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14歳の助走。
スクワンジャー公爵家にて。
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スクワンジャー公爵家の夜会は、灯りの置き方が相変わらず見事だった。広間の光は強すぎず、庭へ続く回廊には月明かりが薄く差す。楽は人の会話を邪魔しない高さで流れ、給仕の足音は床に吸い込まれていく。入口で挨拶を済ませて一歩進むと、すぐに香の柔らかな風と、色とりどりの衣装の波に飲み込まれた。
挨拶を返しているうちに、妙齢の女性たちの輪が自然と形を成す。家の出自をさりげなく語る人、最近読んだ詩の話題を振る人、空の船の噂を確かめたがる人。笑顔はみな上等で、問いはどれも角がない。僕は杯を受け取り、口を湿らすだけにして、受け流す言葉を短く選ぶ。話が長くなりそうなときは、相手の家の近況を先に聞く。自分の話は二歩目でよい。
「君は、早く婚約者を決めることだな」
笑い声と一緒に、背中から軽く叩かれた。スクワンジャー公爵だ。肩を並べて歩調を合わせると、公爵は顎を少し上げて広間を示す。
「君が思っているより、君を狙っている女性は多い。あれもこれも、ではなく、一つを選ぶ練習は若いうちからだ」
「肝に銘じます。……今季は学びが先で、僕の歩幅は短いままです」
「それが良い。選べる側は、選び方を誤ると敵を作る。君は敵を作らないほうが働ける」
公爵は人垣を割って、年嵩の貴族たちが談笑する一角へ手を伸ばした。そこに座していたのは、元スクワンジャー公爵。先王の弟であり、今は長老たちの中心だ。呼び止められ、僕は歩を進める。年配の方々の視線はきつくない。ただ、よく見ている。
「来たな」元公爵は短く言い、周りに視線を回した。「この若者のことは耳にしておろう。だが、耳より先に、今日ここで言っておく。先王と先王妃に、この者は最後までよく尽くした」
輪がわずかに静まる。元公爵は大きな声を要さない人だ。短い言葉でも、広間の空気を変える。
「食の整え、話し相手、散歩の付き添い。空の船の遊覧、そして別れ方まで。どれも派手ではないが、王家にとっては重かった。わしは見ていた。侍従も見ていた。最後に残った仕事を、静かにやり通した」
年長の一人が小さく頷く。銀の髭を撫で、杯を置いた。
「聞いておったが、本人の前で礼を言おう。よくやった。あの家に長く仕えてきた身として、助かった」
「ありがとうございます。僕は、してよいことをして、してはならないことを避けただけです」
「それが難しいのだよ」
別の長老が笑った。目尻に皺が寄り、声の芯は温かい。
「何かあったら言うようにな。無理は利かん体だが、手紙を書くくらいはできる」
「うちも一筆なら役に立とう。王立学寮の古い蔵書がいる時は、司書長より先にわしに言え」
「道のことなら、息子がまだ口が利く。橋が要るなら図面を見せよ」
次々と差し出される言葉は、恩着せがましくない。それぞれの家で長く積み上がった石のように、乾いていて、重い。僕は一つひとつに礼を言い、必要になった時にお願いする、とだけ答えた。元公爵が横目で僕を見る。
「名を出さんやり方は、敵を減らす。だが、味方にしてよい者には名を出してよい。区別を誤るな」
「はい」
「それから、食の話だ。しゃぶしゃぶとやら、あれは老いにも優しい。今夜の卓にも出るのか」
「エフェルト公爵家で出したものを、今夜の厨房が少し改良してくださっているようです。薄い湯で短く、香りは強すぎない配合で」
「よいよい。歯が立たずとも食べられる。長生きの知恵だな」
輪から離れたところで、公爵が肩をすくめる。
「長老たちに可愛がられるのは簡単ではない。今夜の二、三言で十分だ。あとは飲み過ぎず、捕まらず、約束を増やしすぎないこと」
