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別章
クリスマスSS 彼女の純粋な想い
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「あぁ、寒い寒い……」
彼女は体を震わせて帰宅をすると部屋の電気を点けた。そして暖房のスイッチを入れると、そのままの流れでこたつの電源も入れた。
部屋には暖房の起動音が鳴っているものの、全体が温かくまでにはまだ少し時間がかかりそうだ。
そこで彼女は帰りに買ってきたものが入ったレジ袋を置くと、中にあるものを冷蔵庫に入れた。また、食材なんかもありそれに関してはキッチンに置いた。
そんな時にスマホが鳴った。
「はいはい」
「あ、お疲れ様です。お仕事は終わりましたか?」
「うん。終わって今帰ってきたところよ。そっちはどう? 芹乃さん」
「私もさっき終わって、これからそちらに向かうところです。今日は本当に泊めてもらってもいいんですか? 中村さん」
本日は12月24日。
仕事を終えた彼女、中村朋花はかつての同僚である芹乃加奈を夕食にと自らの家に呼んでいた。そしてその日、芹乃ももう別の所となってしまった場所で仕事だったため、終わり次第中村の家に集合するという約束をしていたのだ。
「いいのよ。一人で飲むには寂しかったんだし。それに、芹乃さんも一人なんでしょ?」
「まぁ…そうですね」
「なら今日は女二人で飲むわよぉ」
中村はどこか楽しそうだ。
芹乃は二十六歳、中村は二十九歳だ。そんな中で芹乃はもちろん敬語を使うわけだが、実のところ二人は姉妹のように仲が良く、たまに芹乃の敬語が外れることがある。それでも中村は何も気にしていない。
「そういうことならお言葉に甘えて。私はスーパーでお酒を買ってから行きます」
「はいよ。それじゃまた後でね。あ、苦手な食べ物はある?」
「特に無いので大丈夫です」
「おっけ」
そうして通話が終了すると、中村はキッチンで本日のメインである鍋の準備を開始した。
***
インターホンが鳴ったので中村が出ると、そこには鼻の頭を赤くした芹乃が立っていた。
栗毛色のボブカットにはうっすらと白い綿のようなものが付いていた。
「もしかして雪降ってるの?」
「はい。降り始めってところです」
そこで中村が空を見上げると、確かにちらちらとした雪が舞ってはその街灯に照らされて光っていた。
そりゃ寒いわけね、と中村が言うと、完全に温まった部屋に芹乃を招き入れた。すると、その黒縁眼鏡のレンズが一瞬にして曇った。
芹乃はそのままキッチンで手を洗っていると、その隣のコンロからなんともそそられる香りを感じた。
「美味しそうですね。やっぱりこの季節は鍋ですね」
「なに年寄りみたいなことを言ってるのよ。もう少しで出来るから待ってね」
「はい」
その間に芹乃は棚からグラスを取り出すとこたつテーブルへ持っていった。
「そういえば、これを買ってきました」
「いったいどれだけ飲む気なのよ」
芹乃が帰りがけに買ってきたという酒を中村に見せると、中村は顔をしかめた。
それはそれなりにいい日本酒で、しかも一升瓶だったのだ。
「女子なら普通はカクテルとか可愛らしい缶チューハイを持ってくるものじゃない?」
「そうですか? でも今日は男がいないのでいいじゃないですか」
「まぁ、そうよね。男、いないものね……」
中村がなんだか複雑そうな顔をした。それに対して芹乃がやってしまったという顔になった。だが二人の間柄において深刻に悩み謝罪をするものでもないので、そのままにしておいたのだった。
なんならさっきの電話で中村は芹乃に対して、一人なんでしょ?と言っていたのでこれでおあいこだと思ったのだった。
「中村さん。日本酒がいっぱいあるので冷と燗でいけますよ。ということで徳利はどこですか?」
「徳利? うちには無いわよ?」
「そう言うと思って買ってきました。百均で」
「準備がいいわね。今日は本当にとことん飲む気なのね」
「はい。中村さんには最後まで付き合ってもらいますからね。どうせ明日は休みで、何も予定が無いでしょう?」
「それは、そうね。そう言うってことは、芹乃さんもどうせ何も無いんでしょ?」
「あったらここに来ませんよ」
「その言い方もなんか悲しいわね」
そんなこんなで鍋が完成した。
中村が火を止めると、どこかからかミトンを取り出して両手にはめた。それを見た芹乃はこたつテーブルに鍋敷きを置くと、まもなくして鍋が置かれた。
そして蓋が開けられると、その香りが部屋を包んで二人の鼻腔と食欲を刺激した。
「寄せ鍋よ。うまく出来たわね」
「本当に美味しそうですね。というか、クリスマスに鍋ってどうなんですか?」
「考えてもみて? 女二人が家の中でクリスマスチキンとケーキを食べて楽しい?」
「……」
「それが答えよ」
芹乃が来てからもう何度目かのなんとも悲しい空気が流れる。
「中村さんは何を飲みます?」
「そうね、最初はビールかな」
芹乃がその空気を破って聞くと、冷蔵庫から缶ビールを二本取りだした。そしてそれをテーブルに置くと、二人がこたつに足を入れて座った。
「いい感じに温まっていて良かった」
「前に来た時は壊れてましたからね」
「そうね。だから買ったのよ」
そんな話をしながらも芹乃がグラスにビールを注いだ。それを中村の前に置くと、中村は嬉しそうに微笑んだ。
「それじゃ食べようか」
「はい。いただきます」
そこからお互いの皿には鍋がよそわれ、口に運ばれると二人の頬がほころんだ。
****
「熱燗できたわよ」
「あーありがとうござます……」
この数時間で二人は、特に芹乃がかなりの酒を飲んだ。それもあって芹乃の目はとろんとし、頬も赤くすっかりと出来上がっていた。
「中村さんは飲んでます? 飲んでます?」
「飲んでるわよ。というか、どうして今日はそんなに弱いのよ。はい、熱燗」
