【完】仕合わせの行く先 ~ウンメイノスレチガイ~

国府知里

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シリーズ6 ~ウンメイノスジチガイ~

Story-2 大女優ミランダ(1)

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 サラは一人で自分の部屋に引きこもった。
 誰かに相談したくても、この事実を打ち明けられる相手は限られていた。
 そのうちの四人が四人とも、サラにシーラと距離を置くように勧めている。
 サラは心の中で叫んでいた。
 シーラ、シーラ…!
 二人が姉妹になるどころか他人にならなくてはならないなどということを、どうしてサラひとりで決められるだろう。
 いや、そんなこと、到底受け入れられない。
 サラひとりではどうしていいのかわからなくなっていた。
 時々、アリスやモリスたちが部屋を訪ねてきたが、サラは顔を見ずに追い返した。
 サラが今欲しいのは、サラをなだめる言葉でも説教でもない。
 シーラのことを一緒になって考えてくれる人なのだ。
 サラは手紙の入った箱をひっくり返した。
 ひとつずつ手にとっては、誰ならこのことを聞いてもらえるかと考えた。
 まず手に取ったのは、ロイスだった。
 ロイスなら同じ女性同士悩みを理解して親身になってくれそうな気がした。
 アビゲールのことでも力になってくれたロイス。
 大人しくて優しいし、口も堅そうだ。
 だが、妹のレイスのような性格ならまだしも、ロイスのような保守的な性格では、話は聞いてくれても打開策を一緒になって考えてくれそうには思えなかった。
 つぎに手に取ったのは、ケイン。
 ケインはリベルからシリネラへ向かう汽車の旅の間、シーラのこともいろいろ話をした。
 それに、ことあるごとに親身になって支えてくれた。
 だが、そのケインも結婚して家庭を持ったところだ。
 新婚生活に水を差すのは気が進まない。
 サラは、ハリーの手紙を手に取った。
 これまで父親のような温かさで見守ってくれたハリー。
 正直、一番頼りになりそうなのはハリーだった。
 だが、その一方で一番頼りたくないのもハリーだった。
 ハリーが寄せてくれる想いにサラはまだ答えられる気がしない。
 それなのに、こちらが困っているときばかり頼るのは気が引ける。
 頼ってしまえば、そのまま押し流されてしまう気がする。
 それくらいハリーはサラにとって居心地のいい相手だ。
 だけど、それは恋ではない。
 サラは手紙を脇に置いた。
 残るのは…。

