【BL】婚約破棄された薄幸令息、大公子の教育係になって今は幸せです

縁堂幸

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◆ 涙の理由(2)

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 よく考えもせず同意してしまったのだと気づいたはいいが、ノエルが焦ったところで事態は完全に手遅れだった。

 手のひらに押しつけられていたジョスランの唇は、いつの間にかノエルの耳をついばんでいる。くすぐったさに気をとられているうちに、ノエルのシャツに結んであった薄緑色のリボンが、ジョスランの手でするりと解かれた。

「あっ……待ってください……!」
「私もやむを得ずこんなことをしてるんだよ? 口にキスするのはもう駄目だって婿殿が言うから」

 悲しいけれど他のところで我慢するしかないんだと口を尖らせながら、ジョスランがノエルのシャツのボタンを手早く外していく。しかし露わになった首筋や鎖骨に唇を落とすジョスランは明らかに笑いをこらえていて、ノエルを意図的にめたのは確実だ。

 キスだけなら安心だと承諾してしまったのはもちろんノエルの落ち度だが、さすがに思っていたキスと違う。これは悪質な詐欺だ。さも譲歩したように見せかけて、実は自分に有利な抜け道をひそませた契約を結ばせる、詐欺師の手口だ。

 しかしはだけられた襟元を閉じようとしても、ジョスランは片手だけでノエルの両手を簡単にまとめてしまう。それだけでは飽き足らず、ジョスランは余ったほうの手でさらにボタンを外して、ノエルの胸まで晒そうとしている。明るい部屋で肌を見られる羞恥に耐えられず、ノエルは早くも音を上げた。

「もう……わかりました! 口にしていいです!」
「そう?」

 じゃあそうさせてもらうよと、ジョスランの瞳が嬉しそうに弧を描く。ノエルは唇を固くひき結んだ。しかし柔らかい唇をどんなに強く閉じたところで、ジョスランの舌には敵わない。簡単にこじ開けられて、また咥内の蹂躙を許してしまう。

 鼻で必死に息をしようとするほどジョスランのフェロモンを取り込んで、ノエルのうなじの辺り――オメガのフェロモンを分泌する器官がじわりと熱をもつ。いつの間にか恥ずかしさは消え失せ、ノエルは夢見心地でジョスランを見つめていた。

 視界が涙で滲んでも、なぜだかジョスランの姿だけはくっきりと見える。きれいに上げられていた銀色の前髪が少し乱れ、目元がほんのりと赤く染まっている。そして時折、悩ましげに息を詰まらせては、さらに激しくノエルの舌を貪ってくる。覆い被さるようにして体重をかけられると、唇だけでなく体まで隙間なく合わさって、まるで全身でキスされているようだ。

 目の前のアルファが、自分との口づけに没頭している。そう思うとノエルのうなじはいよいよ燃えるように熱くなってきた。頭の中でしきりに、誰かの声が聞こえる。この優秀なアルファを逃がしてはいけない。もっとその気にさせて、自分のものにしなければならないのだと。

 そう囁いているのが自分自身の声だと気づいて、ノエルがジョスランの首に抱きつこうと手を伸ばした瞬間、部屋にノックの音が響いた。

「旦那様、奥様。そろそろ朝食のお時間ですが……」

 侍従の遠慮がちな声が聞こえてきて、ジョスランは仕方なさそうにノエルの唇から離れた。

「ああ。服が乱れたから支度し直さないと」

 取り込み中だからまだ部屋に入らないでと扉に向かって話すジョスランを、ノエルはぎろりと睨みつけた。自分とベッドに居るのに、どうして他の人間に構うのか。わけがわからない。

 ノエルは自分を抱き起こしてくれたジョスランを、渾身の力で押し倒した。

 まさかそんなことをされるとは、ジョスランも思っていなかったのだろう。本来なら敵わないはずのノエルの力で、ジョスランの分厚い体がぐらりと傾きベッドに沈み込んだ。

「……ノエル君? どうしたの?」

 急に押し倒されたジョスランは、ノエルに見下ろされて呆気にとられている。しかしノエルはジョスランの視線を独り占めして、とても気分がいい。

 よそ見できないように今度こそしっかり捕まえておくのだと、ノエルはジョスランの上に覆い被さった。ぎゅうぎゅうに抱きつけば、ジョスランの喉仏がノエルの鼻にこつんとあたる。肺がいっぱいになるまで空気を吸い込み、ノエルは甘い匂いに陶然とした。

 きっとこのアルファも、抱きつかれて喜んでいるに違いない。こうしてぎゅっとしていればキスだけでなく、もっと先のことまでしたくなるだろう。根拠のない自信がノエルの胸に満ちていたが、ジョスランの反応はその予想から大きく外れていた。

「婿殿。こんなふうに誘惑されると、私もさすがに困ってしまうよ」
「……あっ!」

 ジョスランに背中をとんとんと叩かれて、ノエルは我に返った。少しの興奮もなく、むしろ冷めたようにも聞こえる声。ノエルが慌てて体を起こすと、ジョスランの顔には眉間にくっきりと皺が寄っていた。

「ごっ……ごめんなさい!」

 自分が何を企んでジョスランを押し倒してしまったのかを思い出して、体の熱さはどこかに吹き飛んでしまった。ノエルはジョスランの上から飛びのき、布団にくるまった。

 これ以上ジョスランのフェロモンを吸い込むとまたおかしくなってしまいそうで、布団越しにもごもごと話す。

「あ、あの……先にローランと食事を始めていてください」
「急がなくていいよ。間に合わなかったら君の分は部屋に持ってこさせるから」

 最低限の会話が済むとベッドがぎしりと軋んで、少しの足音と扉が閉まる音が聞こえた。

――どうしよう……大公殿下、本当に困っておられた。

 ジョスランが呟いた言葉と、その直後に見せた苦々しい顔を思い出して、ノエルの体がひとりでに震え出す。恥ずかしい。きっとジョスランとのキスで発情して、本能のまま襲いかかってしまったのだ。

 まるで自分が自分ではないようだった。朝食に呼ばれるまでと条件をつけておいて、いざ時間が来てもジョスランとの触れ合いを求めてしまった。しかも声をかけてくれた侍従に嫉妬して、ジョスランを力いっぱい押し倒してしまうなんて……!

