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本編
3.5
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失敗した。学院から出た瞬間に、セシルは思った。学院内では幾分か和らいでいたから忘れていたが、セシルの見た目は悪い意味で注目を集めてしまう。四方から寄越される敵疑心に、遂に足を止めた。
「エル、やっぱり帰ろう」
自分が殴られたり罵倒されるのは慣れているので構わないが、自分と歩いていればエルにまで被害が及ぶかもしれない。それは、流石に耐えられなかった。
自分は一応は教師であるわけで、外での行動はそのまま学院に伝わってしまう。絡まれても自分か生徒が殴られるまでは抵抗できない。セシルから攻撃すれば、確実に責め立てられる。出来れば恩のある学園長に迷惑はかけたくないし、エルを危険な目に合わせる可能性がある以上は中断したほうがいいだろう。
「まだ出たばかりだ」
「……俺と歩くのは止めたほうがいい。視線に気づいていないわけじゃないだろ」
「嫌だ。何故、俯かなければならない。貴方は何も悪いことをしていないんだ。胸を張ればいい」
違う。これは、そういう問題ではない。一人であれば視線なんてどうだっていいが、今はエルが居るのだ。いつも通りという訳にはいかなかった。
けれど、エルは力強くセシルの腕を掴むと、通りを歩いていく。振り払わなければいけないのは分かっているのに、友人と出掛けるなんてことしたことがなかったので躊躇ってしまった。それが間違いであったのだと気づいたのは、割とすぐのことだったのだが。
平和ボケしていた。この事態は、自分の迂闊さが招いたことだろう。エルが服を選んでくれて、セシルは初めての経験に少し浮かれてしまった。そのせいで付けられていることに気づくのが遅くなったのだ。気づいたときには囲まれていて、エルは後ろから鈍器で殴られて取り押さえられてしまった。
「こいつが心配なら抵抗すんなよ」
「……しないから、エルを離してやってくれ」
「なら、そのご立派な剣を投げな」
エルの身柄があちらにある以上は、抵抗は得策ではないだろう。セシルは腰から鞘ごと剣を取り、相手に向かって放り投げた。男たちはセシルを取り囲むとジリジリと距離を詰めてくる。その目には情欲が籠もっていた。
「悪魔め。お前をひと目見たときから、俺は可笑しくなっちまったんだ」
悪魔、悪魔と自分を謗る音に囲まれながらセシルは溜め息をついた。もう聞き飽きるほど耳にしてきたせいで特に傷つきはしない。けれど、悪魔と蔑みながら、性欲を灯して睨みつけてくる彼らの気持ちが全く持って理解できなかった。今からでも全員蹴り飛ばして逃げたいが、エルを放っていくこともできない。
この場にいる全員を相手にした後の尻が心配になるが、この様子だと恐らくは命までは取られないはずだ。なら、もういいか。と、若干遠い目になる。
かみさまは、汚されたセシルを見てがっかりするだろうか。それだけが少し心配だった。
「止めろ! 先生に触るな!」
「黙ってろよ」
「ぐ……っ!」
エルが必死に叫ぶが、腹を殴られて黙らされるのが見えた。
「エル!」
「あんたは大人しくしな。大事な生徒を傷物にしたくないだろ?」
「……下衆が」
押し倒されたまま男を睨みつけるが、男は唇を舐めると更に興奮したように熱い息を吐いた。腹に押し付けられた熱が何かは考えたくない。
「先生から手を離せ……」
その時、エルが地を這うような声で言った。男たちはセシルに意識を向けているせいで気づいていないが、エルの体が光を纏ったように淡く輝き始める。
けれど、それが何かを知る前にセシルの上にいた男が突然仰け反った。男は喉を掻きむしりながら、信じられないことに口から火を吐いた。濁音混じりの悲鳴を飛び散らせながらも横に倒れ、そのまま痙攣した後に動かなくなる。男の口からは鎮火した後のように黒い煙が上がっていた。
「え……?」
呆然としていると、何も無かったはずの空間から火が巻き上がった。それはセシルの周りを取り囲み、まるで守るかのように火柱を上げる。それは、まるで炎の檻だった。
「……かみさま?」