 ・・・・・・

 サラはクローゼットの奥底から、シーラ・パンプキンソンを名乗っていた時に来ていた平民用のワンピースと羊皮の靴を引っ張り出し、それを身に着けた。そして髪を降ろし三つ編みにしてハンカチで頭をすっぽり覆った。その手には手紙と銀貨が握られている。
 そしてサラは部屋をそっと抜け出し、誰にも見つからないように裏口から屋敷を抜け出した。
 サラはその足で、郵便局へ向かった。
「特急で送ってください」
 サラは手紙とお金を窓口に並べた。
「テリーまでの特急便ね」
「最短で届くのはいつですか?」
「二週間というところかしら。雪がなければもう少し早いんだけど」
「そうですか…。わかりました、お願いします」
 サラは郵便局を出た。
 ほうと吐く息の白さ、靴越しに感じる踏み固められた雪道の冷たさに、サラはショールを持って出てくればよかったと思った。
 サラは歩きながら、そのまますぐに屋敷へ戻る気にはなれなかった。
 オーレンなら、こんなときどうするだろう。
 失われた王の座を取り戻すために、サラの悩みよりもはるかに困難な壁に立ち向かっているオーレン。
 実際、オーレンがなにか具体的な策を提示してくれるとは思わない。
 だが、少なくとも励みになるような言葉をくれる気がする。
 サラは運河にかかる橋の欄干から、町と運河とを眺めた。
 サラはまだシリネラの町の多くを知っていない。
 それに雪景色ではいつもの景色もまた違って見える。
 あまり遠くには行かないようにしようと思いながらも、つい考え事をしながら歩いていたサラは見覚えのない通りに出てしまったことに気が付いた。
 しかし、マリーブランの屋敷がどちらか聞けばすぐに帰り道はわかるはずだ。
 サラはポケットをまさぐって、通りで栗を焼いている炉端商のもとへ向かった。
「一袋ください」
「はいよ」
 熱々の紙袋に暖をとりながら、サラは焼き栗をかじった。
 思えば、こういうものを食べるのは久しぶりだ。
 シリネラに来る前は、こうして一人で町を歩いたり、出店の物を買い食いしたり、よくしていたのに。
 暮らしというのは楽なほうにはすぐ慣れてしまうものらしい。
 だが、誰かの庇護にもならず、あるいは誰の重荷も背負わず、自分ひとりの足で立つというのはなんと身軽ですがすがしいことだろう。
 一人旅の間、サラには確かに苦労もあった。
 だが、自由だった。
 サラはつい、道の向こうに目を向けた。
 この道を行けば、屋敷に戻らなくて済むかしら、と一瞬思った。
 いや、そんなことはできない。
 シーラのことをこのままにしておくことはできないのだから。
 だけど、貴族の娘なんて言うのは、なんて不自由なの。
 父親かそれに代わる保護者のもとで暮らし、結婚したら今度は夫の庇護の下で暮らす。
 自立なんていい娘が考えることでもないのだ。
 サラは想った。
 できることなら、今すぐ父親の遺産を使ってゼルビアに屋敷を建てたい。
 そこで、シーラと、生まれてくる子どもを二人で面倒を見て暮らしたい。
 本心を言うなら、レイン皇太子なんてサラの目の前から消えてほしい。
 そして、父の仕事を引き継いで、屋敷とゼルビア領地の管理、それから、出資した会社からの配当を得ながら次の投資先を探す。
 そんなふうに自立できたらどんなにいいだろうか。
 誰にも邪魔されず、文句も言われず、自分の力でそれができたら。
 それができるなら、世間から何と言われようと、シーラと子どもを守ってあげられるし、自分の評判なんて気にしなくて済む。
 サラはため息をついた。
 遺産が自由に使える二十歳まではあと四年弱。
 ゼルビアに屋敷を立てることさえ、キューセランの許しがいる。
 今シリネラの屋敷を出たとしても、シーラと子どもを養うのはむつかしい。
 今のザルマータで貴族の女性が仕事を得ることは、平民の女性よりはるかにむつかしい。
 家庭教師(カヴァネス)か呂婦(レディスコンパニオン)あるいは、王宮女官。
 シーラならまだしもサラにはカヴァネスをするだけの素養はない。
 レディスコンパニオンとして、まさかマリーブラン家の令嬢を引き受けてくれる家がこのザルマータにどれだけあるだろうか。

 王宮女官? 王族との結婚を望んでいるわけでもないのに出仕に上がるなんてありえない。
 やはり、なんとかしてキューセランを説得する方法を考えなくてはならない。
 シーラと本当に姉妹になって、新しい命の誕生や成長を分かち合いたい。
 これからも楽しいときを共に過ごし、悲しい時には支え合いたい。
 それが、家族だ。
 だが、どうしたらいいのか…。

