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14歳の助走。
グロッサム侯爵邸にて。
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夜会の会場に入ると、磨かれた床に灯りがやわらかく映っていた。主催はグロッサム侯爵。香は軽く、料理の匂いを邪魔しない。入口脇で待っていたグラドが、分厚い手を振る。
「遅くなった、バァン」
「いや、ぴったりだよ。……空の船、できた時はてっきりまた来ると思ったのに」
「バァン、俺は高いところはダメなんだ」
グラドは豪快に笑って肩をすくめた。髭に揺れる銀珠が光を拾う。
二人で広間を見渡して歩き出すと、奥からグロッサム侯爵がこちらへまっすぐに来た。
「よく来た、我が友たちよ」
侯爵は両手を広げ、僕とグラドの手を順番に固く握った。
「ステンレスが領に富を連れてきた。『グロッサム鋼』といえば、今や職人街で通じぬところはない」
「名が独り歩きしても困るけれど、品質が追いついているから大丈夫です」僕は笑ってうなずく。「あとは鋳型と鍛ちの標準だけ、もう一段揃えたいです」
「それなら図をまた回そう。うちの工房、最近は焼きなましの手順を少し変えたら艶が出た」
「へえ、そこは俺たちも試すか」グラドが身を乗り出す。「光沢だけじゃなくて、刃持ちに差が出る配合を掴んだ。細剣の鍔が特に評判でな」
金と鉄の話になると、三人とも声が一段低くなる。配合の割合、冷やしの水の温み、砥の目。料理の卓を一つ塞いでしまわないよう、短く切り上げるつもりが、気付けば杯が二巡していた。
「……ところで、あれは君の新顔かね」
侯爵が顎で示した先、壁際の一角に人だかりができていた。中心にいるのはアール・ヤーヴィ。男女問わず、彼の前に列ができている。最初は押し寄せる視線に目を瞬いていたが、今は落ち着きを取り戻し、丁寧な会釈と短い言葉で応じている。その一歩後ろ、ローランが気配を殺して立ち、要所で軽く指先を動かすのが見えた。
「はい。アール・ヤーヴィ。ご存知の通り常勝剣士です。アールは今夜、口は開かない。目だけで礼を読む日です」
「よくやっているな。人を傷つけない断り方は、剣筋より難しい」
侯爵が感心したように頷く。近づきすぎない距離を保って様子を見る。
「ヤーヴィ様、いつから当家に……?」
「見習いとしてお側で学ぶ身です。ご挨拶は改めて。今夜は主の務めに随行しております」
アールは決めていた文句を崩さない。押し問答になりかけた若い紳士には、ローランが半歩入って笑んだ。
「お言葉は、紙にしていただければ、確実に拝読します。宛は家宰ローラン。今夜は主催者の御前ですので、どうか礼を」
男は一瞬むっとしたが、ローランの笑みが崩れないのを見て、すぐに頷いて下がった。次の瞬間には、アールが隣の婦人に向かって角度を変えた会釈を見せる。頭の低さは少し深く、言葉はさらに短い。場の温度に合わせて切り替えているのがわかる。訓練すればもっと良くなってくるだろう。
「そういえばさっきトーマスって決勝相手も雇ったって言ってたな。トーマスの姿が見えぬが」
グラドが目を凝らす。
「今日は外だ。陽炎隊と一緒に搬入口の導線整理。刃ではなく、紐と釦からだよ」
「いい鍛え方だ」
侯爵が愉快そうに笑う。
「ああいう地味なところで隊は決まる」
その時、侯爵の侍従がそっと近づいて耳打ちした。
「ステンレスの件、南の港町の商会頭が来客との由」
「のちほど控え室で。今は客人が先だ」
侯爵はすぐに声色を戻し、杯を掲げた。
「グロッサム鋼の今に、乾杯。作る者、売る者、使う者、食べる者、皆の利益が回るように」
杯が触れ合い、小さな音が重なった。
「ところでバァン、空の船の方の監修も進んでいるんだろう」
「うん。今季から実用に入る。来季には僕は外遊なんだ。外を見てから、また内を整える」