「あーありがとござま」
そして芹乃が徳利からお猪口に熱燗を注ぐと、それをぐいっとやった。
「あっちち」
「一気に飲むからよ。はい、お水」
「ありがとござ」
その水もぐいっとすると
「つめたっ」
「どうしたいのよ」
「なんで今日の中村さんは、酒が強いんです? ハロウィンの時はよわよわだったのに」
「あの時はあまり寝てなかったからよ。で、なんで今日の芹乃さんはそんなに弱いのよ? いつもは私よりも強いでしょ?」
「………いろいろあったんですよ。中村さんも知ってるでしょ」
そこで中村が察した。
かの鈴谷真由との出来事だ。あの日、芹乃は高橋翔と交際している鈴谷から彼を救おうとして彼に告白した。もちろん芹乃には高橋への好意もあった。それでも、その一個人の好意よりも彼を救いたいという気持ちが大きく、その想いを行動に移したのだ。
修羅場といって間違いない事を起こしながらも芹乃は彼への本気の想いを伝えた。だがそれは敗れたのだ。
「あれは、残念だったわよね。私は高橋くんには芹乃さんの方が間違いなく似合っていたと思っていたのよ。だって、見てれば分かるわよ。芹乃さんも高橋くんもお互いに完全に素の自分で接してたじゃない。それにね、二人ともそれを苦にしていなかったでしょ? 絶対に相性が良かったわよ」
「そうよ。そうですよ。高橋くんには私の方が合っているんですよ。私以外には似合わない男なんですよ。なのに…なのに……どうしてこうなっちゃったかなぁ……」
そんな芹乃さんの目には強い後悔と涙が溜まっていき、鼻をすする音とともに涙がこぼれ落ちた。
「はい、ティッシュ」
中村がそう言って渡すと、次には芹乃のお猪口に熱燗を注いでやった。
「中村さんが私を支えてくれていたことは嬉しかった。私の味方をしてくれたのも嬉しかった。でも、でもね、本当は少しだけ中村さんを疑っていたのよ」
「うんうん」
「煙草を吸っていた時に高橋くんの煙草を欲しいって言ったり、それ以外の時でも高橋くんが最初に何かと相談をするのはいつも中村さん。そんな中で中村さんも高橋くんを好きにならないのかなって、そうなったら怖いなって嫌だなって思ってたのよ。でも、だからといってあの人みたいに変に監視するのはもっと嫌だし、それよりも私は中村さんが好きだし……もう、ずっと辛かったのよ……」
また熱燗をぐいっとする芹乃。そしてまたお猪口に注がれた。
「あなたはどれだけ高橋くんのことが好きだったのよ」
「いっぱい好きでしたよ。好きだったんですよぉぉ……」
今度の芹乃はもっと泣きだした。涙が流れる度に尋常じゃない勢いでティッシュが消えていき、それで拭っても拭っても止まることはなかった。
「私は私で高橋くんにアピールしたし、なんならYoutubeで分かりやすい名前を使ってスパチャもして、分かりやすい質問をしたのよ。なのに他人事みたいに答えてさ、次の出勤でもなんにも変わらずの様子だったし。もしかして今もあれが私だって気付いていないんじゃないかなぁ……」
「あぁ、あれね。私も見たわよ。アーカイブだけど。名前がSRNって、分かりやすすぎて笑っちゃったわよ」
「でしょお? 自分でもやりすぎたって思ったもん。でも、でもこれくらいしないと気付かないかなって頑張ったんですよ。でも気付かないし」
「まぁ、あれよね。高橋くんも男の子なのよ。男の子はそういうことには鈍感なものなのよ」
「アニメや漫画の主人公かっての……」
中村はそんなこんなでもう何回目かの熱燗のお代わりを芹乃のお猪口に注いだ。芹乃も芹乃でそれを毎回悲しそうに、それでいても美味しそうに飲むものだから中村としても悪い気はしていないのだった。
「あれから連絡はとったの?」
「とってないですよ。私は負けたんです…あの女に負けたんです。負け女が連絡をしたら往生際が悪いってなって、また高橋くんを困らせちゃいますって」
「でも高橋くんは芹乃さんに連絡を入れたそうじゃない?」
「あれは、まだ既読を付けてないだけです。でも最初のところに就職が決まったって書いてあったんで嬉しかったです。でも既読を付けたら返さないと可哀そうだし、こんな私がまた連絡をとっていいのか分からないし……」
「あなたね、高橋くんのことが好きすぎでしょ。そんなに気を遣わなくていいんじゃない? それこそ、高橋くんは何も気にしないって。鈍感なんだし」
「でも、それでも彼を困らせたくないのよ……」
その時芹乃が中村のお猪口に熱燗を注いだ。
「私は高橋くんが元気ならそれでいいのよ。でも中村さん、こんな私のお願いを聞いてくれますか?」
そう言った芹乃の顔は急に真剣になった。こんな状態でもその瞳は真っ直ぐと中村の瞳に向けられていて、まさに懇願という言葉を表した様になっていた。
それに対して中村が頷いて熱燗を飲んだ。
「何かあったら高橋くんを守ってください。あの女から高橋くんを守ってください」
芹乃が頭を下げた。
自分にはもう何も出来ない。大好きな彼に何もしてあげることが出来ない。それでも彼を守りたい。そんな強い想いを込めた言葉だった。
鈴谷から被害を受けていた二人だからこそその言葉の重みを理解出来た。
中村は鈴谷の異常性によって今後もそれに振り回されていくだろう高橋を思うと
「分かったわ。あの子がまた何かやったら、今度こそ私が高橋くんを救うわ」
と断ることなんて出来なかった。
そんな中村の目にも強い決意と、芹乃の想いを受け取ったという意思が宿った。
「ありがとうございます。もう中村さんにしか頼れないんです……本当は私がどうにかしてあげたいんです……」
「そんなに言うならさ、もう高橋くんに連絡すればいいんじゃない? それこそ軽い感じで。そこからまた仲良くすればいいじゃない。それで最初に相談を受けるくらいになってさ」
「そんなのは出来ませんって」
その直後にまた芹乃はうじうじとし始めて、あーだこーだと言いだした。それでも中村は全部聞いてあげていた。