 ・・・・・

「ねえ、あなた、そんな恰好で風邪をひくわよ」
 肩を叩かれて、サラははっと振り向いた。
 すると、目の前には淡い紫色の瞳の少女がショールを手に立っていた。
「はい、これをかけて」
「え…」
 少女はサラよりやや年下くらいで、黒いコートを着ていたが、その首元には華やかなドレスのフリルがのぞいていた。
「あ、どうも…」
「あなた名前なんて言うの」
 サラは開きかけた口を閉ざして考えた。
 思わず本名を言いそうになったが、ちまたでうわさのマリーブラン嬢の名前を出すのはいいこととは思えなかった。
 とっさにサラはかつて名乗っていた名を口にした。
「シーラです。シーラ・パンプキンソンです」
「変な名前ね」
  サラは少女がなにもので、なんのために声をかけてきたのか不思議に思った。
「あなた、こんなところで何しているの? しかもそんな薄着で。見ているこっちが風邪をひきそうよ」
「別に…考え事を…。あの、どちらさまですか? 私になにか用でしょうか?」
 すると少女はびっくりしたように大きな目をさらに大きく広げた。
「やだわ、あなた、私のことを知らないの?」
「え…?」
 サラは記憶を手繰ったが、紫色の瞳の少女にまったく見覚えがなかった。
 少女は金色の髪をきれいに巻いて、ふさふさのまつ毛でサラを見つめている。
 その美しさは同性でもはっとするものがある。
 こんなに美形な少女なら一度でも目にすれば忘れるはずはないように思えるのだが…。
「ごめんなさい、どこかで会いましたか?」
「もう、冗談でしょ」
「……」
 少女は本当にサラが自分を知らないことに気づくと、つんとした後、サラの前で腰に手をやった。
「私は、カード。カード・グレンスミスよ」
「はあ…」
「なによっ、まだわからないの?」
「……」
 またもサラの反応が期待にそぐわないので、カードは不機嫌そうにサラをにらんだ。
 すると、少し離れた箱馬車の窓が開いた。
「カード、もういいから戻ってらっしゃい」
 その小窓からのぞいたのはカードの母親だろうか。
 黒髪の何とも美しい夫人だった。
 美しいというのは視覚のことではなかった。
 なぜならサラの位置からは夫人の顔はほとんど見えなかったからだ。
 だが、美しい、美しいに違いないと感じたのはその深い響きの声のせいに違いなかった。
「お母様…、だって、この子ったらわたくしのことを知らないなんて言うんですもの」
「あなたまで風邪をひいてしまいますよ。風邪を引いたら舞台が台無し」
 そこでようやくサラは気が付いた。
 この少女たちは演劇祭の為にこの町にやってきた女優なのだろう。
 そういえば、あの馬車の女性は新聞で見たことがある。
 たしか、ええと…。
「あっ、ミランダ・F・グレンスミスだ!」
「本当だ、ミランダだ!」
 町の誰かが馬車を指さして叫んだ。
 そしてあっという間に馬車は人々に取り囲まれた。
「ミランダ、あなたの舞台を楽しみにしています!」
「ありがとう」
「今年もあなたにお目にかかれてうれしいです」
「どうもありがとう」
 ミランダは馬車の中から、右に左にとファンに向かって笑顔で挨拶をした。
「もう、あなたのせいで騒ぎになっちゃったじゃないのよ」
 カードは非難がましくサラを見た後、唐突にサラの腕をとった。
「来て!」
「えっ!」
 カードはサラをぐいぐい引っ張ると、馬車の前まで連れてきた。
「乗って」
「え、どうして…」
「いいから乗って!」
 サラはカードの強引さに押されて馬車に乗り込んだ。
 すると、うっとりするような笑みを浮かべたミランダが窓を閉めると同時に、出してと御車に命じた。
 馬車が走り出すとともに、ファンの歓声が遠のいていった。

 ・・・・・・

 馬車がついた場所は、シリネラグランドホテル。
 小劇場を供えた高級ホテルだった。
 サラは乗り掛かった舟のままに、ミランダとカード共に部屋に案内された。
 ホテルマンたちはサラを奇妙な目で見たが、ミランダが一言、
「仕込み中の子ですの」
 というとみな納得したように通してくれた。
 そして、スイートルームに落ち着くと、ミランダはさっとマントを脱ぎすて、体にぴったりと合ったサテンの濃紫色のドレスをカウチに投げ出した。
「お母様ったら、脱いだものは自分でかけてちょうだい」
「あらあら、後でやりますよ」
「そう言っていつもやらないのはどなたかしら」
 勢いのままについてきてしまったサラだったが、いったいどうしてこんなことろへ来てしまったのだろう。
 改めてサラはぼんやりしてしまった。
「カード、ルームサービスでスコッチと軽めのお食事、それからその子のお茶でも頼んでちょうだい」
「はあい、お母様」


