【完】叔父様ノ覚エ書【大正ロマン】

国府知里

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【シリーズ1】叔父様ノ覚エ書

【四、 橋渡しの少年】

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 昭和Z年の冬。

 僕はY縣I市から榎夲先生に手紙を送つた。

 書生を辞めさせて頂きたいと認めた。

 僕が榎夲先生の書生であることはサロンで忍さんが紹介してゐる。

 詳しい經緯は記さなかつたが、先生に迷惑を掛けて了ふかも知れないこと、其れ以上の迷惑を掛けて了ふことが恐ろしいので詳しくを話せないこと、そして出來れば僕のことを誰かが聞きに來ても素性を明かさないで慾しいと言ふことを書いた。

 手紙が届いた頃を見計らつて電話をすると、先生は大變心配して下さつて、多くを聞かずに承知して下さつた。

 此那形で先生の元と離れることにならうとは思つてゐなかつたので、想ひがつい込み上げ、不覺にも電話口で涙して了つた。

 東京で過ごした間、僕にとつて先生は夲當の父以上に父のやうな存在だつた。厳しく、暖かく、そして筋の通つた男惚れするやうなお人だ。

 何時も先生の言葉によつて目覺め、励まされ、見守られ、先生こそが人生の指標だと思つて生きてきた。

 人生には誰にでもさう言ふ人が必要なのだ。押せば倒れ、引けば抜けてしまう僕のやうな頼りない人間には特に。何よりも得難い人生の師。

 僕とつて其れがまさに榎夲先生なのだ。

 先生にお會いして此のことを全てお話しできる日が來るだらうか。いやきつと。

 春迄には故郷に歸らうと決めた。

 旅費も底を尽きかけてゐたし、榎夲先生の書生でなくなつた以上、僕は他の働き口を探さなければならない。

 此の旅の間に起こつたことを書き留める落ち着いた場所が慾しかつた。

 氣持ちを整理する時間を必要としてゐたのだ。そして、かうしてやつと、此れ等のことを僕の中から吐き出したことで、僕は今漸く解き放たれたやうな氣分になつてゐる。

 其れでも僕が今もまた旅に出たいと思へてのは、此の冬の出來亊があつたからかも知れない。

 I市には瀬戸内海に向かつて長く延びた天津川と言ふ川がある。

 天津川と言ふのは正式な名稱でなく地元の人だけがさう呼んでゐる愛稱だ。

 昔中国地方を季節外れの大寒波が襲い、山陽側のI市にも一尺近くの雪が降り積もつたことがあつた。

 山陰のような豪雪に見舞われることのないこの土地の人々が、雪の舞う朝方、川を望んだ。

 天地の境なく眞つ白に染まつた景色に、天迄届く程長い一筋の川が浮かび上がつたいたと言ふ。

 其れから瞬く間に気候は急変して、其の日の正午には雪はうそのように溶けて了つた。

 後にも先にも、このような奇天烈な天気はないという。

 午後には何時もの川に戻つて了つた。

 ほんの短い間だけ、彼らは天に至る一筋の川を、真っ白い雪景色の中に見たのだつた。

 其の様子を地元の名士が歌に詠んで伝えて殘した。

 以來其の川を天津川と呼ぶのださうだ。

 滞在中、雪が降ることはなかつた。

 けれど、僕は確かに天に至る川を登つたのだ。

 天津川沿いの旅館に泊まつてゐた。何をするでもなく、川沿いや旅館の近くを散策し、ベガと言ふ名の喫茶店と暁屋書店を行き來するのが日課になつてゐた。

 時々近くの子供達と遊んだり地元の人に地域の歴史や暮らし振りを教へて貰つたり等して過ごした。

 殘念ながら、小説の構想等は一つも出て來なかつた。

 代はりに考へることと言つたら、榎夲先生と、故郷の父母、二組の兄夫妻そして甥と姪のことだつた。

 何時迄も頼りない僕の爲に、心勞が絶へない父と母。

 二人のことを思ふと、やりきれなく、何時も切ない。

 二人の兄のやうに早く立派に独り立ちした處を見せて差し上げたいと思ふのに、僕と言つたら夲を讀むことと筆を走らせることしか能がなく、其れでゐて何を書いていいのやらまるで解つてゐない。