周りの男たちがセシルを悪魔と罵って逃げていくが、今はそんなことはどうだって良かった。
こんなことが出来るのは、かみさまの他にいない。セシルは状況も忘れて、きょろきょろと辺りを見渡した。
「かみさま! かみさま何処ですか……っ!」
居るのならば一目でもいいから顔が見たかった。火が消え去っていくのが待てずに飛び出すが、その炎がセシルを傷つけることはない。それで確信した。これはかみさまの力だ。近くにいるのだと分かり、セシルは喉の痛みを堪えて腹の底から声を押し出す。
「かみさま! ずっと貴方に会いたかったんですっ。一言だけでもいいから声を聞かせてください……!」
自然と声に弱さが滲み、セシルは半ば喚くようにかみさまを呼んだ。けれど、応えてくれる声はない。
幸せが足りないのか。だから、かみさまはまだ迎えに来てくれないのかもしれない。
「かみさま……っ、かみさま……!」
抱き締めてください。冷たい手で頭を撫でてください。他の誰かではなく、貴方の手がいい。
セシルは壊れたように、何度もかみさまを呼んだ。そんなセシルの背を、繋ぎ止めるように抱き締めてくる腕がある。エルのものだと分かったけれど、それを振り払ってセシルは離れていくかみさまの気配に必死になって手を伸ばした。
「先生! しっかりしろ! アレは違う!」
「かみさま……っ!」
「先生っ、駄目だ! 行かないでくれ、頼むから……!」
地面に引き倒されて、セシルは縋るように爪を立てた。
何十年振りに気配を感じただろうか。そして、また次を待つのだと思うだけで、体が引き千切られるような痛みを覚える。ずっとかみさまの存在を感じていたいのに、また薄れていく。どうして傍にいてくれないんだろう。
先生、先生、と。今にも泣きそうなほど震える声が縋り付いてくるが、かみさまの姿を探すセシルの耳には届かない。
「先生……僕を見てくれ……」
「…………かみさま」
力を込め過ぎたのか爪が折れて、ズキリとした痛みを感じた。血が滲んだ指を労わるように温かな手が触れる。これは違う。セシルは、ぼんやりとそう思った。
どれだけ、そうしていたのだろうか。気づけばエルに手を引かれて、学院の廊下を歩いていた。かみさまのことで思考が埋め尽くされていたから殆ど記憶はないが、なんとなくエルが宥めてくれたことは覚えている。
セシルからはエルの顔を窺うことは出来ない。けれど、その背からは張り詰めた空気が感じられた。
「……なあ、先生。全部、初めからやり直さないか」
唐突過ぎる言葉に、思わず足を止める。エルはセシルを振り返ると、その手を頬に伸ばしてきた。そっと頬を包むようにして顔を上げさせられて、目を瞬かせる。エルは痛みを堪えるように不格好な笑みを浮かべて、セシルの頬を撫でた。
「先生は初めを間違えたんだ。だから、その命を神に返し、もう一度やり直す必要がある」
「……何を言っているんだ?」
エルは「ははっ」と渇いた笑い声を上げた。口は笑みの形に歪んでいるのに、その目は全く笑っていない。それに恐ろしさを覚えて離れようとするが、腰に手を回されて阻まれる。
「何を、言っているんだろうな。僕にも分からない。今の先生が好きなのに、悪魔に囚われている貴方に腹が立つ」
唇が近づいてきて、咄嗟に顔を背けた。けれど、そのまま首筋に口付けられて、セシルは驚きに肩を震わせる。
「どうしたんだ。幸せになるのが貴方の義務なんだろ。幸せにしてやるよ」
自棄になったような笑みに混乱しつつも、セシルは首を横に振った。
「男同士は一般的に認められていない。幸せになれるとは思えない」
「……女を抱いて子を設けて、絵に描いたような幸せが欲しいのか? 違うだろ。先生は神様って奴に認められたいだけだ!!」
肩を勢いよく掴まれて、壁に叩きつけられる。痛みに顔を歪めるが、エルは力を弛めるどころか更に強く押し付けてきた。
「先生のそれは愛か? 質の悪い依存だろ!!」
間近で叫ばれて、ビリビリとした圧に肩が跳ねた。珍しくエルは激高しているようだ。常ならば落ち着いている彼がここまで怒っていることに驚きはしたものの、セシルは瞼を震わせてゆっくりと目を開ける。そうして真っ直ぐに瞳を見つめ返すと、エルは何故か怯えたように手に力を込めた。その手は襲い来る感情を力任せに抑えるように震えている。