時刻は夜の0時を過ぎた。
中村が完全にぬるくなった熱燗の残りをお互いのお猪口に注ぐと、新しく熱燗を作った。それでも芹乃が持ってきた一升瓶の日本酒は残っていた。
そうして出来上がった熱燗を持ってこたつに戻ると、ふと芹乃が言った。
「もしあの時、高橋くんを私の彼氏にすることが出来ていたら、きっと今頃楽しかったんだろうなぁ」
「あぁ、なるほどね。そうね、そういう時間よね」
中村は察した。
「きっと高橋くんは今頃お楽しみなんだろうなぁ。あの女と」
「そうでもないかもよ? 今日は、もう昨日か。高橋くんはバイトに来ていたし、あの子は休みだったから。それに、ふざけて聞いてみたんだけど、高橋くんは夜にYoutube配信をするって言ってたから今も一人なんじゃない?」
「そんなまさか…」
と芹乃がYoutubeを開いて高橋のチャンネルを確認した。するともう配信は終了していたものの、その終了時刻がついさっきになっていた。
「これは…本当かもしれませんね」
「でしょう? きっと一人よ。いや、ほぼ一人よ」
「ちなみに、あの子は何でバイトを休みにしたんですか?」
「友達と出かけるって言ってたわ」
そこで芹乃の目が光った。
「これは、本当にあるかもしれないですね」
「そうよ。高橋くんは一人寂しくクリスマスの夜を過ごしているんだわ」
そう言っている中村の顔もほんのり赤くなっていた。どうやらやっと酒が回ったようだ。
「そうと分かれば決まりよ。いけいけどんどんよ」
そう言う中村に対して、古いですと言える芹乃ではなかった。なにせ芹乃もまだ酒が抜けていないのだから。
そこで芹乃がごくりと喉を鳴らした。
「でも連絡が…」
「私が代わりにしてあげるわよ」
「もう酒を飲んでいるし……」
「タクシーよ」
「場所だって……」
「ここに呼んじゃいなさいよ。私は気にしないわ。人肌が恋しい季節だもの。芹乃さんも何も気にすることはないわ」
中村は完全に出来上がっていた。
さっきまで唯一のストッパーだった彼女がこうなってしまってはもう止まることはないだろう。
そこで中村が不敵な視線を向けた。
「ハロウィンでのこと、覚えてるわよぉ? 帰りに私が後部座席で寝ている隙に高橋くんをホテルに連れ込もうとしたでしょ?」
「な、なんでそれを。酔いつぶれて寝ていたんじゃないんですか?」
「私を甘くみないことね。だから背中を押してあげようと寝言を言ってあげたのに、その時にはホテルを過ぎてるし。どっちも度胸がないんだから。処女か! 童貞か!」
中村が熱燗をぐいっとやると、さっきの芹乃と同様に熱がったので芹乃が水を渡した。
「子供の恋愛ではね、確かに誰かの好きな人を取ったら怒られる。でも、大人の恋愛にはね、時には狡さも必要なのよ。好きになっちゃったんだから仕方ないのよ。その人に恋人がいても、自分がその人よりもいい女だって確信させれば心変わりなんてするものなのよ」
「でも私はあの時負けちゃってますし……」
「サッカー選手を想像してみ? ゴールキーパーがいたらゴールを打たない? 打ったとしてそれが防がれたら一回で終わりにしてる?」
「それはしてないです」
「何回でも挑戦してるでしょ? 恋愛なんてのはね、本当に好きになった人にはね、たとえどんな状況でも挑戦しないと手に入らない時があるのよ。それに回数なんて関係があるのかしら? いや、ないね。あるのは自分の納得と諦めだけだね」
そして中村が芹乃をびしっと指さして続けた。
「芹乃さんは、あれで本当に納得してるの? 諦められないから苦しいんでしょ? なら転がっているチャンスはものにすべきなのよ。よく言うでしょ? チャンスは人を待たないって」
「中村さん……私は納得していないです。諦めたくないです」
「そうよ。その意気よ。今日はクリスマス。クリスマスは魔法がかかるのよ。クリスマスマジックにのっかってもいいんじゃない?」
そこで芹乃が熱燗をぐいっと一気に飲んだ。
「中村さん。今から高橋くんに電話します。電話してこっちに呼びます」
「よくぞ言った。自分の気持ちに正直になるのよ。私のことは気にするな。散歩に出るふりしてどこかに泊まるから。若い二人は好きなだけお互いを求めあうのだ」
「はい。私は全身全霊をもって高橋くんを自分のものにします。あの女から取ってやるんです」
直後芹乃がスマホを開いた。そしてまだ既読を付けていない高橋のLINEをタップすると、やっと既読を付けたのだった。
「いきます!」
「いけぇ、抱けぇぇ」
そのままの勢いでLINE通話のところをタップすると、その発信音が流れ始めた。
もう後戻りは出来ない。
芹乃と高橋の双方のLINEには通話の記録や履歴が残るのだから。
緊張の中で発信音が続くと
「もしもし」
と高橋が出たのだ。
「あ、あ、高橋くん……?」
「はい。どうしたんですか? なんか驚いているみたいですけど」
電話口の高橋は冷静だった。
その声を聞いた途端に芹乃は舞い上がってしまって話そうとしたことを忘れてしまった。だが、それでも年上らしく冷静でいないとという思いのもとでどうにか自分を落ち着かせたのだった。
「ううん。なんでもないわよ。今は大丈夫?」
「はい。芹乃さんこそこんな夜遅くですけど大丈夫ですか」
「大丈夫だから電話しているのよ。ところで、今は一人……?」
そんな会話を聞いている中村は落ち着かない様子だが、電話口に聞こえる高橋の声に耳を澄ませていた。
「はい。一人です」
「その……あの人と一緒じゃないの?」
「はい。鈴谷さんは今日は友達と出かけるって言ってましたし、僕は僕でゲーム配信をしていて終えたばかりです」
「そう」
それを聞いた芹乃と中村の胸が高鳴った。
芹乃は電話口でも聞こえそうなほどに心臓を激しく鼓動させると、一瞬だけ中村を見た。そして中村が一度頷くと、その唇を動かした。
「あのね、高橋くん。もし―」
「芹乃さん」
