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シリーズ4 ~ウンメイノカケチガイ~
Story-4 二つの恋の終わり
しおりを挟むその後、サラの不調を心配したハリーやケインが訪ねてきたが、サラは一週間ほどほとんど部屋を出ようとしなかった。
「モリス、いったい何があったのだ?」
「それは…」
サラの初恋が終わったことについては、モリスの口から話せることではなかった。
以前のモリスならばハリーに報告していただろうが、モリス自身、サラに気持ちを深く入れすぎていた。
「おそらく、ドレイク皇太子のことでショックを受けているのかと」
「そうか、それほどまでに…」
モリスの嘘とも本当ともつかない説明を、ハリーはただ神妙に聞いた。
サラが平静を取り戻してから、モリスはサラとシーラを前に尋ねた。
「狩猟大会も終わったことだし、そろそろハリー様に記憶喪失が狂言だったと話してもいいと思うのだが、どうだろう」
しかし、サラは首を縦には降らなかった。
「どうしてだ、サラ」
「そのほうが、今の私にとっては楽なの。
ごめんね、モリス。
あなたにとっては苦労だと思うけど…」
しおらしく言われたのでは、モリスは二の句が継げなかった。
結局、モリスはサラを守るために、忠誠を誓ったはずの主人に嘘をつき続けることとなり、その嘘は微力ながらじわじわとモリスの心を侵食する。
サラは今、シーラと同じくらいにモリスにも信用を預けている。
今回の一件でその思いを強くした。
モリスもそれがわかっているから、正直にいえばこの関係を崩したくはないと思い始めている。
ドレイクが初恋の相手ではなくなった今、モリスにとって最大のライバルはハリーに他ならない。
主人でありながら恋敵であるハリーに、差を開けた今の状況なら、サラの心に入り込めるかもしれない。
そのいっぽうで、この不公平なやり方に良心をとがめられないわけでもない。
そのジレンマが、募る思いはあるのにモリスを恋を停滞させている要因だった。
それゆえに、狂言だったことを公開したいのはモリスのほうであったのに、今度はサラがそれを承知しないということになってしまいモリスはより心穏やかではない立場に立たされている。
そんなある日、モリスとケインは宮廷内で雑談していた時のことである。
「そうだ、これは言うべきかどうか迷ったんだけど」
「なんですか?」
ケインは眼鏡を押し上げて、声を低くした。
「ようやくわかったんだ。
モリスは信じないかもしれないが、僕の見立てでは、あの流れ者カインの正体は、レイン皇太子だよ」
「えっ!」
「驚くのも無理はないと思うけど、確かだと思う。
初めてレイン皇太子を見たとき、既視感のようなものがあった。
ずっと誰だったのか思い出せないでいたけど、ドレイク皇太子を見てだんだん確信になっていった。
ふたりとも同じ目の色をしているが、微妙に違うんだ。
帰国する前に確かめる手もあっただろうけど、僕も君も忙しかったし…。
僕がもう少し早く気がついていればよかったのだけど。
まあ、どっちにしても、ああして身を隠して町へ出ているのだから、むやみに明らかにしても…」
モリスはケインの鑑定眼たる観察力に舌を巻いた。
モリスは今は思っても無駄なことだが、このことをもっと早くケインから聞いていればと思った。
そうすれば、あれほどサラの乙女心がむげに傷つけられることにはならなかったかもしれない。
「ケインさん、あなたって、本当にすごい鑑定士ですね」
「いやあ、褒めても何も出ないよ。
それより、サラのことだけどね、彼女本当に記憶は回復してないのかい?
なんだか、以前のような子どもっぽさが薄れてきたような気がするんだ。
僕は以前サラと汽車の中でずっと語り合ってきたからね。
今の彼女には、その時に似た憂いがある」
「……」
モリスはじっとケインの眼鏡の奥を見つめた。
ケインは不思議そうに見つめ返してきたが、モリスはそろそろ覚悟を決めるしかなかった。
サラとシーラの秘密は、そう長く隠し続けられることではないらしい。
・・・・・・・
ドレイク一行が帰国し、サラに思うように会えないハリーは、仕事に精を出すしかなかった。
ジニエル国王の仕事はタハルのおかげで大分軽減され、ハリーに回ってくる公務も以前に比べれば少ない。
それでも、サラを追ってザルマータへ行っていた間にたまっていた仕事や、新たな仕事もあって、ハリーは暇を持て余すというようなことにはならなかった。
宮廷議会は、狩猟大会が無事に行われ、ドレイク皇太子への提言も外交問題を起算することなく終えられたことで、ハリーの評価は高まっていた。
そして、目下注目が続くのが、ハリーのお妃候補の話であった。
ジニエル国王に子が望めないであろうことは、暗黙の共通認識となりつつあり、そうとなれば、ハリーに世継ぎを持ってもらうしか方がない。
「それで、ロイス嬢とのデートはどうだったのです?」
何人かの臣下に同じことを質問されて、ハリーはようやく重い腰を上げた。
ロイスが用立てている店に新しいドレスを届けさせ、海岸沿いの別邸にロイスの好きな紫の貴婦人をふんだんに飾り、
当日はロイスを馬車で迎えに行った。