「それを決めるのは俺だ。少なくともエルじゃない。俺は、かみさまを愛している」
「……そう、やっぱり一度生まれ変わろうか。先生は汚染されてるんだよ。大丈夫、天界で綺麗にしてあげるから」
もう殆ど、エルが何を言っているのか分からない。セシルは少しだけ、目の前の生徒のことが恐ろしく思えた。
エルの温度がある指先が、セシルの頬を撫でていく。確かに熱がある筈なのに、セシルはそれに寒気を覚えて背を震わせた。耳朶をくすぐられて顔が近づく、エルの吐息が頬を撫でていきセシルは突き飛ばすべきか少し悩んだ。エルとそういった関係になるつもりは全くない。生徒として大事に思っているが、それと恋愛感情は別だ。
「なあ、先生。香炉って知ってるか?」
脈絡が無さ過ぎて混乱する。けれど、話しがずれたことに安堵したセシルは、それに乗ることにした。
「……香りを、楽しむものだろ。俺には縁がないけど、エルは好きなのか?」
「そうだな。ああ……少し楽しみだ。明日、いい香炉をプレゼントしよう」
それがかみさまを苦しめることになると、セシルは知らなかった。香炉の中に潜ませた魚の内臓が、かみさまを追い立てていることに気づかなかった。
「エル?」
背にセシルの声を聞きながら、エルは悪魔を追って部屋を飛び出した。神の目が及ぶ人間界に置いて、悪魔の力は制限される。セシルに知恵を授けることも、魔法を使うことも、この世界に置いては悪魔にとって毒でしかない。
魔界に帰って力を取り戻そうとしたのだろう。飛び立とうとするデウスの薄汚い翼を掴み、エルは躊躇いなく引き千切った。デウスは苦痛に顔を歪めたものの悲鳴を上げることなく、どしゃりと受け身すら取ることもできずに地に落ちる。
デウスは額にびっしりと汗をかき、カリカリと力なく地を引っ掻く事しかできないようだ。その無様な様子に少しだけ溜飲が下がるものの、デウスが「セシル」と唇を動かしたのが見えて苛立ちがぶり返す。想い人を案じる只の人としての顔をしたことに、やけに腹が立った。
デウスは緩慢な動作で顔を上げると、屈辱に顔を歪めたようだった。
「……怪しいなあと思ってたけど、やっぱり天使かよ。セシルが楽しそうだからって、見逃すんじゃなかったな……」
悪魔の癖に、普通の人間のようなことを言うからラファエルは激しい苛立ちを覚えた。感情のまま腹を蹴り飛ばすと、デウスは体をくの字に折り曲げて血反吐を吐く。セシルを襲おうとした人間を退けたことで、恐らくデウスの体は既に崩壊しかけているのだろう。人を貶めるように作られている悪魔が、人を救おうとすることは理に反している。幾ら大罪を司る悪魔だとしても、それに逆らうことは出来ない。
悪魔が人間振るなんて気色の悪いことをするからだ。ラファエルは舌を打ち、もう一度デウスの腹を蹴り上げた。デウスは苦痛に呻きはしたが、下級悪魔と違って四散することはない。腐っても大悪魔だ。天の力をもってして弱らせることは出来ても、存在そのものを消し去ることは出来ない。
「悪魔が、先生を気安く呼び捨てるな」
胸ぐらを掴んで持ち上げてやると、背の傷が痛むのかデウスは短く息を詰めた。
「今を正さないといけないんだ。このままだと先生は魔に堕ちてしまう。これは正当な裁きだ。先生の今までの善行を考えれば、貴様に堕とされる未来は間違っている」
「……はっ、長ったらしい言い訳してもやることは変わらない」
デウスはラファエルを嘲るように口の端を歪めた。
「君は、俺が羨ましいだけだろ」
心臓を殴りつけられたような気がした。それほどの衝撃だったのだ。天使が悪魔を羨むことなど有り得ない。そう言ってやればいいのに、口は全く動かなかった。
初めは珍しい例に興味が引かれただけだった。けれど、何時しか先生の微かに笑んだ顔が好きになった。その顔には常に寂しげな色が浮んでいたが、いつだって生徒のことを優しく見守ってくれたから。
先生の目が、意識が。いつだって何かを探すように四方に向けられている。それが悪魔の気配を探ろうとしているのだと知ったとき、胸を掻きむしられるほどの焦燥を覚えた。
きっと、先生は騙されているのだ。だから、僕が解放してあげないといけない。
