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12歳の疾走。
閑話 ラーメン屋の話。
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若者は串焼き屋台の主だった。名はハル。炭に火を起こし、塩を打ち、肉を返す。その単調な手つきの裏で、耳は別の音を追っていた。湯切りのシャッ、出汁のコトコト、麺をすするズズッ。
「……あれが“ラーメン”か」
運河開通前夜祭で初めて口にしたとき、彼の体の中で何かがひっくり返った。スープの奥に骨と野菜の影、香味油が鼻にのぼり、麺の弾力が歯に踊る。気づけば二杯目をすすり、三杯目に手が伸び屋台の釣り銭が足りなくなって青くなる始末である。
翌日、ハルはルステイン料理ギルドに飛び込み、大枚をはたいて「基準レシピ」を買った。出汁の取り方、麺の配合、醤油だれの作り方。紙束を抱えて家に帰ると、家族は呆れ半分、笑い半分だった。
「串焼きはどうするのさ」
「夜は焼く。朝と昼は研究だ」
その日から、炭の匂いに混じって、鶏ガラと香味野菜の湯気が家に満ちた。
問題は“自分の味”だった。レシピ通りに作れば旨い。けれど、それは“誰かの味”でしかない。夜更け、台所の片隅で、ハルは丼の前で腕を組む。
「光が、足りない気がする」
翌朝、彼はふと思い立ってロスハーン神殿へ足を運んだ。光の神の神殿では、保存食や香辛料、市販の味噌が並んでいる。
「この味噌、スープに入れたら怒られるかな」
「怒られはしませんよ」
と神官が笑った。
「あなたが誰かを温めるなら、ロスハーンは喜びます」
ハルは味噌を三種買った。白、赤、そして香りの強い“祝味噌”。鍋に溶かし、焦がしてみて、炙ってみて、香味油と合わせ、塩を引いては戻す。
「違う。ちょっと違う。けど、近い……!」
試行錯誤は1ヶ月続いた。ある朝、祝味噌を少量だけ鉄の小鍋でさっと焼き、鶏スープに溶き入れてから、最後に海藻の香りを一滴……湯気が立った瞬間、彼は直感した。
「これだ」
ただ一つ、問題があった。判定役がいない。そこでハルは、無謀を承知でリョウエストに試食を願い出た。
「忙しいだろうに……」
「時間は短いけれど」と執事ストークは笑って、昼の刻限にアトリエの裏庭を貸してくれた。
緊張で手が震える。丼を温め、麺を泳がせ、湯切り、味噌だれ、スープ、香味油、刻んだ香草、炙り豚。
「お待たせしました」
リョウエストは湯気の向こうで箸を取り、一口すすり、目を丸くした。
「……これ、味噌ラーメンじゃん」
ハルの膝が抜けそうになる。リョウエストは続けた。
「光の味がする。ロスハーン神殿の味噌でしょ? 定期的に、主神リーリシアと六大神殿にこれを奉納してくれる? “祈りの湯気”って名目で」
「ほ、奉納……ぼ、僕が?」
「うん。こっちで手配する。あと、店をやるなら衛生基準と価格の約束ね。それから」
リョウエストは小袋をストークに受け取らせ、ハルへ渡した。
「出資。屋台を改修して、火を安定させる。人手が足りなければ家族を頼って。捨て鉢にならないこと。やり過ぎ注意」
袋は重かった。夢の重さに似ていた。
こうしてハルの屋台は、ラーメン専用に改修された。二重鍋、温度計、スサン商会の小型バーナー。看板には「光味噌ラーメン」の文字。開業初日から列は途切れなかった。
「すするの初めて!」
「体が温かくなるねぇ」
「これ、神殿の味がする」
忙しさは嵐のようで、やがて一人では回らなくなる。母は刻み担当、父は炙り担当、妹は配膳、近所の従兄は洗い場。家族総出の屋台は、夜更けまで湯気を絶やさなかった。
