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#27、 断念 そして、帰国*
しおりを挟む部屋に駆け込んだシュトラスがはっきりとした敵意をむき出しにした。
「どういうつもりだ、オズベルト」
気を失った奈々江が横たわるベッドの前にオズベルトが、その脇にバニティがいる。
開かれた部屋のドアの前にシュトラス。
その後ろに、ブランシュ、セレンディアス、ラリッサが警戒と困惑を浮かべて立っていた。
「シュトラス皇太子殿下、あなたこそ、ナナエ皇女殿下をどうなさるおつもりで?」
「ナナエ姫から離れろ」
「それはできませんね。私も王族のお方のご指示でここにいるのですから」
オズベルトの心を読んだらしいシュトラスが、きつく眉にしわを寄せた。
ブランシュがシュトラスとオズベルトを交互に見ながら口を開く。
「どうして、侵入者が!?
シュトラス殿の許しがなければここへは入れないはずでは?」
「アキュラス伯父上の力を借りたようです……。
王族の私的空間に干渉できるのは、王族の者にしかおりません。
だとしても、このような無礼極まる行為、普段の伯父上のものとは到底思えませんが……」
「シュトラス殿下もセレンディアスも、一体どのようにしてナナエ皇女殿下に取り入ったのですか?
私の部下まで勝手に引き込んで、このような楽し気なことをこっそりと……。
私を仲間に入れてくださるのなら、アキュラス王弟殿下には黙っていて差し上げてもよいのですよ」
ブランシュが額に青筋を立てて声を荒げた。
「貴様、今すぐ出て行け!」
「おっと、これはブランシュ皇太子殿下、ご挨拶が遅れ申し訳ありません。
王立医師団のオズベルト・シュヴァリエと申します」
「黙れ、我が妹から今すぐ離れろ!」
「……どうぞ落ち着いてください。
私は敵ではありません。ナナエ皇女殿下のためになりたいだけなのです」
シュトラスがすぐに口を挟んだ。
「ブランシュ殿下、信じてはいけません。
オズベルトの考えていることは僕には筒抜けです」
「私は欲望に素直な質でして」
悪びれもせず、オズベルトはシュトラスに向かってにこりと微笑んだ。
そのとたん、シュトラスの顔がゆがみ、見る間にかあっと赤くなった。
一体、シュトラスはなにを見せられたのだろうか。
ブランシュはすばやく前に出て、奈々江を守るようにオズベルトの前に立ちはだかった。
「これ以上の不敬は、我が国への不敬と受け取る。
それでもよいか、オズベルト!」
「……それはいささか私の手に余りますね。
仕方ありません、今回のところは退散すると致しましょう」
オズベルトが手首につけていた金色に赤い輝石のついた腕輪に触れ、小声でなにかを唱えた。
次の瞬間、オズベルトは風に溶けるように姿を消した。
それを目にしたシュトラスが目を見開いた。
「あれは、王家でも特別な時にしか使えない魔法アイテム……。
まさか伯父上があんなものまで持ち出して、しかも王家でもない一介の臣下に貸し与えるとは……」
困惑を顔に浮かべたシュトラスが今度はブランシュのほうを顔を向けた。
それと同時に視界に入ってきた奈々江の下着姿に、シュトラスは慌てた。
奈々江を見ないように伏し目がちに、急いでいった。
「ブランシュ殿下、太陽のエレスチャルの効果は底知れません。
これ以上邪魔が入らないうちに、早く太陽のエレスチャルの位置を特定しましょう」
ブランシュがドレスコートを脱ぐと、下着姿の奈々江にかけた。
「いや、もういい」
「え……」
シュトラスとセレンディアス、バニティとラリッサ、それぞれがブランシュを見た。
「ナナエはエレンデュラ王国に連れて帰る。
これ以上ここにナナエを置いてはおけない」
シュトラスが焦ったように口を開いた。
「ブ、ブランシュ殿下……。お怒りはごもっともです。
このことは僕たちだけの秘密にするといいながら、このような事態を招いてしまったのは僕の責任です」