「先生は僕が守る」
悪魔が全てを見透かしたように目を細めたので、ラファエルは唇を噛み締めた。
間違っているのは僕じゃない。先生、貴方の方だ。
「エル、やっぱり帰ろう」
自分が殴られたり罵倒されるのは慣れているので構わないが、自分と歩いていればエルにまで被害が及ぶかもしれない。それは、流石に耐えられなかった。
自分は一応は教師であるわけで、外での行動はそのまま学院に伝わってしまう。絡まれても自分か生徒が殴られるまでは抵抗できない。セシルから攻撃すれば、確実に責め立てられる。出来れば恩のある学園長に迷惑はかけたくないし、エルを危険な目に合わせる可能性がある以上は中断したほうがいいだろう。
「まだ出たばかりだ」
「……俺と歩くのは止めたほうがいい。視線に気づいていないわけじゃないだろ」
「嫌だ。何故、俯かなければならない。貴方は何も悪いことをしていないんだ。胸を張ればいい」
違う。これは、そういう問題ではない。一人であれば視線なんてどうだっていいが、今はエルが居るのだ。いつも通りという訳にはいかなかった。
けれど、エルは力強くセシルの腕を掴むと、通りを歩いていく。振り払わなければいけないのは分かっているのに、友人と出掛けるなんてことしたことがなかったので躊躇ってしまった。それが間違いであったのだと気づいたのは、割とすぐのことだったのだが。
平和ボケしていた。この事態は、自分の迂闊さが招いたことだろう。エルが服を選んでくれて、セシルは初めての経験に少し浮かれてしまった。そのせいで付けられていることに気づくのが遅くなったのだ。気づいたときには囲まれていて、エルは後ろから鈍器で殴られて取り押さえられてしまった。
「こいつが心配なら抵抗すんなよ」
「……しないから、エルを離してやってくれ」
「なら、そのご立派な剣を投げな」
エルの身柄があちらにある以上は、抵抗は得策ではないだろう。セシルは腰から鞘ごと剣を取り、相手に向かって放り投げた。男たちはセシルを取り囲むとジリジリと距離を詰めてくる。その目には情欲が籠もっていた。
「悪魔め。お前をひと目見たときから、俺は可笑しくなっちまったんだ」
悪魔、悪魔と自分を謗る音に囲まれながらセシルは溜め息をついた。もう聞き飽きるほど耳にしてきたせいで特に傷つきはしない。けれど、悪魔と蔑みながら、性欲を灯して睨みつけてくる彼らの気持ちが全く持って理解できなかった。今からでも全員蹴り飛ばして逃げたいが、エルを放っていくこともできない。
この場にいる全員を相手にした後の尻が心配になるが、この様子だと恐らくは命までは取られないはずだ。なら、もういいか。と、若干遠い目になる。
かみさまは、汚されたセシルを見てがっかりするだろうか。それだけが少し心配だった。
「止めろ! 先生に触るな!」
「黙ってろよ」
「ぐ……っ!」
エルが必死に叫ぶが、腹を殴られて黙らされるのが見えた。
「エル!」
「あんたは大人しくしな。大事な生徒を傷物にしたくないだろ?」
「……下衆が」
押し倒されたまま男を睨みつけるが、男は唇を舐めると更に興奮したように熱い息を吐いた。腹に押し付けられた熱が何かは考えたくない。
「先生から手を離せ……」
その時、エルが地を這うような声で言った。男たちはセシルに意識を向けているせいで気づいていないが、エルの体が光を纏ったように淡く輝き始める。
けれど、それが何かを知る前にセシルの上にいた男が突然仰け反った。男は喉を掻きむしりながら、信じられないことに口から火を吐いた。濁音混じりの悲鳴を飛び散らせながらも横に倒れ、そのまま痙攣した後に動かなくなる。男の口からは鎮火した後のように黒い煙が上がっていた。
「え……?」
呆然としていると、何も無かったはずの空間から火が巻き上がった。それはセシルの周りを取り囲み、まるで守るかのように火柱を上げる。それは、まるで炎の檻だった。
「……かみさま?」
周りの男たちがセシルを悪魔と罵って逃げていくが、今はそんなことはどうだって良かった。
こんなことが出来るのは、かみさまの他にいない。セシルは状況も忘れて、きょろきょろと辺りを見渡した。
「かみさま! かみさま何処ですか……っ!」