 サラははっとした。
「い、いえ、私帰ります」
「そんなに急ぐ用事でもおありなの? あそこに立っている姿を見る限りそんなふうには見えなかったけれど」
 ミランダは鼻先まで匂ってきそうな大人の女性の魅力たっぷりに、サラを見つめた。
「そうじゃありませんけど、でも女優さんなら舞台のお稽古で忙しいのでは」
 するとカードが勢いよく振り向いて、サラに投げつけるように言った。
「女優じゃないわ、大女優! お母様は、この大陸一の大女優なのよ!」
 ミランダはくすくすと笑ったあと、カードをたしなめ、それからゆったりとサラのほうを見た。
「ええそうよ。わたくし、これでも巷では大女優ミランダ・F・グレンスミスと呼ばれているの。だからあなたに少し手伝ってもらいたいんだけど」
「手伝い…。あのう、私はそのためにここに連れてこられたんでしょうか」
「ええ、あなた時間を持て余していそうだったから。ちょうど、この子と年恰好もよかったし」
「……」
「迷惑だったかしら?」
 サラは少し考えて、すぐにこう答えた。
「少しの間なら…」
 行き詰っていたサラは、あのままあそこにいてもいい案が浮かぶことはないだろう。
 だとすれば、すこし気晴らしに大女優とやらの手伝いに興じてみるのもいいのかもしれない。

 ・・・・・・

「それじゃあねえ…、まず、あなた、そこへ立ってみて」
「はい」
「背筋を伸ばして、重心は下に、首から方はゆったりと楽にして、そう。そして、…ええとあなた名前は何と言ったかしら」
「シーラです」
「シーラ……。では少し発声練習をしてみて。カード、お手本を見せてあげなさい」
 あっけにとられているサラの隣で、カードは姿勢を正した。
「はい、お母様」
 深く息を吸うと、おなかから響くような声で発声した。
「歌うたいが歌うたいにきて歌うたえというが、歌うたいがうたうだけ歌うたえれば歌うたうが、歌うたいだけ歌うたえぬから歌うたわぬ。
 歌うたいが歌うたいにきて歌うたえというが、歌うたいがうたうだけ歌うたえれば歌うたうが、歌うたいだけ歌うたえぬから歌うたわぬ。
 歌うたいが歌うたいにきて歌うたえというが、歌うたいがうたうだけ歌うたえれば歌うたうが、歌うたいだけ歌うたえぬから歌うたわぬ」
「やってみて」
 ミランダはさも当たり前のようなふうに言ったが、サラは面食らっていた。
「歌うたいが、歌うたいに来て…歌うたえというが…」
「んー…」
 ミランダは指を左右に振ってサラを止めた。
「発声がなってないわ。それに滑舌も。舞台女優はもっと滑らかに、おなかから声を出して」
「う…、歌うたいが、歌うたいに来て…」
「…まあ、発声練習はいいわ。今度は台本の相手をしてちょうだい」
「は、はあ…」
 サラはカードから台本を手渡された。
 カードは台本の役柄を差して簡単に説明した。
「私はグロリア姫、あなたはサンタナ姫。お母様は、継母のシュルツ王妃よ。今度の演劇祭の演目よ。いい?」
 そして台本の読み合わせが始まった。
 はじめは台本を追うだけで精一杯のサラも、次第になれてくると余裕が出てきて二人の女優に気を向けることができた。
 ミランダとカードが本番さながらのように感情を込め、間合いをとってセリフを語る。
 サラはその様子に惚れ惚れとしてしまった。
 一幕分の読み合わせが終わると、ミランダは本を閉じて、ふうとため息をついた。
 そのため息すら不思議と色がついているみたいに情緒にあふれていた。
「やっぱり、これじゃないわねぇ…」
「わたくしもそう思うわ、お母様…」
 見ると女優という共通点以外少しも似ていない母子が顔を合わせている。
「ねえ、シーラ。このお芝居どう思って?」
「どうって…、あの、私にはふたりの演技は素晴らしく思えましたけど」
「そうかしら? 実をいうとわたくしたち乗り気じゃないのよ、この台本」
「私、よくわかりません…」
 するとミランダはカードに目配せした。
 カードは荷物の中からスクラップブックを取り出してきた。
「ねえ、シーラ。あなたはこの町の子でしょう? だったらこの事件のことをしっているわね」
 カードが開いて見せたスクラップブックには、新聞の記事が余すところなくはられていた。
 サラは一瞬息をのんだ。
 そこにあったのは、サラの誘拐の記事だったのだ。
「わたくしは、新聞でこの事件のことを知ってからずっとこのお嬢さんのことを気にかけてきたのよ。
 そしてこの冬にはわたくしたちはシリネラの演劇祭に招かれることは決まっていたの。
 だとしたら、演目はこの事件のことを演じるべきだわ。わたくしはずっとそう思っていたのよ」
 サラは思わずミランダとカードを交互に見た。
 まさか、サラだと気付いてふたりはここへサラを連れ込んだのだろうか。
 いや、そんなまさか…。