売り上げが安定すると、商業ギルドの書記が声をかけてきた。
「君の屋台、そろそろ店にしないか。運河沿いは今、金の匂いがする」
ハルは迷った。屋台には自由がある。けれど、店には責任と居場所がある。
「……やります。店を」
ギルドは場所を見繕い、スサン商会が設備の手配をし、神殿は奉納の段取りを整えた。開店の日、のれんを揺らした風が、屋台の日々を祝ってくれた気がした。
店は繁盛した。昼は工房の職人、夕は商人、夜は見物の旅人。水竜人は出汁を褒め、ドワーフは器の鳴りを褒め、小人は麺の腰にうなる。おばあさん達は「指で歌わせるスープだね」と笑って通ってくれた。
奉納の日には、ハルは大鍋を担いで神殿を回る。
「主神リーリシアへ、六大神へ。今日もこの湯気で、人を温めます」
神官たちは器を受け取り、祈りを一息、湯気に添えた。
繁盛のうち、ハルは一つの決心を固めた。長く思いを寄せていた相手――織物店の看板娘、エナに、プロポーズをする。今まで“高嶺の花”だと諦めてきた。けれど、自分の丼の湯気は、もう逃げない温度になった。
「エナさん。ぼ、僕の味を、これからも一緒に見てくれませんか」
エナは少し驚き、それから笑った。
「あなたの味、ずっと好きだったよ。串焼きの頃からね」
答えは、はい、だった。店の奥でささやかな祝杯を上げ、ハルは丼の底に映る光を見つめた。
夜更け、店じまい。寸胴を洗い、火を落とし、のれんを外す。ハルは戸口に立ち、深く頭を下げた。
「ありがとうございました。また明日」
通りの向こう、アトリエの灯が小さく瞬く。風に乗って、誰かの笑い声が聞こえた気がした。やり過ぎ注意、と言う声も。
ハルは胸の中で返事をした。
「はい。やり過ぎないくらいに、全力で」
こうして、しがない串焼き屋台の若者は、光味噌ラーメンの主人となり、家族とともに店を営み、神殿に湯気を奉り、愛する人と歩き出した。湯気は今日も客の顔を優しく包み、スープの底には小さな光が揺れている。
それは、ルステインという街の光であり、彼自身の、成功の光でもあった。
「……あれが“ラーメン”か」
運河開通前夜祭で初めて口にしたとき、彼の体の中で何かがひっくり返った。スープの奥に骨と野菜の影、香味油が鼻にのぼり、麺の弾力が歯に踊る。気づけば二杯目をすすり、三杯目に手が伸び屋台の釣り銭が足りなくなって青くなる始末である。
翌日、ハルはルステイン料理ギルドに飛び込み、大枚をはたいて「基準レシピ」を買った。出汁の取り方、麺の配合、醤油だれの作り方。紙束を抱えて家に帰ると、家族は呆れ半分、笑い半分だった。
「串焼きはどうするのさ」
「夜は焼く。朝と昼は研究だ」
その日から、炭の匂いに混じって、鶏ガラと香味野菜の湯気が家に満ちた。
問題は“自分の味”だった。レシピ通りに作れば旨い。けれど、それは“誰かの味”でしかない。夜更け、台所の片隅で、ハルは丼の前で腕を組む。
「光が、足りない気がする」
翌朝、彼はふと思い立ってロスハーン神殿へ足を運んだ。光の神の神殿では、保存食や香辛料、市販の味噌が並んでいる。
「この味噌、スープに入れたら怒られるかな」
「怒られはしませんよ」
と神官が笑った。
「あなたが誰かを温めるなら、ロスハーンは喜びます」
ハルは味噌を三種買った。白、赤、そして香りの強い“祝味噌”。鍋に溶かし、焦がしてみて、炙ってみて、香味油と合わせ、塩を引いては戻す。
「違う。ちょっと違う。けど、近い……!」
試行錯誤は1ヶ月続いた。ある朝、祝味噌を少量だけ鉄の小鍋でさっと焼き、鶏スープに溶き入れてから、最後に海藻の香りを一滴……湯気が立った瞬間、彼は直感した。
「これだ」