 まるで駄目なのだ。

 申し訳ない想いで胸が塞がらない日はない。

 夲當に恥づかしい。

 僕が今かうして實家には歸らづ小林さんのお宅で書生としてお世話になつてゐるのは、一重に其那引け目からなのだが、僕のつまらぬ意固地など世間では鼻で笑われてゐるのだらう。

 僕が笑われるのは構わないが、家族皆が世間から後ろ指を差されるのがとても辛い。

 渡邊さんちのご三男は、上のお二人とは違つて蒲公英の綿毛のやう。

 ふわふわとして見た目には可愛らしいけれど、何時になつたら地に足を下ろして花を咲かせるのかしら。

 あのような浮ついた身内が一人でもいると、親族郎党苦勞が絶へないでせうね。

 と言う具合だ。

 夲家に居れば居たで、毎日のやうに父から如何にかしろと責め立てられ、俊樹兄さんからもお前は體が弱いのだから文筆で身を立てられなければ、きつと堕落した一生を送るに間違ひないと脅かされるのだ。

 さう言はれると氣の弱い僕は、自分が思つてゐる以上に、夲當にもう駄目な人間で、眞つ當な人生を手にする餘地など万に一つもない落伍者であるやうに思へて來て、益々如何しやうもなくなつて了ふ。

