べらぼう旅一座 ~道頓堀てんとうむし江戸下り~

荒雲ニンザ

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第一話 下り一座

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 春も終わりに近づき、江戸の緑が大人びてきたあたり。日光から仕事に入る職人たちが大川を船で下り始め、木場の辺りで大きな仕事でもあるのだろうかと町の人々が遠目にそれを見始めた中に、どこからやって来たかも知れぬ葛籠やら行李やらを背負った者たちも混じり込み、相変わらず江戸は賑やかだとしみじみ思う男が一人。

 姓は馬場、名は寿三郎じゅさぶろう。中々に目出度い名前だが、この男しばらく不運続きときていた。

 凛と上がった眉は涼しい上に、少々濃いめのまなこは眼光鋭く、結んだ口元も歪みない。いかにも腕に覚えありという出で立ちの侍で、紺絣の袴は一見すると立派に見えなくもない。そんな寿三郎の不運の一つであるが、髪は総髪という難点があり、要は現在失業中で浪人という立場である。

「うっ……」

 ぐう、と腹の虫が鳴ったのを自分の耳で聞くと、虚しさの分だけ胃に空洞を作って更に腹が減る。
 本所の土手に出たのはつくしの一本でも残っていやしないかと期待を持ってのことだが、この手の野草が見当たらないのは大体似たような境遇の輩に粗方摘まれているからだ。

 裏長屋の子持ちに頭を下げ、一度の飯と交換で子供に算術と読み書きを教えてはいたが、とにかく奴等め出来が悪い。無駄に紙を使われたらたまらんと、子供達を連れ出しては野外学習と称して木の枝と土を勉強道具としていたが、そんなことをして人目につくものだから子守まで頼まれる。

「まあ、それでも食っていられれば吉」

 贅沢を言える立場ではないことは重々承知しているので、口癖のように呟いては野草を探す日々。

 そんなこんな、空腹で朦朧とする寿三郎の目先に、黄色い花が咲いて見えた。まるで太陽のように丸く広がったそれは、低い位置で手招くように揺れている。

「たんっ……ぽぽっ!」

 茹でで灰汁抜きすれば立派な一菜。すがる思いでそこに滑り込むが、既の所で何者かの草履に踏み潰されてしまった。

「ああああっ……!!」

 寿三郎は悲鳴にも似た声を上げ、無情にも土に散らばる黄色い花弁を絶望の眼で凝視したまましばらく大口を開けていたが、足の持ち主が何やら話し始めたのでゆっくりと視線を上げる。

 年は三十半ばあたり、煤けた袴を見る限り万年浪人といったところだが、仲間と括りたくない理由がそこに形となっていた。

「痛えな! なにしやがる!」

 ご覧の通り、仲間以前、この手の輩は相手にしたくない。
 一体誰に因縁をつけているのだと窺えば、何故か周囲に誰も見当たらず。

「無茶苦茶やな、アンタからぶつかって来たんやろ」

 突然の上方言葉が飛び出し、寿三郎の興が一気にそちらへ向いた。身を乗り出して男の陰に隠れた向こうを覗けば、そこにいたのは赤い格子柄の着物を着た年端もいかぬ女の子。

 大の大人がこんな子供に因縁とは、更に関わり合いになりたくない。

「見ろこれ! 徳利の底が割れて中の酒が流れちまった! 酒屋に詫び入れるのと酒三合、合わせて九百文払いやがれ!」

「はあ!? 頭も剃れへん奴が、そんな高い酒飲んでる訳ないやろ!」

「うるせえ! お前の親はどこだ? ガキの不始末は面倒見てる奴につけさせるのが道理だ、案内しろコラ!」

「そんな訳分からん通り、歩け言われて歩く阿呆がおるか! 素面で酔っ払ってんのちゃうかこのおっちゃん……井戸の水でも飲んで目ぇ覚ましとき!」

 随分威勢のいい娘の言葉で寿三郎は男の足元に視線を移すが、見えるのは自分の目の前で潰されている足の下のたんぽぽのみ。乾いた土には水一滴こぼれた様子はない。
 完全に詐欺だ。因縁つけて抵抗できない子供相手に絡んだ後、親に酒代を請求する悪質な手口である。

 寿三郎は厄介ごとに巻き込まれたくないとその場を立ち上がり、関わり合いになりたくないので早く引き上げようと思いつつ、確実にめんどくさいことになると分かっていながら……その男に声をかけた。