居るのならば一目でもいいから顔が見たかった。火が消え去っていくのが待てずに飛び出すが、その炎がセシルを傷つけることはない。それで確信した。これはかみさまの力だ。近くにいるのだと分かり、セシルは喉の痛みを堪えて腹の底から声を押し出す。
「かみさま! ずっと貴方に会いたかったんですっ。一言だけでもいいから声を聞かせてください……!」
自然と声に弱さが滲み、セシルは半ば喚くようにかみさまを呼んだ。けれど、応えてくれる声はない。
幸せが足りないのか。だから、かみさまはまだ迎えに来てくれないのかもしれない。
「かみさま……っ、かみさま……!」
抱き締めてください。冷たい手で頭を撫でてください。他の誰かではなく、貴方の手がいい。
セシルは壊れたように、何度もかみさまを呼んだ。そんなセシルの背を、繋ぎ止めるように抱き締めてくる腕がある。エルのものだと分かったけれど、それを振り払ってセシルは離れていくかみさまの気配に必死になって手を伸ばした。
「先生! しっかりしろ! アレは違う!」
「かみさま……っ!」
「先生っ、駄目だ! 行かないでくれ、頼むから……!」
地面に引き倒されて、セシルは縋るように爪を立てた。
何十年振りに気配を感じただろうか。そして、また次を待つのだと思うだけで、体が引き千切られるような痛みを覚える。ずっとかみさまの存在を感じていたいのに、また薄れていく。どうして傍にいてくれないんだろう。
先生、先生、と。今にも泣きそうなほど震える声が縋り付いてくるが、かみさまの姿を探すセシルの耳には届かない。
「先生……僕を見てくれ……」
「…………かみさま」
力を込め過ぎたのか爪が折れて、ズキリとした痛みを感じた。血が滲んだ指を労わるように温かな手が触れる。これは違う。セシルは、ぼんやりとそう思った。
どれだけ、そうしていたのだろうか。気づけばエルに手を引かれて、学院の廊下を歩いていた。かみさまのことで思考が埋め尽くされていたから殆ど記憶はないが、なんとなくエルが宥めてくれたことは覚えている。
セシルからはエルの顔を窺うことは出来ない。けれど、その背からは張り詰めた空気が感じられた。
「……なあ、先生。全部、初めからやり直さないか」
唐突過ぎる言葉に、思わず足を止める。エルはセシルを振り返ると、その手を頬に伸ばしてきた。そっと頬を包むようにして顔を上げさせられて、目を瞬かせる。エルは痛みを堪えるように不格好な笑みを浮かべて、セシルの頬を撫でた。
「先生は初めを間違えたんだ。だから、その命を神に返し、もう一度やり直す必要がある」
「……何を言っているんだ?」
エルは「ははっ」と渇いた笑い声を上げた。口は笑みの形に歪んでいるのに、その目は全く笑っていない。それに恐ろしさを覚えて離れようとするが、腰に手を回されて阻まれる。
「何を、言っているんだろうな。僕にも分からない。今の先生が好きなのに、悪魔に囚われている貴方に腹が立つ」
唇が近づいてきて、咄嗟に顔を背けた。けれど、そのまま首筋に口付けられて、セシルは驚きに肩を震わせる。
「どうしたんだ。幸せになるのが貴方の義務なんだろ。幸せにしてやるよ」
自棄になったような笑みに混乱しつつも、セシルは首を横に振った。
「男同士は一般的に認められていない。幸せになれるとは思えない」
「……女を抱いて子を設けて、絵に描いたような幸せが欲しいのか? 違うだろ。先生は神様って奴に認められたいだけだ!!」
肩を勢いよく掴まれて、壁に叩きつけられる。痛みに顔を歪めるが、エルは力を弛めるどころか更に強く押し付けてきた。
「先生のそれは愛か? 質の悪い依存だろ!!」
間近で叫ばれて、ビリビリとした圧に肩が跳ねた。珍しくエルは激高しているようだ。常ならば落ち着いている彼がここまで怒っていることに驚きはしたものの、セシルは瞼を震わせてゆっくりと目を開ける。そうして真っ直ぐに瞳を見つめ返すと、エルは何故か怯えたように手に力を込めた。その手は襲い来る感情を力任せに抑えるように震えている。
「それを決めるのは俺だ。少なくともエルじゃない。俺は、かみさまを愛している」
「……そう、やっぱり一度生まれ変わろうか。先生は汚染されてるんだよ。大丈夫、天界で綺麗にしてあげるから」
