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38、イスウエンの旗本-2
しおりを挟む「では急ぎましょう、気温が上がってきているようです」
「美波浮者、お顔が赤くなっていますわ。まさか、お熱が出てきたのでは……」
マッカリが心配そうにわたしの顔を覗き込んだが、これは、熱じゃなくて、恥ずかしいだけだから、大丈夫です……。
ムラークくんまでもが気ぜわしい。
「町に入ったら茶屋か宿屋で涼んだ方が良いと思います」
「そうね、ムラーク。そうしましょう」
あっという間に話がついてしまって、わたしは口をはさむ余裕すらなかった。
カーツさんの足並みにあわせて門へ向かうと、ぐんぐんと距離が縮み、マッカリとムラークくんは速足というか、少し駆け足位の早さだった。
そうか、さっはまではみんな、わたしの足のペースに合わせていてくれたのね。
それで、今はできるだけわたしを早く町に入れようと急いでくれている。
カーツさんが提案してくれることは、ちゃんとわたしのことを配慮してくれてのことだったんだ。
これからは自分の感覚だけに頼らず、みんなのいうことをちゃんと信頼しよう。
いくらハナムンの生活に慣れてきたとはいっても、わたしにとってイスウエンは知らない土地。
いくらエレベーターがあるとはいっても、旅先でわたしや旬さんになにかあったら、簡単に帰れなくなってしまう。
少し気楽に構えすぎていたことに気づいて、わたしは気を引き締めた。
まるで、ここが城だといわんばかりに大きな門だった。
はやり中国風の極彩色の立派なつくりで、門兵はざっと十人以上はいた。
これまでの町に置かれていた兵士たちの数段よい鎧を身に着け、装飾付きの武器を持っている。
どうやら身分によって優遇順があるらしく、身なりの立派な人や豪華な馬車、大商人らしき帆布で覆われた幌の大型馬車は、身分証の確認をし関所に記帳してもらって、町の中へ入っていく。
貧しい身なりの人たちは額の汗を拭きながら、塀のわずかな影に身を寄せて待っているらしい。
記帳している書記の後ろに、ひときわ身なりの立派な男性の兵士がいた。
髭を蓄え、ハナムン流に伸ばした髪を後へ流し、青銅色に輝く装飾豊かな鎧の下には褐色に焼けた肌がある。
あの人がこの門の責任者なんだろう。
「この様子だとずいぶん待ちそうですね……」
わたしはため息をついたが、カーツさんやマッカリはわたしの話などまるで聞いていなかったかのように、列に並ぶ人の間を縫ってぐんぐん前に進んでいく。
「えっ、大丈夫なんですか……!?」
「なにがご心配なのですか? ムラーク、わたしの背の荷から、通行手形を出してくれ」
「だ、だって、偉い人が先みたいですよ! 怒られるんじゃないですか?」
「あなたはこの町で一番優遇される存在である浮者なのですよ」
あ……。
そういえば、そうだった。
カーツさんのいう通り、責任者と思しき兵士がこちらに気がつくと、まるで王様が通るかのように、兵士たちが脇にざっと並んだ。
青銅の兵士がつかつかとやってくると、わたしたちの前でさっと膝を折った。
「ようこそイスウエンにおいで下さいました。わたくしは中央領地東の門の監督を任されております、ガム・ホンと申します。イスウエンは大将軍の名のもとに、あなた様を心より歓迎いたします。新しくこの国に舞い降りて参られました恵み高き浮者のご芳名をお聞かせいただけませんてでしょうか?」
ごほうめい……?
わたしの名前だよね?