それが聞こえなかったのだろう。高橋の声が被ってしまって芹乃の声が消えた。だが、芹乃は強引に話をしようとはせずにそのまま高橋の声に耳を傾けた。
「ど、どうかした?」
「えっと、LINEでも送りましたけど、僕は内定を獲ることが出来ました。芹乃さんにはたくさん支えてもらって、正直キツイ時はその時のことを思い出して頑張ることが出来ました。なので、内定が獲れたのも芹乃さんのお陰だと思ってます。なので、ありがとうございました」
その言葉に芹乃は言葉を失った。
ずっとLINEを未読にしたままで、それについては怒られるだろうと思っていたからだ。それに、あの時の最後だって高橋に迷惑をかけて、本人に直接何も言わないままに急に店を辞めてしまったのだから叱責されても仕方がないものだと思っていた。
なのにそんなお礼の言葉を向けられたのだ。だからこそ、次に言う言葉を見失ってしまった。でもこれだけは聞いておきたかった。
「怒ってないの……?」
「どうして怒るんです?」
「私は急に辞めたんだよ? 手紙があったとはいえ、あれだけのことをしておいて高橋くんの前から急にいなくなったんだよ? それに対して何か思うところとかあるんじゃないの?」
すると高橋の言葉が止まって二人の話に間が生まれた。
やはり何かあるんだ。まぁ、仕方ない。なんでも受け入れよう。それが私に出来る償いなんだ。
芹乃はそう思って次の言葉を待った。だが次に高橋から出た言葉にまた言葉を失うことになる。
「……寂しいですよ。あれから僕は煙草を吸ったんですけど、ひどい味がしました。それで芹乃さんと煙草を吸っていた日のことを思い出しました。今でもたまに思い出します。それで思うんです。楽しかったなと。なので急に芹乃さんが辞めて僕は寂しいです」
「それだけ?」
「あと、その……僕を好いていてくれて嬉しかったです。でも僕はその気持ちに答えることが出来ませんでした。なので、あらためて言わせてください。あの時は傷つけてしまってすいませんでした」
その時芹乃の目から涙が零れ落ちた。
これは怒られなくて良かったという安心や、軽蔑されなくて良かったという安堵ではなく、高橋が純粋に芹乃と一緒に過ごした日々を想って寂しく思ってくれていたことに対する喜びだった。そしてそんな自分の気持ちを素直に嬉しいと言い、高橋は何も悪くないのに芹乃自身の気持ちを汲んで謝罪させてしまったことへ懺悔の思いだった。
「高橋くんは何も悪くないわよ。悪いのは私なのよ。だから、今までごめんね。それと、内定おめでとう。私は、嬉しいわ」
と途中途中で涙声になりながらも最後には彼の成果を祝ったのだった。
「芹乃さん、もしかして泣いてるんですか?」
「泣いてないわよ。電波が悪いのかもしれないわね。明日はバイト?」
「はい。僕にはクリスマスなんて無いですよ。あ、そうだ。メリークリスマス。店で言うことは出来ませんし、もう日付も変わりましたので。芹乃さんもきっと一人でしょうし、これで寂しくないですね」
「余計なお世話よ。ほら、そろそろ子供は寝なさい。サンタさんが来ないわよ?」
「そんな子供じゃないです。もしかして芹乃さんがサンタクロースになってくれるんですか? それなら新型のゲーミングパソコンが欲しいです」
「そんなの自分で買いなさいよ。それじゃもう切るわよ。あ、そうね。私からも言ってあげるわ。メリークリスマス。せいぜいいい夢でもみることね」
「芹乃さんも。それじゃ、何かあったらたまには連絡しますね」
そうして通話が終了した。
スマホを置いた芹乃はさまざまな感情を抱いて泣いてしまった。
それを察した中村が芹乃の隣に座って背中をさすってやった。
「こんないい人に……私はなんてことをしようとしてたのよ………」
「そうね。私も悪いことをしたわ。ごめんね」
「そんなに優しいんじゃ……抱けないよ……… 高橋くん…高橋くん……ごめんね。こんな私で…ごめんね……」
芹乃はそれからもひたすらに泣きじゃくった。
だが、芹乃は実感してしまった。
今もまだ高橋のことがちゃんと好きなままであるということを。そしてそれとともにあの時自分は勝てなかったんだと思い出し、そのことがなお一層涙を大粒にした。
*****
芹乃は気が付くと眠っていた。それも中村に抱きかかえられながらである。
そんな中村も寝てしまっており、カーテンは朝日が照らしていた。
時刻は朝の九時。
クリスマス当日の12月25日である。
この日の芹乃は仕事を休みにしていた。こうして中村と夜通し飲むつもりでいたからだ。
すると芹乃がのそっとこたつから出て洗面所で自分の顔を見た。
「ひどい顔ね」
昨夜散々泣いたせいで目は腫れ、大量の酒を飲んだことで顔は浮腫んでいた。
また、そんな顔を高橋に見られなくて良かったと思ったのだった。
「起きたのね」
と中村も目を覚ました。その顔ももちろん浮腫んでいた。
「はい。なんか昨日はすいませんでした。たくさん迷惑をかけてしまって」
「いいのよ。女にはこういうのも必要なことよ」
中村は優しく笑った。
カーテンが開かれると、そこには雪が積もっていた。
「晴れてはいるけど、今日も寒そうね」
「そうですね。中村さんは今日は出勤ですか?」
「いや、休みにしたわよ。飲んだ次の日は働きたくないって思ってね。芹乃さんは?」
「私も休みです。あの、中村さん」
芹乃が少しだけ俯いた。
「今日は何を食べようか」
「えっ?」
「今日も一緒にいようよ。私も寂しいのよ」
と中村が微笑むと、芹乃は嬉しそうに笑った。
「はい、ありがとうございます」
「あ、でも明日は出勤だからお酒は無しよ?」
「それは、もちろん…はい」
それから二人はシャワーを浴びてのんびりした後、一緒に買い物に出かけたのだった。
「どうせなら、うちの店にくる? 高橋くんがいるわよ?」
それに対して芹乃は
「いえ、今日は大丈夫です。昨日話して楽しかったので」
と微笑んだ。
