人間虫

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「はあ」

 ため息をつきながら玄関のドアを開けた。作りがみすぼらしくて余計に気が滅入る。
 今日は大学の講義数が多く、その上大量のレポートの提出期限が近いため朝から晩まで勉強尽くしであった。レポートに関しては溜め込んだ私が悪いとはいえ、流石にもう頭が回らなくて八つ当たりをしたくなってくる。ドアを閉めたタイミングでスマホが鳴る。友美からのメッセージだった。

「いえついた?火曜3限の資料なくしたからみせてー」

 つい舌打ちをしてしまった。やっと帰宅した最中に大学の頼まれ事など嫌悪以外のものはない。

「今帰ったばっかだからまって。てか何無くしてんだよばか」

 友美とは小学校からの仲であり、それから大学まで一緒という腐れ縁であった。親同士も仲が良く、基本的に何もするにも一緒で、姉妹のような距離感だ。学部も同じ文学部で、彼女は自分で小説を書いたりしてると言っていた。何がなんでも読ませて貰えなかったが。いたずら好きで少し変わっているとよく言われる人間だが、どこか憎めないところがあって、正直言って私は大好きだ。家族と同じくらい大事な存在だと感じている。

 座って靴を脱いでいたら気がついた。ドアに付属したポストは様々なチラシやよく分からない紙だらけで、何枚かは床に落ちていた。疲労し切っていたが、几帳面な私は気になってしまい見過ごせなかった。全て取りだし、適当に見て要らなそうな物は部屋に入った時捨てようと端にまとめる。
 そうしていたら一つだけ変な物があった。真っ白で細長い封筒だが、宛先も宛名も記しておらず、表に「細田優香様へ」とやたら丁寧に書いてあるだけだった。宛名は無くとも届くことはあるが、宛先も無いとなると郵送ではなく誰かが直接このポストへ入れたということになる。そんなことは珍しい為、純粋に中身が気になった。

 封を開けると三つ折りになった紙がたくさん詰められていた。1番上の紙を開くと右上には「1」という数字があり、こちらは手書きではなく機械で打った文字がずらりと並んでいた。こんな所で読むのも何なので、部屋に入って荷物を置き、手を洗ってから私は小さな机に座り、その手紙を読むことにした。



 優香さん、いきなりこんな手紙が届き気味悪く感じたかもしれませんが、どうか最後まで読んでいただけると幸いです。
 私は少しばかり貴方に伝えたいことがあるのです。それにあたって私の身の上を話す必要があるので、拙い文ですが少々お付き合い下さい。

 私は昔から人見知りな人間でありました。臆病ですぐ親に泣きついて、小学生の頃は同級生とまともに話すことが出来ず、友達と呼べる人はほとんど居なかったです。ただ、そんな私にも積極的に遊んでくれる子がいました。名前は長谷川くんと言います。彼とは放課後に公園で虫取りをしたり、秘密基地を作ったりしていました。私の数少ない幸せで綺麗な思い出です。
 ある日の放課後、長谷川くんは自分の家でゲームをしようと提案しました。私は当然断るわけもなく、頷いて長谷川くんに着いていきました。しかしその途中、彼はあっ、となにか思い出すように声を上げました。

「今日塾だ」

 私はそれを聞いた時少しショックでした。でも塾なら仕方ないだろう、と一人で帰ろうとしたのですが、

「すぐ終わるから俺の家で待っててよ!誰もいないから鍵これで開けて!」

 と鍵を無理やり手に乗せて走り去ってしまいました。今考えると友達1人自分の家に残す長谷川くんは中々不用心とは思いますが、当時の私は困りつつも「鍵を渡された以上行くしかない」と考えたのです。長谷川くんの家には何回かお邪魔していて、道は覚えていたので私は寄り道もせずに家へ向かったのです。
 鍵を開けると中はシンとしていて、彼の言った通り誰もいないようでした。私は2階の長谷川くんの部屋に行って最新のゲームをひたすらやっていました。1時間ほど経った頃でしょうか。最近は毎日長谷川くんとそのゲームで遊んでいて、一人でやっていた事もあり、飽きて私は寝っ転がりながら暇を持て余していました。その時、頭の中で面白いことを思いついたのです。