「いや、シュトラス殿。
俺はもともと、太陽のエレスチャルの位置が特定できたら、一度にナナエを国に連れ帰ると決めていたのだ。
それでもシュトラス殿の好意に甘えたのは、ナナエがグレナンデス皇太子殿下とのことを前向きに考えていて、しばらく時間が欲しいといったからだ。
実際グランティア王国でこの件を解決できるならば、ナナエにとってはそれが一番いいことだろうとも思った。
だが、今回の件でわかった。このままでは心身ともにナナエを危険にさらしてしまう」
「……そ、それは確かに……。僕の力が及ばず、申し訳ありません……」
「いや、シュトラス殿はナナエに親身になってくれたし、よくやってくれたと思う。
事実、シュトラス殿がナナエの心の声の異変に気付いてくれなければ、オズベルトの手に落ちていたかもしれない。
環境の問題だ。
このままグランディア王国にナナエを置いておくのは、ウサギを野獣の檻に入れておくのに等しい。
だが祖国ならば、俺や一族の手で少なくともこのようが起きないように守ってやれる。
ナナエの体から太陽のエレスチャルを取り出すのは、祖国で試みようと思う」
そういうと、ブランシュが眠る奈々江を抱き上げた。
「バニティ、ナナエはどれくらいで目覚める?」
「お香の効果は長くても一時間ほどです……」
「わかった。もしよければ、エレスチャルの効果を弱める魔法薬の作り方をセレンディアスに教えてもらえないだろうか。
祖国に帰ってからもしばらくは必要になるだろうから」
すかさずバニティがシュトラスを見やった。
シュトラスは神妙にうなづいた。
「では、セレンディアス頼むぞ」
「はっ」
「我々は先に戻らせてもらう。
ラリッサ」
「は、はいっ」
ラリッサがナナエのドレスをかき集めてブランシュに付き従った。
準備が整ったところで、シュトラスがシルバーファルコンの羽根を取り出した。
それを差し出しながら、シュトラスが肩と眉を下げた。
「力になれず、本当に申し訳ありません……」
「貴殿が気に病むことではない。
俺達はこのままナナエの部屋に戻るが、塔に残してきたエベレストにこちらへ戻してもらえるだろうか」
「はい、承りました。……その、ときに、エレンデュラ王国に戻るのはいつごろになりますか?」
「ナナエが目覚めたらすぐにでも出立する。皇太子妃候補の話も正式に辞退する」
「そ、そうですか……」
ブランシュの代わりに羽を受け取ったラリッサが、ドレス片手に羽を掲げた。
声をそろえて呪文を唱えると、ふたりの姿が光とともに消えた。
シュトラスは光が消えていくのを、ただ黙ってじっと見ていた。
バニティがそっと声をかけた。
「シュトラス皇太子殿下、申し訳ありません。わたくしがもっと慎重に事を進めていれば……」
「いや、どちらにしろ伯父上があの魔法アイテムを使っていたなら、どうしたってこの事態は避けられなかったよ。
ブランシュ殿下の判断は正しい。これ以上ナナエ姫になにかある前に、エレンデュラ王国に戻ることなっになってよかった……。
これでよかったんだ……」
うつむいたままつぶやくようにそういうシュトラスを、セレンディアスは静かに見つめた。
それぞれに呪いを抱えてきた三人。
三人にしかわからないなにかがそこに漂っていた。
シュトラスが顔を上げ、気を取り直したようにいった。
「バニティ。セレンディアスに魔法薬の作り方をしっかりと教えてやってくれ。
セレンディアスはエレンデュラ王国に行ったときに正確に作れようにきちんと学んでいけ」
「はっ」
「はい、承知致しました」
一方、奈々江の部屋に戻ってきたブランシュとラリッサは、メローナ以外を人払いし、奈々江をふたりの侍女に介抱させた。
エベレストが戻ってくると、ブランシュは帰国の手続きと準備を進めさせた。
「エレンデュラ王国領内に入るまで、帰路でなにがあるかわからない。いや、領内に入ってからも警戒を怠るな。とにかく慎重を期して、準備を抜かるな」
