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はたのれもん。

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 月曜日の朝、宗久は気怠い、生気の抜けた顔で出勤していった。加奈との会話はなく、昨日のことを引きずっていた。
 実のところ、宗久は夫婦のもめ事というものが嫌いだった。なるべく避けたいのである。
 出社すると、休憩スペースへ直行する。自由に読める新聞から、一枚抜き取り自動販売機でコーヒーを買った。
 新聞を開いて、むだにページをめくる。普段ならゆっくり読むが、加奈との言い争いを思い出してしまってなかなか読むことができなかった。
「おはよう」
 和人が来た。今日はコンビニのコーヒーを持っている。
「今日暑いな」
「ん?そうか?」
「ははっ、お前は暑い寒いって鈍感だからな」
 そうからかって、和人は持ってきていたファイルで顔や首元をあおぐ。たまに手の甲で額の汗をぬぐう姿は、様になっている。甘いマスクを持っている人は、何をしても目の保養になる。
「また何かあったみたいだな」
「あぁまぁ、うん。加奈と言い合いになった。あんまり遅く帰ってくるから、浮気でもしてるんじゃないかって言われて」
「そうか。なら、当分は飲むのはやめだな」
 和人の言う通りかもしれない。加奈と言い争いにならないためには、そうするしかないようだ。
「お前さ、夫婦のもめ事とか嫌うタイプだろ?」
 宗久の苦そうな表情を見て、和人は尋ねてきた。
「うん。好きって人はいないだろ、気まずいし。それに、浮気まで疑われたら気分悪りぃよ」
「独身の俺が言っていいか分からないけど、今だけだと思うよ?奥さんがかっかしてるのって。そのうち、落ち着くよ」
 気の置ける同僚からの言葉に、胸のつっかえが排除され安心した。
「そうだ。四月から、俺とお前とあと二人でできそうなクライアントの依頼が来るみたいなんだけど、やる?」
「内容次第って言うと怒られそうだから、資料見て決める」
「お前ならそう言うと思って持ってきた。土日休みだろ?ゆっくり読んでこいよ」
「あぁ、分かった」
 渡された資料を見ると、宗久も見知った名前の企業からの依頼だった。業務改善命令が出されたようで、早急に改善が必要だとのこと。
「どう?」
「そうだな。いいけど、こういうの、自信ねぇんだよね」
「て言っても、ミスしたのって五年も前だろ?」
 宗久は三十代のときに、似たような依頼でミスをしたことがあった。クライアントからの指摘で発覚した。
 それ以来、業務改善で営業改革を要望してくる依頼には抵抗があった。
「引きずるタイプなんだよ俺は」
 昔話が好きではない宗久は、新聞を開いて顔を隠す。

 四月の最初の土曜日。未消化の有給休暇のために、宗久は休みだ。
 朝は八時に起床し、のんびりと加奈と朝食を摂った。そのときも会話はなく、皿の上の茹でたかぼちゃやブロッコリーを箸でつつくのみ。
「あなた。今日は外出しないの?」
 やっと会話が始まったのは、宗久が食事を終えたときだった。加奈は、まだ白いご飯を食べている。
「しないよ。きみは?」
「今日はパートもないから、一日いるわ」
 なら出勤しようかと考えたが、最近は労働改革だから何かと厳しい。そのため、タイムカードを押す前に追い出されてしまう。
「どこか行きたいの?」
「いいや」
 出かけに行っても、楽しくはない。
 食器を洗い、歯磨きと洗顔を済ませると、リビングのソファで資料を見始める。集中するため、目の前のテレビは消した。
 一ページ目の、企業のウェブページも丁寧に読む。急成長中の保険会社で、大手に追いつくかくらいのスピードで売り上げを伸ばしている。
 ところが、先を急いだのか、新規顧客への違法な勧誘、無理な契約を迫るなど、手荒い手法で売り上げを伸ばしていたことが発覚。金融庁が、業務改善命令を出した。
 今回は、業務改善計画と同時進行している会社内での営業改善に協力してほしいとのことだった。
「大丈夫?ぼーっとして」
 横からの加奈の声で、資料が進んでいないことに気がつく。
「うん、大丈夫」
 気を取り直して、再び目を通す。
 加奈が隣にいると、集中が途切れる。用もないのにいられるのは気まずい。いらいらもしてくる。
 すると、加奈が肩に寄りかかってきた。数年ぶりのその行為に、体を震わせる。
「具合でも悪いのか?」
 あまりに突然のことで、そんなことしか尋ねられなくなった。
「なんでもないわ。ただ、こうしていたいだけよ」
 加奈の答えに、怪しさを感じる。いつも、スキンシップなんてしてこないのに。思惑があるとしか思えない。
「そうか」
 どいてくれとも言えず、黙って続きを読む。
「ねぇ、私たち何か足りないと思うの」
「何が足りないんだ?」
「そうね。ふれ合いがないっていうか・・・人肌恋しいっていうか」
 彼女の言わんとすることが分からなかった。いつも無表情でだんまりしかしない人がすり寄ってくると、不気味である。
「ねぇ」
 加奈の手が、膝に置かれている宗久の手を握った。ますます、彼女の行為に惑う。
「私たち、最後にシたのっていつだっけ?」
「シたってなんだ」
 宗久は、さりげなく手を払う。
「セックスよ」
 あまりに馴染みのない言葉に、どこを読んでいたのか忘れてしまった。
「それが?」
「それがって。夫婦間に張り合いがないのは、つまらないと思うの」
「つまらなくないだろ。何か言いたいことがあるなら、はっきり言ってくれ」
 こんな、不自然なふれ合いから脱したくて。
「セックスしたいの」
 加奈の正直な申し出にも、宗久は動じずだった。
「何か言ってよ。いいとか悪いとか」
「良くも悪くもない。何とも言えない」
 いい返事を期待していたのか、加奈は不満気な溜息をつく。
「子どもが欲しいのか?」
「違うわ。そういう気分なのよ。二人でいることもあまりないから」
 自分が二十代だったら、イエスと答えていた。
 でも、四十代だ。精力すらない。そんなところで、変に力も使いたくなかった。
「私ももう、魅力的な体じゃない。楽しませられるかどうかも分からない。けど・・・ふれ合う時間が欲しいのよ」
「理由は分かった。でも、仕事で必要なものを読まなきゃいけないんだ。あとでまた、ゆっくり話そう」
 宗久は逃げた。あとで話すつもりなど、毛頭ない。
「嘘ばっかり。あとなんてないじゃない」
 今回の加奈は、引き下がらなかった。そんなに、セックスをすることが大切なのか。
「なら、どうしたいんっ!」
 加奈が、唇を塞いだ。
「っ、はぁ、なんだよ、全くっ!」
 力任せに加奈を引き剝がす。
「もうすこし、仕事に集中させてくれっ。ったく、」
 手の甲で口を拭くと、口紅が付いた。普段、加奈は口紅なんか塗らない。加奈を見ると、口紅が剝がれ口の端に飛び出していた。ぼう然としている。
「ごめんなさい・・・」
 小さい声で謝られる。
「もういい。お昼になったら呼んでくれ。せっかくの休みが台なしだ」
 機嫌を悪くした宗久は、自分の書斎へ行ってしまった。
 興味のない性的行為に誘われるのは、癪に障る。どこからそんな気持ちが湧くのか。
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