もう殆ど、エルが何を言っているのか分からない。セシルは少しだけ、目の前の生徒のことが恐ろしく思えた。
エルの温度がある指先が、セシルの頬を撫でていく。確かに熱がある筈なのに、セシルはそれに寒気を覚えて背を震わせた。耳朶をくすぐられて顔が近づく、エルの吐息が頬を撫でていきセシルは突き飛ばすべきか少し悩んだ。エルとそういった関係になるつもりは全くない。生徒として大事に思っているが、それと恋愛感情は別だ。
「なあ、先生。香炉って知ってるか?」
脈絡が無さ過ぎて混乱する。けれど、話しがずれたことに安堵したセシルは、それに乗ることにした。
「……香りを、楽しむものだろ。俺には縁がないけど、エルは好きなのか?」
「そうだな。ああ……少し楽しみだ。明日、いい香炉をプレゼントしよう」
それがかみさまを苦しめることになると、セシルは知らなかった。香炉の中に潜ませた魚の内臓が、かみさまを追い立てていることに気づかなかった。
「エル?」
背にセシルの声を聞きながら、エルは悪魔を追って部屋を飛び出した。神の目が及ぶ人間界に置いて、悪魔の力は制限される。セシルに知恵を授けることも、魔法を使うことも、この世界に置いては悪魔にとって毒でしかない。
魔界に帰って力を取り戻そうとしたのだろう。飛び立とうとするデウスの薄汚い翼を掴み、エルは躊躇いなく引き千切った。デウスは苦痛に顔を歪めたものの悲鳴を上げることなく、どしゃりと受け身すら取ることもできずに地に落ちる。
デウスは額にびっしりと汗をかき、カリカリと力なく地を引っ掻く事しかできないようだ。その無様な様子に少しだけ溜飲が下がるものの、デウスが「セシル」と唇を動かしたのが見えて苛立ちがぶり返す。想い人を案じる只の人としての顔をしたことに、やけに腹が立った。
デウスは緩慢な動作で顔を上げると、屈辱に顔を歪めたようだった。
「……怪しいなあと思ってたけど、やっぱり天使かよ。セシルが楽しそうだからって、見逃すんじゃなかったな……」
悪魔の癖に、普通の人間のようなことを言うからラファエルは激しい苛立ちを覚えた。感情のまま腹を蹴り飛ばすと、デウスは体をくの字に折り曲げて血反吐を吐く。セシルを襲おうとした人間を退けたことで、恐らくデウスの体は既に崩壊しかけているのだろう。人を貶めるように作られている悪魔が、人を救おうとすることは理に反している。幾ら大罪を司る悪魔だとしても、それに逆らうことは出来ない。
悪魔が人間振るなんて気色の悪いことをするからだ。ラファエルは舌を打ち、もう一度デウスの腹を蹴り上げた。デウスは苦痛に呻きはしたが、下級悪魔と違って四散することはない。腐っても大悪魔だ。天の力をもってして弱らせることは出来ても、存在そのものを消し去ることは出来ない。
「悪魔が、先生を気安く呼び捨てるな」
胸ぐらを掴んで持ち上げてやると、背の傷が痛むのかデウスは短く息を詰めた。
「今を正さないといけないんだ。このままだと先生は魔に堕ちてしまう。これは正当な裁きだ。先生の今までの善行を考えれば、貴様に堕とされる未来は間違っている」
「……はっ、長ったらしい言い訳してもやることは変わらない」
デウスはラファエルを嘲るように口の端を歪めた。
「君は、俺が羨ましいだけだろ」
心臓を殴りつけられたような気がした。それほどの衝撃だったのだ。天使が悪魔を羨むことなど有り得ない。そう言ってやればいいのに、口は全く動かなかった。
初めは珍しい例に興味が引かれただけだった。けれど、何時しか先生の微かに笑んだ顔が好きになった。その顔には常に寂しげな色が浮んでいたが、いつだって生徒のことを優しく見守ってくれたから。
先生の目が、意識が。いつだって何かを探すように四方に向けられている。それが悪魔の気配を探ろうとしているのだと知ったとき、胸を掻きむしられるほどの焦燥を覚えた。
きっと、先生は騙されているのだ。だから、僕が解放してあげないといけない。
「先生は僕が守る」
悪魔が全てを見透かしたように目を細めたので、ラファエルは唇を噛み締めた。
間違っているのは僕じゃない。先生、貴方の方だ。
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