 ミランダは、またふうとため息をついた。
「実はね、あまり知られていないことだけれど、わたくしはシリネラ出身なの。この国のとある貴族のね。
 だけど、この仕事に人生をかけると決めた日から、わたくしは名前を捨てたわ。
 けれど、不思議なものね。祖国がこのような事態だとわかったら、わたくしにも何かできることはないのかしらと思ったの。
 愛国心や家族への愛情、そればかりかあらゆるものを捨ててきたわたくしだというのに」
 サラはだまってミランダの話を聞いていた。
「このお嬢さんはいろいろな困難に見舞われたわ。彼女の痛みや苦しみを思うと、心が張り裂けそう。それなのに、彼女はこのザルマータ国で、いえ、この大陸中で好奇の的として注目を浴びている。王家との古くからある約束事が彼女をゴシップの種にし、マルーセル一族の不正が暴かれた今まるで正義のプロバガンダに祀り上げられている。けれど、本当の彼女のことを、誰か知っているのかしら?
 彼女が何に喜び、何を憂い、何に嘆き、何に苦しんでいるのか。彼女は、ひとり人間。きっと十六歳の普通の女性に過ぎないわ。
 それなのに、彼女を取り巻くうねりは彼女の思いを少しも気にかけもしないでただ熱を帯びているだけのような気がするの」
 サラは驚いていた。
 大女優だという人がそのような視点でサラを見ていたということに。
 しかも、彼女は事件のあらましや噂話ではなく、サラ本人の気持ちについて言及している。
「どうして…知りもしない相手のことをどうしてそんな風に思うのですか? 普通の人は自分とは関係のない噂話としか思わないのに」
 するとカードがさも当たり前のように言った。
「お母様は普通の人ではないからよ」
 そしてミランダも笑みを浮かべていった。
「そう、女優というものは感情豊かな生き物なのよ。舞台の上では全くの他人になりきるの。だから、いつでも誰かの心に感情を寄せているわ。それが今回はたまたまこのお嬢さんということなの。でも、そうね、今回は同じ祖国の貴族娘だから余計に親近感を感じるのかもしれないわ。とかく、結婚前の若い娘は、いろいろややこしく言われるし、とっても不自由な身ですもの。わたくしにも覚えがあるわ」
「ミランダさんにも?」
 ミランダはまた匂い立つような笑みを浮かべた。
「わたくしはね、幼いころから女優という仕事にあこがれていたの。でも、許されるはずがなかった。一族の集まりでたまに朗読や小劇を演じるのは許されたわ。だけど、わたくしは舞台の上で、たくさんの人を前にして歌を歌ったり、演技をしてお客様を笑わせたり泣かせたりしたかった。今から三十年以上も昔のことよ。両親や一族のみな、それに世間には到底理解してもらえることではなかったわ。だけど、わたくしはあきらめきれなかった。業を煮やした両親に無理やり結婚させられそうになって、わたくしは家を飛び出したわ。そしてタルテン国の王立歌劇団に入った。