幸福な死体【完結】

米派

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番外編2

帰れない過去3

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※屋敷を脱出する前の過去話。




ロビー中央に据えられた置時計に視線を投げてから、そろそろ呼びに行くべきかと通路に目を向ける。出立の時刻が迫っているというのに、ジークベルトは未だに姿を現さない。

ジークベルトは余程のことがない限り、あまりディルク様を他人に触れさせたくないようだった。そのため暫くは夜会なども断っていたようだが、顔も出さずに領地に籠りきりでは本意を疑われる可能性もある。ジークベルトとしてもディルク様を囲っている事実がある以上、変に周囲を嗅ぎ回られたくないのだろう。今回は国王が主催するものということもあって足を運ぶことにしたようだ。とはいえ、やはり乗り気ではないようで、姿を見せないジークベルトを待つ使用人たちは戸惑った様子だった。

そんな彼らを宥めてから、廊下の先へと靴を向けた。自室にいないのであれば、居場所はもう決まりきっていた。

屋敷の中でも奥まった、薄暗い通路の先にある部屋。ジークベルトが寝室代わりにしている扉をノックする。雑に返される声に苦い気持ちになりつつも扉を開ければ、案の定、そこにはジークベルトがいた。夜会用の服に身を包んだジークベルトは、こうしてみればご令嬢たちに噂されるのも納得するほどの美貌だ。けれど、冷たくも美しいと称される瞳は、幼い頃から一心にただ一人にしか注がれない。

昔から、だっただろうか。わからない。お二人の一番近くいたのは俺だったはずなのに、それが何処から歪に捻じれていたのか。それに早く気づくことが出来ていたなら、俺は何か出来たのだろうか。もっと別の今が、あったのだろうか。そんなことを何千と考えてきて、結局、未だに答えに辿り着けずにいる。きっと、もうそんなものは何処にもないと分かっているのに、無駄に思考を回すことを止められない。

きつく瞼を閉じて、開けた。捻じれて解けなくなった思考から目を逸らすのは、もう慣れた。

「ジークベルト様、出立のお時間が迫っております」
「……ああ、もうそんな時間なんだ」

膝上に乗った銀髪を撫でながら、ジークベルトはこちらも見ないで言った。ぐったりと脱力したディルク様の首には、指の形をした内出血がいくつか見える。うなじには、まだ新しい嚙み痕に血が滲んでいた。

眠った後で優しくするのであれば、普段からもう少し柔らかく接して差し上げたらいいのに。今は黙っていることしか出来ないとはいえ、こうしたディルク様の姿を見るたびに眼前の男の横面を殴りつけてやりたくなる。

早く、早くディルク様を此処から連れ出してしまいたい。俺だったら彼にこんな傷などつけはしない。そう考えてしまう自分もまた、ジークベルトとそう変わりはしないのかもしれない。

彼の望みを知っていて、目を逸らし続けている。自分が納得のいく言い訳を並びたてて、婚約者に連絡を取ろうともしない。……俺と、この男の何が違うのだろう。わずかに違いはあっても、結局は同じ人を欲しがっている。

「……見送りはいい。目を覚ましたら、食事を用意してやって」

ジークベルトはディルク様を抱き起すと、名残惜しそうに額に唇を触れさせる。そして、億劫そうにソファから立ち上がった。

「世話は最低限でいい。湯浴みは帰ってきたらさせるから、余計なことはするなよ」
「畏まりました」

ジークベルトは横目で俺を見たものの、何も言わずに部屋を出ていった。

「ディルク様……」

ソファの前に膝をつき、真新しい傷跡に手を伸ばす。気休め程度ではあるが、消毒を施してからハンカチを押し当てた。もう殆ど止まっていたのか、布に少し付く程度だ。

痛々しい傷跡を前に、眉間に皺が寄る。早く治ればいい。そう思いはするが、ジークベルトが帰ればまた新しい傷が増えることは容易く想像ができた。苦い気持ちが腹の底にわだかまり、ぐっと唇を噛み締める。

不意に睫毛が震えて、ゆったりと持ち上げられた。紫水晶の瞳が瞬きのたびに光を弾いて、鮮やかに煌めく。あの日、庭園で見送ったときの彼と何ひとつ変わらないのに、くしゃりと視界が歪んでみえた。不思議そうに瞬きを繰り返す瞳は今だけは俺を映してくれるけれど、それがもう永遠ではないことを知っている。こうして顔を合わせるのも何度目かになるが、その度に間隔が空くので覚えていられないのだろう。

「こんにちは。少しの間、貴方のお世話をさせていただきます。ユーリオと申します」
「うぅ……?」

俺を見下ろしたまま、彼は首を傾げた。こうして挨拶を交わしたのは何度目だろう。もう慣れたと思っていたのに、油断すれば込み上げてくる寂寥感を飲みこめば、ぐうと喉奥が奇妙な音を立てた。重ねた時間が、言葉が、もう彼の中に一つも残っていないのだと突き付けられているようで。仕方がないことだと頭では理解していても、名を呼ばれない寂しさを拭いきることができない。ユーリオ、と。そう呼んでくれた彼のやわらかな声が、反芻させるたびに擦り切れて消えていくような気がする。

「……お食事の準備をしますね」

そっと髪を撫でてから、食事を用意するために部屋を出る。

ディルク様は目覚めてからというもの生肉しか受け付けられない体になってしまった。元々、魔力保有量が多い方だったので、他人の血肉ごと魔力を喰らうことで生命活動を維持しているのだろうか。前例がないので理由は定かではないが、食事を切らすことで起こる事態を恐れてか。ジークベルトが屋敷を離れざる得ない場合には、俺に役目が回ってくることが多かった。