「承知しました。では、帰国の知らせを国王陛下に上げます」
「それは俺がやろう」
ブランシュがいうと、エベレストが胸のポケットからシガレットケースを取り出した。
開かれたケースからブランシュが薄黄色の紙に包まれたタバコ状の細長い筒をつまむ。
エベレストが指をならすと、指の先に小さく火がついた。
ブランシュがその火に筒をかざし、口にくわえた。
すうっと息を吸い込むと、今度は空中に向かってふうと吐き出す。
ブランシュはその煙に向かって、まるでなにかを語りかけるかのようにぶつぶつと唱えた。
そしてそれが終わると、すぐさま火を消した。
煙が瞬く間に細い線となって窓のほうへ向かい、窓の隙間からすーっと外へ流れ出て行く。
あっという間に煙はみじんもなく消え去った。
「なんと報告されたのですか?」
「これまでの一連をざっくりとな。
それと、ナナエの今の状態と、太陽のエレスチャルを取り出すために必要な人手の手配を。帰ってすぐに取り掛かれるように」
「よろしいかと存じます。
して、セレンディアスの扱いでございますが」
「ひとまず、魔術研究所預かりにして、魔法学校に通わせようと思う。歳は食っているが、まあなんとかなるだろう」
「可能ではございますが……。
魔法学校に通うのは一般的に十二歳から十七歳です。
セレンディアスはもう三十路手前ですよ。さすがに少々無理があると思うのですが……」
「しかし、本人曰く十歳で呪いにかけられてから、ろくに学校には通っていなかったというぞ」
「魔術の基礎なら魔術研究所の者でも教えられます。なんなら私が教えても構いません」
「そういえば、エベレストは王立アカデミーで教員免許を取得していたな」
「はい」
「ではお前に任せるとしよう」
「承知いたしました」
このようなやり取りがあったことなど露知らず、一時間後、奈々江が目を覚ました時にはすっかり帰国の準備が整っていた。
目が覚めてからしばらく混乱があったが、ブランシュとラリッサから話を聞いて、ようやく状況を理解できた。
「……なにもなかったんですね?
とにかく、ああ……助かりました……。
意識が朦朧とした中で、とにかくわたし不安で、怖くて……。
こうして無事でいられたのも、お兄様とシュトラス殿下のおかげです……」
「もうなにも心配するな。国に帰って、太陽のエレスチャルを取り出す方法を見つけよう」
「はい……。
お兄様に従います。本当に、お兄様がいなかったら、わたしはどうなっていたか……。
そういえば、トラバットは?」
「トラバット?
盗賊のトラバットのことか?
それがどうしたのだ」
「え……?
あの、朦朧としていたときにトラバットがいた気がしたのですが」
「いいや、そんなはずはない。
俺達が部屋を出ていた間もそんなに長い時間ではなかったし、もしトラバットがいたらいたで、本格的な騒ぎになっている」
(ええ……? じゃあ、手を握ってくれたのは誰なの?)
「夢でも見たのではないか?」
「夢……」
奈々江は首をかしげた。
もしかしたら、あれは"恋プレ"の夢の中ではなく、現実を垣間見ていたのだろうか。
いわれてみれば、そうかもしれないという気もするが、目がかすみ、耳も遠くてよくわからなかったというのが奈々江の印象だ。
(でも、あれが現実だったなら、誰だったんだろう……。
お医者さんか看護師さん……?
あれ、でも、金髪だった……。
それに二人目の手を握ってくれた人は、鶏の頭みたいな髪型をしていたような……。
そんなお医者さん、いる……?)
不思議に思って考え込んでいると、ふと温かいものが頬に触れた。
顔を上げると、ブランシュが心配そうに見つめていた。
「あまり考えすぎるな。もう少し休んだ方がいい」
ふわっとなにかが香った。
「……お兄様、なんかいい匂いがします」
「ん、さっきスモークグラムを上げたのだ」
「スモークグラム?」
「うん?
お前、まさかスモークグラムも知らないのか?
