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第四章 即席師弟編

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 トウコを指導して七日目、最終日になった。
 仕事の準備をおおよそ仕上げて、部屋には予定より早く帰った。
 部屋に入ると、シリュウが剣を抜いている。点検しているようだった。仕事前だから、不自然ではない。
 少し前に似たような場面があり、クルーゾーに見てもらえばいい、と僕が言うと、俺も素人ではない、という返事だった。それでもたぶん、仕事の前には店に行くはずだ。シリュウだってプロである、万全を期すのは当然だ。
 いつもより早めにメリッサがやってきて、食事の準備を始めた。いつもより豪勢にやると言っていた通り、珍しい食材が多く、彼女は台所を右へ行き左へ行き、忙しそうだ。僕はテーブルと椅子を外に運ぶと、手持ち無沙汰になった。
 メリッサの邪魔をしてもいけないので、僕は部屋を出た。シリュウも出てきた。
 なんとなく、仕事の打ち合わせをした。確認に近い内容だった。
 そうしていると、トウコが現れた。今日は腰の左右に剣を吊っている。この前、演武で見た剣だった。
 挨拶をして、彼女は一旦、部屋の中に入った。メリッサと話している声が微かに聞こえた。
「なかなか面白くなってきたな」
 シリュウが突然に、笑みを浮かべてそう呟いた。
「何が?」
「後の楽しみだ。期待していろ」
 何が何やら。
 トウコが外に出てきて、所在無げにしていたので、僕たちは三人で机を囲んで待つことにした。
 なんとなく、彼女のこれからについて聞きたくなり、質問した。大道芸人の一座は、一箇所に数週間しかいないらしい。彼女はその一座に加わって、これはと思う剣士に弟子入りするのが、今の課題だと言った。
「シリュウはそういう対象じゃないの?」
 質問すると、トウコはむすっとした顔になった。
「先生は私をそばに置きたくない、と感じました」
 その先生の方を見ると、不敵に微笑むのみ。余裕である。
 珍しく、トウコは自分の目標について語った。優れた剣士となり、師を盛り立て、弟子を育て、いずれは引退し、穏やかに暮らす。
 前に彼女と議論したように、そこには本当の戦いというものは、含まれていないようだ。
 僕もシリュウも、実戦を拒否して何の剣術なのか、と言うことはできる。でも僕は言わなかったし、シリュウも黙っていた。
 トウコの考えは理解できる。十分に、想像もできる。
 でも、それでは、ずっと見世物だ。
 僕が見ているトウコの剣は、見世物じゃない。
 トウコには、誰よりも見事に、相手を切る、そんな剣が見え隠れする。
 でもそれを彼女は、見世物で終わらせるつもりかもしれない。
 才能というものを考えていた。
 どんなことにも、それをより良くする才能、高める才能を持っている人はいる。でも人間は、自分に何の才能があるのか、わからない。そして人間は才能の有無ではなく、自分が望んだことに力を注ぐ。
 才能を活かしきれずに生きている者も大勢いる。
 どんな才能があっても、環境がそれを埋もれさせたりもする。
 トウコは幸運といえば、幸運だ。彼女にはきっと、剣の才能がある。そしてそれを習得する道も、見えなくはない。
 だけど、心が、心だけが、その方向を向いていない。
 それが僕には、惜しくもあり、また、好ましくもあった。
 才能があるからといって、やりたくないことまでやる必要はない。
 結局、そこに行き着く。
 やりたいことを、やりたいようにして生きる。
 それが、最善なんだろう。
 料理ができたようで、部屋の中からメリッサの呼ぶ声がした。僕たちは席を立ち、テーブルに料理を運ぶのを手伝った。