「外を見るのは良い。戻って来て、また鍛ちの音を聞かせろ」グラドは笑いながらも、目の奥は真剣だ。「俺も……地に足のついた高さなら、いつでも付き合う」
「地に足のついた高さ、いい言い方だ」侯爵が拾う。「ならば今夜は地の幸福を先に味わおう。厨房が君のために一品用意している」
案内された脇の小卓に、薄い銀皿が二枚置かれた。ひとつは牛の薄切りをさっと湯にくぐらせ、香草の香りを一滴だけ落としたもの。もうひとつは白身魚の蒸しに、柑の香を添えた一口。
「口を重くしない祝いの一皿ですって」侯爵が目を細める。「君のやり口が、王都の台所にちゃんと残っている」
「料理人たちの工夫です。僕は残り香だけ置いて歩いたつもり」
「残り香が良いと、次の皿が喜ぶのさ」グラドが鼻を鳴らした。
再び広間に戻ると、アールの周りの輪が少し落ち着いていた。初めに話しかけていた婦人が、今度は離れ際に軽く礼をし、連れの紳士の袖を引いている。断られたのではなく、礼を受け取った顔だ。アールはその一瞬に僕へ視線を向け、ほんのわずかに顎を引いた。上手い。
「よし」ローランが小さく言った。「これで今夜は十分です」
「撤収の合図?」
「まだ。主催者への礼を済ませてから。……侯爵閣下、アール・ヤーヴィ見習い、今夜の随行の務めを終えます。御眼鏡にかなう日が来るよう仕込んでおきます」
「楽しみにしているよ」侯爵は愉快そうに目尻を下げる。「人は刀剣と違って、鍛つほど丸くもなる。丸い刃は、遠くまで届く」
夜会の後半、僕とグラドは来客の波に合わせて短く動いた。グロッサム鋼の納期、王都の商会の振り分け、地方の工房への見学枠。どれも今ここで決めきらず、紙に落として次の場へ渡す。侯爵は輪と輪の境目で目配せをして、僕たちの歩幅を自然に整えてくれた。やがて楽が静かに調子を変える。
帰り際、侯爵がもう一度だけ僕らを呼び止めた。
「今夜は良い音だった。鉄の話も、礼の話も、どちらも腹に落ちた。……バァン、グラド。次は工房で会おう。鍛ちの音の中で」
「約束します」
「俺は地面に足をつけて行くぞ」
三人で笑い、握手を交わす。アールは最後尾で深く礼をしてから、ローランに従って退いた。
「遅くなった、バァン」
「いや、ぴったりだよ。……空の船、できた時はてっきりまた来ると思ったのに」
「バァン、俺は高いところはダメなんだ」
グラドは豪快に笑って肩をすくめた。髭に揺れる銀珠が光を拾う。
二人で広間を見渡して歩き出すと、奥からグロッサム侯爵がこちらへまっすぐに来た。
「よく来た、我が友たちよ」
侯爵は両手を広げ、僕とグラドの手を順番に固く握った。
「ステンレスが領に富を連れてきた。『グロッサム鋼』といえば、今や職人街で通じぬところはない」
「名が独り歩きしても困るけれど、品質が追いついているから大丈夫です」僕は笑ってうなずく。「あとは鋳型と鍛ちの標準だけ、もう一段揃えたいです」
「それなら図をまた回そう。うちの工房、最近は焼きなましの手順を少し変えたら艶が出た」
「へえ、そこは俺たちも試すか」グラドが身を乗り出す。「光沢だけじゃなくて、刃持ちに差が出る配合を掴んだ。細剣の鍔が特に評判でな」
金と鉄の話になると、三人とも声が一段低くなる。配合の割合、冷やしの水の温み、砥の目。料理の卓を一つ塞いでしまわないよう、短く切り上げるつもりが、気付けば杯が二巡していた。
「……ところで、あれは君の新顔かね」
侯爵が顎で示した先、壁際の一角に人だかりができていた。中心にいるのはアール・ヤーヴィ。男女問わず、彼の前に列ができている。最初は押し寄せる視線に目を瞬いていたが、今は落ち着きを取り戻し、丁寧な会釈と短い言葉で応じている。その一歩後ろ、ローランが気配を殺して立ち、要所で軽く指先を動かすのが見えた。
「はい。アール・ヤーヴィ。ご存知の通り常勝剣士です。アールは今夜、口は開かない。目だけで礼を読む日です」