遠くにいる相手に知らせたいことがあるときに使う煙を媒体とした手紙のようなものだ」
「へえ……、そのスモークグラムというものを使うと、このような紅茶のようないい匂いがするのですか?」
「ああ、これは残り香だ」
「とってもいい匂いです」
思わずブランシュの手を取って、すんすんと匂いを嗅いだ。
本物の紅茶とは違うが、紅茶に似たすごくいい匂いがブランシュの手に残っている。
こんな魔法アイテムもあるなら、ぜひ使ってみたいものだと、奈々江は感心してしまった。
「ば、ばかもの、は、離せ!」
「あっ、すみません」
ブランシュがぷいっと背中を向けた。
犬みたいだったかな、と奈々江は反省した。
一応ここは乙女ゲームの世界。
あんまりはしたないことをしてはいけなかったのだろう。
奈々江は反省してそれで終わったが、ブランシュのほうは違った。
奈々江に背を向けながらも、耳まで真っ赤にしていたのだ。
エベレストがブランシュに声をかけた。
「ブランシュ殿下……」
「なんでもない!
ナナエの支度ができたら、すぐに出立するぞ!」
ブランシュのいう通り、奈々江はラリッサとメローナに手伝ってもらいながら、旅支度の準備を整えた。
ありがたいことに、ラリッサとメローナもついて来てくれるといって、ふたりともすっかり旅装束に着替えている。
「急なことですから、国王陛下からお許しが出るかわかりませんが、それでも、わたくしたちはナナエ姫様の侍女でございますから、お側でしっかりお仕えいたします」
「ラリッサ……」
「その通りです。しかし、ラリッサは国に許婚がおりますから無理は通りません。
その点わたくしは、ナナエ姫様の行くところ、どこへでもついてゆけますからご安心を!」
「メローナ……。ふたりとも、ありがとう。でも、危険がないとも限らないから、無理だけはしないでね」
「「はい」」
「ナナエ、支度ができたか?
よいなら、行くぞ。陛下へお別れの挨拶だ」
「はい」
ブランシュを筆頭に、伴の者、警備の者を引きつれて、国王の待つ謁見の間に向かった。
帰国の意思についてはすでにエベレストから国王の側近に知らせてある。
後は、無事に挨拶さえ終えれば、帰国の途につくことができる。
以前と同じように、謁見の間の前に着くと到着を知らせるベルが鳴った。
大きな扉が開き、その扉の向こうには、エドモンド国王が玉座に座っていた。
王の前に進み出ると、ブランシュが驚くほど流麗な立ち振る舞いで頭を垂れ、張りのある滑らかな口調で口上を述べた。
「エドモンド・シュリングラン・グランディア国王陛下におかれましては、本日もご機嫌麗しく存じ上げます。
急なお願いにもかかわらず、お目通り叶ったことありがたく存じます」
「ブランシュ皇太子、話は聞いておる。この度は、帰国したいそうな」
「は、私と妹はともに祖国へ戻ることにいたしました。本日はそのご挨拶に上がりました」
いつもは乱暴な口をきくのに、ブランシュはブランシュではないかのように立派な王子然としている。
あまりの変わりように驚き、奈々江はしばらく開いた口がふさがらなかった。
一方のエドモンドは気をつかわし気に奈々江を見た。
「貴殿の話では、グレナンデスの皇太子妃候補を辞退したいそうだが、ナナエ皇女の意思も同じであるか?」
はっとして、奈々江はいつかのようにスカートをつまんで頭を垂れた。
「は、はい……」
「アキュラスの一件があってから、こうなるのではと心配していたのだが、心配が現実になってしまったようだ。
ナナエ皇女、私に貴殿を引き留めることなどできようか。
そうでなくとも、今日まで貴殿が負った災禍の数々は、我が国が責めを負うべき由々しき失態である。そなたたちの父であり、我が盟友ファスタンには深く陳謝せねばなるまい。
そしてなにより、ナナエ皇女には辛い思いをさせてしまった。この通りだ、どうか許して欲しい」