「肝心なところで短く、ですね」
「そうだ。……ところで、君の杯は減らないな」
「最近、お茶で失敗しかけたので」
「ふむ。賢明だ」
楽が一段落し、舞踏の前の緩い波が広間を撫でた。壁際で控える給仕が姿勢を正し、杯の巡りが少し早くなる。僕は庭に抜け、夜気を吸う。回廊の向こうで、青の技の気配が薄く揺れ、アインスが一瞬だけ指先を見せて消えた。異常なし、の合図。
戻ると、女性たちの輪がまた近づいてくる。圧はない。けれど、視線には確かな熱がある。スクワンジャー家の夜会には、派手な口説き文句は似合わない。代わりに、家の蔵書の話、慈善の催しの話、歌の話。僕は短く応じ、相手の話を少し長く聞く。話の終わりに、二行の紙を渡す約束だけを残す。会えば会うほど増やしてしまう約束は、薄く軽く、小さく切る。
やがて元公爵がもう一度だけ手招きし、耳許で囁く。
「先王妃が言っておった。『あの子は、名を残すより先に人の手を温める子だ』とな。わしには難しい表現だが、そういうことらしい。今夜の君は、その通りだ」
「……身に余るお言葉です」
「褒められたら、短く礼を。謙遜も過ぎれば鼻につく。今のがちょうどよい」
舞踏が始まる前、広間の一角でストラ兄さんの姿を見つける。目が合うと、兄は親指を立てて笑った。婿殿と親しく語る公爵の声が背後から届く。輪は輪として回り続ける。僕は足元の歩幅を確かめ、出口の位置をもう一度頭に入れる。夜会はまだ長い。捕まらず、逃げず、必要な相手とだけ深く呼吸を合わせる。
帰り際、スクワンジャー公爵が玄関で待っていた。
「今夜の君は、よく働いた。長老の輪も、若い輪も、傷をつけずに回した」
「皆さんが受け止めてくださったからです」
「受け止めてもらえる言葉を選んだのは君だ。……最後にもう一つ。婚約は急がなくてよい。ただし、心は急がせろ。心が鈍ると、誤る」
「肝に銘じます」
馬車に乗り込み、膝の上に二行要旨の束を置く。長老からの申し出、司書の件、橋の図面の話。約束は三つ。どれも重すぎない。窓の外、屋敷の灯が連なって遠ざかる。杯の甘い香りが残っていたが、喉は軽かった。
挨拶を返しているうちに、妙齢の女性たちの輪が自然と形を成す。家の出自をさりげなく語る人、最近読んだ詩の話題を振る人、空の船の噂を確かめたがる人。笑顔はみな上等で、問いはどれも角がない。僕は杯を受け取り、口を湿らすだけにして、受け流す言葉を短く選ぶ。話が長くなりそうなときは、相手の家の近況を先に聞く。自分の話は二歩目でよい。
「君は、早く婚約者を決めることだな」
笑い声と一緒に、背中から軽く叩かれた。スクワンジャー公爵だ。肩を並べて歩調を合わせると、公爵は顎を少し上げて広間を示す。
「君が思っているより、君を狙っている女性は多い。あれもこれも、ではなく、一つを選ぶ練習は若いうちからだ」
「肝に銘じます。……今季は学びが先で、僕の歩幅は短いままです」
「それが良い。選べる側は、選び方を誤ると敵を作る。君は敵を作らないほうが働ける」
公爵は人垣を割って、年嵩の貴族たちが談笑する一角へ手を伸ばした。そこに座していたのは、元スクワンジャー公爵。先王の弟であり、今は長老たちの中心だ。呼び止められ、僕は歩を進める。年配の方々の視線はきつくない。ただ、よく見ている。
「来たな」元公爵は短く言い、周りに視線を回した。「この若者のことは耳にしておろう。だが、耳より先に、今日ここで言っておく。先王と先王妃に、この者は最後までよく尽くした」
輪がわずかに静まる。元公爵は大きな声を要さない人だ。短い言葉でも、広間の空気を変える。
「食の整え、話し相手、散歩の付き添い。空の船の遊覧、そして別れ方まで。どれも派手ではないが、王家にとっては重かった。わしは見ていた。侍従も見ていた。最後に残った仕事を、静かにやり通した」