わたしが答えようと口を開きかけると、マッカリが冷たい声音を落とした。
「まあ、浮者のご前で先に口を開くとは、なんという無作法。これがイスウエンの関門を預かる者の常識でございますか?」
青銅の鎧がにわかに揺らぎ、あげた顔に焦りが見えた。
「い、いえ……、そのようなつもりは……。ただ、浮者におかれましてお疲れのご様子でございましたので、一刻も早くお休みになれる場所へご案内差し上げたく思いました次第でございます」
「だとしても、礼儀は礼儀。ガム・ホン、あなたの不始末は報告させていただきます」
「は、は……」
「こちらはサイシュエンのトラントランから参られた美波浮者であらせられます。東大通りのカムナン茶屋でお休みになられます。行って知らせておいでなさい」
「はい」
驚きだ。
マッカリはまるで倍以上年上の強面の兵士を相手に、堂々と権威を表して安々と命令に従わせたではないか。
わたしだけでなく、カーツさんとムラークくんも、驚いていた。
わたしたちの前後に数名の兵士がつき、まるで大名行列のように連なって、わたしたちはその茶屋に案内ついた。
茶屋は以前見た店の門構えから行くと、一番高級な店らしく、あざやかな柱の奥は、まるで竜宮城じゃないかと思うようなきらびやかな空間が広がっていた。
歓待を露わにする店主たちに、マッカリは慣れた態度で答えている。
「浮者はお休みになられますからしばらくは静かにしてちょうだい。冷たいお飲み物と、お菓子をそうね、マクのような口あたりのいいものをお願い。それから、お城に使いをやってちょうだい。夕方までには迎えを寄こしていただけるようにと」
「あい承知いたしました」
飲み物が運ばれてきて、店主たちが下がっていくと、わたしたちは部屋の中央にあるテーブルを前に椅子に腰を掛けた。
テーブルは透かし彫りの脚と螺鈿づくりの天板でてきていて、玉虫色の見事なクランの花がたわわに咲いている。
こんな豪奢なテーブルは、日本でも目にしたことは一度もない。
わたしは改めて目を見開いた。
「驚いたわ、マッカリ。なんだか、とにかく……、びっくりよ」
「ふふふ、実は、この店に入ってみたかったんです。東の大通りで一番いい茶屋で有名でしたから」
「慣れているのね……」
「父に連れられてこういう場面は何度も目にしているのです。守長が浮者を歓待するときの父の態度をまねて見ただけですわ。浮者のお茶代はすべて城が肩代わりしてくれますから、店も浮者のお客様は重宝なんですのよ」
「驚いたわ。浮者というだけで、こんな対応をされるなんて……」
「まあ、トラントランのような寺ではなかなかできないことですわね」
めいめいに冷たいお茶に口を付けた後、ムラークくんがマッカリを見た。
「先ほど不始末を報告するといっていましたが、本当にするのですか?」
「そうね、してもいいけど、イスウエンの役人にあの手の輩は多いわ。お城の浮者たちもいちいち気にしてはいないと思うわ」
「あの手とは?」
マッカリがいうことには、わたしたちの姿を見て、あの兵士は値踏みをしたのだろうという。本来なら浮者は守長一族がじきじきにイスウエンに連れてくることが多い。それが、たったふたりの僧侶、しかも一人は子どもと、女の従者が一人。浮者に強い後ろ盾がないように見えたのだ。そこで、浮者を従者たちとを早々に切り離して、代わりに自分たちが浮者の世話役になれば、浮者からの恩恵を多く受け取ることができると踏んだのだろうということだ。
ムラークくんが眉間にしわを寄せた。
「なんと自分勝手な……。そのような者が門の責任者なのですか?」
「イスウエンの経済は浮者で成り立っているのよ。この町に暮らすハナムン人は、誰もが浮者と仲良くなりたいの。目の前にハナムンに来たばかりの世間知らずの浮者がいたら、砂糖水を前にした蟻のようにみんなが群がるわ。この町では、浮者に恩を売れば、三代遊んで暮らせるといわれているの」
わたしは言葉を失ってしまった。
浮者が優遇されているとは聞いていたけど、それをとりまく町やそこに暮らすハナムンの人たちへの影響は、思った以上に大きいようだ。
カーツさんがなるほどとつぶやいた。
「正直、ローワン様ではなくマッカリが同行すると聞いたときには理解できなかったが、こうしてみればあなたの存在が必要であったのだな。わたしはあの門番の態度をどのように諫めるべきか測りかねていた。美波浮者はきっとお叱りにならなかったであろうし、これから町へ入ろうとするのに下手なことをいって妨害されでもしたら、美波浮者のお体にも障る。これからもよろしく頼む、マッカリ」