ロイスは新しいドレスを美しく着こなし、頬を染めていた。
「もう、お忘れになってしまわれたのかと思っておりました」
「まさか。
だが、許してくれ、ロイス。
金貨百枚にふさわしいデートを考えるのに時間が必要だったのだ」
ロイスは紫の薔薇に包まれた別邸に、歓声を上げた。
ロイスはハリーと屋敷から海を臨み、手の込んだランチを食べ、そして食後はゆっくりと海岸を散歩した。
「夢を見ているようです。
足元が、ふわふわとしておぼつきませんわ」
ハリーの腕に手を絡め、ロイスはうっとりといった。
散歩から帰ると、ハリーはロイスをダンスに誘った。
そのとき、ハリーは奥から箱を持ってきて、ロイスに差し出した。
「開けてみて」
中はドレスにぴったりの真珠のようなうつくしい靴だった。
ハリーはロイスの前にひざまづき、ロイスの足を取ってその靴をはかせた。
ロイスの顔が火のように真赤になったのは言うまでもない。
音楽が流れだすと、ハリーの手は優しくロイスの手を包み、ゆったりとしたステップは、ロイスを夢の世界へ連れて行った。
いつまでも、こうしていたい。
ロイスはただただ、ひたすらにそうかんじていた。
「ロイス」
「はい…」
ハリーはうっとりと見つめ返すロイスの視線をふっとよけた。
そして、ロイスはその瞬間に夢が終わるのを悟った。
「君が俺の幼馴染としてそばにいてくれたことは、俺にとって本当に素晴らしいことだった。
だけど、君がもつ花のような時を、俺のような望みのない者のために使ってほしくはない。
君にはどうか幸せになってほしいと心から思う」
その瞬間、体から力が抜けバランスを失ったロイスを、ハリーは素早く支えた。
「ロイス…」
ロイスの目からはダイヤのように輝く大粒の涙がこぼれた。
「…わ、わかっておりましたのに…。
どうして、わたくしは期待などしてしまったのでしょう…」
「ロイス、すまない…」
長年つきあってきたロイスの泣き顔は、ハリーにも辛かった。
ハリーは腕の中で、ロイスが泣き止むをひたすらに待った。
それしか今のハリーにできることはなかった。
「ハリー様…」
ようやく泣き止みかけたロイスはハリーを見上げ、ハリーに最後の願いを口にした。
「お別れのキスを…」
ハリーがロイスの顎に手を添えると、ロイスは涙に濡れた瞳を閉じた。
ハリーは、そっと、頬にキスをした。
ロイスは悲しさの漂う声で、キスのあった頬をなでた。
「結局、ハリー様は一度も唇にはキスしてくださいませんでしたね…」
ハリーはロイスの涙を拭いて、優しく語りかけた。
「これから現れる君の大切な人のために」
ロイスはその言葉で、再び頬を濡らした。
ロイスの長い片思いはようやく幕を閉じたのだった。
・・・・・・
ロイスと別れてからの数日、罪悪感のような痛みを感じないハリーではなかったが、それでもサラに会いたい気持ちのほうが強かった。
サラはというと、随分おとなしくなって、というよりも大人っぽくなったように見えた。
その日、ハリーの誘いに乗って一緒に庭を散歩する間、サラの横顔ははっとするほど憂いを秘め、そして目には確かに言葉にならないものが宿っていた。
常に同伴のシーラもにどこか大人びたような、艶っぽいところが出るようになった。
二人になにかがあったのは疑いようのないのはハリーにも分かった。
その一方で、モリスは相変わらずわからないの一点張りだ。
モリスの様子から見てわからないのではなく、おそらくサラやシーラのためを思って言わないというのが本当のように思えた。
モリスの忠誠を疑うわけではないが、かといってここまでの明らかな変化を報告しないのは、多少なりともモリスの思いに変化があったと考えるには遠くおよばなかった。
「元気がないね、サラ」
「ええ…少し」
「ドレイク殿が帰ってしまったことがそんなにさみしいかい」
「う…ん…、そう…。でも、それはもういいんです」
「ねえ、サラ」
ハリーとサラは腕を組み、同じ方向を向いたまま話した。
「たとえ、君がどんなことで、いつどこで悩んでいようと、私はきっと君の助けになるつもりだよ。
私にできることなら、なんでもする。
サラが胸の内を話してくれたら、いつだって、そうする準備ができているよ」
サラはハリーを横にみあげた。
「ハリー様ってお父様みたいね」
「それは光栄だな」
「お父様もわたしとシーラが困っているときにそういうふうに言ってくれるの」
「サラは今困ってるの?」
「そう、困ってるの…」
ハリーはうつむき加減のサラを見つめた。
「あのね…。
とっても親切にしてくれる人たちがいるの。
わたしは、その人たちに言わなきゃいけないことがあるんだけど…。
だけど、今は言えそうにないの」
ふたりは立ち止まった。
「言わないでいることがとても申し訳ないの。
きっと話したらびっくりして、きっとすごく怒られるわ。
だけど、今は言いたくないの。
心が辛くて、話せる気分になれないの」
「そう…」
ハリーにはサラは何かを思い出しているのかもしれない、そう思えた。
だとすれば、サラにとってつらいことが思い当たりすぎて、簡単な相槌を打つことしかできない。
「いい人をだますって、本当に嫌な気分。
許してもらえないかもしれないと思うと、とても憂鬱なの。