その笑みには昨日まであった悲しみや迷いが無くなっていて、天上に広がる冬の空のように澄んでいた。
彼女は体を震わせて帰宅をすると部屋の電気を点けた。そして暖房のスイッチを入れると、そのままの流れでこたつの電源も入れた。
部屋には暖房の起動音が鳴っているものの、全体が温かくまでにはまだ少し時間がかかりそうだ。
そこで彼女は帰りに買ってきたものが入ったレジ袋を置くと、中にあるものを冷蔵庫に入れた。また、食材なんかもありそれに関してはキッチンに置いた。
そんな時にスマホが鳴った。
「はいはい」
「あ、お疲れ様です。お仕事は終わりましたか?」
「うん。終わって今帰ってきたところよ。そっちはどう? 芹乃さん」
「私もさっき終わって、これからそちらに向かうところです。今日は本当に泊めてもらってもいいんですか? 中村さん」
本日は12月24日。
仕事を終えた彼女、中村朋花はかつての同僚である芹乃加奈を夕食にと自らの家に呼んでいた。そしてその日、芹乃ももう別の所となってしまった場所で仕事だったため、終わり次第中村の家に集合するという約束をしていたのだ。
「いいのよ。一人で飲むには寂しかったんだし。それに、芹乃さんも一人なんでしょ?」
「まぁ…そうですね」
「なら今日は女二人で飲むわよぉ」
中村はどこか楽しそうだ。
芹乃は二十六歳、中村は二十九歳だ。そんな中で芹乃はもちろん敬語を使うわけだが、実のところ二人は姉妹のように仲が良く、たまに芹乃の敬語が外れることがある。それでも中村は何も気にしていない。
「そういうことならお言葉に甘えて。私はスーパーでお酒を買ってから行きます」
「はいよ。それじゃまた後でね。あ、苦手な食べ物はある?」
「特に無いので大丈夫です」
「おっけ」
そうして通話が終了すると、中村はキッチンで本日のメインである鍋の準備を開始した。
***
インターホンが鳴ったので中村が出ると、そこには鼻の頭を赤くした芹乃が立っていた。
栗毛色のボブカットにはうっすらと白い綿のようなものが付いていた。
「もしかして雪降ってるの?」
「はい。降り始めってところです」
そこで中村が空を見上げると、確かにちらちらとした雪が舞ってはその街灯に照らされて光っていた。
そりゃ寒いわけね、と中村が言うと、完全に温まった部屋に芹乃を招き入れた。すると、その黒縁眼鏡のレンズが一瞬にして曇った。
芹乃はそのままキッチンで手を洗っていると、その隣のコンロからなんともそそられる香りを感じた。
「美味しそうですね。やっぱりこの季節は鍋ですね」
「なに年寄りみたいなことを言ってるのよ。もう少しで出来るから待ってね」
「はい」
その間に芹乃は棚からグラスを取り出すとこたつテーブルへ持っていった。
「そういえば、これを買ってきました」
「いったいどれだけ飲む気なのよ」
芹乃が帰りがけに買ってきたという酒を中村に見せると、中村は顔をしかめた。
それはそれなりにいい日本酒で、しかも一升瓶だったのだ。
「女子なら普通はカクテルとか可愛らしい缶チューハイを持ってくるものじゃない?」
「そうですか? でも今日は男がいないのでいいじゃないですか」
「まぁ、そうよね。男、いないものね……」
中村がなんだか複雑そうな顔をした。それに対して芹乃がやってしまったという顔になった。だが二人の間柄において深刻に悩み謝罪をするものでもないので、そのままにしておいたのだった。
なんならさっきの電話で中村は芹乃に対して、一人なんでしょ?と言っていたのでこれでおあいこだと思ったのだった。
「中村さん。日本酒がいっぱいあるので冷と燗でいけますよ。ということで徳利はどこですか?」
「徳利? うちには無いわよ?」
「そう言うと思って買ってきました。百均で」
「準備がいいわね。今日は本当にとことん飲む気なのね」
「はい。中村さんには最後まで付き合ってもらいますからね。どうせ明日は休みで、何も予定が無いでしょう?」
「それは、そうね。そう言うってことは、芹乃さんもどうせ何も無いんでしょ?」
「あったらここに来ませんよ」
「その言い方もなんか悲しいわね」
そんなこんなで鍋が完成した。
中村が火を止めると、どこかからかミトンを取り出して両手にはめた。それを見た芹乃はこたつテーブルに鍋敷きを置くと、まもなくして鍋が置かれた。
そして蓋が開けられると、その香りが部屋を包んで二人の鼻腔と食欲を刺激した。
「寄せ鍋よ。うまく出来たわね」
「本当に美味しそうですね。というか、クリスマスに鍋ってどうなんですか?」
「考えてもみて? 女二人が家の中でクリスマスチキンとケーキを食べて楽しい?」
「……」
「それが答えよ」
芹乃が来てからもう何度目かのなんとも悲しい空気が流れる。
「中村さんは何を飲みます?」
「そうね、最初はビールかな」
芹乃がその空気を破って聞くと、冷蔵庫から缶ビールを二本取りだした。そしてそれをテーブルに置くと、二人がこたつに足を入れて座った。
「いい感じに温まっていて良かった」
「前に来た時は壊れてましたからね」
「そうね。だから買ったのよ」
そんな話をしながらも芹乃がグラスにビールを注いだ。それを中村の前に置くと、中村は嬉しそうに微笑んだ。
「それじゃ食べようか」
「はい。いただきます」
そこからお互いの皿には鍋がよそわれ、口に運ばれると二人の頬がほころんだ。
****
「熱燗できたわよ」
「あーありがとうござます……」
この数時間で二人は、特に芹乃がかなりの酒を飲んだ。それもあって芹乃の目はとろんとし、頬も赤くすっかりと出来上がっていた。
「中村さんは飲んでます? 飲んでます?」
「飲んでるわよ。というか、どうして今日はそんなに弱いのよ。はい、熱燗」
「あーありがとござま」
そして芹乃が徳利からお猪口に熱燗を注ぐと、それをぐいっとやった。
「あっちち」
「一気に飲むからよ。はい、お水」
「ありがとござ」
その水もぐいっとすると