「そんな、国王陛下のせいでは……」
「もったいなきお言葉、痛み入ります」
奈々江がいいかけるとブランシュが丁寧な言葉で返した。
「国王陛下とのお別れは名残惜しく存じますが、一刻でも早く妹を祖国で休ませてやりたいと存じます」
「いかにも。これ以上引き留めては、グレナンデスがまたわがままをいい出しかねんな。
ブランシュ皇太子、帰路の途には、これを」
エドモンドが側近に顔を向けると、側近が盆を手に、ブランシュの脇へやってきた。
その盆の上にあったのは、ゴールドファルコンの羽根だった。
「国王陛下、これは」
「そなたたちがすでに馬で帰る準備をしているのは知っている。だが、ファルコンの羽根のほうがナナエ皇女には負担が少なかろう」
「し、しかし、国境をまたぐ魔法アイテムの使用は……」
「わかっておる。
既にエレンデュラ王国には、私からそなたたちの帰国にファルコンの羽根を使用することを伝えてあるゆえ、心配はいらぬ」
「ご配慮ありがたく存じます」
金色の羽根を見て、奈々江の頭にシュトラスのことが浮かんだ。
気を失っていたために、いろいろと世話になったシュトラスにお礼の一言もいっていないことに気がついた。
奈々江は謁見の間を見わたした。
王の側近のほかは、警備の者がいるだけだ。
前回の帰国の挨拶のときにはたくさんの顔ぶれがいたのに、今回はこれしかいないのは、急な謁見だったからだろうか。
「ナナエ皇女、いかがした?」
「あの……、シュトラス皇太子殿下は……」
「シュトラス?
グレナンデスではなく?」
「えっと……、あの……。はい……」
エドモンドは不思議そうに眉を上げたが、シュトラスをこの場に呼んでくれることになった。
ブランシュが小声でささやく。
「ナナエ、あのことは決して口にするな」
「はい……」
エドモンド王は太陽のエレスチャルのことを知らないはずだ。
ブランシュがわざわざ注意してきたことを考えると、余計なことを口にすれば、またトラブルを引き寄せかねないということなのだろう。
しばらくして、シュトラスが謁見の間にやってきた。
シュトラスには呼ばれたことに驚いているのと、申し訳なさそうな気配とが半分ずつ伺えた。
「シュトラス皇太子殿下」
「ナナエ姫……」
(呼んでもらったはいいけど、なんていえば……。
お礼をいいたいだけなのに、いったらいったで、周りからはなんのお礼? ってなっちゃうし。
しかも、お礼をいうならグレナンデスのはずなのに、なんでシュトラス? って空気になっちゃうよね。
どうしよう……。ああ、こんなときこそ、シュトラスが心を読んでくれればいいのに)
だめもとで奈々江はシュトラスに向かって、ありがとう、と念じてみた。
しかし、シュトラスにはいまいち伝わっていないらしい。
逆に奈々江がなにをいいだすのかと心配そうな目を向けている。
いろいろ考えた挙句、奈々江はこういった。
「お手紙、書いてもいいですか?」
「え……」
シュトラスが目を丸くしている。
奈々江はじっと見つめて、心の中で、うんといって、と念じた。
その思いが通じたのかどうか、シュトラスがうなづいた。
「はい、僕も書きます」
「ありがとうございます!」
ほっとして、奈々江の顔に笑みが浮かんだ。
手紙ならお礼を記すことができる。
それに、なにかまた相談したいときには頼れるし、こちらの状況も報告できるだろう。
呪いの仲間として、助け合うつながりは、これで途切れずにいられる。
シュトラスにも笑みが浮かんだ。
奈々江が喜んでいるということが伝わってきたのだ。
「ナナエ姫、どうかお元気で」
「シュトラス皇太子殿下も」
それを見ていたエドモンドがつぶやいた。
「グレナンデスではなく、シュトラスであったか……。それもよかろう」 謁見の間を辞し、ブランシュと奈々江たちは待たせていた御者たちと合流した。