もう少しだけ、元気になれるまで待ってもらえるといいんだけど」
サラは小さくため息をついた。
ハリーはサラの肩に手をやって、向き合った。
そして、ハリーはサラの前で手を広げて見せた。
「おいで、サラ」
ハリーの光に満ちた瞳と、晴れやかな頬や唇は、サラに父親の姿を思い出させた。
どうしてハリーはこんなにも父を感じさせるのだろう。
サラはおずおずとハリーの腕の中に入った。
するとハリーは、ぎゅっとサラを抱きしめた。
また、あの淡く優しげな心地のいい香りがする。
「元気になるように、私のパワーを君にあげよう」
ハリーの胸に体を預け、背中や髪にふれられると、いいようのない安堵に包まれた。
ただ抱きしめられているだけなのに、本当に力がめぐってくるような、温かいものが胸に満ちるのが分かった。
サラもハリーの背中に腕を回した。
そのぬくもりや、鼓動がただ心地よくて、サラは何も言わずにずっとハリーと抱き合っていた。
あまりにその時間が長かったのか、シーラが周りの目を気にして声をかけた。
すると、ハリーは腕を緩めて、その中にいるサラにほほ笑んだ。
「少しは元気が出た?」
「はい」
サラはハリーの腕の中で温められ、頬は少し上気して、そして瞳には輝きが戻っていた。
「わたし、心のエネルギーが切れていたみたい。
ハリー様にパワーをもらったら、すごく元気になりました」
「私でよければ、いつでも力になるよ」
「ありがとうございます、ハリー様。
ハリー様って、太陽みたい」
「そうかい?」
ハリーとサラは微笑みあって、ゆっくり散歩の続きを楽しんだ。
・・・・・・
その日からサラは目に見えて元気を取り戻し、以前のように活発になった。
ハリーとサラになにがあったかをシーラから聞いたモリスは、シーラとともに自分たちの力のなさとやきもちとでしばらくもやもやとしたが、それでもサラが元気になってくれたことは素直にうれしかった。
それからサラは山河の会にハリーとともに参加し、また一方では、シーラを姉妹にするための方法についてベンジーから学んでいる。
このところ、サラとハリーの距離は目覚ましく縮まった。
サラはハリーと父を重ねて、みずからハリーの胸に飛び込んでいくことも多い。
この様子は宮廷や若き貴婦人たちの目にも自然と映るようになり、ハリーの妃候補はもはやサラだと暗黙の了解が触れ渡った。
記憶喪失の狂言のことをいつ話すかは、いつでもいい、とサラはモリスにつげた。
だが、状況の変化にゆれたのはモリスの方だった。
今はもう狂言を隠しておく必要がないのに、モリスはハリーを前にするとそのことを口にできなかった。
この秘密を明かさないのは、記憶のあるサラのことを自分だけのものにしておきたいという独占欲の現れだということはモリスにもわかっていた。
しかも、このところサラはすっかりハリーに気を許している。
これまでは、モリスだけに強い信頼をあずけてくれたのに。
サラはザルマータを発つ直前のマハリクマリックで、はじめから、モリスだけが欲しかったとはっきり口にしていた。
そのときの気持ちはきっと今も変わらないだろう。
だが、自分が敬愛してやまないハリーが同じ土表に立つべき素養の全てを兼ね備えたハリーがそこに立とうというとき、モリスははっきりと嫉妬を感じるのだった。
「すっかり差を引き離されたね」
収穫祭の夜会で、遠巻きにハリーとサラを見つめるモリスに、ケインとベンジーがやってきた。
ケインは相変わらず思慮深い瞳を眼鏡の奥に秘めている。
ベンジーは姉と妹と適切な距離を保つようになっていた。
「そうですね…。
ハリー様がサラの気持ちをつかむのにここまで時間がかからないとは思っていなかった…。
いや、多分、思っていましたね…」
「君も複雑な立場だね」
「はあ…」
ベンジーはハリーとおどるサラを見つめる。
「僕はとてもお似合いだと思います。
今では、サラもシーラも裏表のないいい子たちだって僕にも分かりますから」
「…そうだな」
「でも、サラに記憶が戻らないというのは、実際まずいのではないですか?
ハリー様と結婚するにしても、両親が出席しないことにさすがのサラもおかしいと気付くでしょう」
「まあな…」
モリスはベンジーの言葉にあまり触れないように短く答えた。
それに対してケインは声を低くし、ベンジーもそれに合わせた。
「その点だけど、僕はサラの記憶は戻りつつあると感じるんだ」
「え?
本当ですか?」
「ああ。
なにか、サラには決意のようなものを感じる。
ああして笑っているところを見ると、ほんとうに子どものように無邪気だけどね。
でも、サラと初めて会ったとき、僕は汽車の切符と王家の紋章が入った鏡を取引に持ち掛けられた。
そのとき、サラは何かに賭けている。
そういう目をしていた」
「賭けている?」
「ああ。
それはあとで、マハリクマリックというサラとシーラの信念にも似た
遊びだと分かったけれど、サラとシーラは単なる遊びだと思っていない。
彼女たちは本当にマハリクマリックでほしいものを手に入れるつもりでいるんだよ。
彼女たちには出会ったころからずっとそういうものがある」
「へえ~、ケインさん、すごい観察力ですね。
僕には全然わからなかった」
ベンジーはうなづいた。
「モリス、君はどう思う?