そこは貴賤の差など関係ない実力だけの世界よ。そういう意味ではとても厳しい世界だったけれど、わたくしは毎日が楽しくて仕方なかった。そしてその歌劇団で主役の座を射止め、舞台に上がった時、わたくしは心に誓ったの。一生女優でありつづけると。そして、わたくしは努力し続けたわ。つらくもあったけど、毎日が喜びで満ち溢れていたわ。そして、いつしかわたくしはタルテン一の看板女優と呼ばれていたわ。それからいろんな国へ巡業した。言葉の違いや文化の違いもあったけれど、わたくしは努力を惜しまなかった。おかげでわたくしはこの大陸のすべての言葉で演じることができるようになった。そうしたら、いつの間にか私は大陸一の大女優と呼ばれるまでになっていたわ」
「すごい…」
 サラは素直に感嘆が漏れた。
「ありがとう。でもね、この地位を得るために捨ててきたものもたくさんあるのよ。舞台の上では華やかに見える女優という仕事だけれど、とかく私生活はさんさんたるものよ。特に男性関係はだめ。だって、自分よりも稼ぐ女性に対して、男性はとても卑屈になるのよ」
「えっ…! 」
 サラは驚きのまなざしを向けた。
「女優ってそんなに儲かる仕事なんですか…?」
 するとミランダはくすくすと笑い声を立てた。
「そうねえ、儲かるといえば儲かるわ。わたくしの舞台を見るために大陸中から人が集まるの。それに、私の心を射止めようとする殿方がいろいろと贈り物をくださるの。今の世の中で女性が自立できる唯一の仕事といってもいいかもしれないわね」
 驚きだ。サラは目から鱗が落ちるようだった。
 カードは母親のことをまるで自分のことのように誇らしげに言った。
「お母様くらいの大女優はそうはいないのよ」
 サラはミランダの娘を見つめた。
 自立した女性、しかも娘を立派に養っていけるだけの仕事、女優。
 サラはだめもとで口を開いた。
「あ、あの…私も女優になれるでしょうか?
 その、女優になって家族を養うことはできるでしょうか?」
 すると、ミランダとカードは笑い出した。
 この反応は予想しなかったわけではないので、サラはじっと黙って二人を見つめていた。
 カードはせいせい笑った後両手を左右に平げた。
「発声もままならないくせに、よく言うわね」
「カード、女は誰でも女優よ。努力をしてもみないで決めつけることはできないわ。けれど、モーリー、生半可な道ではないのよ。女が仕事を持つというのは、それ以外のすべてを捨てるくらいでないと務まらないの。あなたには守りたいものがあるみたいだけど、それすらも捨てなければならない日が来るかもしれないわ。そうなったとき、あなたはどうする? それでもこの道を選ぶ?」
 そういわれるとサラは考えてしまう。
 シーラを捨てるなんて考えられない。
 でも、このミランダという人は、きっとそういう人たちをも捨てて今この地位をいるのだろう。
 にわか思い付きのサラにはそれほどの覚悟があるはずがなかった。