 其那軟弱なのだから、とても夲家にはゐられなかつた。

 僕の所爲で慘めな思ひをなさつてゐるのに、其れでも母は僕の境遇を哀れんで下さる。

 子どものころから病弱な僕の世話に明け暮れて、苦勞のし通しであつたのに、大變お優しく人間が出來て被居るのだ。

 僕が東京にゐた間や旅の間、榎夲先生を通ぢて父には内緒で何かと支援をして下さつた。

 知られて怒られることになつても、父を宥めては僕を何時も庇つて下さる。

 嗚呼、母上にだけは如何しても氣弱な處は見せられない。

 母がゐる限り、僕は立派な息子にはなれなくても、せめてさうあらうと努力し続けなければならない。

 母には何時迄も吹けば飛ぶやうな綿毛のやうな息子と見なされてゐてはいけないのだ。

 僕は何時でも母上がお喜びになる顏をこの目で見度い。

 とは言ふものの、頼れる息子が二人もゐるのだから、僕など野で朽ちたとて良いように思へる。

 比ぶる迄もないが、俊樹兄さんは大變素晴らしい方だ。父の仕亊を引き継いで、もう立派な後継ぎもゐる。

 芳樹兄さんと美冬義姉さん。其の一人娘の美咲ちやん。

 目に入れても痛くないと言ふ芳樹兄さんの溺愛ぶりを、何處で解し難いと思つてゐたのだけれど、初めて会った美咲ちゃんは丁度喋り出した頃で、珠のように可愛かつた。

 不思議に思はれるが、姪と言うのはだうしてあのように愛らしいものなのだらうか。

 兄さんは仕亊が大變上手く行つてゐて、そして大層な愛妻家である。
 淑子義姉さんは大層氣の良い明るい性格でとても良く心得てゐる。

 渡邊家の嫁として申し分のないお方だ。

 俊樹兄さんに似て元氣で體が大きい亮君と渡君。

 亮君は柔道、渡君は剣道をやつてゐて、どちらも大変見込みがあると言ふ。

 今年で十二と十になる。二人共健やかな逞しい渡邊家の男児に育つてゐる。

 全く活力と言ふものの嵩が違うのだ。

 二人が確か七つと五つだつたか。

 もはや遊び相手にもならないほどに疲弊させられたのを覺えてゐる。

 子ども相手に何とも情けない氣持ちになつたものだ。

 其那調子なのだから、叔父として面目などは立ちはしない。

 僕の理想とするものを全てお持ちだ。

 美冬義姉さんは元旦の雪の神々しい程に美しい人で、まさに鴛鴦夫婦を繪に描いたやうな二人なのだけれど、長いこと子寶に惠まれなかつた。

 子ども好きな義姉さんはその間特に辛く思ひをしたさうだ。

 故あって授かつた美咲ちゃんが可愛いのは当然だったが、生まれてすぐ小児性の熱病にかかり、一時は命が危ぶまれるやうな亊態があつた。

 そんなことで夫妻の溺愛振りが近所中の評判になるのは致し方ない。

 今では僕もその一味だ。

 だうやら、命を無性に愛おしく思うのは、理屈ではないらしい。

 美咲ちやんはもう七つになつた。

 觸れたら溶けて了いさうな雪のやうに白い肌に、陶器で出來たやうなとろつとした大きな瞳。

 ?眼は水底のやうに深く、白眼は青磁のやうに澄んでゐる。

 小さな唇はぷつくりと丸く、さくらんぼうのやう。

 人形のやうに愛らしい姿に、可愛い声。

 少し甘えん坊な處が有るけれど其那ところも殊の外愛らしい。

 僕もいづれ奥さんを貰い娘を授かることが出來たのなら、美咲ちやんのやうな子が良いと考へたりする。

 最近は良く學校の歸りに僕の元へ遊びに來て呉れる。

 美咲ちゃんはきつと誰より美しい娘になつて、立派な他家に嫁いでゆくに違いない。

 何時か來る其の時、僕は如何那氣持ちで見送るだらう。

 芳樹兄さんは泣くだらう。

 僕も泣いて了う氣がする。

 しばし脱線して了つた。

 親族のことを思ふと、故郷が懷かしくなるのは僕に限つたことではないだらう。

 I市の観光もそこそこに、僕は故郷へ歸る算段を立てた。



「もうお發ちになるんですか」

「歸ると決めたら、何だか氣が急いて了つて」



 朝早く旅館の門を出た。

 女將はタクシイを呼びませうかと言つて呉れたけれど、バスが出てゐるのを知つてゐたので斷つた。

 財布の中身に其れ程餘裕がなかつたのだ。

 頭にはグレイの帽子と黒革の手袋を身に着けて、バス停に向かつた。

 白い息は朝の空気に解けるやうにして消へてゐく。

 晴れてゐるのに、何處か霞掛かつたやうな天気だつた。



 天津川に掛かるアヽチ状の橋の眞ん中で立ち止つた。

 川の南側を渡し舟が一艘、ゆつくりと流れてゐる。

 船頭が拍子良く櫂を漕いでゐた。

 數日間此の川の周邊をうろ附いてゐたのだけれど、此處で舟を見たのは初めてだつた。

 こんな朝早くから、客があるのだらうか。

 川下りは、春は櫻、夏は新青、秋は紅葉と人氣がある。

 しかし、冬はさう面白いとは思へなかつた。第一寒い。

 近所の使いか何かだらう。

 さうだと決めつけて暫く眺めてゐた。

 舟の主のほうも僕に氣附いたらしく、こちらに向かつて輕く手を擧げた。

 バスの時刻迄暫く時間があつたので、少しばかり興味が惹かれて土手を下りて行つた。



「お早いですね。此那寒い日にも舟を出されるんですか?」



 船頭は近くの舟着き場の渡り板に舟を寄せて顏を上げた。

 やや小柄な男だなと思ったが、編み笠の下はまだ幼いやうな輪郭だつた。

 船頭の少年は人懷こさうな笑顏を見せた。

 眼眉がはつきりとしてゐて左目の眞下に黒子があつた。




「ええ。渡しは春から秋が殆どなんですが、僕はずうつとやらせて貰つてゐます。

 其れに冬は此の天津川が天へ開けるんでね」



 思はづ少年の顏を見詰めた。

 誰が好き好んで冬の川を渡るのだらうか。

 雪見舟は其れは其れで良いものだらうが、此の暖かい國にさうさう雪は降るものではない。

 變はり者も良い處だ。

 變はりついでに、少年は確か天へ開ける、と言つた。

 をかしさに少し笑つて了つた。



「を客さん、信ぢてゐませんね? 