一番そばにいるのは君だろう」
「ああ、そうですね…。
私にはちょっとわかりませんが…」
すると。ケインはベンジーに空のグラスを渡して、お代わりを持ってきてくれるように頼んだ。
ベンジーが快く引き受けて去ったところで、ケインはモリスを見つめた。
「モリス、君がどうして本当のことを言わないのか、僕にはわかっているつもりだよ」
「……」
「僕も、君と同じ立場だったら、なにか秘密を握っていたとして、それを恋敵にやすやすと明かせるとは思わない」
「ケインさん…」
「だけど、君ともあろう人が、まさかそれにハリー様が気づいていないとでも本気で思っているわけではあるまい?」
モリスは口をつぐんで下を向いた。
「モリス、別に君を責めているわけではない。
だけど、僕はそろそろつぎに進みたいと思っているんだ」
「…次?」
「つまり、サラに振られたその次だよ」
「ケインさん…」
ケインは眼鏡を押し戻して苦笑を浮かべた。
「サラが記憶を取り戻したら僕にも分があると思っていたから、逆に悠長に構えてしまったけど、それは違ったね。
ハリー様に心を開いたサラの顔を見ていたら、きっと記憶が戻っていたとしても、僕ではかなわない。
だけど、僕はきちんと思いを伝えてこの恋を終わらせたいんだ。
親からもそろそろ落ち着くように匂わされているしね」
そこでちょうどベンジーが新しいグラスを持って戻ってきた。
「もう一度乾杯しましょうよ、収穫祭に!」
ベンジーの陽気な掛け声で、三つのグラスが掲げられた。
・・・・・・
「さあ、そろそろかな」
曲の切れ間、飲み終わったグラスとしずくとりに使ったハンカチをベンジーに預けると、ケインはホールに進み出た。
「ハリー殿下、どうかサラ嬢を僕に譲っていただけませんか」
「やあ、ケイン」
ハリーはにこやかに場所を譲った。
サラはケインに腰をかがめて微笑んだ。
「サラ様、どうぞお手を」
「ええ」
すぐそばではシーラがほほえましくそれを眺めている。
シーラをダンスに誘う男性も幾人かはいたが、シーラが決して踊ることはなかった。
そんなシーラのことを表立って悪く言うものはもういなかったが、それでもシーラはかたくなにその姿勢を守った。
おそらく、それがサラのためになると信じたからであろう。
ケインとのダンスは軽やかに、そして楽しい音楽に合わせて小気味よかった。
「ねえ、サラ」
「なあに?」
「僕の告白を聞いてくれるかい?」
「ええ、なにかしら」
「驚かないで、聞いて。
僕はね、君のことが好きだよ」
「えっ?」
サラはステップを間違えて、ケインの足を踏んだ。
「ご、ごめんなさい…」
ケインはくすっと笑った。
「そのまま踊って。
だから驚かないでといったのに」
「だって、急だったから…」
サラはステップを踏みながら、どうしたらいいのかわからず、視線はさまよった。
「そうだよね…」
「うん…」
「僕も君と出会ったとき、本当にびっくりした。
とても予想がつかなくてね、目が離せなかったよ」
「初めて会ったとき…」
サラとケインの見つめあった先に、リベル駅のホームが映っていることを、互いに確信はできない。
でも、今のケインにとってそれすら大切なことではないらしい。
「僕は君のいろんな姿をみて、いろんな気持ちに触れた。
いろんな言葉に触れ、君の心に触れた」
「……」
「僕は君の最後、幸せな結末まで見届けるつもりだったけど、それはほかのだれかに譲ろうと思う。
この曲が終わった後、君の手を誰かに譲るように」
「ケインさん…」
サラは思わず様付けして呼ぶのを忘れていた。
「君は出合ったときから、なにかに賭けている。
君はきっとその賭けに勝つだろう。
そんな気がする。
君が銀の鏡の代わりに僕を手に入れたときのようにね」
曲の終わりが近づいてきた。
「君に会えてよかった。
君を好きになってよかった。
きっと、いつか思い出してほしい。
君の幸せな結末を望む一人の男がいたことを」
ケインはサラの手を取ると、その甲に長い口づけをした。
ケインはその手を引きながら、サラをモリスのもとへ連れてきて、そしてモリスの手にサラを預けた。
「それじゃあ、僕はこの辺で失礼するよ」
ケインは挨拶をするとさっと大広間を退場してしまった。
「ケインさん…!」
サラは慌ててあとを追った。
追って行って、何をどうすることもできないことはわかっていた。
それでも、ケインの告白に対して、サラは最大限の誠意を返さなければいけないと思ったのだ。
「ケインさん、待って…!」
サラがおっていくと、ケインは立ち止まり、振り返った。
「君はやっぱり記憶が戻っているんだね?」
サラは、はっとして口をつぐんだ。
ケインは苦笑した。
その顔はどこか切なく、それでいて吹っ切れたようでもあった。
「あの、お礼を言いたくて…。
ありがとう、ケインさん」
ケインはだだ黙ってうなづいた。
「本当は…!」
サラは一歩前に踏み出したが、その時後ろからハリーとモリス、ベンジーとシーラがやってきたことに気づき、サラは言葉をいったん失った。
そして、サラは思い出していた。
切符と銀の鏡を交換した時のこと、汽車での長話、ザルビアへ一緒に行ったこと、
嘆き悲しむサラを慰めてくれたこと、鑑定助手として一緒に仕事にいったこと…。
サラがシーラ・パンプキンソンと名乗りながら、ただならぬ不安の中ザルビアへ向かう間、
ずっと励まし続けててそばにいてくれたこと、高級なカップだといってくれたこと…。
短い間に、ケインとの思い出はたくさんあった。
それをありがとう一言で、簡単に言い表せるはずがなかった。
本当は、まだ言えていないたくさんの感謝を言いたい。
でも、きっとケインはサラのもとから離れていく決心を固めている。