「はい、この町のハナムン人の考えなら、腹心読破の術がなくても簡単にわかりますわ。お任せください」
マッカリやカーツさんがわたし以上にわたしのことを考えていてくれることに感謝がわく。
でも、同時に、いいようのない不安が迫ってきた。
聞いてわかっていたつもりのことよりも、実際に目の前で繰り広げられたことが、ずっと度が過ぎている。
これが、イスウエンの当たり前なのだとしたら、トラントランの暮らしやハナムンの人たちの態度が違いすぎて、ひどく混乱しそうだ。
「美波浮者、どうされました?」
マッカリの声に顔を上げたことで、わたしはうつむいていたことに気がついた。
……もうトラントランに帰りたくなっちゃった。
こんな調子で、お城へ行ってもうまくやれるのだろうか……。
イスウエンの浮者をハインリヒさんしか知らないので、なんともいえない……。
本心はいわずに、なんでもないと答えた。
小一時間が過ぎたころだろうか。
豪華な部屋のつくりや調度品にもすっかり目が慣れてしまって退屈し始めていたころだ。
戸の向こうから声が聞こえた。
「失礼いたします。お迎えの方がお見えでございます」
「どうぞ」
マッカリが答えると、戸口から背の高い男性が入ってきた。
男性はまるで高貴な婦人がするかのような薄いベールをかぶっていた。
それでも、わたしたちにはすぐわかった。
「ハインリヒさん!」
「Frau(フラウ)沢渡、Dr(ドクトル)大倉、よく来たな!」
ハインリヒさんは部屋に入るなり素早くベールを外した。
ハインリヒさんはカーツさんとムラークくんを認めると、にこっと明るいまなざしを向けた。
「ハインリヒさんが来てくれるなんて思わなかったです!」
「わたしは町奉行務めだからな。あなたたちが来たら必ずわたしが迎えに出られるように準備していたのだ」
「そうだったんですか、ありがとうございます!」
知った顔に出会えて、わたしは心底ほっとしていた。
ハインリヒさんの元気そうな姿も、うれしかった。
「今日はカーツさんと、ムラークくんと一緒に来ました。ムラークくんは星座盤を届けに。あ、マッカリは初めてでしたよね?」
紹介しようとすると、ハインリヒさんは首をふった。
「いや、以前に一度会っているが、流が別人のように変わっているな」
マッカリは丁寧にお辞儀して見せた。
「以前はムネ町の守長の娘としてお目にかかりましたが、今はトラントランでお世話になりながら、美波浮者のお側仕えを努めさせていただいております。あらためまして、マッカリと申します。お見知りおきください」
「ムネ町の守長か……。話は聞いている。まあ、以前の触りよりずっと人当たりがよさそうだ。Frau沢渡によく仕えることだ」
「はい、お言葉ありがたく頂戴いたします」
ムラークくんが包みを持ってハインリヒさんの前に進み出た。
「ムラーク」
「これが、お約束の星座盤です。どうぞお検め下さい」
布の端をほどいて包みを開けると、きれいな円盤に金の端止めがついた美しい星座盤が現れた。
正中星を中心に無数の星が細かく点打たれている中に、ひとつだけ白い星がある。
そこには文字は入っていない。
ハインリヒさんは文字を読むのが得意ではないからだ。
「おお……! なんと細かい丁寧なつくりだ。君もMeister(マイスター)なのだな。この白い星が地球だな。ああ、これを楽しみにしていたのだ!」
「喜んでいただけて光栄です」
ハインリヒさんとムラークくんは互いに嬉しそうに笑っている。
マッカリは聞きなれないドイツ語に首をかしげながら聞いている。
カーツさんはじっとハインリヒさんを見つめている。その視線にはやはり、尊敬の念が醸されていた。
「時にFrau沢渡、もうここに部屋をとったのか? この店は城から少し遠いし、わたしの屋敷に移ってはどうだ?」
「え、いいんですか? 実は、わたしには町のことが全然わからなくて。すべてマッカリ頼りだったんです」
「遠慮するな。もちろん三人も一緒に来るといい。まあ、旗本のわたしの家など、大したものではないがな」
「それじゃあ、ありがたくそうさせていただきます」
「Wrust (ソーセージ)もたくさん仕込んでおいたぞ」
「うわあ! 楽しみです!」
揃って茶屋を出ると、ハインリヒさんは顔にベールを撒いた。
「ん、これか? 正直言うとな、わたしはあまり町が得意ではないのだ。遠くからでもわたしが浮者だと一目でわかってしまうのでな」