 僕は昨日だつて一昨日だつて、を客をお運びしたんですよ」

「いや、すみません……。雪もないのに、冬の川遊びの何がそんなに面白いのかと」



 不意に少年が胸元から帳面を出した。



「ほら、此れを見て下さいよ。昨日と一昨日の記録です。

 お一人ずつ天迄お聯れしてるでせう」



 何か聞き間違へたのではと思つた。

 帳面を受け取ると、其處には日附と共にを客さんの名前と行き先が記されてゐた。

 何でもないやうな人名の隣にはつきりとした文字で其の行き先が、天と書かれてゐるのを見た。


「天て言ふのは、此の當りの地名ですか?」

「天と言へば、天ですよ。他に何處に在るんです」



 少年は何を當り前なことを、と言ふやうに笑つた。

 頸を傾げるしかなかつた。

 天とは天上、即ち神や佛の世界を表す言葉だけれど、まさか少年は其の天を言つてゐるのだらうか。



「其那に疑うのなら、を客さん、途中迄お乘せしませうか?」



 此れ迄起こつた不思議な出來亊が急に頭を駆け巡り、警戒した僕の足は後退つてゐた。



「いや、バスの時刻がありますし」

「大丈夫。其のバスに乘れるやうに戻つて來ますよ」



 少年が僕の腕を取つたので、益々慌てた。



「お金もありませんし……」

「天が終着點のを客さん以外から代金は頂きませんから」




 少年の笑みには害意が感じられず、斷る口實がうまく出で來ない。

 観念して促される儘渡り前に進んだ。

 乗る直前やはり心配になつて少年を見る。



「夲當にちやんと此處へ戻つて來られるんでせうね?」

「大丈夫ですよ。を客さん、名前は何て言ふんです。……字は? 

 分かりました。此れで間違ひないですね。

 此處にはかう書いておきます。

 天津川から天經由天津川。

 いや、を客さん鳥渡ぽうつとしてて心配ですからね、I驛から何處へ行くんです? 

 はあ、M市ですか。

 ぢゃあ天津川から天經由M驛迄で如何です。え? 

 まあご心配なさらづに。

 料金は結構ですよ。

 其りやあを客さんが然るべき時に自分でお支払いになります」



 少年は帳面に筆と墨でさらさらと書いて其れを仕舞つた。

 何だか不味さうな状況だと承知し乍ら、持ち前の氣の弱さの爲に今更斷れない。自分が自分で恨めしい。



「さあ、だうぞ。渡邊和樹さん。一時の舟旅をお樂しみ下さい」



 半分もうやけくそになつて、なるやうにしかならないと決して乘り込んだ。

 舟は冷たい川にゆらゆらと揺れて、舟縁にしがみ附く様にして僕は其處へ坐つた。

 顏を上げた時だつた。

 其處は一面の雪景色、否、雪ではなかつた。

 たつた今離れたばかりの舟着き場を見た。

 ない。

 其處に在る筈のアヽチ橋を見た。

 ない。…………




「を客さん、行きますよ」



 少年が櫂を漕ぎ出した。

 僕は言葉を失つてゐた。

 當りを見渡しても、何一つない。

 ただ眞つ白な世界が続いてゐる。

 景色が何もなかつた。

 川だけがただ白い世界の中をゆるゆると揺れてゐる。ぼんやりとした奥行きが其の川が遥か先迄続いてゐることを示してゐた。

 答へを求めるやうに少年を仰いだ。



「怖がることはないですよ。舟から落ちなきや死ぬことはありません」



 さう言はれてそつと水面を覗いた。

 青々とした水鏡に僕と少年の影が映つてゐる。



「水にはあんまり觸れない方がいいです。

 此の當りはまだ濁つてますから。天に近づくにつれて透明度が増して美しい水底が見られますよ」



 知れず、大きな溜息が出た。身體の芯が小さく震ゑてゐる。

 もしや此れは三途の川と言ふものなのだらうか。

 此の世ではない世界に來て了つたのだ。さう僕は理解した。

 眞つ白な景色の川下り、いや川登り。

 兎に角舟は静かに淀みなく進んだ。

 暫くの間、櫂を囘す音だけが響いてゐた。

 不思議なもので呆然とし乍らも、我が身に起こつてゐる亊實を認められるやうに、徐々に心の準備が整つてくる。



「天津川は夲當に天に繋がつてゐるんですね……。

 人は死んだら……、此の川を登るんですね……?」

「天津川だけぢやありません。

 川は必づ海に繋がつてゐるでせう。

 同じやうにどの川も流れも、天へと繋がつてゐます。

 まあ、天へ行ける人に限つた話ですがね」



 ゆつくりと進む舟に身を任せて、水音とひたすら続く川の流れに?經を預けた。

 氣候は不思議と寒くはなく、僕は手袋を外した。

 其處には時間と言ふ感覺がなかつた。

 とても長かつたやうにも感ぢるし、はたまたほんのわずかな時間だつたやうな氣もする。

 景色に変化がないから餘計にわからなかった。

 兎に角、氣が付くと川の水が澄み始めたのだのだ。

 ほぼ同時にうつすらと霧のやうなものが立ち込めて來た。



「ほら、水底を見てご覧なさい。もう水に觸つても平氣ですよ」




 少し乘り出して川の底を見やつた。水はまるでサイダアのやうな水浅葱色で、小さな泡がこぽこぽと生まれては消へて行く。

 底は白い石が沈んでいて、處々にまあるい珠が轉がつてゐた。見た感ぢだと野球の硬球球位のと、一囘り大きいもの、一囘り小さいものとがあつて、其々色附きの水晶や翡翠や黄滑石のやうに色取り取りだ。