「おい、そこまでにしておけ」
「アン……?」

 厳つい顔の男が背後にいた寿三郎にゆっくり振り返り、顎を前に突き出しながら睨みをきかせてくる。

「なんだてめえ」
「俺は……」

 貴様に踏まれたたんぽぽが欲しくて土手を徘徊していただけのただの浪人だと寿三郎の自尊心は言わせてくれず、一瞬躊躇した後に絞り出したでまかせがこれだ。

「この子の……親だ……!」
「は?」

 思わず漏れた娘の拍子抜けした声に男が振り返る後ろで、寿三郎が幾度と首を横に振る。そこで娘は気がつき、男を押し退けて寿三郎の背後に身を隠す。

「お父ちゃん! このおっちゃん変なんや!」
「うそつけ! お前ら国が全然違うだろ!」
「色々と事情があんねん。赤の他人の深いとこ入り込まないでほしわ」

 この口達者、色々と見習いたいところはあると思いつつ、事が大きくなる前に寿三郎が話を止めた。

「野暮なことは言わん。お互い仕官に苦労しているのは分かる。城下で厄介ごとを起こすな」

 腰の刀に手もかけず、同じ穴の狢であろう浪人にそう言われてしまっては、自分の落ちぶれが身に沁みて押し寄せてくる。

「……くそっ!」

 憤りを一つ吐き捨てた男はひび割れた徳利を肩にかけ、寿三郎と娘の横を通り過ぎて土手を歩いて消えていった。

 それを遠目で確認した後、足元にしがみついていた娘が跳ねるように手を放す。

「やーっ、助かったわ。おおきに!」

 少々眉が薄めであるせいか、大きな目がやたらと目立つその娘。ぷっくりとした頬は照りが良く、笑う口元に大きなえくぼが片方だけ一つ。上げた髪を結んでいる飾りが赤と黒の豆絞りとあり、着物込みで見ると何やら見覚えのある虫が頭に浮かぶ。

「てんとうー?」

 そう、それだ。天道虫。

 その声に視線が流れ、行き着いた先で艶やかな茄子紺色の着物を着た娘が目に入るや否や、寿三郎は心の臓を一度跳ね上がらせた。

 そこに立っていたのは何とも妖艶な雰囲気を持つ年増あたりの細面な女。遊女とも町娘ともつかぬ髪を結い、首元から顎に薄く白粉を乗せ、唇に紅を落とさず、目元にのみ赤い化粧を施しただけの、禁欲的か情欲的か分からぬところがまたそそるようなそんな人物。その作られたような美しさは歌舞伎絵に出てくる女形のようでもあった。

 彼女が顎を少し下げ、整った切れ長の目が上目遣いで寿三郎を捉える。

「そちらさんは?」

 上方の訛りだ。彼女もまたてんとうと呼ばれた娘と同じ国の出なのだろう。

「あ……俺は……」
「吉祥ー!」

 口ごもりながらも何か答えようともごついていると、てんとうがその女に駆け寄る。

「危なかったんや今! 変なのに絡まれてな、このおっちゃんに助けてもろたとこやねん」
「ぐっ……おっちゃん……!」

 まだ二十五手前、些か心外の様子だが、細かいことを一々気にするのも侍らしくないと寿三郎は憤りをぐっと呑み込んだ。

 一、二本乱れて下がる前髪が風で頬を掠め、それを気にする様子も無く吉祥はてんとうの手を引いて寿三郎の前にやってくる。

「おおきに。なんぞお世話かけたみたいで。この子は跳ねっ返りが強うて、よぉ絡まれてしまうんです。お怪我はありまへんか?」
「うっ……」

 近寄られると、思わず一歩後ろに引いてしまう程の美女。目を合わせると緊張してしまうため、寿三郎の視線は泳ぎに泳ぎまくる。さすが吉祥は慣れているだけあり、それを察して微笑んだ。

 咳払いを一つ、言う。

「じゃ、じゃあ俺は、これで……」
「ああ、待って!」

 そこでてんとうが背中にくくりつけていた風呂敷から一枚紙を取り出す。

「これ持ってって。両国に来ることあったら、一回タダで見せたるわ」

 只と聞き、無意識に手が出る。見れば墨文字で大きく宣伝が書かれていた。

「……天道旅一座、道頓堀芝居……」
「うちら旅一座やねん」

 嗚呼と納得し、吉祥を視線の端で窺う。それでこんな絵に描いたような美人がいるわけだ。

「お礼もしたいし、絶対来てな!」
「礼……?」

 飯だろうか、銭だろうか、だとしたら是が非でも行きたいが……。と、そこで吉祥と目が合う。否、まさかとは思うが、身体ともなれば受け取るわけにもいくまい。妙な動揺で寿三郎は慌て始めた。

「礼などいらぬ。仲裁に入りはしたが、相手が退いた。俺はなにもやっていない」

 飯か銭なら話は変わるが、その引札を懐に押し込んで歩き出す。

「なんや……随分謙虚やな」

 もう一度、背後からてんとうの声が聞こえた。

「絶対来てなー!」

 その声に振り返りはしなかったが、しばらく歩いた後、大急ぎでその場所に戻りはした。
 てんとうも吉祥もいないのを確認すると、踏み潰されたたんぽぽの一株をその手に取る。

 今日の一菜確保。
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