しかし、サラにはそれが言えない…。
サラは言葉の代わりに、ケインのそばによると、ケインの右手を取った。
サラはケインがしてくれたように、ケインの手の甲に、長い口づけをした。
サラが顔をあげると、ケインは少し照れたように微笑み、
「じゃあね」
と、それだけ言って去っていった。
ケインの後ろ姿が見えなくなるまで見送った後、サラを迎えにシーラが駆け寄った。
「サラ様…」
ハリーとモリスとベンジーのもとに戻ってくると、サラはじっとうらめしそうにモリスを見つめた。
モリスにはサラが暗に言いたいことがわかっていた。
記憶喪失が狂言だったとなぜ打ち明けてくれないのか、ということだった。
その微妙な空気ははっきりとハリーにも感じられた。
「あっ、いけない、ケインさんのハンカチを預かったままでした。
ぼく、ちょっと行ってきます」
ベンジーは思い出し掛けに、ケインの後を走って追っていった。
「ケインさん!」
ベンジーは追いつくと、預かっていたハンカチをケインに手渡した。
「あのー…、なにか秘密めいてましたね」
「秘密?」
「あの、手の甲のキスですよ。
ケインさんもサラも、あんなに長く」
そういうと、ベンジーはおもむろにケインの右手を取った。
「こんなふうに」
ベンジーはケインの手の甲にさっき見たのと同じようにキスをして見せた。
「あっ!」
思わず声をあげたのはケインだった。
「え、あ、すいません、つい」
ベンジーは印象的だったキスをその場でうっかり再現してしまったが、ケインにしてみれば、男性から不用意なキスを手に受けたのはあまり気持ちのいいものではなかっただろう。
しかし、ケインは全く別のことをかんがえていた。
ベンジーがたった今キスしたのは、さっきサラが熱いキスをくれた右手だったのだ。
ケインが後でその右手の甲に自分の唇を重ねることにひそかに喜びと期待をもっていたことを、どうしてベンジーが知れようか。
ベンジーは唐突にケインから不機嫌な視線を投げつけられたが、その真意は分かりようもなかった。
「あ、あの…」
ケインはじっとサラとの間接キスをうけたベンジーの唇を眼鏡の奥からにらみつけた。
ベンジーはいつもは温厚なケインを怒らせてしまい、どうしていいかわからない。
ヘビににらまれたカエルのようにじっと固まってしまった。
そんな二人の様子を少し離れたところから見ているものがいた。
その者には手の甲へのキスの後、二人が長いこと見つめあっているように映ったのだろうのちに、宮廷や貴婦人たちのうわさで、ケインとベンジーにただならぬ関係にあることがささやかれた。
ただ否定すればよかったベンジーと違って、これから妻探しを始めるはずだったケインは、あらぬ風評に悩まされ、妻探しはもっぱら難航したとかしないとかいうことだった。
・・・・・・
中はドレスにぴったりの真珠のようなうつくしい靴だった。
ハリーはロイスの前にひざまづき、ロイスの足を取ってその靴をはかせた。
ロイスの顔が火のように真赤になったのは言うまでもない。
音楽が流れだすと、ハリーの手は優しくロイスの手を包み、ゆったりとしたステップは、ロイスを夢の世界へ連れて行った。
いつまでも、こうしていたい。
ロイスはただただ、ひたすらにそうかんじていた。
「ロイス」
「はい…」
ハリーはうっとりと見つめ返すロイスの視線をふっとよけた。
そして、ロイスはその瞬間に夢が終わるのを悟った。
「君が俺の幼馴染としてそばにいてくれたことは、俺にとって本当に素晴らしいことだった。
だけど、君がもつ花のような時を、俺のような望みのない者のために使ってほしくはない。
君にはどうか幸せになってほしいと心から思う」
その瞬間、体から力が抜けバランスを失ったロイスを、ハリーは素早く支えた。
「ロイス…」
ロイスの目からはダイヤのように輝く大粒の涙がこぼれた。
「…わ、わかっておりましたのに…。
どうして、わたくしは期待などしてしまったのでしょう…」
「ロイス、すまない…」
長年つきあってきたロイスの泣き顔は、ハリーにも辛かった。
ハリーは腕の中で、ロイスが泣き止むをひたすらに待った。
それしか今のハリーにできることはなかった。
「ハリー様…」
ようやく泣き止みかけたロイスはハリーを見上げ、ハリーに最後の願いを口にした。
「お別れのキスを…」
ハリーがロイスの顎に手を添えると、ロイスは涙に濡れた瞳を閉じた。
ハリーは、そっと、頬にキスをした。
ロイスは悲しさの漂う声で、キスのあった頬をなでた。
「結局、ハリー様は一度も唇にはキスしてくださいませんでしたね…」
ハリーはロイスの涙を拭いて、優しく語りかけた。
「これから現れる君の大切な人のために」
ロイスはその言葉で、再び頬を濡らした。
ロイスの長い片思いはようやく幕を閉じたのだった。
・・・・・・
ロイスと別れてからの数日、罪悪感のような痛みを感じないハリーではなかったが、それでもサラに会いたい気持ちのほうが強かった。
サラはというと、随分おとなしくなって、というよりも大人っぽくなったように見えた。
その日、ハリーの誘いに乗って一緒に庭を散歩する間、サラの横顔ははっとするほど憂いを秘め、そして目には確かに言葉にならないものが宿っていた。
常に同伴のシーラもにどこか大人びたような、艶っぽいところが出るようになった。
二人になにかがあったのは疑いようのないのはハリーにも分かった。
その一方で、モリスは相変わらずわからないの一点張りだ。
モリスの様子から見てわからないのではなく、おそらくサラやシーラのためを思って言わないというのが本当のように思えた。