「あの押し入れに隠れて長谷川くんを脅かしてやろう」

 私は小心者の癖にイタズラを仕掛ける方は好きでした。大きな押し入れを開けると昔遊んでいたであろうおもちゃがたくさん入っていて、ホコリが軽く積もっている様子からあまりここを開けることをないことが分かり、絶好の隠れ場所だと喜びました。そこで私はそもそももう飽きて帰ってしまったと思わせといた方が面白いだろうとまた閃き、玄関から急いで靴を持ってきて、その押し入れに入って襖を閉めました。そうすると中はかなり暗いですが、外からは分からないくらいに隙間を作っておくと、光が差し込んできて怖がりの私でも余裕を持って待っていることが出来ました。
 
 数十分してから玄関のドアを開ける音が聞こえました。それから「〇〇くーーん」と私の名前を呼ぶ声が聞こえ、私はニヤニヤしながらじっと待ちました。この部屋の扉が開くと同時に「遅れてごめん~」と長谷川くんは言いますが、直後にポカン、と立ち止まってしまいました。その顔がなんとも面白くて、私は吹き出しそうになるのをこらえるのに必死でした。長谷川くんは私が目の前にいることも知らずに何回か名前を呼びます。しかしやはり返事は無いので、不思議そうにしてゲームをやり始めました。恐らくここで私はもう帰ってしまったのだろうと判断したのでしょう。
 このタイミングでもう襖を開けても良かったのですが、私はこの視点に面白さを感じていました。まさかこんなに近くで見られているとも知らず、自分1人の時間を過ごしている人間を小さな隙間から覗くーーその行為はバレてしまわないかという緊迫感と、謎の興奮があり私はそのまま数十分、長谷川くんから目を離しませんでした。
 ああ、なんて刺激のある行為なのだろう、と子どもながらに私は思いました。虫を殺すことより、ゲームで人を殺すより、この行為になんとも言いがたい愉悦を感じてしまっていたのです。気づけば私は勃起していました。心臓の音がバクバクとうるさく、もうおかしくなりそうでした。その瞬間、長谷川くんはそれに合わせるように私を余計狂わせることを始めます。

 彼は仰向けになるとゆっくりとズボンを下ろし始め、下着越しに性器を優しく触り始めました。小さな甘い声が耳に入りました。私は自慰行為自体は当時から知っていましたが、実際にしたことはまだ無く、この上なく惹かれて食い入るようにそれを見ていました。そして自分も同じように触り始めます。やがて長谷川くんが絶頂を迎えた瞬間を見て、私も口を手で抑え声を我慢しながら精通をしました。それまでに感じたことの無い快感に目の前が真っ白になり、危うく気絶するほどでした。
 私は軽く痙攣しながらただただ余韻に浸っていました。少ししてそれは治まったので、また長谷川くんの生活を時間も忘れて覗き見していました。しかしそこでミスを犯します。体勢を変えようとした時に大きな音を立ててしまいました。長谷川くんは真っ先にこちらを見ます。ただし隙間からの私の姿は見えないようで、何の音だったか確認しようとこちらへ向かってきます。

「開けないでくれ」

 音に気づかれた瞬間はそう思いました。ですが長谷川くんが私の姿を見た時にどんな顔をするかと考えると興奮が止まらずまた下腹部が疼き出すのです。怯えているのか彼はゆっくりと近づいてきます。全身に電気が走るようで堪らない。とうとう私は「早く開けてくれ」、そう思うようにまでなっていました。