 だが布団の中に引きこもっている場合ではないぞと、ノエルはベッド横のチェストからヒート抑制剤を取り出した。今は一旦落ち着いているようだが、先程のような醜態を二度も晒すわけにはいかない。

 瓶から薬を一錠だけ取り出して水で飲むと、効きもしないうちから少し安心する。しかし前回の発情期に処方された錠剤が、瓶の中でカランと立てる音は心もとない。余った抑制剤を捨てたことは幾度もあるが、残りが少なくて不安になる事態は初めてだ。

――いや、大丈夫だ。これまで何事もなく乗り切れてたんだから。

 ノエルは気を取り直して服と髪を整え、朝食の席に合流した。

「申し訳ありません。遅くなりました」
「ノエル父様! 体は大丈夫なのか!?」

 食堂にノエルが入ってくるなり、ローランが飛び上がるようにして席を立った。普段は早めに席についてローランを待つようにしているので、少し遅れただけで心配させてしまったらしい。ローランはノエルのところまで駆けてきて、エスコートするように椅子のところまで連れて行ってくれた。

「働き過ぎで疲れが出たのか?」
「いえいえ。このとおり、元気ですよ」
「そうか。ではジョスラン父上に何かされ――」
「いいえ!」

 ローランの鋭い指摘に驚いて、ノエルは即座に否定してしまった。これでは図星を突かれたと自白したようなものである。

 ご心配をおかけしましたと言いながら席に着くも、ローランが向かい側の席から訝しそうにこちらを見つめてくる。明らかに疑われているが、ローランとの朝食に間に合ってひとまず父親の面目は保てただろうか。

 朝食の後、ノエルはいつもどおりローランを乗せた馬車が見えなくなるまで見送った。もちろん隣にはジョスランもいるが、ふたりの間に会話はない。今朝、部屋で最後に見たジョスランの表情を思い出すと、ノエルの胸がずきずきと痛む。

――本当に、どうしてあんなことをしてしまったんだろう……

 起きてしまったことはもうどうしようもないが、思い返してみればジョスランは度々口にしていた。ノエルの慎ましやかなところを好ましく思っているのだと。アルファの本能が煩わしくて、結婚を遠ざけていたという話も聞いた。

 そういえばローランの産みの父――ニコラの葬儀の時ですら、ジョスランは後妻の座を狙ってやってきたオメガに纏わりつかれていた。うっとりした顔で、人前でジョスランの体に触れて、そんなオメガにジョスランはどんな反応を示していたか。

 思い出した瞬間、ノエルの頭からさっと血の気が引いた。

 面倒だと言わんばかりの冷たい眼差し。相手を押し返したり、自分の体から引きはがしたりこそしなかったが、端々からにじみ出る嫌悪感はまるで、全身で相手を拒絶しているように見えた。その時は「大変そうだな」と思ったものだが、今となっては他人事ではない。

 これまで手を繋いだり唇を重ねたりすることをジョスランが喜んでくれていたのは、ノエルが他のオメガと違って、自らジョスランを求めないところが彼の好みに合っていたからなのかもしれない。でも実際はノエルも、ジョスランが辟易していた他のオメガと何も変わらないのだ。

 大人しい性格だと思っていたのに突然押し倒されたら、どんな気持ちになるだろうか。もし今朝の一件で、すでにジョスランから嫌われてしまっていたら。そんなことを考えるだけで、ノエルはもう泣き出してしまいそうだ。

 ノエルは屋敷に向かって踵を返し、脇目もふらず執務室に直行した。こういう時は仕事に没頭するのが一番。そうすれば必然的に、仕事以外のことを考えずに済む。

 しかしノエルがどんなに早く歩いても、ジョスランに大股で歩かれるとすぐに追いつかれてしまう。結局いつものようにふたり並んで歩き、階段で二階にあがる。しかし執務室に続く廊下に出ようとしたところで、ジョスランから話しかけられた。

「ノエル君。休まなくて平気なのかい?」
「あっ⋯⋯はい。抑制剤を飲んだのでもう大丈夫です」
「そう? 薬で抑えても苦しいものだと聞くけど」
「いえ。私の場合、あの程度なら薬で完全に治まるんです」

 先程起きたのは一時的なヒートだったし、ローランの見送りもあるのに自分だけ部屋で休むわけにもいかなかった。仕事も普段どおりできますと言うと、ジョスランがノエルの頭にぽんと手を置いた。

「治ったならいいんだ。でも無理しないで。また苦しくなったら、すぐ私に言うんだよ?」
「はい。お気遣いいただきありがとうございます」

――よかった……いつもの大公殿下だ。

 普通に会話できたことに、ノエルは胸を撫でおろした。ノエルが正気に戻ったので、ジョスランも元の態度に戻ってくれたのか。あんな無礼、初めての失敗だからといって許せるものではないだろうに。なんて寛大な人なんだと、ノエルは感動しきりだ。

 本能に溺れた姿を見せて、ジョスランを困らせるような真似は二度としない。発情期が訪れても、これまでどおり厳しく己を律するのだと、ノエルは心に決めたのだった。
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