「すみません、ちょっと聞いてみたかっただけなんです。女性でも自立できる仕事があるなんて、考えてもみなかったので…」
「そうよね。自立できるほど高給取りの娼婦でさえ一生その仕事を続けるのは無理だし、常に危険をはらんでいるわ。平民ならお針子や食堂の女主人のほうが現実的ね。それでも下積みの間や店を持つまでは苦しいでしょうけど」
「そうですね…」
 サラはそれからしばらくしてミランダの部屋を辞した。
 帰る道の間もサラはミランダのことを考えていた。
 サラにとっては初めて見る自立した女性のロールモデルだった。
 犠牲にするものも多そうだが、それでも、あんな生き方をしている女性をサラはほかに見たことがない。
 部屋を出るときミランダは言った。
「これもなにかの縁。あなたがもし女優になることに興味があるのなら、手ほどきしてあげてもいいわ。ホテルのフロントにはいっておくから、いつでも訪ねていらっしゃい」
 サラは女優になるかならないかは別にしても、もう一度ミランダに会ってみたいと心の中で決めていた。

 ・・・・・・

 屋敷に戻ると、屋敷の中はサラが消えたことでちょっとした騒ぎになっていた。
 サラは身を隠しながら自室に戻り、かじかんだ手でドレスを着、なんとか髪を整えた。
 そしてサラはなにごともなかったかのように階段を下りて行った。
「サラ、あなた、どこにいたの?」
 サラの姿を見るやアリスが叫んだ。
「どこって、家にいました」
 サラはしゃあしゃあと言ってのけた。
 サラは内心で思った。演技ならすこしは身に覚えがある。
 ジュリアンをだましおおせた嘘泣きや怯えた演技は、大女優ミランダとまではいかないだろうが、それなりなはずだ。
 使用人たちが集まってきて、あとからモリスとベンジーまでもがやって来た。
「家中探したんですよ、サラ様」
 ベンジーはため息まじりに言って肩をすくめた。
 すると、モリスは唐突にサラの手を取った。
「どこに行ってたんだ、こんなに冷たい手、こんなに顔を赤く染めて」
 サラは失礼でない程度に手を振り払った。
「庭にいたの」
「庭なら私が探した」
「あなたの顔を見たくなかったから隠れていたのよ。おかげですっかり体が冷え切ったわ」
「……」
 サラは周囲を見渡して、もういいかしら、と伺った。
 するとアリスは姪のご機嫌を取るような声で言った。
「ねえ、サラ。来週から演劇祭が始まるのよ。どの演目を見に行くかこれから一緒にプログラムを見ない?」
 サラは大げさなため息をついて見せた。
「ごめんなさい叔母さま。そんな気分になれないの。演劇祭にはいかないわ。何も見たくないの」
 そしてサラは部屋に戻っていった。
 サラは部屋に戻るなり、暖炉のまきをくべて手をこすった。
 きっと、アリスも使用人たちも、モリスとベンジーも自分が外に出ていたことを疑ってすらいないだろう。
 だが、次に屋敷を抜け出すときはもう少し慎重にした方がよさそうだ。

 ・・・・・・

 次の日、サラにとってはうれしいこととそうでないことの両方が起こった。
 まずいい方はこうだ。
 マリ―ブラン家に届いた手紙の中に、グレイ・ヘイレーンからの手紙があった。
 その手紙は小包と一緒に届き、その中身はタルテン・トワリ語の辞書と、オーレンが翻訳してくれたマハリクマリックの本の第一章だった。
「うそ、信じられない! すごいわ!」
 サラはオーレンの訳してくれたマハリクマリックを読み、そして、次に原書と辞書を片手にもう一度読み直した。
 手紙にはこのようなことが書かれていた。
「お変わりありませんか、サラ様。私はシャタや部下たちと相談しながら計画を少しずつ進めています。
 タルテン・トワリ語の辞書と私が訳した本の一部を送ります。
 トワリ語は少々複雑なので、それ以降の章を読むのに役立てていただければ幸いです。
 もし差し支えなければ、次の章を訳したものもお送りいたします。
 お互い、夢に近づくために頑張りましょう」
 すこし暗号めいた文章がなんだか妙にサラの心をくすぐった。
 秘密の共有はそれだけで心を高ぶらせるらしい。
 サラはキューセランがうれしくないことを持ち帰ってくるまで、ひたすら楽しい気分で、何度も手紙と翻訳を読み返した。


 そしてうれしくないこととはこうだ。
「レイン様が、全く聞く耳を持ってくれないのだ。サラに会わせてくれの一点張りで…」
 キューセランは困り果てたように椅子に腰かけたままうなだれた。
「レイン様はサラとシーラを間違えたこと少しもお認めにならないのだ。これ以上私がいくら説明しても、わかってもらえそうにない…。サラ、こうなっては一度お前に説明してもらわねばなるまいが…」
 サラは楽しい気分から最悪な気分に一気に落ちた。
「叔父様…、それで、子どものことは…?」
「シーラのお腹に子どもがいたとしても、それは自分の子であるはずがないと…」
 サラの中で糸が切れた。
「叔父様…、今日は無理です…。今レイン様に会ったら、私、何をするかわかりません…」
 サラはそれだけ言うと、黙って部屋を出て行った。
 キューセランは額に手をやって、疲れたように息を吐いた。


 その最悪のタイミングで、またもマリ―ブラン家に来客があった。
 玄関のドアを開けると、そこに並んでいたのは昨日にも増す婦人たちの行列だった。
 キューセランは胃が痛むうえに、ひどい頭痛を覚えた。