長旅のために急遽集めた馬や食料など、不要になったいくつかの荷物は払い下げることになり、改めて準備を整えることになった。
「ナナエは馬車の中にいろ。ラリッサ、メローナ、ナナエを頼んだぞ」
「はい」
「承知いたしました」
三人で馬車に乗り込む。
奈々江は改めてそこに集まった人手と物資の多さに目を見張った。
「本当に、これ全部が瞬間移動するの?」
「はい、ゴールドファルコンの羽根を使えば、一足飛びですよ」
メローナが当たり前のように答えた。
「そう……。でも、この目で見るまでは、とても信じられないなぁ……」
「ナナエ姫様は本当に魔術や魔法アイテムに慣れていらっしゃらないのですね。
エレンデュラ王国にも魔法学校はおありなのですよね?」
ラリッサが不思議そうに首をかしげる。
「え……、う、うん……」
”恋プレ”のシナリオでは魔法学校という言葉がたびたび出てはくる。
だが、ゲームの中で主人公が学校へ通うというくだりはない。
攻略ルートによっては、場面として魔法学校が出てくることもあるが、あくまでゲームは、グレナンデスの皇太子妃選びがあるグランディア王国の王宮と社交界が舞台なのだ。
しかし、そう考えると、皇太子妃候補を辞退してエレンデュラ王国に戻る主人公は、ゲームの主戦場を下ったのも同然で、このあと前線に復帰できるのかという疑問も出てくる。
(よく考えたら、これってゲームのシナリオからしたら逆行してるってことになるんだよね……。
一端、皇太子妃候補を辞退したのに、またグレナンデス攻略ルートに戻れるのかな……?
しかも、次にグランディア王国に戻ってきたときには、太陽のエレスチャルの効果はもうなくなっているはず。
こんなんで、わたし本当にこのゲームクリアできるのかな……)
奈々江の頭に、あのぼんやりとした病室の風景が甦る。
(あれが現実だとしたら、わたし、どういう状況なんだろう……。
もしかしたら、わたし致命的な怪我を負っているのかも……)
前回の見たものが現実をだったとすると、奈々江はこれまで二度にわたって、現実の自分の状況を垣間見たことになる。
そのどちらもが、はっきりと現実と意識が繋がっているもの、現実を生きているとしっかり実感できるもの、とはいえなかった。
今の奈々江にとっては、夢であるはずのこの世界のほうがはるかに現実らしい。
(わたし、大丈夫なのかな……。
ここでこんなことしていて、本当にわたし目覚められるの……?)
いいようのない不安が急速に奈々江の胸に押し寄せた。
つい先ほどまではオズベルトからの魔の手を逃れたことにほっとしていたが、それも落ち着いた今、改めてあのときのまどろみの中で見たものがなんだったのか、冷静に考えられる余裕が出てきた。
しかし、冷静になるほどに、現実の自分の状況はわからないことだらけだということがはっきりする。
もしかしたら、バスの中で頭を打った時、打ち所が悪かったのかもしれない。
現実の自分は、今も危険な状況にあるのかもしれない。
もし、脳死状態だったら?
(もう戻れないかもしれない……)
ぞわっと背筋が震えた。
(もしそうなら……、わたし、どうすれば……)
脳死は脳死判定を受けて、認められた時に脳死、つまり死んだものとみなされる。
脳死と判定されれば、たとえ奈々江自身に意識があったとしても、心臓が動いていても、死んだ人間として扱われるのだ。
奈々江はいつだったか見た映画の影響で、臓器提供カードを書いた覚えがある。
多分、実家の自室の机の中に今も入っているはずだ。
(うそ……、そんなのやだ……!)
奈々江には意識がある。
現実に戻って、人生を生きる意思がある。
それとも、これは、死の間際に見ている最後の夢なのか。
奈々江がはっきりと死を意識した瞬間、体温が急激に下がるのが自分でも分かった。
恐怖で、思わず顔を覆った。
(どうしよう……、どうしたらいいの……!)