年長の一人が小さく頷く。銀の髭を撫で、杯を置いた。
「聞いておったが、本人の前で礼を言おう。よくやった。あの家に長く仕えてきた身として、助かった」
「ありがとうございます。僕は、してよいことをして、してはならないことを避けただけです」
「それが難しいのだよ」
別の長老が笑った。目尻に皺が寄り、声の芯は温かい。
「何かあったら言うようにな。無理は利かん体だが、手紙を書くくらいはできる」
「うちも一筆なら役に立とう。王立学寮の古い蔵書がいる時は、司書長より先にわしに言え」
「道のことなら、息子がまだ口が利く。橋が要るなら図面を見せよ」
次々と差し出される言葉は、恩着せがましくない。それぞれの家で長く積み上がった石のように、乾いていて、重い。僕は一つひとつに礼を言い、必要になった時にお願いする、とだけ答えた。元公爵が横目で僕を見る。
「名を出さんやり方は、敵を減らす。だが、味方にしてよい者には名を出してよい。区別を誤るな」
「はい」
「それから、食の話だ。しゃぶしゃぶとやら、あれは老いにも優しい。今夜の卓にも出るのか」
「エフェルト公爵家で出したものを、今夜の厨房が少し改良してくださっているようです。薄い湯で短く、香りは強すぎない配合で」
「よいよい。歯が立たずとも食べられる。長生きの知恵だな」
輪から離れたところで、公爵が肩をすくめる。
「長老たちに可愛がられるのは簡単ではない。今夜の二、三言で十分だ。あとは飲み過ぎず、捕まらず、約束を増やしすぎないこと」
「肝心なところで短く、ですね」
「そうだ。……ところで、君の杯は減らないな」
「最近、お茶で失敗しかけたので」
「ふむ。賢明だ」
楽が一段落し、舞踏の前の緩い波が広間を撫でた。壁際で控える給仕が姿勢を正し、杯の巡りが少し早くなる。僕は庭に抜け、夜気を吸う。回廊の向こうで、青の技の気配が薄く揺れ、アインスが一瞬だけ指先を見せて消えた。異常なし、の合図。
戻ると、女性たちの輪がまた近づいてくる。圧はない。けれど、視線には確かな熱がある。スクワンジャー家の夜会には、派手な口説き文句は似合わない。代わりに、家の蔵書の話、慈善の催しの話、歌の話。僕は短く応じ、相手の話を少し長く聞く。話の終わりに、二行の紙を渡す約束だけを残す。会えば会うほど増やしてしまう約束は、薄く軽く、小さく切る。
やがて元公爵がもう一度だけ手招きし、耳許で囁く。
「先王妃が言っておった。『あの子は、名を残すより先に人の手を温める子だ』とな。わしには難しい表現だが、そういうことらしい。今夜の君は、その通りだ」
「……身に余るお言葉です」
「褒められたら、短く礼を。謙遜も過ぎれば鼻につく。今のがちょうどよい」
舞踏が始まる前、広間の一角でストラ兄さんの姿を見つける。目が合うと、兄は親指を立てて笑った。婿殿と親しく語る公爵の声が背後から届く。輪は輪として回り続ける。僕は足元の歩幅を確かめ、出口の位置をもう一度頭に入れる。夜会はまだ長い。捕まらず、逃げず、必要な相手とだけ深く呼吸を合わせる。
帰り際、スクワンジャー公爵が玄関で待っていた。
「今夜の君は、よく働いた。長老の輪も、若い輪も、傷をつけずに回した」
「皆さんが受け止めてくださったからです」
「受け止めてもらえる言葉を選んだのは君だ。……最後にもう一つ。婚約は急がなくてよい。ただし、心は急がせろ。心が鈍ると、誤る」
「肝に銘じます」
馬車に乗り込み、膝の上に二行要旨の束を置く。長老からの申し出、司書の件、橋の図面の話。約束は三つ。どれも重すぎない。窓の外、屋敷の灯が連なって遠ざかる。杯の甘い香りが残っていたが、喉は軽かった。
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