「ワッ」

 襖を開けた瞬間長谷川くんは大きな声を上げて尻もちをつきました。まるでこの世で最も恐ろしい化け物と遭遇したかのような驚愕した表情。脳みそがとろけるようでした。その時の私はどんな顔をしていたのでしょう。きっと快楽に満ちた気味の悪い笑みを浮かべていただろうと思います。

「ごめん、隠れて脅かそうとしてたら寝ちゃってた」

 最初から考えてた言い訳を述べても長谷川くんは固まったままでした。よっぽど驚いたのでしょう。

「な、なにしてんだよお前」

「ごめんごめん」

 長谷川くんはまだ私を警戒していました。もしかしたら先程の自慰行為を見られていたのではないかと焦っていたのかもしれません。時計を見るともう夕飯時になっていて、ちょうど長谷川くんの母親が帰ってくる音がしました。その後私は家まで送ってもらいました。最後まで長谷川くんは私に怖い視線を向けていました。



 非常に気持ちの悪い話で申し訳ないです。もう少し続きますが、どうか読んでいただきたいのです。
 
 この事件が起こって以来、私はおかしくなってしまいました。人の全てさらけだした生活を覗き見したいという欲を抱えてただ生きていました。先述と同じような手口で何人ものプライベートを食い散らかして悦に浸っていましたが、何故だか満たされない。もっと強い刺激が欲しいのです。そのまま大学生になった私は、それ以外の物が全部ゴミに感じてしまい、ろくに学校にも通わず、死人のように腐った生活を続けていました。
 そんな時、あることを知りました。近くのアパートで近い内に女子大学生が引っ越してくるらしい。当時の私は単位不足から留年が決定していて、家族からも冷ややかな目を向けられていました。夢も希望もなく、もう自分は自殺でもするしかないと本気で思っていました。ただ、どうせ死ぬのならこの尽きぬ欲を満たしきってからこの世界を最後にしたいと、そう決めました。
 半狂乱的な心持ちで私はそのアパートに向かい、どうにかしてここの住人となる女性の生活を近くで覗こうと部屋を毎日偵察し始めます。ある日、女性が荷物をその部屋に運んでいることが確認できました。忙しく動く容姿を凝視していたら私は気づいてしまいました。あれは高校生の頃に一目惚れした同じクラスの女子だと。
 彼女はどこかのお嬢様のようにお淑やかで、明らかに他の女子とは違う雰囲気を醸し出していました。私は後ろの席から授業中も常に彼女のことを見ていた。無論告白する勇気などなく、そもそもこんなに醜い顔、性格をした自分など近づくのもおこがましいと思い、結局会話を交わすことも無く高校を卒業しました。
 私が当時のままであったらここで罪悪感を持ち、諦めていたでしょう。けれども今の私にはもはや失うものも無く、寧ろ神様が与えた一つの天国だと感謝さえしていました。最低な人間だということは自分でも充分承知でございます。ただ、ただ、私はそれほどまでに世界に追い詰められ、どうしようも無かったのです。
 やがて彼女はその部屋で生活を始めました。私はどうにかして彼女の居ないうちに部屋へ潜入して、どこかに隠れられないかと思考を巡らせました。察知されないように朝から夜まで見張っていたら、そのチャンスはすぐさまに現れました。彼女は家の鍵のスペアを扉付近の鉢の下に隠していたのです。それは彼女の母親らしき人物が現れた時に発覚しました。

 朝の8時くらいに大学へ向かったことを確認し、私は迅速に、音一つ経てずにその鍵を使って部屋へ潜入しました。まるで泥棒にでもなったような気分で、脳の芯の芯までが痺れるようでした。入ったことを悟られぬように注意し、間取りを確かめました。そうしたら、なんてことでしょう、洋室の右端に長谷川くんのあの記憶を彷彿とさせるような押し入れがあるではありませんか。あれほど和式的では無いですが、中は二段になっていて、ほとんど何も入っておらず、まるで私に「ここに隠れてください」と頼んでいるようでした。見た所開けることもほとんど無いようで、潜むならここしかないと、そう思わざるを得ませんでした。そうは言っても開けられる可能性は充分にありましたが、私はもう見つかって警察にでも捕まっていいほどの覚悟ができていたので、大した問題ではない。何なら彼女が私が隠れて覗き見をしていたことに気づいた時の表情を拝みたいとまで考えていましたので、意気揚々と上の段に登り襖にほんの少しだけの空きを作って閉めました。勿論鍵は元の場所に戻し、靴も手元に置いておきました。用は彼女がいない間だけに済ませなければいけないので、水分も最低限しか取りませんでした。