 並んだ料理は昨日までとは段違い豪華で、鶏がまるまる一匹、焼かれていたり、パンも何種類もある。野菜も新鮮そうに見えた。
「後で代金を払うよ」
 僕はメリッサに囁いたけど、彼女は首を振っただけだった。
 食事が始まっても、メリッサは何度もテーブルと部屋の台所を行き来していた。シリュウはトウコに僕も聞いたことのない剣術の話をしていた。トウコは興味深そうに聞いている。
 最後にメリッサの手作りであるケーキが出て、やっと四人が落ち着いた。
 不意に無言な時間ができて、それぞれに食べ物なり、飲み物なりを口にした。
 その静かな時間は、どこか貴重なものに感じられた。
「やるか」
 シリュウがお茶を飲み干し、立ち上がった。そして傍らに置いていた剣を手に取る。
「最後の稽古だ」
 トウコが頷き、表情を引き締めて立ち上がる。
「剣を持て」
 突然に、シリュウが言った。メリッサには理解できないだろうし、トウコもよく分からないようだ。僕だけは分かっている。だいぶ前に、同じことが一回だけ、あった。
「その剣だ」そう言ってシリュウはトウコの二本の剣を指差した。「それで手合わせする」
 トウコが口を開くより、メリッサが声を発する方が早そうだったけど、僕はそれを手振りで止めた。彼女は非難するような目で、こちらを見たけど、僕は首を振った。
 決意したらしいトウコが、自分の剣を手に取り、腰に吊った。
 ここ一週間、稽古していた広い空間に出て、二人が向かい合う。
 自分の剣を鞘から抜いて、シリュウは構えた。トウコはゆっくりと二本の剣を抜く。それが構えられた状態で、二人は動かなくなった。
 ここまでは昨日と同じだ。
 お互いに相手の隙を伺う。
 違うのは、お互いが真剣を持っているのだ。木刀で打たれるわけじゃない、実際に切られる。
 シリュウには相手を切らずに済ませる技量があるのは、はっきりしている。でも、そのつもりがないのは、気配が発する迫力が示している。
 それをトウコも気づいていて、だから、今、動けない。
 僕が気になるのは、トウコにシリュウを切れるか、だった。
 切る気持ちを持てるのか。
 もし、持てなければ、そこを突かれて、シリュウに切られてもおかしくない。
 前触れもなく、シリュウが動いた。踏み込んだと思った時には、剣を振っている。
 やっぱり、遠慮はなかった。
 落雷の一撃を、トウコが紙一重で回避する。間合いを取り、再び対峙。シリュウも畳み込むようなことはしなかった。
「何をしている? 切られたいのか?」
 冷酷さを孕んだシリュウの声。トウコの表情は強張り、血の気が引いている。
「行くぞ」
 シリュウがまた踏み込む。今度は一撃ではない。
 剣が切り下ろし、切り上げ、横薙ぎ、突く。
 全く無駄のない連撃をトウコは際どいところで回避する。
 再びの対峙に戻った時、トウコの周囲に何かが散った。それは彼女の衣類の切れ端だった。彼女の服には無数に切れ目ができ、そしてかすかに血が滲んでいる。
 僕はそれを感心してみていた。
 トウコの動きは、やはり魅せるものがある。見事、眼福である。
 隣に立っていたメリッサが、僕の服の袖を握り締めていた。何も知らなければ、背筋が凍る、そういう光景だった。
 シリュウがわずかに、間合いを狭める。
 それに対して、トウコは引くことはなかった。表情も心なしか、余裕が見えた。
 僕は無意識にシリュウの気配を確認する。まだ張り詰めるような空気が発散されてた。
 予備動作なしで、シリュウが踏み込む。
 今度は前とは間合いが違う。
 同じ動きをすれば、シリュウの剣はトウコを切り裂くだろう。
 二人がすれ違った。
「ふむ?」
 それぞれに振り向き、剣を構える。
 シリュウの服の裾に、切れ目ができている。
 一瞬の攻防だった。いや、お互いに攻めたような形だ。