モリスの忠誠を疑うわけではないが、かといってここまでの明らかな変化を報告しないのは、多少なりともモリスの思いに変化があったと考えるには遠くおよばなかった。
「元気がないね、サラ」
「ええ…少し」
「ドレイク殿が帰ってしまったことがそんなにさみしいかい」
「う…ん…、そう…。でも、それはもういいんです」
「ねえ、サラ」
ハリーとサラは腕を組み、同じ方向を向いたまま話した。
「たとえ、君がどんなことで、いつどこで悩んでいようと、私はきっと君の助けになるつもりだよ。
私にできることなら、なんでもする。
サラが胸の内を話してくれたら、いつだって、そうする準備ができているよ」
サラはハリーを横にみあげた。
「ハリー様ってお父様みたいね」
「それは光栄だな」
「お父様もわたしとシーラが困っているときにそういうふうに言ってくれるの」
「サラは今困ってるの?」
「そう、困ってるの…」
ハリーはうつむき加減のサラを見つめた。
「あのね…。
とっても親切にしてくれる人たちがいるの。
わたしは、その人たちに言わなきゃいけないことがあるんだけど…。
だけど、今は言えそうにないの」
ふたりは立ち止まった。
「言わないでいることがとても申し訳ないの。
きっと話したらびっくりして、きっとすごく怒られるわ。
だけど、今は言いたくないの。
心が辛くて、話せる気分になれないの」
「そう…」
ハリーにはサラは何かを思い出しているのかもしれない、そう思えた。
だとすれば、サラにとってつらいことが思い当たりすぎて、簡単な相槌を打つことしかできない。
「いい人をだますって、本当に嫌な気分。
許してもらえないかもしれないと思うと、とても憂鬱なの。
もう少しだけ、元気になれるまで待ってもらえるといいんだけど」
サラは小さくため息をついた。
ハリーはサラの肩に手をやって、向き合った。
そして、ハリーはサラの前で手を広げて見せた。
「おいで、サラ」
ハリーの光に満ちた瞳と、晴れやかな頬や唇は、サラに父親の姿を思い出させた。
どうしてハリーはこんなにも父を感じさせるのだろう。
サラはおずおずとハリーの腕の中に入った。
するとハリーは、ぎゅっとサラを抱きしめた。
また、あの淡く優しげな心地のいい香りがする。
「元気になるように、私のパワーを君にあげよう」
ハリーの胸に体を預け、背中や髪にふれられると、いいようのない安堵に包まれた。
ただ抱きしめられているだけなのに、本当に力がめぐってくるような、温かいものが胸に満ちるのが分かった。
サラもハリーの背中に腕を回した。
そのぬくもりや、鼓動がただ心地よくて、サラは何も言わずにずっとハリーと抱き合っていた。
あまりにその時間が長かったのか、シーラが周りの目を気にして声をかけた。
すると、ハリーは腕を緩めて、その中にいるサラにほほ笑んだ。
「少しは元気が出た?」
「はい」
サラはハリーの腕の中で温められ、頬は少し上気して、そして瞳には輝きが戻っていた。
「わたし、心のエネルギーが切れていたみたい。
ハリー様にパワーをもらったら、すごく元気になりました」
「私でよければ、いつでも力になるよ」
「ありがとうございます、ハリー様。
ハリー様って、太陽みたい」
「そうかい?」
ハリーとサラは微笑みあって、ゆっくり散歩の続きを楽しんだ。
・・・・・・
その日からサラは目に見えて元気を取り戻し、以前のように活発になった。
ハリーとサラになにがあったかをシーラから聞いたモリスは、シーラとともに自分たちの力のなさとやきもちとでしばらくもやもやとしたが、それでもサラが元気になってくれたことは素直にうれしかった。
それからサラは山河の会にハリーとともに参加し、また一方では、シーラを姉妹にするための方法についてベンジーから学んでいる。
このところ、サラとハリーの距離は目覚ましく縮まった。
サラはハリーと父を重ねて、みずからハリーの胸に飛び込んでいくことも多い。
この様子は宮廷や若き貴婦人たちの目にも自然と映るようになり、ハリーの妃候補はもはやサラだと暗黙の了解が触れ渡った。
記憶喪失の狂言のことをいつ話すかは、いつでもいい、とサラはモリスにつげた。
だが、状況の変化にゆれたのはモリスの方だった。
今はもう狂言を隠しておく必要がないのに、モリスはハリーを前にするとそのことを口にできなかった。
この秘密を明かさないのは、記憶のあるサラのことを自分だけのものにしておきたいという独占欲の現れだということはモリスにもわかっていた。
しかも、このところサラはすっかりハリーに気を許している。
これまでは、モリスだけに強い信頼をあずけてくれたのに。
サラはザルマータを発つ直前のマハリクマリックで、はじめから、モリスだけが欲しかったとはっきり口にしていた。
そのときの気持ちはきっと今も変わらないだろう。
だが、自分が敬愛してやまないハリーが同じ土表に立つべき素養の全てを兼ね備えたハリーがそこに立とうというとき、モリスははっきりと嫉妬を感じるのだった。
「すっかり差を引き離されたね」
収穫祭の夜会で、遠巻きにハリーとサラを見つめるモリスに、ケインとベンジーがやってきた。
ケインは相変わらず思慮深い瞳を眼鏡の奥に秘めている。
ベンジーは姉と妹と適切な距離を保つようになっていた。
「そうですね…。
ハリー様がサラの気持ちをつかむのにここまで時間がかからないとは思っていなかった…。
いや、多分、思っていましたね…」
「君も複雑な立場だね」
「はあ…」
ベンジーはハリーとおどるサラを見つめる。
「僕はとてもお似合いだと思います。
今では、サラもシーラも裏表のないいい子たちだって僕にも分かりますから」
「…そうだな」
「でも、サラに記憶が戻らないというのは、実際まずいのではないですか?