「つめたっ」
「どうしたいのよ」
「なんで今日の中村さんは、酒が強いんです? ハロウィンの時はよわよわだったのに」
「あの時はあまり寝てなかったからよ。で、なんで今日の芹乃さんはそんなに弱いのよ? いつもは私よりも強いでしょ?」
「………いろいろあったんですよ。中村さんも知ってるでしょ」
そこで中村が察した。
かの鈴谷真由との出来事だ。あの日、芹乃は高橋翔と交際している鈴谷から彼を救おうとして彼に告白した。もちろん芹乃には高橋への好意もあった。それでも、その一個人の好意よりも彼を救いたいという気持ちが大きく、その想いを行動に移したのだ。
修羅場といって間違いない事を起こしながらも芹乃は彼への本気の想いを伝えた。だがそれは敗れたのだ。
「あれは、残念だったわよね。私は高橋くんには芹乃さんの方が間違いなく似合っていたと思っていたのよ。だって、見てれば分かるわよ。芹乃さんも高橋くんもお互いに完全に素の自分で接してたじゃない。それにね、二人ともそれを苦にしていなかったでしょ? 絶対に相性が良かったわよ」
「そうよ。そうですよ。高橋くんには私の方が合っているんですよ。私以外には似合わない男なんですよ。なのに…なのに……どうしてこうなっちゃったかなぁ……」
そんな芹乃さんの目には強い後悔と涙が溜まっていき、鼻をすする音とともに涙がこぼれ落ちた。
「はい、ティッシュ」
中村がそう言って渡すと、次には芹乃のお猪口に熱燗を注いでやった。
「中村さんが私を支えてくれていたことは嬉しかった。私の味方をしてくれたのも嬉しかった。でも、でもね、本当は少しだけ中村さんを疑っていたのよ」
「うんうん」
「煙草を吸っていた時に高橋くんの煙草を欲しいって言ったり、それ以外の時でも高橋くんが最初に何かと相談をするのはいつも中村さん。そんな中で中村さんも高橋くんを好きにならないのかなって、そうなったら怖いなって嫌だなって思ってたのよ。でも、だからといってあの人みたいに変に監視するのはもっと嫌だし、それよりも私は中村さんが好きだし……もう、ずっと辛かったのよ……」
また熱燗をぐいっとする芹乃。そしてまたお猪口に注がれた。
「あなたはどれだけ高橋くんのことが好きだったのよ」
「いっぱい好きでしたよ。好きだったんですよぉぉ……」
今度の芹乃はもっと泣きだした。涙が流れる度に尋常じゃない勢いでティッシュが消えていき、それで拭っても拭っても止まることはなかった。
「私は私で高橋くんにアピールしたし、なんならYoutubeで分かりやすい名前を使ってスパチャもして、分かりやすい質問をしたのよ。なのに他人事みたいに答えてさ、次の出勤でもなんにも変わらずの様子だったし。もしかして今もあれが私だって気付いていないんじゃないかなぁ……」
「あぁ、あれね。私も見たわよ。アーカイブだけど。名前がSRNって、分かりやすすぎて笑っちゃったわよ」
「でしょお? 自分でもやりすぎたって思ったもん。でも、でもこれくらいしないと気付かないかなって頑張ったんですよ。でも気付かないし」
「まぁ、あれよね。高橋くんも男の子なのよ。男の子はそういうことには鈍感なものなのよ」
「アニメや漫画の主人公かっての……」
中村はそんなこんなでもう何回目かの熱燗のお代わりを芹乃のお猪口に注いだ。芹乃も芹乃でそれを毎回悲しそうに、それでいても美味しそうに飲むものだから中村としても悪い気はしていないのだった。
「あれから連絡はとったの?」
「とってないですよ。私は負けたんです…あの女に負けたんです。負け女が連絡をしたら往生際が悪いってなって、また高橋くんを困らせちゃいますって」
「でも高橋くんは芹乃さんに連絡を入れたそうじゃない?」
「あれは、まだ既読を付けてないだけです。でも最初のところに就職が決まったって書いてあったんで嬉しかったです。でも既読を付けたら返さないと可哀そうだし、こんな私がまた連絡をとっていいのか分からないし……」
「あなたね、高橋くんのことが好きすぎでしょ。そんなに気を遣わなくていいんじゃない? それこそ、高橋くんは何も気にしないって。鈍感なんだし」
「でも、それでも彼を困らせたくないのよ……」
その時芹乃が中村のお猪口に熱燗を注いだ。
「私は高橋くんが元気ならそれでいいのよ。でも中村さん、こんな私のお願いを聞いてくれますか?」
そう言った芹乃の顔は急に真剣になった。こんな状態でもその瞳は真っ直ぐと中村の瞳に向けられていて、まさに懇願という言葉を表した様になっていた。
それに対して中村が頷いて熱燗を飲んだ。
「何かあったら高橋くんを守ってください。あの女から高橋くんを守ってください」
芹乃が頭を下げた。
自分にはもう何も出来ない。大好きな彼に何もしてあげることが出来ない。それでも彼を守りたい。そんな強い想いを込めた言葉だった。
鈴谷から被害を受けていた二人だからこそその言葉の重みを理解出来た。
中村は鈴谷の異常性によって今後もそれに振り回されていくだろう高橋を思うと
「分かったわ。あの子がまた何かやったら、今度こそ私が高橋くんを救うわ」
と断ることなんて出来なかった。
そんな中村の目にも強い決意と、芹乃の想いを受け取ったという意思が宿った。
「ありがとうございます。もう中村さんにしか頼れないんです……本当は私がどうにかしてあげたいんです……」
「そんなに言うならさ、もう高橋くんに連絡すればいいんじゃない? それこそ軽い感じで。そこからまた仲良くすればいいじゃない。それで最初に相談を受けるくらいになってさ」
「そんなのは出来ませんって」
その直後にまた芹乃はうじうじとし始めて、あーだこーだと言いだした。それでも中村は全部聞いてあげていた。
時刻は夜の0時を過ぎた。
中村が完全にぬるくなった熱燗の残りをお互いのお猪口に注ぐと、新しく熱燗を作った。それでも芹乃が持ってきた一升瓶の日本酒は残っていた。
