僕の英雄の物語

和泉茉樹

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     三

 凪が学校に行って、俺はしばらく、窓の外の空を眺めていた。
 空は昔と変わらない。
 そう不意に思った自分に、心の中で苦笑する。
 空だけじゃない、人間社会だって、人間そのものだって、変わっていない。
 悪魔も、この世界も、変わっちゃいないのだ。
 俺は畳から起きあがり、窓を開けた。窓のすぐそこに洗濯物が干してあるので、その隙間から、遠くを見る。
 山が見える。その手前には住宅がまばらに散らばり、田畑が多い。背の高い木もポツリポツリとあって、緑を広げている。
 また畳に横になって、窓からの風がカーテンを揺らすのを眺めた。
 この風も、ずっと変わらないものだ。
 寝転がったまま手探りで、転がっていた携帯音楽プレイヤーを掴み、イヤホンを耳に装着した。
 音楽を聞きながら、視線を窓、天井、カーテンとゆっくりと移動させる。
 何も考えられない。具体的なことは、何も。
 俺の頭の中には、思考のほとんどが存在しない。
 腹は減る。眠くもなる。
 だが、どうして腹が減るかとか、何が食べたいかとか、そういうものは見当たらない。
 眠くなっても、昨日、何時間の睡眠を取ったかとか、今日は何時間寝ようとか、それは形を取らない。
 靄がかかったように曖昧に、俺の頭の片隅を漂い、若干の不快感を俺の中に残して、やがて、消える。
 何も考えずに、音楽を聞きながらその内容は頭を素通りして、俺はただ寝転がっていた。

     ◆

 高校の二年一組の教室で、僕は、窓の外を眺めていた。
 僕の近くで、クラスメイトがしゃべっている。今は二人で、たまに僕に話題を振ってくるけれど、僕が返す言葉は熱らしい熱もなく、しかし冷たいというほどでもない。
 彼らはそれを気にした様子もなく、楽しそうにしゃべっていた。
 クラスメイトの言葉の中に、『七英雄』という単語が出てきて、少し、心が揺れた。
 この世界、『人間世界』に、異世界の存在である悪魔が最初に攻めてきたのは、もう百年以上前だ。
それが『第一次人魔大戦』で、悪魔はその領地を人間世界の一部まで広げたが、謎の理由で悪魔は撤退。人間も深追いはせず、両者は戦争前の勢力で和平を結んだ。
そしてその数十年後、『第二次人魔大戦』が起きた。
悪魔は人間を徹底的に滅ぼし、人間世界、簡単に行ってしまえば、地球の約一割が完全に悪魔の支配下に落ち、各地で激戦が繰り広げられた。
そんな明らかな劣勢だった人間が、戦況を互角に戻し、再びの和平を締結させた原動力。
それが、七英雄だった。
僕も詳しくは知らない。
しかし、その言葉を聞き流せないのは、身近に関係者がいるからだった。
関係者と言うか、当事者か。
僕はアオのことを思った。

