると──
「戻って来たか」
温もりのある声が、啼義を現実に引き戻した。小屋の入り口にイルギネスが立っている。柱にもたれ、添え木を当てた右腕をさすりながら穏やかに微笑んでいるが、その顔には焦燥の色が濃い。
啼義は唐突にこみ上げてきた恥ずかしさを悟られないようそっとリナから離れ、イルギネスの方へ歩み寄った。
「イルギネス、大丈夫か?」
尋ねると、イルギネスはおどけた様子で、青い瞳に悪戯っぽい光を湛えて答えた。
「それはこっちの台詞だ。お前たちの方が、ずっと酷そうに見えるぞ。でも──」
彼はふうと息をついて柱から身体を離すと、啼義の肩に左腕を回し、消耗を感じさせない力でぐっと引き寄せた。
「お帰り」
声が震えていることに、啼義は気づいた。両腕をイルギネスの背に回し、「ただいま」と言う自分の声も震えていた。イルギネスの、靂と同じ銀の髪も土をかぶり出血もあって、いつもの小綺麗さは微塵もない。それでも、啼義にはその髪の色がとても懐かしく思えた。
「さあ、みんなで帰ろう」
イルギネスが啼義の背中を軽く叩く。啼義は頷いたが、今にも泣きそうな顔を見られたくなくて、しばしそのまま、イルギネスにしがみついていた。
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