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一
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一
俺、水瀬タクミは、母の運転する車の後部座席で、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
すでに日は落ち、周囲は夜の闇に沈んでいる。通りに面した家の、カーテン越しの淡い明かり、そして街灯のやや押しつけがましい明かりが、窓の向こうを通り過ぎていくのを、ぼんやりと観察していた。
車には母と俺しか乗っていない。そして車内には、母が小声で漏らす言葉が、やけに大きく響く。
対向車のハイビームに文句を言い、赤信号に文句を言い、後続のトラックに文句を言う。
もう母が穏やかな姿でいるところを、久しく、見ていないな。
そう思いながら、俺はちらっと母の後頭部を見た。しかし、その頭の中、何を考えているかは、もちろん、読みとれない。
父と離婚してから、まだ数カ月しか経っていない。
その数カ月で、母は見る見る荒んできた。自分の不幸を、呪っている。そう俺にも感じ取れた。
子どもにそんな様子を見せるべきではない、と考える人もいるだろう。けど、俺はそうは思えない。荒んでいる姿を見せられるのは、救いではないか。そして荒んだ姿を受け入れられるのは、俺以外には、今は誰もいないのだった。
もう俺も高校生になる、とぼんやりと考えた。
高校生になったら、アルバイトでもして、少しは家に金を入れようか。自分にどんなことが出来るのかは分からないけれど、それでも、今の状況が続いても、最後にはどこかに落ちてしまうのは、間違いない。
とりとめもなく考えながら、自然と、俺の視線は前方を見ていた。
橋が見える。そこに誰かが立っているように見えた。
が、それは人ではない、とすぐに分かった。
輪郭が時折ぼやけるのだ。
俺は子どもの頃、見えないはずのものが見えた。それはそこら中にいて、空中を漂ったり、地面を歩いたりしている。
そう、まだ幼かった頃、そんな存在について、母に説明を求めたことがあった。母親は笑って、そんなものは見えない、勘違いでしょう、と言った。
でも、確かにそこには、男が空中を漂っていて、恨めしげに俺を見ているのだ。
そういう不思議な存在は、年を重ねるごとに、うっすらとしか見えなくなっていた。
だから、前方の橋の上に、そんな存在がいるのを見た時、俺は、久しぶりだな、という程度にしか考えていなかった。
進み続ける母の運転する車が、橋へと差し掛かる。
俺はそこにいる何者か、男の姿をした何かをじっと見た。
相手もこちらを見ている。そして、手を差し伸ばしてくる。
まずい。
本能がそう感じた時、何者かの手が、車にわずかに触れる。
母親が悲鳴をあげ、その瞬前に車がスリップし、不自然に九十度回転するのが感じられた。後は勢いに負けて、ごろりと自動車が橋の上で横転した。
俺は混乱した頭で、状況を理解しようとした。
しかし、それは無理だった。
後ろを走っていたトラックが突っ込んでくるのが、ひび割れたフロントガラスの向こうに、上下逆さまに見えた。
何も考える間もなく、寸前とは比べ物にならない衝撃で、意識が吹き飛んだ。
意識が、意識と呼べないほど、ぼんやりと回復する。
目の前には巨大なライト。天井は白い。
手術室。すぐにその言葉が思い浮かんだ。
周りの音も、ぼんやりと聞こえてくる。
万能溶液がどうこう。
意識の定着レベルがどうこう。
まったく理解できない。しかし、周囲の人間がきびきびと動いているのは分かる。
意識がまた薄れて行く。
意識が消える瞬間、誰かが呟く。
「逸脱霊管理者学校に連絡した方がいいかもしれないな」
逸脱……なんだって?
