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本編
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しおりを挟むデウスは機嫌が良かった。魔王ルシファーから頼まれた仕事も終えて、暫く振りに彼の元に行けることに浮かれていたのだ。
「セシルは元気かな」
人間の世界はお綺麗な神が収めているせいで空気が澄んでいて、デウスを始めとした悪魔にとっては最高に居心地が悪い場所だった。世界全体が魔の存在を追い出そうと働きかけてくるせいで、低位の悪魔は此方側に来ることすらできない。デウスのように高位の悪魔なら存在はできるが、その反動として魔力を吸い上げられていく。だからこそ、人の世に来られること自体が悪魔のステータスになるわけだが、デウスの目的はそこではない。
セシルという青年の元に通うことが、デウスの唯一の楽しみだった。悪魔として享楽の赴くままあらゆる女性に手を出してきたデウスが唯一、大切にしたいと思った青年である。お陰で、未だに手を出せていない。と言うか、暫くは存在さえ認識されていなかった。
「セシル!」
古びた家の窓から、黒髪の男が顔を覗かせる。出会った頃は小さくて鶏がらのような子供だったが、年月を経て、今では顔に深い皺が刻まれていた。
セシルとの出会いは、もう随分と前になる。若い頃の自分は本当にだらしがなく、悪魔の力を使って人を玩具にしていた。
少し手を貸してやるだけで、人は勝手に堕落していく。強さを手に入れればふんぞり返って偉そうに振る舞うが、その力を奪い取ってやれば一気に落ちぶれる。強さを心棒していた奴らは掌を返したように去り、最後には何も残らない。そんな人の醜さを見ては、デウスはケラケラと笑って過ごしていた。
初めは、セシルの事も玩具にしてやろうと思って近づいたのだ。みすぼらしい格好で、道端で膝を抱えるセシルは孤児だった。四肢を引き千切り悲鳴を上げさせれば、多少は退屈を紛らわせられるだろう。そんな考えで姿を現したのだが、セシルはあろうことか、四肢を引き千切ろうと腕を掴んだデウスを見上げて微笑んだ。
「かみさま」
キラキラとした眼差しだった。向けられたことがない無垢な眼差しを前に、デウスはどうしていいのか分からなかった。いくら違うと言ったところで、セシルは妙な顔をして見上げてくることを止めてはくれなかった。人と掛け離れた容姿を恐れもせず、悪魔の姿を誤魔化しもしていないのに引っ付いてくるセシルが理解できなかった。
怯えなかった褒美として、デウスはセシルにいくつかの知恵を授けてやった。セシルはやはりキラキラとした瞳のまま大きく頷いて、貪欲に知識を飲み込んだ。そうして、孤児だったと言うのに、気づけば人にしては高い地位に着いていた。
そこから興味を持ち観察していくうちに、デウスはセシルから目が離せなくなっていた。誰にでも優しいところも、困ったように微笑む顔も、少し褒められると髪を触る仕草ですら好きになっていた。恐らく、初恋だ。数千年生きてきて、これほど胸が高鳴ったのは初めてだった。
セシルは朝日に目を細めると、億劫そうに溜息をついた。その黒耀の瞳は薄暗く、沈鬱な雰囲気を醸し出している。
デウスは唇を尖らせて、踵を返したセシルの後を追った。
「……そんなに、あいつらが好きだったのかい?」
気配も姿も消しているから、その声がセシルに届くことはない。
セシルは穢れた色とされる黒を持ちながらも、その持ち前の優しさで周りには人が絶えなかった。そのせいで大天使の一人であるラファエルも、セシルを気に入ったようだ。今の今までセシルを放っておいたくせに輝きを放ち始めたセシルに目を留めて、デウスの手から掠め取ろうとしたのである。天使らしい嫌な遣り方に唾を吐きかけてやりたかったが、ラファエルはあろうことか、セシルに「エル」という人の器を得て近付いた。そうして、デウスの大嫌いな魚の内臓をセシルの手で焼かせやがったのだ。
その後、弱ったデウスをエジプトまで引っ張って行き、檻に叩き込んだことを今でも恨んでいる。お陰で、暫くセシルを見守ってあげられなかった。
セシルの容姿は良くも悪くも人目を引く。命からがら檻を打ち壊して脱出したあと、何とかセシルの元に戻ると、何があったのか彼は一人になっていた。沈みきった悲しそうな顔は見ていられないほどだ。天使共はお綺麗な顔してやる事がえげつない事が多いので、セシルに何かしたのだろうか。
そんな糞ったれな天使のせいで、デウスは暫く頭を抱える羽目になった。セシルには笑ってほしいのに、自分が悪魔のせいで上手くいかないことばかりだ。
ある日、一人になったセシルに女が近づいてきたのだ。セシルは整った顔立ちで、元々女からの評判は良かった。女はセシルの顔が甚く気に入ったらしい。巧みにセシルの弱さに漬け込み、妻の座まで得た。
初めはセシルが笑ってくれるようになったので我慢していたのだが、女はあろうことかセシル以外の男と関係を持ったのだ。許せなかった。デウスが欲しくて欲しくて堪らない居場所を得ながらも、蔑ろにする女が憎くて堪らなかった。だから呪い殺してやったのだが、セシルは泣いてしまった。デウスがどれだけ気を落ち着かせる魔法を掛けてやっても、セシルは女を想って何晩もずっと泣いていた。だから、一度は魔界の溶岩に叩き落としてやったけれど、その後に天界行きの魂の中にこっそり混ぜてやったのだ。天使共のプライドはエベレストよりも遥かに高く、天をぶち抜くほどなので、基本的に失敗は認めない。上手く紛れ込ませて、輪廻の輪に加わったようだ。