     ◆

 俺が十一歳の時、第二次人魔大戦が起こった。
 十三歳で、訓練兵として、人間軍の訓練施設に入所。当時は、少年兵なども珍しくなかった。そうしなければ、人間軍は戦線を維持できなかっただろう。
 何せ、五十億人いた地球の総人口は、第二次人魔大戦の勃発から一年で、四十五億まで減少したのだ。
訓練施設で優秀な成績を挙げ、七百人にいた同期の訓練兵のほとんどとは違い、俺は戦場へは送られず、特殊訓練部隊に移った。そこで二年、さらに訓練を積んだ。
特殊訓練部隊には俺と同時に百人が入ったが、その中で優秀な五十人がさらに選別された。俺もその中にいた。
人間軍のどこかの誰かが、その五十人を、悪魔と引き合わせた。
悪魔の中には人間に味方する勢力がいて、彼らは『反動の悪魔』と呼ばれていた。
悪魔が自ら戦うことは例外で、彼らは人間と契約を結び、人間に超常の力を授けるのがほとんどだ。
悪魔と契約を結んだ人間は、『背命者』と呼ばれていた。
俺は優秀な兵士として、反動の悪魔の中でも、より人間に対して親和的で、そして力のある悪魔と契約を結んだ。
悪魔の名は、ササラ。
俺は契約により、背命者になった。
ただの背命者とは違い、多くを差し出し、見返りにより強力な力を手に入れた、特別な背命者。
俺たち五十人のその背命者が、世界各地に派遣され、悪魔を撃滅していった。
俺も、彼らも、簡単には死なない体になっていた。
そして悪魔をまとめて薙ぎ払う力を持っていた。
悪魔の攻勢を受け止め、均衡を生み、さらに奴らを押し返した。
第二次人魔大戦は、戦端が開かれてから十年で、和平へとたどり着いた。
後にも先にも、俺たち五十人だけしか生まれなかった特別製の背命者は、戦争が終わった時には七人しか残っていなかった。
その七人が、七英雄と呼ばれたが、しかし、俺も野に下ったし、他の六人も、もう何十年と顔を合わせていないから、似たようなものだろう。
世間の人間は、最初こそ七英雄をどうのとほめそやしたものだ。反動の悪魔に対してさえ、好意的だった。
それも五年も経てば、やれ七英雄の持つ個体として強力すぎる力をどうにかしろだの、やれ反動の悪魔は次には人間を裏切るのではないかだのと、言いだす。
俺の元にも、人間政府の議員だの名士だのがやってきては、何かを言ったが、俺に彼らの言葉を理解できる頭脳がないことを、知らなかったのだろう。
無視していると、今度は人間軍からの暗殺者が送られてきた。
政治や経済をダメでも、こと戦闘に関しては頭が回る俺なので、丁寧に返り討ちにしてさしあげた。
反動の悪魔たちも少しずつ表舞台から消えて、ササラも隠れた。
俺は別に、悪魔軍の暗殺者や、諦めずにやってくる人間軍の暗殺者と戦いながら生活しても良かった。
しかし、ほとんど何も考えられない頭でも、それが徐々にしんどいと感じ、結果、俺は六番目の脱走英雄となり、人間軍を離れた。
様々なことがあり、様々な人と会い、別れ、戦った。傷つき、傷つけられ、しかしどんな傷でも、俺は死ななかった。
時間さえも、俺を殺さなかった。
ずっと、生きてきた。長い時間が流れていった。
一年前、凪と出会った。
凪は悪魔に襲われていて、俺は通りすがりだった。
別段、何かを考えたわけでもなく、咄嗟に悪魔を返り討ちにした。
凪は俺を前にして、顔をしかめた。
その時の俺はぼろきれのような服を着て、髪の毛も髭も伸び放題で、爪も伸び、汗臭かった。
凪はそれに嫌な顔をしたようで、少し躊躇ったようだったが、俺をこのアパートの部屋を連れて行った。
文房具のハサミで髪の毛を切り、安全カミソリで髭を剃り、爪切りで苦労して爪を切って、そして営業時間が終わる寸前の銭湯に行くと、持参したヘチマのたわしで、俺の体を念入りに擦った。
終始、ぼんやりしていた俺は、気付くと、凪のジャージを着せられ、畳の上にあぐらをかいていた。ジャージのサイズが合わないな、と思ったが、何も言うつもりはなかった。
自分の手を見て、髪の毛を触り、顎を撫で、どうやらまともな格好になったと気付いた。
目の前のちゃぶ台には、魚肉ソーセージが三本と、コーラの大きなペットボトルが出ていた。
「それ、今、うちにある食べ物で、栄養がありそうなものだから、良かったら」
 凪はそう言って、自分はお茶を飲んだ。
 やっぱり何も考えられない頭で、俺は魚肉ソーセージを全部食べ、コーラも飲み干した。
 眠くなり、寝たいと思ったので、俺は畳に横になった。
 その夜は、凪は何も言わずに俺に布団をかけてくれたようで、朝、起きると、体に布団が乗っていた。
 凪はすでにいなくて、ちゃぶ台にメモが置かれていて、炊飯器の中の白米を自由に食べて良い、と書いてあり、そして、鍵を隠しておく場所も書かれていた。
 凪は俺が出て行くと思っていたのだろう。
 俺もここに一年もいることになるとは、思っていなかった。
 でも結果を言えば、俺は出て行かなかったし、学校から帰ってきた凪は、驚いた表情をしたが、なぜ出て行かなかったのか、とは言わなかったし、なぜ出て行かないのか、と口にすることも、今まで、一度もない。
 そんな経緯で、俺は凪と暮らしている。
 七英雄の一人、『バッド』と呼ばれた英雄は、世間の片隅の、この狭いアパートの一室で、生きていた。