そうして出来上がった熱燗を持ってこたつに戻ると、ふと芹乃が言った。
「もしあの時、高橋くんを私の彼氏にすることが出来ていたら、きっと今頃楽しかったんだろうなぁ」
「あぁ、なるほどね。そうね、そういう時間よね」
中村は察した。
「きっと高橋くんは今頃お楽しみなんだろうなぁ。あの女と」
「そうでもないかもよ? 今日は、もう昨日か。高橋くんはバイトに来ていたし、あの子は休みだったから。それに、ふざけて聞いてみたんだけど、高橋くんは夜にYoutube配信をするって言ってたから今も一人なんじゃない?」
「そんなまさか…」
と芹乃がYoutubeを開いて高橋のチャンネルを確認した。するともう配信は終了していたものの、その終了時刻がついさっきになっていた。
「これは…本当かもしれませんね」
「でしょう? きっと一人よ。いや、ほぼ一人よ」
「ちなみに、あの子は何でバイトを休みにしたんですか?」
「友達と出かけるって言ってたわ」
そこで芹乃の目が光った。
「これは、本当にあるかもしれないですね」
「そうよ。高橋くんは一人寂しくクリスマスの夜を過ごしているんだわ」
そう言っている中村の顔もほんのり赤くなっていた。どうやらやっと酒が回ったようだ。
「そうと分かれば決まりよ。いけいけどんどんよ」
そう言う中村に対して、古いですと言える芹乃ではなかった。なにせ芹乃もまだ酒が抜けていないのだから。
そこで芹乃がごくりと喉を鳴らした。
「でも連絡が…」
「私が代わりにしてあげるわよ」
「もう酒を飲んでいるし……」
「タクシーよ」
「場所だって……」
「ここに呼んじゃいなさいよ。私は気にしないわ。人肌が恋しい季節だもの。芹乃さんも何も気にすることはないわ」
中村は完全に出来上がっていた。
さっきまで唯一のストッパーだった彼女がこうなってしまってはもう止まることはないだろう。
そこで中村が不敵な視線を向けた。
「ハロウィンでのこと、覚えてるわよぉ? 帰りに私が後部座席で寝ている隙に高橋くんをホテルに連れ込もうとしたでしょ?」
「な、なんでそれを。酔いつぶれて寝ていたんじゃないんですか?」
「私を甘くみないことね。だから背中を押してあげようと寝言を言ってあげたのに、その時にはホテルを過ぎてるし。どっちも度胸がないんだから。処女か! 童貞か!」
中村が熱燗をぐいっとやると、さっきの芹乃と同様に熱がったので芹乃が水を渡した。
「子供の恋愛ではね、確かに誰かの好きな人を取ったら怒られる。でも、大人の恋愛にはね、時には狡さも必要なのよ。好きになっちゃったんだから仕方ないのよ。その人に恋人がいても、自分がその人よりもいい女だって確信させれば心変わりなんてするものなのよ」
「でも私はあの時負けちゃってますし……」
「サッカー選手を想像してみ? ゴールキーパーがいたらゴールを打たない? 打ったとしてそれが防がれたら一回で終わりにしてる?」
「それはしてないです」
「何回でも挑戦してるでしょ? 恋愛なんてのはね、本当に好きになった人にはね、たとえどんな状況でも挑戦しないと手に入らない時があるのよ。それに回数なんて関係があるのかしら? いや、ないね。あるのは自分の納得と諦めだけだね」
そして中村が芹乃をびしっと指さして続けた。
「芹乃さんは、あれで本当に納得してるの? 諦められないから苦しいんでしょ? なら転がっているチャンスはものにすべきなのよ。よく言うでしょ? チャンスは人を待たないって」
「中村さん……私は納得していないです。諦めたくないです」
「そうよ。その意気よ。今日はクリスマス。クリスマスは魔法がかかるのよ。クリスマスマジックにのっかってもいいんじゃない?」
そこで芹乃が熱燗をぐいっと一気に飲んだ。
「中村さん。今から高橋くんに電話します。電話してこっちに呼びます」
「よくぞ言った。自分の気持ちに正直になるのよ。私のことは気にするな。散歩に出るふりしてどこかに泊まるから。若い二人は好きなだけお互いを求めあうのだ」
「はい。私は全身全霊をもって高橋くんを自分のものにします。あの女から取ってやるんです」
直後芹乃がスマホを開いた。そしてまだ既読を付けていない高橋のLINEをタップすると、やっと既読を付けたのだった。
「いきます!」
「いけぇ、抱けぇぇ」
そのままの勢いでLINE通話のところをタップすると、その発信音が流れ始めた。
もう後戻りは出来ない。
芹乃と高橋の双方のLINEには通話の記録や履歴が残るのだから。
緊張の中で発信音が続くと
「もしもし」
と高橋が出たのだ。
「あ、あ、高橋くん……?」
「はい。どうしたんですか? なんか驚いているみたいですけど」
電話口の高橋は冷静だった。
その声を聞いた途端に芹乃は舞い上がってしまって話そうとしたことを忘れてしまった。だが、それでも年上らしく冷静でいないとという思いのもとでどうにか自分を落ち着かせたのだった。
「ううん。なんでもないわよ。今は大丈夫?」
「はい。芹乃さんこそこんな夜遅くですけど大丈夫ですか」
「大丈夫だから電話しているのよ。ところで、今は一人……?」
そんな会話を聞いている中村は落ち着かない様子だが、電話口に聞こえる高橋の声に耳を澄ませていた。
「はい。一人です」
「その……あの人と一緒じゃないの?」
「はい。鈴谷さんは今日は友達と出かけるって言ってましたし、僕は僕でゲーム配信をしていて終えたばかりです」
「そう」
それを聞いた芹乃と中村の胸が高鳴った。
芹乃は電話口でも聞こえそうなほどに心臓を激しく鼓動させると、一瞬だけ中村を見た。そして中村が一度頷くと、その唇を動かした。
「あのね、高橋くん。もし―」
「芹乃さん」
それが聞こえなかったのだろう。高橋の声が被ってしまって芹乃の声が消えた。だが、芹乃は強引に話をしようとはせずにそのまま高橋の声に耳を傾けた。
「ど、どうかした?」