本当は何度殺したって足りないくらい嫌いな女だったが、セシルが好きだというから少し我慢した。愛故だと、デウスは言い募るがセシルは振り返りもしない。
あんな淫乱、セシルに相応しくない。誰にでも股を開く汚い女に、一時とはいえセシルを奪われていたことに吐き気がした。
「早く死ねばいいのに」
そしたら、ずっと守ってあげられるのに。
生者を魔界に連れて行くと、悪しき気に当てられて狂ってしまう。デウスはセシルがセシルのままで欲しいので、強硬手段には出られなかった。呪い殺そうかと考えたこともあるが、苦しそうにしているセシルを見てやめた。その姿は可愛かったが、それ以上に可哀想だったのだ。
「セシル、セシル。早く君とお喋りしたいよ」
セシルが魔界に来てくれたなら、こんな風に時々ではなく一緒に居られる。人間界は神臭くて鼻が曲がりそうだ。そのせいでセシルの匂いも良くわからないし、魔力を吸われるせいで長く居られないので不便だった。本当は寂しそうな背を抱き締めてあげたいし、皺だらけの顔にキスだってしてあげたい。でも、ここでは出来ないのだ。
悪魔であるデウスは、傍にあるだけでセシルを苦しめる。小さい頃は早く死ねば良いのにと思いながらセシルに触れていたが、何時からか痛みを堪えながらもくっついてくるセシルを見ていられなくなってしまった。「かみさま」と、泣きそうな顔で微笑まれる度に、自分のことが嫌になったのだ。どうして自分はセシルと同じ形で産まれてこなかったのだろうか。
人間は玩具にすると面白くて大好きだったが、好き勝手に触れられる人間共は何時しか妬ましいだけの存在になっていた。だって、デウスはセシルに触れないのに、あいつらは簡単に手を伸ばせる。
悪魔は他人の悪意や欲で腹を満たす。セシルは「傍にいてほしい」くらいの望みしか口にしないので、正直にいって上質な人間ではなかった。欲がないから美味しくないし、一緒に居てもデウスの腹は減るばかりだ。それでも、セシルが手を繋いでくるたびに無いはずの心臓が高鳴る気がした。けれど、僅かな接触も言葉を交わすこともセシルは辛そうだった。行かないでと泣かれるたびに、自分がどれだけ我慢していたのかなんてセシルは知らないだろう。
「セシル、君は幸せになるんだよ」
「いや……嫌だよ……捨てないで……かみさまがいないとなれない……っ」
「なれるさ。君はもう弱者じゃない」
デウスが与えた知識はセシルの力となり、多くの者を救うだろう。人を助けたことで悪魔であるデウスは暫く弱体化を余儀なくされることは分かっていた。人を救うことは悪魔の道理に反する。死なないだけマシだろう。
「セシル。愛してるよ、愛しているんだ」
愛なんて悪魔が語るには滑稽だ。けれど、それ以外にこの感情を説明できない。
暫く会えない代わりにキスをすると、セシルはナイフで刺されたような顔をした。それでも、必死にしがみついてくるが、触れたところから痛みが走るのかセシルは泣いていた。
ああ、苦しいなあ。
君に触れる。それだけのことが何故、こんなにも難しいのだろう。
天使なら悪魔と違って、人を救うことは苦にならない。それなのに、ラファエルはセシルを救わない。ラファエルは恐らく、セシルが世に絶望して死ぬのを待っているのだ。お綺麗な顔して汚い奴らだ、とデウスは吐き捨てた。
「セシルは笑顔が似合うんだ」
そんな事もわからないなんて、天使はやっぱり嫌いだ。元々好きではないが、セシルを救うどころか貶めるのなら、デウスはラファエルの臓物を引きずり出して床に叩きつけてやりたい。まあ、「エル」としての器はエジプトから帰ったときに散々に痛めつけてやった。格下だと思っていたデウスにやられたのが屈辱だったのか、うるさく喚いていたが数十年は眠らないと治らないほどに痛めつけてやったので少しだけ、ほんの少しだけ溜飲は下がっている。あれなら邪魔をしには来れないだろう。
セシルは歳なのか、最近は息苦しそうにしていることが増えた。女を亡くしてからは森深くに居を移して一人暮らしをしているため、尋ねてくる人はいない。当然、医者にも罹らず、セシルはベッドで寝ていることが増えた。
デウスはセシルの枕元に肘を付き、じっとその顔を見下ろした。その呼吸が少しずつ弱くなっていくのを眺めながら、ズキズキする胸を抑える。セシルの苦しそうな顔は、あまり好きじゃない。それでも終わりを予期して、デウスの胸は期待に満ち溢れる。
そうして、遂に心音が止んだ。
セシルの体から仄かな光が浮き上がる。本来ならば、このまま神の御許に行くであろう魂を抱き止めて、デウスは歓喜の声を上げた。
「あああああ! やった! セシルだ! セシルだ!」
長い間、ずっとずっと欲しくて堪らなかった魂に頬擦りして、デウスは飛び跳ねた。初めて微笑みかけてくれた日から、ずっと手に入れたかった魂を手に悪魔は喜びの声を上げる。
「セシル、ずっと一緒に居ようね」
腕の中の魂が、大きく震えた。
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