「そうだったんですね」
「でも、今日はこれをしているから、どこへでも案内してやれるぞ。なにが見たい? どこか行きたい所があるか?」
「え……、えっと……、イスウエンには、なにがあるのでしょうか……」
「ははは、そうか、そこからだったな」
今日のハインリヒさんには、トラントランに来たときのようなむつかしさはみじんもない。
やっぱり、自分の暮らしやすいところにいられるのは安心感が違うのだろう。
突然、マッカリが首を垂れて輪をつくるように手を前に差し出した。
「お許しください」
「うん、なんだ?」
どうやら、イスウエンではまず発言を許してもらわなけれは、浮者に話ができないらしい。
さすがは守長の娘をやってきたマッカリだ。
「ハインリヒ浮者もご存じであらせられるとおり、美波浮者は大変お体が繊細でございます。浮者御自ら町を案内していただけるのはまとこもったいないことではございますが、できることならば、日の高い時間を避けて、夕暮れや朝方など涼しい時間になさっていただけると、美波浮者にご負担が少ないかと存じます」
「そうだったのか、Frau沢渡」
「ええ、まあ自慢ではないですけど、体力には自信がありません」
「それなら、そのようにするとしよう。まずはわたしの屋敷でゆっくり過ごすといい」
ハインリヒさんがトラントランに滞在した間、わたしは気を失ったり寝込んだりしたことはなかったけれど、これからのことを考えると、さきにわたしの虚弱さを伝えておいた方がいいだろう。
まったく、マッカリの頭のよさや如才ない所作には本当に助けられる。
旗本の家など大したことはないといっていたけれど、ハインリヒさんの屋敷は、時代劇で見るような立派な武家屋敷みたいだった。
松や梅の木などの日本らしい木々と、枯山水風に整えられた庭。丁寧に磨かれた檜の床や、一本物の柱、板張りの部屋だけでなく、畳の部屋もあった。
「わあ、畳だあ……!」
「わたしもたまに使うが、夏場は特に畳敷きの部屋は涼しくて心地が良い。Frau沢渡にも畳の部屋を用意しよう」
「わあ、うれしいです! ハナムンにきて初めての畳です」
大将軍が日本人だということもあってか、イスウエンの浮者たちの暮らしぶりは、かなり日本寄りなのかもしれない。
すだれや風鈴、金魚鉢まである。
うわあ、ここがハナムンだということを忘れてしまいそうだよ……。
これで浴衣があったら、もう完全に日本の夏だよ。
蚊取り線香や花火や出店の焼きそばがあってももう驚かないかも。
わたしとマッカリは隣通しの部屋に案内された。
マッカリはあまり畳で過ごしたことがないらしく、確かに涼しいですわね、といいながら荷ほどきをしている。
わたしはだらしないと見咎められるのを承知で、畳でゴロゴロした。
だって、この匂いもひさびさなんだもん。
本当に、日本にいるみたい。
わたしのアパートはフローリングだったから、畳はそれほど日常ではなかったものの、やっぱりDNAに日本人の歴史がしみこんでいるのだろう。
「美波浮者、ハインリヒ浮者からお茶のお誘いがございましたが、どうされますか?」
ムラークくんがやってきたので、慌てて居住まいを正して髪を整えたけど、ムラークくんにはわたしがゴロゴロしていたのがばれていたみたいだった。
「うん、伺いますって伝えてくれる?」
「わかりました」
マッカリがまったくもう、といいながらため息をついていた。
仕度を整えて向かうと、応接室らしいその部屋の板の間には赤い絨毯が敷かれ、艶のあるテーブルセットがあり真っ白なクロスがかけられていた。ソファやクッション、カーテンや壁掛け、キャビネットやランプなどの調度品もどこか西洋風な物が多く、テーブルの上にはろうそくというよりも、キャンドルが置かれていた。
「さあ、どうぞかけてくれ」
「この部屋の設えは西洋風なんですね」
「日本式の完結された暮らしぶりも悪くないのだが、やはり、慣れた生活様式が恋しくてな。時間を費やしながらそれらしいものをつくらせてみてはいるのだが、いかんせん手仕事人が見たことのないものをつくらせるのは、なかなか難しいのだ」
男性の使用人がお茶を運んできた。
作らせたというポット、カップ、ソーサーは見事な焼き物だった。
職人仕事に目利きをもつハインリヒさんがつくらせたというだけあって、中世ヨーロッパの優美な雰囲気がたっぷりある。
そういえば、陶器で有名なマイセンって、ドイツのブランドだったよね。
一緒に差し出されたお菓子。
あ、これってバームクーヘン?