自分でも驚くぐらいに体が震えた。
死への恐怖。
これまで生きてきて初めて感じた真の恐怖だった。
「う、ううっ……」
目頭から涙が溢れ出す。
我が身の頼りなさがあまりに悲しい。
こんなにも、心の底から自分を哀れに思うことなど、若い奈々江の人生で一度としてなかった。
犬を飼えなくなったとき。
従兄弟たちとうまくいかなくて、悲しかったとき。
両親を悲しませてしまったとき。
普通の人と同じように、奈々江の中もいくつかの悲しい思い出がある。
だけど、我が身の死とは、それらをはるかに凌ぐ辛さがある。
それも、死を覚悟ができるだけの人生を謳歌したという実感があるわけでもない。
奈々江はまだ生きていたいのだ。
「ナ、ナナエ姫様、いかがなされたのですか?」
「ナナエ姫様……」
ラリッサとメローナが突然泣き出した奈々江に困惑しながら、そばに寄り添い背中をさする。
ラリッサとメローナにいったところで、わかるはずがない。
夢の中でも温かいその手に支えられても、奈々江は孤独だった。
「うう……、ううう……」
ひたすらに耐えるしかなかった。
できることなら、今すぐ目を覚まさせて欲しい。
例え、脚がもげていたとしても、体が不随になっていたとしても、顔に酷いけがを負っていたとしても、それでもかまわない。
どんな姿でもいい。
今すぐ現実の世界とつながりたい。
自分に意識があることを、家族に知っていてほしい。
奈々江の頭には、母と父の姿がはっきりと浮かんでいた。
そのとき、馬車の外から声がして、奈々江の意識は引き戻された。
「お願いです!
最後に一目でいいから、ナナエ姫と会わせてください!」
グレナンデスの声だった。
ブランシュが対応している声が聞こえる。
「グレナンデス皇太子殿下、どうかお控えください。
これ以上、妹の心を乱さないでやってください」
「ブ、ブランシュ殿下、お願いです……!」
「グレナンデス皇太子殿下」
「どうか、一目でいいのです!」
「お願いですから、離れてください。
これではファルコンの羽根が使えません」
「ブランシュ殿下、あんまりです!」
押し問答があまりに続くので、奈々江の涙も引っ込んでしまった。
涙を拭った後、奈々江はふたりの侍女に尋ねた。
「グレナンデス皇太子殿下にお別れをいったほうがいいかな……。
このままじゃいつまでたっても帰れないよね?」
「もうしばらくお待ちいただいたほうがいいかと思います。
これだけ騒がしければ、国王陛下のお耳にも届くのでは……」
ラリッサが慎重に答えた。
メローナが馬車のカーテンのすき間から外を窺う。
「あ、噂をすればですよ」
馬車の窓ごしエドモンドの声が聞こえた。
「グレナンデス!
この期に及んでもなおわきまえぬとは!」
「ち、父上……!」
「今すぐ下がれ! 私の前でにこれ以上の醜態は許さん!」
「し、しかし!」
「ナナエ皇女が辞退したとしても、皇太子妃選びは続いておるのだ。
叶わなかった相手への未練にいつまでもすがるものではない。気持ちを改め、今もなお城に残ってくれている候補者たちに誠意を尽くすのが筋であろう。それがお前の責務だ」
「……っ……」
姿は見えなくても、グレナンデスの苦悶が伺える。
奈々江は、バラの庭でグレナンデスと過ごした時間を思い出した。
思えば、この夢の世界に囚われてから、まともに恋愛対象になりそうなのはグレナンデスだけだった。
奈々江にとっては、現実でも感じたことのない恋のときめきを初めて与えてくれた相手といってもいい。
しかし、今の奈々江にとってはそれすらも現実の死の不安の前のまさに夢か幻のようだ。
このまま黙ってやり過ごすこともできる。
自分がもし本当に死の縁にいるのなら、夢の中の恋などどうでもいい。
奈々江はそう思いながらも、窓の外にいる見えないグレナンデスに顔を向けた。
(現実のわたしが、もしも本当に危ない状態で、脳死とかだったら、わたしの意識はいつ消えてしまうんだろう。
この世界も、ある日突然、ブレーカーが落ちるみたいに消えてしまうの?