 シリュウの間合いの中にトウコの間合いが含まれた時、その瞬間にお互いが剣を振った。
 トウコはシリュウの剣をわずかな差ですり抜け、逆に剣を繰り出したのだ。
 でもシリュウはそれをギリギリで躱した。
 そうして二人がすれ違い、今、向かい合っている。
 トウコは本気になった、と僕は理解した。シリュウが回避に失敗すれば、トウコの剣はシリュウをもっと深く、傷つけただろう。
 ここに至って、トウコの意識は、シリュウを倒すことに全てが集中した。
 シリュウはどうだろう、と思うと、彼は笑っている。
 嬉しいんだろう。
「僕の時は」
 かすかに震えているメリッサに、僕は言う。
「剣を向け合っただけだった。それでシリュウは、僕に才能がないと思ったんだろうね」
 シリュウがじりじりと円を描いて動き始めた。間合いを詰めようとはしない。やっぱり、トウコの動きを考えに入れている。トウコの方も、合わせて、間合いを計り始めた。
「馬鹿げているわ。こんなの」
 メリッサが呟いた。
「真剣を向け合うなんて、とても……」
「でも、これが僕たちの立っている場所の、日常だよ」
 シリュウがまたも間合いを消す。三回目。長引かせるつもりはないだろう。
 二人の体がまるで踊っているように動いた。
 三本の剣が宙を焦がし、光の瞬きで軌跡を描く。
 汗が散り、かすかに血が散った。切れた髪の毛、消えた衣服が舞う。
 それなのに、二人と剣は触れ合うことがない。
 両足が地面を蹴り、滑り、踏む音。
 切っ先が弧を描いて鳴らす、風を切る音。
 それしかないのが、この光景をより神秘的なものにしていた。
 何かに捧げる、舞踏。
 極限まで高められた、技術と、精神。
 それは終わる時は、唐突にやってくる。
 がくり、とシリュウが片膝を折った。
 知っていたように、トウコが肉薄した。剣が、必殺の一撃としてシリュウに襲いかかる。
 何が起こったのかは、トウコ本人も分からなかったはずだ。
 シリュウは乱れた姿勢のまま、下段に回し蹴りを繰り出した。
 頭上に剣が落ちてきつつあるのに、恐ろしくないのか、僕には理解できないセンス。
 結果、トウコは足を払われ、シリュウ以上にバランスを崩した。計算されていたように、彼女の剣はシリュウを逸れた。
 さらに二本の剣の片方を、シリュウの剣が弾き飛ばした。
 僕の横でメリッサが短い悲鳴。
 その悲鳴は、終幕のベルみたいなものだ。
 地面に倒れこんだトウコの眼前に、シリュウが剣を突きつけている。弾き飛ばされていた剣が、落ちてきて、地面で音を立てた。
「お前は一回、死んだ。そして人間は、一回死ねば終わりだ」
 シリュウはそんなことを言いながら、楽しそうだった。剣をすぐに引く。
「これが最後の稽古だ。俺も良い稽古になった。久しぶりだった」
 剣を鞘に収めたシリュウが僕の方を指差す。
「あいつは、俺に剣を向けられただけで、少しも動けなかったぞ」
 そういうことを言わないでくれよ。沽券にかかわる。
 シリュウがトウコを立ち上がらせようとした。
「命のやり取りを恐れないんだな。大した奴だ」
 差し出された手を、トウコは掴もうとしなかった。ただ、シリュウを見ている。そうしているうちに、シリュウが穏やかな笑みを見せる。
「言いたいことはわかる。俺のせいだと言いたいんだろう?」
「そうです」
 僕は話を聞きながら、歩いて地面に落ちているトウコの剣を拾いに行った。トウコはまだシリュウを見ている。その瞳には涙が溜まり、しかし、強すぎるほど強く、シリュウを睨んでいるのがわかった。
「あなたが、私に教えたことです」
「嫌だったか?」
 即座に返すシリュウに、トウコはまた黙り込んだ。