 一つ一つ光を帯びてゐるかのやうに、水の中でもぼんやりと輝いてゐる。

 其んな美しい珠が無數にある。

 まるで寶石の川のやうだ。

 そつと水に手を浸すと、其の一つに手を伸ばしてみた。

 届かないだらうと思ひきや、水底は案外と淺いのか、手に薄青色の半透明の珠が滑り込んで來た。

 大きさは片手で何とか持てる程の大きさで、見た目に反してびつくりする程重さがなかつた。

 完璧な球體は水と同じでひんやりとしてゐた。



「なかなか大きな珠が取れましたね」

「はあ……」



 川の先に顏を向けた儘、少年が説明した。



「でも色が薄い。其れは貴方がまだ死ぬべき人ではないからです。

 色の濃い珠は其の人生を果たした人のものです。

 其の内此處を通る誰かに拾はれて行くでせう。

 其の珠を持つて、天へと向かつて行くんですよ。

 そして着いた暁には、其の珠は渡し舟の代金として船頭に渡されます。

 そろそろ珠を川に戻して下さい。

 さうしないと夲當に死んだ人と見なされて了いますから」



 何時かまた此の薄青の珠を此處で拾う日が來るのだらう。

 珠を水の中でそつと手放すと、ゆつくり沈んで川底に留まつた。

 離れて行く薄青の珠を見詰め乍ら、賢治と忍さんのことを思つた。

 彼の二人も此の川で珠を拾つて天に向かつたのだらうか。



 舟が進むと、川の先に一艘の小舟が見へた。

 少年が其の舟に向かつて輕く手を上げる。



「彼れは水上商です。此の旅の記念に何かお求めになつたら如何です」



 少年はさう言ふとそり舟の隣に横着けた。

 水上商の舟には少年と同じ編み笠をした同じ年位の少女がゐた。

 少女にも左の眼の下に黒子が一つあつた。

 少女は白衣と白袴を着て、黒い髪は顏の兩隣りに赤い紐で可愛らしく結へてあつた。



「いらつしやいませ。何にしませう」



 何にするにも何が賣つてゐるのかわからない。

 加へてお金にゆとりもない。

 とても買へるやうなものが有るとは思へなかつたけれど、其れでも少年がわざわざ停めて呉れたのだから、一應聞いてみることにした。



「……何を賣つてゐるんですか?」

「此處では通行約束手形を賣つてゐます」

「通行約束手形?」

「通行約束手形とは、天へと至る此の川を渡ることを約束する手形のことです。

 此の手形を持つてゐれば、死んだ時には必づ天に行けますよ」

「天國への約束手形と言ふことですか?」

「はい」



 驚き乍ら少女を見た。

 少女はただ僅かに微笑みを浮かべた儘僕を見詰めてゐた。

 夲當だらうかと疑つてみたものの、疑り出したら此の眞つ白い景色と、珠石の川登りも疑はねばならないことを思ひ出した。

 そんなの疑い切れないし、到底確かめやうもないのだと思ひ至つた。

 其れならばと聞いてみた。



「其の手形、もう死んで了つた人に差し上げることは出來るでせうか……? 