「食べ物に関してわたしはあまりいろいろいわないのだが、まあ、これも、なんどかハナムン人のKoch(コック)に作らせて、ようやくそれらしい味になったものだ」
「このバームクーヘン、おいしいです!」
「それはよかった」
うわあ~……、本当にこんなお茶を堪能できるなんて、思ってもみなかったよ……。
素敵なティーセットに、いい香りのお茶、おいしいお菓子。
ここも和と洋が入り混じった高級モダンカフェって思えばそんな感じにも見えてくるし……。
ふわあ~、最高~……。
「ははは、Frau沢渡の考えていることが全部顔に書いてあるぞ」
「えっ、そうでしたか? すみません、おもてなしが素晴らしすぎて、心の防御力がゼロっていうか、顔面ノーガードになっちゃいました……。この紅茶、アッサムに似てますね。こちらのポットの中ってミルクですか?」
「ああ。あとその壺には砂糖が入っている。寺ではなかなか甘味も食せないだろう。好きなだけ使うといい」
「ん~、ミルクティーとバームクーヘンすごく合う~っ!」
ふわああ、こりゃ、だめだわ……。
こんな暮らしが浮者というだけで無条件に与えられるのなら、誰だってイスウエンに残りたいよ。
紅茶だって、一年ぶりに飲んだよ、こんなにおいしかったんだね、紅茶……。
「あのう、ハインリヒさん、紅茶って高いですか? お土産に買って帰りたいんですけど」
「イスウエンで暮すなら入手にさほど苦労はしないが、緑茶よりもはるかに生産量が少ない。薬草茶や烏龍茶のほうがハナムンでは親しまれている分、価格も安い。それから、Kaffee(コーヒー)は豆がないらしく、わたしはまだ一度もお目にかかったことがない」
「そうなんですか……。やっぱり嗜好品は貴重なんですね」
「Frau沢渡はやはり、トラントランに戻る気持ちに変わりはないのだな」
わたしはカップの中のなめらかな色合いを見つめて答えた。
「正直、このお屋敷のような暮らしができるなら、と思うとちょっと心が揺れます。
お寺は修行の場ですから、贅沢なことはできないですし、嗜好品のようなものも限られていますから。
でも、それだけじゃ……。
ここにはわたしたちに必要なものがあるのかどうかまだわかりませんし」
「城の中枢にはふたりがイスウエンに来たことを知らせてある。近い内に、担当の者と面会が許されるだろう。そこで、知りたいことを知れるし、聞きたいことを聞けるはずだ」
「ありがとうございます。そういえば、ハインリヒさんは町奉行勤めになったんですね」
「ああ、上層部に報告した後、あなたたちのことをいろいろ聞かれたが、トラントランになにか処罰が下るという話は聞いていないし、わたしにもなんら咎めはなかった」
「それはよかったです」
ハインリヒさんは口に含んだ紅茶を飲みこんで、カップを静かに置いた。
「寺社奉行の何人かが、Dr大倉の浮の具現化には強い興味を持っていたな。そもそも、左手だけの浮者というのがめずらしすぎる」
「やっぱり、体の一部だけがハナムンに来てしまうことって、普通にあることではないんですね」
「ああ。だが、それをいうなら、あなたほど浮の弱い浮者も珍しい。浮者自体女性が少ないので、少なからず興味を持つ者もいた」
「女性の浮者って少ないんですか?」
「ああ、イスウエンで屋敷を持っている女性は五名だけだ」
「五名……。確かに少ないですね。ちなみに、今トラントランにいる浮者の数ってどのくらいなんですか?」
「今日あなたたちが町に入ってちょうど五十人だ。出て行ったものがいなければだが」
ということは、女性はたったの十分の一……。
てことは、イスウエンって、超男性社会……?