 トウコの言いたいことは、僕には読めた。シリュウの施した稽古は、実戦を前提としていた。それも剣術としてのレベルを上げるだけではなく、戦士の心、闘争心、そういうものを身につけさせるものだった。
 シリュウが彼女は酷く叩きのめしたのも、つまり、そういうことなのだ。
 剣を持っても攻撃性を持てない人もいる。シリュウは今までにもそういう人を、何人も鍛錬したんだろう。
 僕から見ても、酷いことをする。
 トウコが黙っている間に、僕は剣を拾い上げた。傷んではいないようだ。綺麗な剣に見えた。
「怖いか?」静かにシリュウが言う。「命を奪う気になった自分が、怖いか?」
「怖いです」
 そうか、とシリュウはどこか、安堵したように呟く。そして身を屈めるとトウコの腕を掴んで、無理やりに立ち上がらせた。
「剣を捨ててもいい。その権利が、お前にはある。もちろん、剣を握り続けてもいい。血に汚れない手が剣を握っても、おかしいことはない。それでもお前は、一つ、知ったはずだ。剣で命を奪う気持ち、って奴を。それがわかれば、逆もできるだろうさ」
 僕はトウコに歩み寄って、剣を差し出す。
 彼女はそれを受け取ると、鞘に滑り込ませた。
「トウコには才能がある。僕なんかよりも、ずっと」
 それを聞いて、トウコが嫌そうな顔をした。少しは気持ちがほぐれたようだ。でも、嫌な顔しなくてもいいのに。
 トウコはシリュウに礼を言って、頭をさげる。この光景も、これで見納めだ。
 いつの間にか立ち直ったメリッサがお茶をまた用意してくれた。テーブルを囲むと、今度はトウコが東方での話をシリュウにし始めた。シリュウはしきりに相槌を打っている。
 日が暮れてきて、トウコが帰る時間になった。彼女は名残惜しそうにしていたけど、帰らないわけには行かない。改めてシリュウに礼を言って、去って行った。
 シリュウもサバサバした様子で、支度をして走るために出て行った。
 僕とメリッサが片付けをして、彼女も帰る時間になる。
「送るよ」
 自然と、僕は彼女の横に並んで、部屋を出た。
「淋しくなるね、トウコちゃんがいなくなると」
「こんなもんだよ」
 軽い口調で返す僕に、メリッサは無言だった。通りを進む。通りを形成する建物では明かりが灯り、人の気配が漏れてくる。
 僕たちはしばらく黙っていた。
「アルスも、仕事をするんだよね」
「そう。予定では、明後日、出発する。それほど心配もしていないし、不安もない」
「危険な仕事なのに、不安がないの?」
 こちらを見上げるメリッサの方が、不安を感じているようだった。
「シリュウもいるし、心配ない」
「なんか、心配している私が、バカみたい。それだけシリュウさんを信頼しているんだろうけど。変な感じ」
 シリュウと出会って、だいぶ経った。徐々にお互いを理解できたようだった。
 信頼、まさにそれだ。
 軽食屋までメリッサを送った。彼女から、明日の夕方に店に来てくれという、提案があった。僕はそれを了承して、部屋に戻った。
 今日もまたシリュウはすでに帰ってきていて、剣を眺めていた。
 僕は夕飯の支度をして、それを食卓に並べた。
「淋しいでしょ?」
 食事の席を僕が言うとシリュウは首を傾げた。
「トウコのことだよ」
「淋しくはないな、よくあることさ。ただ、そう言えない点もある」
 おっと、意外な返事。
「どの点?」
 シリュウはすぐに答えなかった。
「あいつの剣は、良かった」
 ただそれだけ言って、彼は食事を再開した。
 剣が良かった、と言われても、全てはわからない。
 でも僕も似たものは感じたんだ。
 トウコの剣は、とても美しい。
 それがシリュウの言う、良かった、という言葉、評価なんだろう。
 僕は黙って、食事を続けた。
 二人だけの食卓が、少し、切なく思えた。


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