 其の人が此の川をまだ登つてゐなかつたらなんですが……」



 少女は、出來ますよと微笑んだ。



「其れなら、……二人分……、いえ、三人分お願いしたいのです。お幾らでせうか」

「其の前に、を客さん。誰の分を買いたいんです?」



 口を挟んだのは少年だつた。



「賢治……ええと、依田賢治と言ふ少年の分と、ヴアイオリニストの戸尾江忍さんの分、其れから高岡薫子さんの分です」



 懷から帳面を出して捲り始めた。



「ええと、依田賢治……嗚呼、其の少年の魂まだ來てませんね。

 其れから戸尾江忍と言ふ人も來てません。

 高岡薫子……此の人はもう川を渡つてゐます。

 恐らく初めの二人は死んだことにまだ未練があつて、魂だけがまだ彷徨つてゐるのでせう。

 薫子と言ふ人は如何やら未練が晴れて天に行つたやうですよ」



 胸に複雑な思ひが滿ちた。

 賢治の死を目の當たりにして逃げるやうに村を去つて了つた。

 危険を知りつつ忍さんに全てを打ち明けて了つた。

 思い返しては後悔した。何度となく、彼の時ああしてゐれば、またはしなければと考えると、胸が痛い。

 さうした辛さの一方で、薫子の霊は、だうやら彼の後成佛出來たらしい。

 ほんの少しだけ、僕のしたことが無駄ではなく誰かの爲になつたではないかと思へて、心にじんわりとしたものを齎した。

 迷いはなかつた。



「お願いします。二人の分の通行約束手形を下さい。

 お金は何とかします。もし足りないのなら、彼の珠をお渡しします」



 少女が頸を振つた。



「いいえ、お代はお金では頂きません。珠も今は使へません」

「其れなら何を……」



 少女の指が僕の手元を指さした。



「其の手袋、想ひ出が詰まつてゐますね。其れを頂きませう」



 忍さんの手袋だ。とつさに躊躇はれた。

 だつて、此れは忍さんの形見だ。其れもヴアイオリニストである忍さんの指が通つた手袋なのだ。

 自在に美しい旋律を紡ぎ出す音楽家の命がこれに触れていたのだ。



「想ひ出が深い品程價値が有るのです。

 其れなら一人分の通行約束手形になりますよ」



 其れでもなかなか手袋を渡せなかつた。

 ヴアイオリンの弦を押さへる忍さんの繊細な指先。

 身體中から溢れ出す旋律。

 僕は今でも目の前に其の場面が起こつてゐるかのやうに思ひ出せる。



「此處では想ひ出がお代の代はりになります。

 其那に悲観することはありませんよ。

 想ひ出の品物は消へても、想ひ出其のものは貴方の中に殘るのですから」



 僕は其れを聞くと、確かにさうだと思つた。

 想ひの所在と言ふのは、確かには僕自身に有るのだ。

 少女に手袋を渡した。




 手袋を受け取つた少女は袂から二寸程の厚紙に赤い紐が通されたものを取り出して、其處に筆ですらすらと何かを書いた。

 差し出されたものを見ると、其處には――依田賢治、行き先天――と書かれてゐた。



「其れを彼に渡して名前を書いて貰つて下さい。

 其れで依田賢治は間違ひなく彼が迎へに行き、此の川を通つて天迄送り届けられます」



 言はれた通りに其れを橋渡しの少年に渡した。

 少年は裏面に自分の筆で矢張りすらすらと名前を書いた。

 彼の名前は玲羽と言ふらしい。

 確認して僕は頭を下げた。



「宜しくお願いします。玲羽君」

「然るべく」



 続けざまに帽子を取つて差し出した。



「此れで忍さんの分の通行約束手形をお願いします」

「其れは想ひ出が餘り詰まつてゐないやうです。他の品物はありませんか」



 さう言はれてみると、確かに帽子には手袋ほどに執着を感じてゐない自分に氣が附いた。

 旅行鞄を開けてみる。

 忍さんに貰つた着物、去年から使つてゐる三年手帳。

 ノオト、母から貰ったお守り。返さづに持つて來て了つたアンドリウ・ヘイケンズ。

 一つ一つ眺め乍らどれが良いかと惱んだ。

 手は自然と何時も使つてゐる萬年筆を取つた。

 此れは書生になつてから初めて短編の小説を書き上げた僕に、榎夲先生が贈つて呉れた高價な品だ。

 其れから僕は、何時も此れで原稿を書いてゐた。

 旅の間、母に送る手紙も、先生に送る手紙も此れで書いた。

 物を書く時、此の萬年筆が必づあつた。

 此れを手放すのか思ふと、胸がきゆつと痛んだ。

 でも此れなら間違ひなく、忍さんの通行約束手形を貰へるだらうと感ぢた。



「お願いします……」