それまでわたしはどれくらいここにいられるんだろう。
世界ごと消えてしまうとしても、今ここで私のことをあんなに求めてくれる人がいる……)
奈々江はふたりの侍女に向かっていった。
「わたし、やっぱり挨拶する」
「ナナエ姫様……」
「だ、大丈夫ですか? ナナエ姫様……」
奈々江の気持ちが固いと見るや、ラリッサが窓越しにブランシュに声をかけた。
「ブランシュ殿下、ナナエ姫様がグレナンデス皇太子殿下にご挨拶されるそうです」
ブランシュが馬車の脇にやってきた。
「ナナエ、無理をしなくてもよい」
「……いいえ。これが本当に最後になるかもしれませんから」
窓越しにそういうと、ブランシュのため息とともに、馬車の戸が開いた。
ブランシュの手を取り、奈々江は足元を見ながら馬車を下りた。
そして、顔を上げたとき、奈々江は目の前に光景に驚いた。
そこには、グレナンデスだけでなく、未だあったことすらない攻略キャラまでもが全員勢ぞろいしていた。
ブランシュが慌てたようにマントで奈々江を隠した。
「ナナエ、泣いていたのか?」
「え」
ブランシュのマントの影で、奈々江は動揺していた。
今にも飛び出して来そうなほど切ない表情を浮かべているグレナンデス。
久しぶりに見たキュリオットは、息苦しそうに胸を押さえて立っていた。
ロージアスはグレナンデスから少し離れたところで、微動だにもせず張り詰めたような表情でこちらを向いていた。
セレンディアスはブランシュからそう離れていない場所で、心配そうに伺うような視線をしていた。
シュトラスは王のすぐ横で、困ったような顔でこちらに目を向けていた。
アキュラスは王の手前目立つようなそぶりはなかったが、射すくめるような視線を投げかけていた。
初めて見るケンウッドとマクベスは、騒ぎを聞きつけてきた野次馬のように人ごみの輪の中にいて、オズベルトとカロンディアスも、遠巻きにその輪の中からこちらを見ていた。
(び、びっくりした~……!
トラバットとホレイシオ以外の攻略キャラが全員いた……)
いや、ひょっとしたら見つけられなかっただけでトラバットもあの中のどこかにいたのかもしれない。
攻略キャラの全員が奈々江に強い意識を向けていた。
熱視線の焦点になるのはこれで何度目かだが、ブランシュにかばってもらわなければ、どうしていいかわからなくなっていたはずだ。
「ばかもの、そのような顔で出てくるものではない!」
「お兄様、す、すみません……」
これもはしたいない行為だったのだろうか。
仮にも姫君には、ふさわしくない行動だったのだろう。
奈々江は乾いたはずの頬をもう一度さらった。
濡れてはいないが、きっと目が赤くなっているのだろう。
「ナナエ、グレナンデス皇太子殿下に挨拶を」
「は、はい」
ブランシュのマント越しに奈々江は頭を垂れた。
「グレナンデス皇太子殿下……。
短い間でしたが、殿下と過ごした時間は、わたしにとっては初めてのことばかりで……。
その……」
短い時間の中で、グレナンデスがくれたもの。
それは奈々江にとっては人生初めての恋の予感だった。
けれど、今この状況でそれが今後どうなるのかは、奈々江にも皆目見当がつかない。
「……う、うまくいえないんですけど、お、お世話になり、ありがとうございました……」
自分から挨拶をするといったくせに、結局うまく言葉には表せられなかった。
「ナナエ姫……。
こちらこそ……。
あなたにお会いしてからの日々は、間違いなく私の人生で最良の時でした……。
どうか……。
貴国でも健やかにお過ごしください……」
グレナンデスが詰まりながら、堪えるように言葉を絞り出す。
聞いているだけで、こちらまで苦しくなりそうだ。
奈々江も思わず息を詰めて返した。
「グレナンデス皇太子殿下もお元気で……」
「はい……」
ブランシュが幕を引く。
「それでは、我々はこれで失礼いたします」
ブランシュに促されて馬車に乗り込む。
馬車の戸が閉じられた。
「皆の者、唱和を!」
ブランシュの掛け声で、全員が口をそろえた。
「風待たず 逢わんとぞ行く ファルコンか 我も命惜しむことあらんや」
強い光線が一帯を包む。
光が収まったとき、奈々江たちははるか離れた地、エレンデュラ王国にいた。
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