ハリー様と結婚するにしても、両親が出席しないことにさすがのサラもおかしいと気付くでしょう」
「まあな…」
モリスはベンジーの言葉にあまり触れないように短く答えた。
それに対してケインは声を低くし、ベンジーもそれに合わせた。
「その点だけど、僕はサラの記憶は戻りつつあると感じるんだ」
「え?
本当ですか?」
「ああ。
なにか、サラには決意のようなものを感じる。
ああして笑っているところを見ると、ほんとうに子どものように無邪気だけどね。
でも、サラと初めて会ったとき、僕は汽車の切符と王家の紋章が入った鏡を取引に持ち掛けられた。
そのとき、サラは何かに賭けている。
そういう目をしていた」
「賭けている?」
「ああ。
それはあとで、マハリクマリックというサラとシーラの信念にも似た
遊びだと分かったけれど、サラとシーラは単なる遊びだと思っていない。
彼女たちは本当にマハリクマリックでほしいものを手に入れるつもりでいるんだよ。
彼女たちには出会ったころからずっとそういうものがある」
「へえ~、ケインさん、すごい観察力ですね。
僕には全然わからなかった」
ベンジーはうなづいた。
「モリス、君はどう思う?
一番そばにいるのは君だろう」
「ああ、そうですね…。
私にはちょっとわかりませんが…」
すると。ケインはベンジーに空のグラスを渡して、お代わりを持ってきてくれるように頼んだ。
ベンジーが快く引き受けて去ったところで、ケインはモリスを見つめた。
「モリス、君がどうして本当のことを言わないのか、僕にはわかっているつもりだよ」
「……」
「僕も、君と同じ立場だったら、なにか秘密を握っていたとして、それを恋敵にやすやすと明かせるとは思わない」
「ケインさん…」
「だけど、君ともあろう人が、まさかそれにハリー様が気づいていないとでも本気で思っているわけではあるまい?」
モリスは口をつぐんで下を向いた。
「モリス、別に君を責めているわけではない。
だけど、僕はそろそろつぎに進みたいと思っているんだ」
「…次?」
「つまり、サラに振られたその次だよ」
「ケインさん…」
ケインは眼鏡を押し戻して苦笑を浮かべた。
「サラが記憶を取り戻したら僕にも分があると思っていたから、逆に悠長に構えてしまったけど、それは違ったね。
ハリー様に心を開いたサラの顔を見ていたら、きっと記憶が戻っていたとしても、僕ではかなわない。
だけど、僕はきちんと思いを伝えてこの恋を終わらせたいんだ。
親からもそろそろ落ち着くように匂わされているしね」
そこでちょうどベンジーが新しいグラスを持って戻ってきた。
「もう一度乾杯しましょうよ、収穫祭に!」
ベンジーの陽気な掛け声で、三つのグラスが掲げられた。
・・・・・・
「さあ、そろそろかな」
曲の切れ間、飲み終わったグラスとしずくとりに使ったハンカチをベンジーに預けると、ケインはホールに進み出た。
「ハリー殿下、どうかサラ嬢を僕に譲っていただけませんか」
「やあ、ケイン」
ハリーはにこやかに場所を譲った。
サラはケインに腰をかがめて微笑んだ。
「サラ様、どうぞお手を」
「ええ」
すぐそばではシーラがほほえましくそれを眺めている。
シーラをダンスに誘う男性も幾人かはいたが、シーラが決して踊ることはなかった。
そんなシーラのことを表立って悪く言うものはもういなかったが、それでもシーラはかたくなにその姿勢を守った。
おそらく、それがサラのためになると信じたからであろう。
ケインとのダンスは軽やかに、そして楽しい音楽に合わせて小気味よかった。
「ねえ、サラ」
「なあに?」
「僕の告白を聞いてくれるかい?」
「ええ、なにかしら」
「驚かないで、聞いて。
僕はね、君のことが好きだよ」
「えっ?」
サラはステップを間違えて、ケインの足を踏んだ。
「ご、ごめんなさい…」
ケインはくすっと笑った。
「そのまま踊って。
だから驚かないでといったのに」
「だって、急だったから…」
サラはステップを踏みながら、どうしたらいいのかわからず、視線はさまよった。
「そうだよね…」
「うん…」
「僕も君と出会ったとき、本当にびっくりした。
とても予想がつかなくてね、目が離せなかったよ」
「初めて会ったとき…」
サラとケインの見つめあった先に、リベル駅のホームが映っていることを、互いに確信はできない。
でも、今のケインにとってそれすら大切なことではないらしい。
「僕は君のいろんな姿をみて、いろんな気持ちに触れた。
いろんな言葉に触れ、君の心に触れた」
「……」
「僕は君の最後、幸せな結末まで見届けるつもりだったけど、それはほかのだれかに譲ろうと思う。
この曲が終わった後、君の手を誰かに譲るように」
「ケインさん…」
サラは思わず様付けして呼ぶのを忘れていた。
「君は出合ったときから、なにかに賭けている。
君はきっとその賭けに勝つだろう。
そんな気がする。
君が銀の鏡の代わりに僕を手に入れたときのようにね」