肉の入った袋を手に戻れば、空腹に耐えきれなかったのかディルク様が床に転がっていた。両腕を背で纏められているというのに、彼はお構いなしで動き回ることが多々ある。ソファやベッドから落ちて痣を作ることも多いのに、どうにもじっとしていられないらしい。

「申し訳ございません。お待たせしてしまいましたね」
「んうぅぅぅ」
「お怪我は……ないようで良かったです。一度、ソファに戻りましょうか」

背に腕を回すようにして抱き上げる。幼い頃の大部分を部屋で過ごしていたせいか、彼は年齢の割りにかなり小柄だ。学園で過ごす間に多少なりとも伸びたようだが、やはり男性にしては華奢な方だと思う。とはいえ、見た目通りではないからこそ、こうして拘束されているのだろう。

幼少から身軽な方で、魔法が使えない代わりにと、かなり武術にも力を入れられていた。記憶はなくても、体はそれを覚えているらしい。俺が世話を任されるようになった頃には既に拘束された状態だったので、恐らくそういうことだろう。

「あう、うっ、うぅ」

無意識に見つめ過ぎていたらしく、彼は身を捩るようにして俺に擦り寄ってきた。血の匂いが、空腹を刺激したのだろう。視線はどす黒く染まった袋に釘付けで、強請るように胸に頭を押しつけてくる。染みついたその動きはきっと、ジークベルトにも同じようにしていることが知れた。今の彼にとって大切なのは限りない空腹を満たせる肉だけで、それを与える人間が誰であれ関係ないのだろう。

口許が、歪な笑みを刻む。それを分かっていて、それでも跳ねる心臓が酷く惨めだった。

「ディルク様」

手を伸ばすと、彼は少しだけ怯えたように瞳を揺らした。まだ少し腫れた頬を指先で撫でれば、びくりと小さく肩が揺れる。記憶が保てないからといって、繰り返し行われる行為に傷ついていないわけではない。体に残る傷と同じように、きっと見えないだけで心にもあるのだろう。

「おれ、は……」

自分でも何を言いたいのか。わからないまま口を開いて、結局、言葉にすることが出来なかった。胸の辺りを覆った靄の正体を知ることが、どうしようもなく怖い。それを直視してしまったら、もう二度と本当の望みが叶わないという確信があった。

「……このままではお辛いでしょうから、少し体勢を変えましょうか」

ソファの背に体を預けるように座ってもらい、袋を机に置いてから猿轡を外すと、もう限界だったのかディルク様はぐっと身を乗り出してきた。机ごと倒れないように咄嗟に腕を回すと、彼は不満そうに唇を尖らせる。どうして食事の邪魔をされたのか分からないのだろう。小さく呻いて抗議するディルク様の口許に肉を運ぶと、彼は嬉しそうに目を細めた。

「あっ、あうっ」

どろどろと、ぬめりを帯びた血液が手を伝って肘まで濡らしていく。匂い立つのは花の香りなどではなく、鉄臭さが鼻孔を貫いた。昔と変わらない笑みを浮かべたディルク様が目の前で血に染まっていくのを、俺はどこか遠くで見ているような気分だった。

ディルク様の白い歯が、心臓の膜を突き破る。溢れ出したそれは彼の口許を染めて、顎先から垂れ落ちた残骸がどろりとした糸を引いて膝を濡らした。陽の下で弾けるように笑ったディルク様の姿が、声が、仕草が。その全てが、血に塗れてぼやけていく。

「ん、ん……っ」

ぺろぺろと指先に擽るようにして触れる舌の熱さで、意識が返ってくる。すべてを食べ終わった彼は名残惜しそうに俺の手についた血を舐めとっていた。幸いにも腹が満たされているお陰か、指を食い千切られるということもなかったらしい。食事の最中に他に意識を向けていた俺が悪いので何も言えないが、とりあえず五本とも無事なことに胸を撫で下ろした。

赤く汚れた口許を拭くと、ディルク様は満足そうに息をついた。食事も終えたので、猿轡を付けなおせば後は立ち去るだけだ。あまり長居していては、この場所を知っている他の使用人に怪しまれるだろう。そう分かってはいても離れ難いと思ってしまう。こうして彼に会える機会は多くない。だからこそ、あと少しだけと望んでしまう。

「ディルク様」

腹が満たされているからか、抱き寄せても暴れられはしなかった。ただ行為の意味が分からないのか不思議そうに俺を見上げるだけだ。

抵抗できない彼を抱き寄せて、思わず自嘲の笑みを溢した。生前には触れることすら躊躇っていたくせに、今になって欲が湧いてくる。一度は見送った人だ。けれど、もう少しで貴方に手が届く気がする。

ずっと、ディルク様が欲しかった。

本当は傍に置き続けてほしかった。他の男など選んで欲しくはなかった。どんなに物分かりがいい振りを装ったところで、奥底にある欲が消えることはない。欲しいと喚き続けるみっともない自分を、切り離すことが出来ないままだ。

「ディルク様、お慕いしております……俺はずっと、貴方のことが好きなんです」

ディルク様は俺を見上げるばかりで、俺が何を言っているのか分かっていないようだった。

「他の誰よりも、貴方を大切にします。だから……どうか、俺と一緒になってください」

言葉が返ってこないことを知りながら、身勝手に愛を注ぎ続ける。

「あ、ぁい、ざっく」

たどたどしく繰り返される言葉の意味には、気づかない振りをした。




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