 ・・・・・・

 翌日、サラは叔父と叔母とともに、王宮にいるレインを訪ねた。
 サラはキューセランに何度も失礼のないようにと念を押されたが、約束を守れる気は最初からしなかった。
「失礼いたします」
 レインの執務室に入ると、レインはすぐさま立ち上がって、サラを見つめた。
 キューセランが定型通りの挨拶を述べた。
「そんなことより、サラ。どういうことなんだ。昨日私はキューセランから話を聞いて驚いた」
 レインはその麗しい顔を困惑させて、サラを見つめている。
 サラは激しいいら立ちを感じながらも、自分を律してできるだけ落ち着いて話した。
「叔父上様のおっしゃったことは、事実です。あの日レイン様が抱いたのは、私ではありません。私の侶婦のシーラです。そして、そのときの子をシーラは今その身に宿しています」
 レインは打たれたように目を見開いた。
「ま、まさか、そんなことが…」
「シーラは産むことを望んでいます。あなたのことを…」
 サラは一旦言葉を区切った。
 この言葉を使うにはさらなる自制が必要だった。
「シーラはあなたのことを愛しています。ですから、レイン様もどうか、シーラとおなかの子と真摯に向き合ってください」
 レインはにわかに首を左右に振った。
「わ、わたしの子ではない…。それは、私の子ではない…。あの日私たちは深く愛し合った、そうであろう?」
 レインはサラに詰め寄った。
 なおも認めないレインにサラはむかむかといら立ちが募った。
「私ではありません。あなたが愛し合ったのは、シーラです。あなたはあの日酷く酔っていたそうですね。私とシーラは髪の色や目の色、それに体格や声も似ています。見間違えるのは無理もなかった」
「いや、そんな…しかし…」
 レインはまじまじとサラの姿かたちを見つめている。
 この娘があの夜の娘だったとでもいうように。
「わたしの子を宿すのなら、サラ、そなたのほかにはない」
 サラはその視線に耐えられななくなって、思わず手を出していた。
 パシン、と乾いた音が部屋に響いた。
「いい加減にしてください! 皇太子だろうが何だろうが、あなたはどこまで失礼なんですか!」
 キューセランとアリスがサラを左右から止めた。
 そうでなければ、サラは今にもレインにつかみかかろうとしていたからだ。
「シーラを手籠めにした挙句、はらませておいて、それは自分の子じゃないですって?
 私のシーラを何だと思っているの!
 あんたなんか、シーラが愛してなければ、この場で引き裂いてやる!
 切り刻んで、犬の餌にしてやりたいわ!」
 キューセランは真っ蒼になってサラを止めようとしたが、サラが止まるはずがなかった。
「だいたい、うちに押し寄せてくるあの女たちは何なのよ!
 きれいに片付ける気ならちゃんとそうしなさいよ!
 たとえシーラが許したって、あの女たちが一人残らず片付かなかったら、私が許さない!
 子どももあんたなんかに渡さない!
 シーラと子どもを幸せにできないなら、あんたなんかいらないのよ!」
 サラは叫びながら、目に涙を浮かべていた。
 涙を見せるのも悔しかったけれど、止められなかった。
 レインは打たれた頬に手を当てて、呆然とサラを見つめていた。
 肩で息を切るサラを取り押さえていた叔父と叔母は、サラが落ち着くまで待って、ようやくその手を離した。
「レイン様、ご無礼をお許しください」
 キューセランとアリスは頭をさげたが、内心ではサラの言ったことに全くの同感であった。
「ひとまず、これで失礼させていただきます」
 すると、今まで呆けていたレインが言った。
「シ、シーラに会わせてくれ…」
 すると、キューセランが答えるより早く、サラが言っていた。
「会わせない」
 サラ以外の三人は驚いたようにサラを見た。
 サラは激しい色に染まった目で言い放った。
「シーラと子どもに相応しい夫と父親だと、私が認めるまで。それまでは絶対に引き会わせない」
 サラは踵を返して部屋を去った。
 キューセランとアリスもそれに倣った。
 残されたレインはひとり、そこへ佇んだ。
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