「えっと、LINEでも送りましたけど、僕は内定を獲ることが出来ました。芹乃さんにはたくさん支えてもらって、正直キツイ時はその時のことを思い出して頑張ることが出来ました。なので、内定が獲れたのも芹乃さんのお陰だと思ってます。なので、ありがとうございました」
その言葉に芹乃は言葉を失った。
ずっとLINEを未読にしたままで、それについては怒られるだろうと思っていたからだ。それに、あの時の最後だって高橋に迷惑をかけて、本人に直接何も言わないままに急に店を辞めてしまったのだから叱責されても仕方がないものだと思っていた。
なのにそんなお礼の言葉を向けられたのだ。だからこそ、次に言う言葉を見失ってしまった。でもこれだけは聞いておきたかった。
「怒ってないの……?」
「どうして怒るんです?」
「私は急に辞めたんだよ? 手紙があったとはいえ、あれだけのことをしておいて高橋くんの前から急にいなくなったんだよ? それに対して何か思うところとかあるんじゃないの?」
すると高橋の言葉が止まって二人の話に間が生まれた。
やはり何かあるんだ。まぁ、仕方ない。なんでも受け入れよう。それが私に出来る償いなんだ。
芹乃はそう思って次の言葉を待った。だが次に高橋から出た言葉にまた言葉を失うことになる。
「……寂しいですよ。あれから僕は煙草を吸ったんですけど、ひどい味がしました。それで芹乃さんと煙草を吸っていた日のことを思い出しました。今でもたまに思い出します。それで思うんです。楽しかったなと。なので急に芹乃さんが辞めて僕は寂しいです」
「それだけ?」
「あと、その……僕を好いていてくれて嬉しかったです。でも僕はその気持ちに答えることが出来ませんでした。なので、あらためて言わせてください。あの時は傷つけてしまってすいませんでした」
その時芹乃の目から涙が零れ落ちた。
これは怒られなくて良かったという安心や、軽蔑されなくて良かったという安堵ではなく、高橋が純粋に芹乃と一緒に過ごした日々を想って寂しく思ってくれていたことに対する喜びだった。そしてそんな自分の気持ちを素直に嬉しいと言い、高橋は何も悪くないのに芹乃自身の気持ちを汲んで謝罪させてしまったことへ懺悔の思いだった。
「高橋くんは何も悪くないわよ。悪いのは私なのよ。だから、今までごめんね。それと、内定おめでとう。私は、嬉しいわ」
と途中途中で涙声になりながらも最後には彼の成果を祝ったのだった。
「芹乃さん、もしかして泣いてるんですか?」
「泣いてないわよ。電波が悪いのかもしれないわね。明日はバイト?」
「はい。僕にはクリスマスなんて無いですよ。あ、そうだ。メリークリスマス。店で言うことは出来ませんし、もう日付も変わりましたので。芹乃さんもきっと一人でしょうし、これで寂しくないですね」
「余計なお世話よ。ほら、そろそろ子供は寝なさい。サンタさんが来ないわよ?」
「そんな子供じゃないです。もしかして芹乃さんがサンタクロースになってくれるんですか? それなら新型のゲーミングパソコンが欲しいです」
「そんなの自分で買いなさいよ。それじゃもう切るわよ。あ、そうね。私からも言ってあげるわ。メリークリスマス。せいぜいいい夢でもみることね」
「芹乃さんも。それじゃ、何かあったらたまには連絡しますね」
そうして通話が終了した。
スマホを置いた芹乃はさまざまな感情を抱いて泣いてしまった。
それを察した中村が芹乃の隣に座って背中をさすってやった。
「こんないい人に……私はなんてことをしようとしてたのよ………」
「そうね。私も悪いことをしたわ。ごめんね」
「そんなに優しいんじゃ……抱けないよ……… 高橋くん…高橋くん……ごめんね。こんな私で…ごめんね……」
芹乃はそれからもひたすらに泣きじゃくった。
だが、芹乃は実感してしまった。
今もまだ高橋のことがちゃんと好きなままであるということを。そしてそれとともにあの時自分は勝てなかったんだと思い出し、そのことがなお一層涙を大粒にした。
*****
芹乃は気が付くと眠っていた。それも中村に抱きかかえられながらである。
そんな中村も寝てしまっており、カーテンは朝日が照らしていた。
時刻は朝の九時。
クリスマス当日の12月25日である。
この日の芹乃は仕事を休みにしていた。こうして中村と夜通し飲むつもりでいたからだ。
すると芹乃がのそっとこたつから出て洗面所で自分の顔を見た。
「ひどい顔ね」
昨夜散々泣いたせいで目は腫れ、大量の酒を飲んだことで顔は浮腫んでいた。
また、そんな顔を高橋に見られなくて良かったと思ったのだった。
「起きたのね」
と中村も目を覚ました。その顔ももちろん浮腫んでいた。
「はい。なんか昨日はすいませんでした。たくさん迷惑をかけてしまって」
「いいのよ。女にはこういうのも必要なことよ」
中村は優しく笑った。
カーテンが開かれると、そこには雪が積もっていた。
「晴れてはいるけど、今日も寒そうね」
「そうですね。中村さんは今日は出勤ですか?」
「いや、休みにしたわよ。飲んだ次の日は働きたくないって思ってね。芹乃さんは?」
「私も休みです。あの、中村さん」
芹乃が少しだけ俯いた。
「今日は何を食べようか」
「えっ?」
「今日も一緒にいようよ。私も寂しいのよ」
と中村が微笑むと、芹乃は嬉しそうに笑った。
「はい、ありがとうございます」
「あ、でも明日は出勤だからお酒は無しよ?」
「それは、もちろん…はい」
それから二人はシャワーを浴びてのんびりした後、一緒に買い物に出かけたのだった。
「どうせなら、うちの店にくる? 高橋くんがいるわよ?」
それに対して芹乃は
「いえ、今日は大丈夫です。昨日話して楽しかったので」
と微笑んだ。
その笑みには昨日まであった悲しみや迷いが無くなっていて、天上に広がる冬の空のように澄んでいた。
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