「よくやっているな。人を傷つけない断り方は、剣筋より難しい」
侯爵が感心したように頷く。近づきすぎない距離を保って様子を見る。
「ヤーヴィ様、いつから当家に……?」
「見習いとしてお側で学ぶ身です。ご挨拶は改めて。今夜は主の務めに随行しております」
アールは決めていた文句を崩さない。押し問答になりかけた若い紳士には、ローランが半歩入って笑んだ。
「お言葉は、紙にしていただければ、確実に拝読します。宛は家宰ローラン。今夜は主催者の御前ですので、どうか礼を」
男は一瞬むっとしたが、ローランの笑みが崩れないのを見て、すぐに頷いて下がった。次の瞬間には、アールが隣の婦人に向かって角度を変えた会釈を見せる。頭の低さは少し深く、言葉はさらに短い。場の温度に合わせて切り替えているのがわかる。訓練すればもっと良くなってくるだろう。
「そういえばさっきトーマスって決勝相手も雇ったって言ってたな。トーマスの姿が見えぬが」
グラドが目を凝らす。
「今日は外だ。陽炎隊と一緒に搬入口の導線整理。刃ではなく、紐と釦からだよ」
「いい鍛え方だ」
侯爵が愉快そうに笑う。
「ああいう地味なところで隊は決まる」
その時、侯爵の侍従がそっと近づいて耳打ちした。
「ステンレスの件、南の港町の商会頭が来客との由」
「のちほど控え室で。今は客人が先だ」
侯爵はすぐに声色を戻し、杯を掲げた。
「グロッサム鋼の今に、乾杯。作る者、売る者、使う者、食べる者、皆の利益が回るように」
杯が触れ合い、小さな音が重なった。
「ところでバァン、空の船の方の監修も進んでいるんだろう」
「うん。今季から実用に入る。来季には僕は外遊なんだ。外を見てから、また内を整える」
「外を見るのは良い。戻って来て、また鍛ちの音を聞かせろ」グラドは笑いながらも、目の奥は真剣だ。「俺も……地に足のついた高さなら、いつでも付き合う」
「地に足のついた高さ、いい言い方だ」侯爵が拾う。「ならば今夜は地の幸福を先に味わおう。厨房が君のために一品用意している」
案内された脇の小卓に、薄い銀皿が二枚置かれた。ひとつは牛の薄切りをさっと湯にくぐらせ、香草の香りを一滴だけ落としたもの。もうひとつは白身魚の蒸しに、柑の香を添えた一口。
「口を重くしない祝いの一皿ですって」侯爵が目を細める。「君のやり口が、王都の台所にちゃんと残っている」
「料理人たちの工夫です。僕は残り香だけ置いて歩いたつもり」
「残り香が良いと、次の皿が喜ぶのさ」グラドが鼻を鳴らした。
再び広間に戻ると、アールの周りの輪が少し落ち着いていた。初めに話しかけていた婦人が、今度は離れ際に軽く礼をし、連れの紳士の袖を引いている。断られたのではなく、礼を受け取った顔だ。アールはその一瞬に僕へ視線を向け、ほんのわずかに顎を引いた。上手い。
「よし」ローランが小さく言った。「これで今夜は十分です」
「撤収の合図?」
「まだ。主催者への礼を済ませてから。……侯爵閣下、アール・ヤーヴィ見習い、今夜の随行の務めを終えます。御眼鏡にかなう日が来るよう仕込んでおきます」
「楽しみにしているよ」侯爵は愉快そうに目尻を下げる。「人は刀剣と違って、鍛つほど丸くもなる。丸い刃は、遠くまで届く」
夜会の後半、僕とグラドは来客の波に合わせて短く動いた。グロッサム鋼の納期、王都の商会の振り分け、地方の工房への見学枠。どれも今ここで決めきらず、紙に落として次の場へ渡す。侯爵は輪と輪の境目で目配せをして、僕たちの歩幅を自然に整えてくれた。やがて楽が静かに調子を変える。
帰り際、侯爵がもう一度だけ僕らを呼び止めた。
「今夜は良い音だった。鉄の話も、礼の話も、どちらも腹に落ちた。……バァン、グラド。次は工房で会おう。鍛ちの音の中で」
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