     ◆

 僕は休み時間の窓の向こう、のどかな住宅街を見ながら、アオのことを考えていた。
 僕の父よりも年上だけど、年齢はそこまでは離れていない、男。
 一緒に暮らしている、他人。
 生活力はないのに、普通なら役に立たない戦闘力ばかりある。
 人間だけど、人間を辞めている存在。
 窓の向こう、かなり遠くで、何かの移動販売の声がした。
 ササラから、ぼんやりと聞かされただけだけど、アオはササラとの契約によって不老不死の肉体と、圧倒的な戦闘量を手に入れた。
 それらの超人的な力と入れ違いに失ったのは、日常を生きる力だという。
 ものを考える力、想像力、そこから来る機転。
 そういったものは、アオの中から消えている。
 むしろ、そういうものを拒絶するようになっている。
 アオはテレビやラジオを嫌うけど、それはそれらが日常を感じさせるからだろう。ニュースや気象情報や交通情報はもとより、どこかの一発屋の歌手のトークさえ、アオが捨てた日常に繋がっている。
 言葉を聞くのが、アオには苦痛なのだ。
 僕は教室の片隅で窓の向こうを見ながら、心はまるで別のところに飛んでいた。
 アオや、アオの仲間がいなければ、今の世界はないはずなのに、もうアオたちは子どもが無邪気に交わす会話の中の、ちょっと刺激的で、おとぎ話の登場人物のように現実との繋がりを断たれた、そんな存在になっている。
 それをどうこう言うつもりはない。
 歴史とはそういうものなんだと思う。聖徳太子や平清盛や徳川家康や、法隆寺や厳島神社や皇居と同じ。ただ僕が生きている時代に近くて、そしてアオが今も生きているだけ何だと思う。
 だから、ほとんどの人が生身のアオを知らず、好きなように言うのは、仕方ない。
 だけど、僕は違う。
 僕はアオの隣にいて、アオと生きている。
 僕がそれを忘れなければ、良い。
 遠くで聞こえる移動販売のメッセージは、餃子だった。
 今日は帰りに餃子でも買おうかな。アオは食べ物には何も言わないけど、もう一年も経つのに、今日こそはアオが何かを「美味しい」と言うのではないか、と期待してしまう。
 授業の始まりを告げるチャイムが鳴った。

     ◆

 俺は窓の向こうから聞こえてくる移動販売者の発する、割れ気味の宣伝に顔をしかめ、窓を閉めた。
 勢い良く畳に寝転がり、息を吐く。
 ぎょうざ? ぎょうざ……、いや、ぎょーざ……、そうか、ギョーザ、餃子だ。
 どんなものだったかな、と思っているそばから、俺の頭の中から、単語の気配が逃げそうになる。それを必死につなぎ止めつつ、想像しようとする、餃子の像を。
 頭の真ん中に、軟性の金属を揉んでいるような、そんな鈍さがあった。
 脳を流れている血液が、全部、ゼリーになったような感じ。
 ぼんやりと餃子の形が頭に浮かぶが、輪郭がはっきりする前に限界が来た。像は霧散し、味を想像するのは、もはや不可能だ。
 食べれば思いだすかな。
 でも、食べた時には、今、餃子について考えたことさえも、忘れているんだろうな。
 俺の頭の中にあるのは、わずかばかりの自分の記憶と、人間の記憶と、悪魔の記憶くらいだ。
 それらが一割ほどで、残りの九割は、全部、人間か悪魔を倒した時の記憶だった。
 耳元では音楽が続いているが、しかし、すぐに流れ去る。
 俺は過去の戦いの記憶を思い返して、時間を潰すことにした。

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