ただ一つ、問題があった。判定役がいない。そこでハルは、無謀を承知でリョウエストに試食を願い出た。
「忙しいだろうに……」
「時間は短いけれど」と執事ストークは笑って、昼の刻限にアトリエの裏庭を貸してくれた。
緊張で手が震える。丼を温め、麺を泳がせ、湯切り、味噌だれ、スープ、香味油、刻んだ香草、炙り豚。
「お待たせしました」
リョウエストは湯気の向こうで箸を取り、一口すすり、目を丸くした。
「……これ、味噌ラーメンじゃん」
ハルの膝が抜けそうになる。リョウエストは続けた。
「光の味がする。ロスハーン神殿の味噌でしょ? 定期的に、主神リーリシアと六大神殿にこれを奉納してくれる? “祈りの湯気”って名目で」
「ほ、奉納……ぼ、僕が?」
「うん。こっちで手配する。あと、店をやるなら衛生基準と価格の約束ね。それから」
リョウエストは小袋をストークに受け取らせ、ハルへ渡した。
「出資。屋台を改修して、火を安定させる。人手が足りなければ家族を頼って。捨て鉢にならないこと。やり過ぎ注意」
袋は重かった。夢の重さに似ていた。
こうしてハルの屋台は、ラーメン専用に改修された。二重鍋、温度計、スサン商会の小型バーナー。看板には「光味噌ラーメン」の文字。開業初日から列は途切れなかった。
「すするの初めて!」
「体が温かくなるねぇ」
「これ、神殿の味がする」
忙しさは嵐のようで、やがて一人では回らなくなる。母は刻み担当、父は炙り担当、妹は配膳、近所の従兄は洗い場。家族総出の屋台は、夜更けまで湯気を絶やさなかった。
売り上げが安定すると、商業ギルドの書記が声をかけてきた。
「君の屋台、そろそろ店にしないか。運河沿いは今、金の匂いがする」
ハルは迷った。屋台には自由がある。けれど、店には責任と居場所がある。
「……やります。店を」
ギルドは場所を見繕い、スサン商会が設備の手配をし、神殿は奉納の段取りを整えた。開店の日、のれんを揺らした風が、屋台の日々を祝ってくれた気がした。
店は繁盛した。昼は工房の職人、夕は商人、夜は見物の旅人。水竜人は出汁を褒め、ドワーフは器の鳴りを褒め、小人は麺の腰にうなる。おばあさん達は「指で歌わせるスープだね」と笑って通ってくれた。
奉納の日には、ハルは大鍋を担いで神殿を回る。
「主神リーリシアへ、六大神へ。今日もこの湯気で、人を温めます」
神官たちは器を受け取り、祈りを一息、湯気に添えた。
繁盛のうち、ハルは一つの決心を固めた。長く思いを寄せていた相手――織物店の看板娘、エナに、プロポーズをする。今まで“高嶺の花”だと諦めてきた。けれど、自分の丼の湯気は、もう逃げない温度になった。
「エナさん。ぼ、僕の味を、これからも一緒に見てくれませんか」
エナは少し驚き、それから笑った。
「あなたの味、ずっと好きだったよ。串焼きの頃からね」
答えは、はい、だった。店の奥でささやかな祝杯を上げ、ハルは丼の底に映る光を見つめた。
夜更け、店じまい。寸胴を洗い、火を落とし、のれんを外す。ハルは戸口に立ち、深く頭を下げた。
「ありがとうございました。また明日」
通りの向こう、アトリエの灯が小さく瞬く。風に乗って、誰かの笑い声が聞こえた気がした。やり過ぎ注意、と言う声も。
ハルは胸の中で返事をした。
「はい。やり過ぎないくらいに、全力で」
こうして、しがない串焼き屋台の若者は、光味噌ラーメンの主人となり、家族とともに店を営み、神殿に湯気を奉り、愛する人と歩き出した。湯気は今日も客の顔を優しく包み、スープの底には小さな光が揺れている。
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