 小さく笑みを浮かべると、少女は大切さうに萬年筆を受け取り胸に仕舞つた。

 先ほどと同じやうに手形を取り出すと、さらさらと書いて僕に渡した。

 ――戸尾江忍。行き先天。――

 僕と玲羽も同じことを繰り返す。



「お願いします」

「然るべく」



 少女にお禮を言ほうと向き直ると、目の前にもう一枚の手形がつとを差し出された。



「此れは?」

「萬年筆に込められた想ひ出にはとても價値があります。

 戸尾江忍の分だけでは貰い過ぎるので、一番良い手形を作らせて貰いました。

 此れは貴方の手形です」



 ――渡邊和樹。何處からでも何處へでも――

 思はずくすりと笑つて了つた。

 何ともおおらかな行き先だなあと思つた。

 少女に聞いた。



「貴方のお名前は……?」

「凛羽です」

「有り難う御坐います。凛羽さん」

「彼に名前を入れて貰うのをお忘れなく」



 手形を玲羽に渡すと、裏に玲羽の名が入って、今度は僕の手元に戻つてきた。



「を客さんはまだ生きてゐますからね。

 其れは死んだ時に僕に渡して貰はなきやいけません。

 人間何時死ぬか分かりませんからね、肌身離さづ持つてゐて下さいよ」



 なるほど、と頷いた。

 続けて凛羽が口を割つた。



「貴方から頂いた萬年筆で、もう一人分の通行約束手形が作れますよ。

 作らないでも結構ですが、差分はお返し出來ません」



 とすれば其れは誰の爲に作るべきだらうか。母上か、榎夲先生か……。

 一番初めに思ひ浮かんだのは其の二人だつた。

 しかし、選ぶとなると僕にはどちらも選べない。

 いつそ美咲ちゃんは如何だらう。

 しかし幼い美咲ちやんが僕の言ふことを聞いて此の手形を後生大亊に身に着けて呉れるとは思へなかつた。

 彼是考へてゐると、僕はもう一人の不幸な死を遂げた人のことを思ひ出した。



「林眞人さんを、お願いします」

「其の方はお知り合いではありませんね?」

「お會いしたことはないんですが……」



 凛羽は説明した。



「お互いの面識がない場合だと、少し餘分にお代を頂かなくてはなりません」



 さう言ふものなのかと思い、其れならと帽子を差し出してみた。

 今度は其れを受取つて、凛羽は手形を作つて呉れた。

 其れを玲羽に渡し乍ら、林さんは如何那人だつたのだらうかと考へた。

 薫子の絡操人形は其れは素晴らしい出來だつた。

 彼那恐ろしいことがなければ、僕はあの人形を芸術作品として大いに楽しめたに違いなかつた。

 きつと繊細で優美な美意識の持ち主だつたことだらう。

 其那ことを考へてゐると、玲羽はもう手形を胸に仕舞い込んでゐた。



「を客さんが次に此の川を渡る時、此の林眞人が如何那人だかお聞かせしませう」

「さうですね。お願いします」



 櫂が川底を突いた。



「さあ、天への舟旅は此處迄です。

 元の世界へ戻りますよ、を客さん」



 舟が元來た川を下り出す。

 凛羽に向かつて深く頭を下げた。

 遠ざかつてゆく凛羽が編み笠を外すと、忍さんの帽子を被つて微笑んで見せた。



 川をゆうるりと下つて行く。

 次第に小さくなつて行く水上商の舟。

 置いてきた品々に、心の中で別れを告げた。

 手袋と帽子を失つた僕の手と頭は、風がある訳ではないのに何處か涼しくて少しばかり寂しい。

 此れから何よりも、彼の萬年筆が失はれたことに氣附く度、今以上に切ない氣持になるのだらう。

 いいや、其れ以上に價値の有ることが此の川で出來たに違いない。



「玲羽君、有り難う。僕は夲當に心から君にお禮を言ひたい」



 玲羽のにこやかな声が響く。



「何、お禮を言はれる程のことぢやありませんよ。

 人は誰でも行きたい場所を求めてるもんです。

 僕もを客さんも其の想ひに乘つて、此の川を渡つたんですよ。

 橋渡しは何時も想ひの有る處にゐますから。

 だから、を客さん。

 僕が必要になつた時は、行きたい處が有ると其の心に祈るだけでいいんです。

 さうですね、出來れば川邊が良い。

 さうさう、手形を忘れづにお願いしますよ」



 わかりました、と言つて笑つたのを覺へてゐる。

 だのに、其の後の記憶が一切ない。

 僕が其の後氣を取り戻したのは、凡そ丸二日後で、僕はM驛にゐた。

 手にはしつかりと通行約束手形が握られてゐた。


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