曲の終わりが近づいてきた。
「君に会えてよかった。
君を好きになってよかった。
きっと、いつか思い出してほしい。
君の幸せな結末を望む一人の男がいたことを」
ケインはサラの手を取ると、その甲に長い口づけをした。
ケインはその手を引きながら、サラをモリスのもとへ連れてきて、そしてモリスの手にサラを預けた。
「それじゃあ、僕はこの辺で失礼するよ」
ケインは挨拶をするとさっと大広間を退場してしまった。
「ケインさん…!」
サラは慌ててあとを追った。
追って行って、何をどうすることもできないことはわかっていた。
それでも、ケインの告白に対して、サラは最大限の誠意を返さなければいけないと思ったのだ。
「ケインさん、待って…!」
サラがおっていくと、ケインは立ち止まり、振り返った。
「君はやっぱり記憶が戻っているんだね?」
サラは、はっとして口をつぐんだ。
ケインは苦笑した。
その顔はどこか切なく、それでいて吹っ切れたようでもあった。
「あの、お礼を言いたくて…。
ありがとう、ケインさん」
ケインはだだ黙ってうなづいた。
「本当は…!」
サラは一歩前に踏み出したが、その時後ろからハリーとモリス、ベンジーとシーラがやってきたことに気づき、サラは言葉をいったん失った。
そして、サラは思い出していた。
切符と銀の鏡を交換した時のこと、汽車での長話、ザルビアへ一緒に行ったこと、
嘆き悲しむサラを慰めてくれたこと、鑑定助手として一緒に仕事にいったこと…。
サラがシーラ・パンプキンソンと名乗りながら、ただならぬ不安の中ザルビアへ向かう間、
ずっと励まし続けててそばにいてくれたこと、高級なカップだといってくれたこと…。
短い間に、ケインとの思い出はたくさんあった。
それをありがとう一言で、簡単に言い表せるはずがなかった。
本当は、まだ言えていないたくさんの感謝を言いたい。
でも、きっとケインはサラのもとから離れていく決心を固めている。
しかし、サラにはそれが言えない…。
サラは言葉の代わりに、ケインのそばによると、ケインの右手を取った。
サラはケインがしてくれたように、ケインの手の甲に、長い口づけをした。
サラが顔をあげると、ケインは少し照れたように微笑み、
「じゃあね」
と、それだけ言って去っていった。
ケインの後ろ姿が見えなくなるまで見送った後、サラを迎えにシーラが駆け寄った。
「サラ様…」
ハリーとモリスとベンジーのもとに戻ってくると、サラはじっとうらめしそうにモリスを見つめた。
モリスにはサラが暗に言いたいことがわかっていた。
記憶喪失が狂言だったとなぜ打ち明けてくれないのか、ということだった。
その微妙な空気ははっきりとハリーにも感じられた。
「あっ、いけない、ケインさんのハンカチを預かったままでした。
ぼく、ちょっと行ってきます」
ベンジーは思い出し掛けに、ケインの後を走って追っていった。
「ケインさん!」
ベンジーは追いつくと、預かっていたハンカチをケインに手渡した。
「あのー…、なにか秘密めいてましたね」
「秘密?」
「あの、手の甲のキスですよ。
ケインさんもサラも、あんなに長く」
そういうと、ベンジーはおもむろにケインの右手を取った。
「こんなふうに」
ベンジーはケインの手の甲にさっき見たのと同じようにキスをして見せた。
「あっ!」
思わず声をあげたのはケインだった。
「え、あ、すいません、つい」
ベンジーは印象的だったキスをその場でうっかり再現してしまったが、ケインにしてみれば、男性から不用意なキスを手に受けたのはあまり気持ちのいいものではなかっただろう。
しかし、ケインは全く別のことをかんがえていた。
ベンジーがたった今キスしたのは、さっきサラが熱いキスをくれた右手だったのだ。
ケインが後でその右手の甲に自分の唇を重ねることにひそかに喜びと期待をもっていたことを、どうしてベンジーが知れようか。
ベンジーは唐突にケインから不機嫌な視線を投げつけられたが、その真意は分かりようもなかった。
「あ、あの…」
ケインはじっとサラとの間接キスをうけたベンジーの唇を眼鏡の奥からにらみつけた。
ベンジーはいつもは温厚なケインを怒らせてしまい、どうしていいかわからない。
ヘビににらまれたカエルのようにじっと固まってしまった。
そんな二人の様子を少し離れたところから見ているものがいた。
その者には手の甲へのキスの後、二人が長いこと見つめあっているように映ったのだろうのちに、宮廷や貴婦人たちのうわさで、ケインとベンジーにただならぬ関係にあることがささやかれた。
ただ否定すればよかったベンジーと違って、これから妻探しを始めるはずだったケインは、あらぬ風評に悩まされ、妻探しはもっぱら難航したとかしないとかいうことだった。
本作を楽しんで頂きありがとうございました! この後はあとがき&シリーズ5のお知らせです!
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