俺の意識は、一気に透明度を失い、海に沈む船のように、容赦なく、暗闇に落ちて行く。
母はどうなったのか、そのことが脳裏に浮かんだのは一瞬で、それもまた、霧散する。
眠りがやってくる。
俺、水瀬タクミは、母の運転する車の後部座席で、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
すでに日は落ち、周囲は夜の闇に沈んでいる。通りに面した家の、カーテン越しの淡い明かり、そして街灯のやや押しつけがましい明かりが、窓の向こうを通り過ぎていくのを、ぼんやりと観察していた。
車には母と俺しか乗っていない。そして車内には、母が小声で漏らす言葉が、やけに大きく響く。
対向車のハイビームに文句を言い、赤信号に文句を言い、後続のトラックに文句を言う。
もう母が穏やかな姿でいるところを、久しく、見ていないな。
そう思いながら、俺はちらっと母の後頭部を見た。しかし、その頭の中、何を考えているかは、もちろん、読みとれない。
父と離婚してから、まだ数カ月しか経っていない。
その数カ月で、母は見る見る荒んできた。自分の不幸を、呪っている。そう俺にも感じ取れた。
子どもにそんな様子を見せるべきではない、と考える人もいるだろう。けど、俺はそうは思えない。荒んでいる姿を見せられるのは、救いではないか。そして荒んだ姿を受け入れられるのは、俺以外には、今は誰もいないのだった。
もう俺も高校生になる、とぼんやりと考えた。
高校生になったら、アルバイトでもして、少しは家に金を入れようか。自分にどんなことが出来るのかは分からないけれど、それでも、今の状況が続いても、最後にはどこかに落ちてしまうのは、間違いない。
とりとめもなく考えながら、自然と、俺の視線は前方を見ていた。
橋が見える。そこに誰かが立っているように見えた。
が、それは人ではない、とすぐに分かった。
輪郭が時折ぼやけるのだ。
俺は子どもの頃、見えないはずのものが見えた。それはそこら中にいて、空中を漂ったり、地面を歩いたりしている。
そう、まだ幼かった頃、そんな存在について、母に説明を求めたことがあった。母親は笑って、そんなものは見えない、勘違いでしょう、と言った。
でも、確かにそこには、男が空中を漂っていて、恨めしげに俺を見ているのだ。
そういう不思議な存在は、年を重ねるごとに、うっすらとしか見えなくなっていた。
だから、前方の橋の上に、そんな存在がいるのを見た時、俺は、久しぶりだな、という程度にしか考えていなかった。
進み続ける母の運転する車が、橋へと差し掛かる。
俺はそこにいる何者か、男の姿をした何かをじっと見た。
相手もこちらを見ている。そして、手を差し伸ばしてくる。
まずい。
本能がそう感じた時、何者かの手が、車にわずかに触れる。
母親が悲鳴をあげ、その瞬前に車がスリップし、不自然に九十度回転するのが感じられた。後は勢いに負けて、ごろりと自動車が橋の上で横転した。
俺は混乱した頭で、状況を理解しようとした。
しかし、それは無理だった。
後ろを走っていたトラックが突っ込んでくるのが、ひび割れたフロントガラスの向こうに、上下逆さまに見えた。
何も考える間もなく、寸前とは比べ物にならない衝撃で、意識が吹き飛んだ。
意識が、意識と呼べないほど、ぼんやりと回復する。
目の前には巨大なライト。天井は白い。
手術室。すぐにその言葉が思い浮かんだ。
周りの音も、ぼんやりと聞こえてくる。
万能溶液がどうこう。
意識の定着レベルがどうこう。
まったく理解できない。しかし、周囲の人間がきびきびと動いているのは分かる。
意識がまた薄れて行く。
意識が消える瞬間、誰かが呟く。
「逸脱霊管理者学校に連絡した方がいいかもしれないな」
逸脱……なんだって?
俺の意識は、一気に透明度を失い、海に沈む船のように、容赦なく、暗闇に落ちて行く。
母はどうなったのか、そのことが脳裏に浮かんだのは一瞬で、それもまた、霧散する。
眠りがやってくる。
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