融けないΩに触れたくて

Moma

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いつもよりだいぶ遅くなった帰路。
アスファルトの反射が眩しい中楓はコンビニの袋を片手に、ふらふらとマンションのドアを開けた。
鍵を差す手が震える。
疲労か、別の何かか、自分でも判然としなかった。

部屋に入るとスニーカーを脱ぎ捨て、真っ先にソファへ倒れ込む。
体は鉛みたいに重いのに、心だけが落ち着かなかった。

(…あぶなかった)

ソファの背に顔を押しつけ、息を吐く。
理性が、あのときほんの一瞬、薄紙みたいに破けかけた。
柊の声、潤んだ目、熱に浮かされた吐息――
全部、楓を試すみたいに甘かった。

「抱いて、なんてさ…」

その声が耳から離れない。

どんなに理屈を並べても、
どれだけ”好きになってから抱きたい”と思っていても――
発情したΩを前にして耐えきれるαなんて、ほとんどいない。

それなのに、抱かなかった。いや、抱けなかった。

抑制剤が効くまでトイレに駆け込んで、何度も何度も柊の名前を呼びながら、
欲望を吐き出して、ようやく理性を取り戻した。

あんな風に誰かを求めたのは、生まれて初めてだった。
本当は、抱きたかった。

でも、それがヒートだからじゃ意味がない。

柊に欲しいって言われたかったのは、“αだから”じゃなく、“楓だから”って理由であってほしかった。
そのわがままが、楓を止めた。

(ほんと、バカだよな……)

クッションを抱きしめたまま、天井を仰ぐ。
冷房の風が首筋に当たっているのに、身体の芯はまだ火照っていた。

ふと、唇を指でなぞる。

あの時、口移しで薬を飲ませた柊の唇が、すぐそこにあった。
震えるほど近くて、少し触れた。

(口移しで薬を飲ませるんじゃなくて…ちゃんとしたキス、したかったな……)

あんな状態で、初めて柊とキスをするのは嫌だと思ってたはずなのに。

自分でも信じられないくらい、真剣に、柊を好きになっていた。
本気で、傷つけたくなかった。

(でも、気づいたかな……)

抑制剤のことじゃなくて、想いのこと。あんなタイミングじゃ、伝わるわけがない。

それでも、ほんの少しでいい。
自分が“チャラいだけの男”じゃないって、伝わってたらいい――
そう思ったら、目の奥が熱くなった。

◇ ◇ ◇

柊のことを、初めて見たのは大学の入学式だった。
式典が終わって人が流れる中、柊は人混みの中を一人で歩いていた。
ふとした瞬間、目の前を通りすぎたその姿――

(…綺麗な人だ)

光を受けた髪がやわらかく揺れて、白いシャツの襟元が風に微かに翻った。
その横顔を見た瞬間、時間が止まったような気がした。
ただそこに立っているだけなのに、周囲の喧騒がすっと引いて、楓の視界には彼だけが映っていた。

 一瞥いちべつしただけで分かった。
彼はΩだ。
けれど、それより先に心を奪われたのは、その清らかさだった。

守りたくなるような、でも触れるのが怖いような。
そんな感覚は初めてだった。

ほんの数秒で、柊は楓の前を通りすぎていった。
柊の通り過ぎた後、振り返る学生が何人かいた。
それに気づいた楓は、苦笑する。
振り返った全員が、αだったからだ。

――やっぱり、そうなるよな。

それからというもの柊とは学部が違ったらしく、なかなか顔を合わせることもなかったが、程なくして噂を耳にするようになった。

「柊はαが嫌いらしいよ」「何人も告白してるけど、全部“αだから”って理由で断られてるらしい」

最初は信じがたかった。だが、確かに、柊はどこか他人との距離を保っていて、決して踏み込ませない雰囲気があった。
そもそも柊と接点すらないし、おまけに自分はαだ。
だから楓は、どれほど惹かれても、叶わないものだと、早々に諦めてしまったのだった。

――そうして、とにかく遊んだ。
派手に。
噂になるくらいには。柊の事を思い出す時間なんて無いくらいに。

いつも違う相手を連れている、なんて噂されていた時期もあった。
それでも、どこか虚しかったのだと思う。
どんなに賑やかでも、遊んでいても、本当の意味で満たされることはなかった。

だが、大学院に進んでから、状況は一変した。
柊と、同じ研究に携わることになったのだ。
思いがけない巡り合わせだった。

――そのとき初めて知った。
柊は、ただ綺麗なだけの人じゃなかった。
困っている同期にさりげなく声をかけたり、研究の議論で誰かが詰まっているときは根気強く付き合ったり。
自分が疲れていても、不器用ながら相手を気遣う。
そういう優しさを、見せびらかさない人だった。

しかも研究には真摯で、ひとつの課題に何時間も没頭する集中力を持っていた。
教授相手でも、間違っていると思えば静かにだがはっきり指摘する芯の強さもある。
噂どおりαを避けている節はあったが、不思議なことに楓に対しては壁を作らず、きちんと仲間として向き合ってくれていた。
それがどれほど嬉しかったか、本人はきっと気づいていない。

そしてそれを機に、楓は遊びをやめた。
表立って公言したわけではないが、すべての関係を整理し、身の回りを整えた。
“もしも”にすがっているわけではない。
ただ――柊のそばにいられるなら、それだけでよかった。

気持ちを伝えるつもりはない。
けれど、少しでも好意を持ってもらえるように。
敬意を、信頼を、積み重ねていくことはできるはずだと、そう思っていた。

◇ ◇ ◇

「…だめだ、もう寝よ」

無理やり身体を起こし、Tシャツのままベッドへ倒れ込む。
目を閉じたその先にも、柊の気配が残っていた。

“ごめん。でも、ありがとう”
柊が最後に呟いたその言葉だけが、静まり返った部屋に、響いているようだった。


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