 さて、優香様はもうお気づきではないでしょうか。そうです。私が入り込んだ部屋は貴方の、優香様のお部屋でございます。貴方がここで生活している間、私は文字通り、日常の裏で隠れて過ごす虫のように、同じ空気を吸っていたのです。
 全部見ていました。少々行儀悪く食事を取る貴方を。母親に大学生活の愚痴を語る貴方を。昔から好きだったアイドルの曲を口ずさむ貴方を。一人で行為に耽ける貴方を。安心しきって赤子のように可愛らしい顔で眠る貴方を。
 幸い、幸いなのかどうかは分かりませんが、貴方は随分と長い間、一度もあの押し入れを開けませんでした。正直に言いますと、私はもう貴方の生活を覗き見ることに満足しました。堪能し尽くしました。今の私の欲望はと言うと、貴方に私の姿を見て欲しいのです。今まで血眼になって、気色の悪い欲望の為に恥ずかしい所まで全て見られていた貴方が、その人間に向けてどんな眼差しを向けるのか、想像するだけでこの上ない絶頂を迎えてしまいそうになるのです。
 どうか、どうかあの押し入れを開けていただけないでしょうか。貴方に危害を加えることは決してありません。これまでに何度も殺そうと思えば殺せる場面はあったはずです。それでも私は貴方に指一つ触れていない。必ず何もしないと誓います。
 この下劣で最悪極まりない犯罪者にどうか、救いをください。




 動けなかった。この文の内容が私のことだとはすぐに気づいた。母親が度々部屋に入るため、鉢の下に鍵を隠していたのは確かだ。ただ高校の頃同じクラスであったらしいのだが、誰だかは全く思い出せない。話したこともないという特徴から何人か候補は出てくるが、やはり怪しいような人物はいない。
 ああ、気持ち悪い。怖い。私はどうしたらいい?手紙を持つ手がただただ震える。今も居るということは、右端の押し入れの隙間から彼は私を見ているのだ。そう思うと指の先まで恐怖が包み込んで、今にも発狂してしまいそうになる。呼吸は荒くなっていく。焦る。
 
「開ければいいんでしょ、開ければ」

 小声で呪文のように呟いた。もう平静を保てず、あの襖を開ければいいという思考になっていた。警察を呼ぶことも出来るが、相手は捨てる物などない人間だ。要望通りのことをしなければ殺されるかもしれない。私はガクガクの足を持ち上げて押し入れの方を向く。確かに小さな、ごく小さな隙間があった。鼓動がうるさい。冷や汗が服にびっしょりと染み込んだ。
 音を立てずすり足で少しずつ近づいて、ようやく目の前まで来た。頭がおかしくなったのか、「私は度胸がある女だな」と変に得意げな気持ちさえ湧いてきていた。何もかもどうでもよくなった。手をかける。思いっきりその最悪の扉を開くーー

「ーーーー」

 そこに映る景色に言葉を失った。そこにいたのは、そこにいたのは。

「友美……?」
 

「クヒヒッ」

 紛れもなく私の友人の友美だった。何故?頭が混乱する。どういう事だ。あの男は?

「なんでーーなんでアンタがいんのーー」

 水を失った魚のように口をパクパクとさせる私を見て、友美はどこか恍惚とした笑みを浮かべ、ゆっくりと言った。

「どう?私の小説」
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