……なにそれ、暮らしにくそう。
あれ、もしかして、男性のほうが長生きっていうこと?
「いや、そうではない。もともと浮者としてハナムンへ降り立つ者が男性ばかりだということだ。浮の力やその術には男女差はさほどないようだが、これもハナムン流に言えば、自然の摂理ということだろう」
「そうなんですね……、浮者のこと、トラントランでわかる限りのことは教えてもらってはいたんですけど、知らないことが多そうです……」
「わたしはすっかり慣れてしまったが、あなたにはすぐにはなじめないことも多いだろう。ゆっくり知っていくといい。ここにはいつまで滞在してくれても構わない。使用人たちも自由に使ってくれ」
「ありがとうございます。でも、身の回りのことは、マッカリやカーツさん、ムラークくんの力を借りれば大丈夫ですし、いざとなったらすぐエレベーターでトラントランに帰れますので」
「そうだったな。あの乗り物は便利だ。そうか、わたしの浮を追ってイスウエンに来たのだな」
「それが、実は」
ここ数か月の間にわたしにもつぼみを使った浮術が使えるようになったことをかいつまんで話した。
「ほう、光の地図か。イスウエンでも、転移転送の浮術を使うものはいるが、そのような浮具と組み合わせて使うものはいないと思う。寺社奉行が食いつきそうな話だ」
「といっても、わたしはどうやら夢を見ているあいだしか浮を感じられないみたいで、実際にエレベーターに乗っていても、わたしには浮を使っているという実感が全然ないんです。つぼみもユーファオーの樹から託されたみたい感じで、ハナムン人に渡してほしいみたいな雰囲気なんです。だから、もしどうやっているのかと聞かれても、旬さんがうまくやってくれているのは確かなんですが、わたしにはさっぱりわからないっていうか」
ハインリヒさんがわたしの肩にとまっている旬さんを見つめた。
突然、ハインリヒさんがくすっと笑った。
「どうしたんですか?」
「いや、今Dr大倉に、早く肉を美波に食べさせろと催促された。寺の粗食では美波がやせ細る一方だと」
「ちょ、ちょっと旬さんてば……」
「いやいや、構わない。Frau沢渡はDr大倉に愛されているのだな」
な、なにをいいだすんですか……!
わたしの頬はかあ~っと熱くなった。
「旬さん、勝手にハインリヒさんとお話ししないでよ、しかも、そんな話!」
「Dr大倉の心配はわからないでもない。……ん? もう黙る? あんまりしゃべると美波が嫉妬するから?」
「ちょっと、旬さん!」
ハインリヒさんも、なんでそういうこと口に出しちゃうかなあ!
わたしは思わず立ち上がって、旬さんの左手もめちゃくちゃに揉んだ。
わたしはただでさえ暑いのに、全身から汗が噴き出そうだった。
マッカリはほほほと口に手を当てて笑っていたけど、カーツさんはそっぽを向き、ムラークくんは袖で顔を隠していた。
もおおおおっ……!
「ハインリヒさんも、か、からかわないでください!」
「なにをそんなに恥ずかしがるんだ? 恋人同士なら普通のことだと思うが」
「そういうことは、恋人同士だけで確認しあえばいいと思う! です……!」
「日本人はときどきやけに照れ屋になるな。まあ、落ち着きなさい……」
「は、はい……」
そのあと飲んだミルクティーはよく味がわからなくなってしまった。
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