【完】待ち焦がれてラブ・バージン 職なしパテシエールと訳あり御曹司の甘くおかしなプライマリー

国府知里

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# 君に会いたい

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 魔女の家から和泉の家に戻ると、家のすぐ前に見慣れない車が止まっていた。
 アンナにもそれとわかる高級車から男が下りてきた。
 ジェイダンが説明をしなくても、その姿からジェイダンに近しい人物だということはすぐにわかった。

「兄さん」
「ベン、なにしに来たんだ。どうしてここがわかった?」

 車を降りたジェイダンは荷下ろししながらベンをちらりと見た。

「マリヤに聞きました。会社が大変なんです。すぐ帰ってください」
「彼女の家で、僕に弟を紹介させる気もないわけか」

 ベンはしかたないというようにアンナをみた。
 アンナは明らかに非友好的でせっかちなベンの態度に感じないものがないわけではなかったが黙っていた。

「アンナ、弟のベンジャミンだよ」
「宮岡アンナさん、知っていますよ。先日のネル・ヴィアールの講演会にいらしてたでしょう」
「おまえも来てたのか。ふん、僕を見張っていたんだな」
「なんといわれようと気にしません。とにかく執行部とすぐに話をしてください」

 その場にいても、アンナはいないも同然の会話だった。
 ベンジャミンがどこかへ電話をかけ、ジェイダンに差し出した。
 しぶしぶそれを受け取って、ジェイダンはアンナに一言断り、電話先の相手と話を始めた。
 ベンとふたりにされたアンナは突然の来訪者をどう扱うべきか測りかねていた。
 すると、唐突にベンが言い出した。

「マリヤと僕は結婚を前提に付き合ってるんです。マリヤから聞いているかもしれませんが」
「……ええ」
「あなたは店を開こうとしているそうですね。兄があなたに力を貸しているとか」
「……あの、まあ……」
「必要な額をここに書いて下さい」
「え?」

 唐突な申し出にアンナは聞き間違えかと思ったが、ベンがスーツの内ポケットから出してきた手形を見て聞き間違えではないと分かった。

「そのかわり、もう兄とは連絡を取らないでいただきたい」
「わたし、そんなつもりでは……」
「兄はもうこのところずっと仕事をほったらかしです。グループには兄の力が必要なんです。はっきりいいましょう。あなたに邪魔されるのは本当に迷惑なんです」

 ベンの言い方は冷たく事務的だった。
 ジェイダンの話を聞いたアンナには、歩み寄れない父と子の確執から生まれたものだとわかる。
 しかし、マリヤやその婚約者のベンがそれによって負わされている苦労もわかる気がする。

「そんなつもりはありませんでした。でも……」
「まさか」

 ベンははっきりとわかるようにため息をついた。

「あなたはジェイダンと釣り合うと思っているんですか? はっきりいって、あなたのこれまでのふるまいは素養教養ともにわが一族にはそぐわない」
「え……」
「あなたがもしもジェイダンと結婚したとして、あなたは公私共にジェイダンを支える覚悟がありますか? ケーキ屋を経営するならまだしも自分で作るなんて道楽はもちろん無理でしょうね。社長婦人として彼に同行して各国へ飛び、客人をもてなし、上流階級の知識人と議論を交え、会社のよりよい発展のために尽力する。そういう覚悟が必要なんですよ。僕らの母のようにね。ただ育児と家事をやっていればいいなんて考えているのならそれは大きな間違いです。マリヤは幼いころからそういう教育を受けている。だからこそ僕は彼女に引かれ、婚約をした。あなたにそれができるのですか?」

 唐突に突きつけられた世界の違いに、アンナは面食らっていた。

「……そんなことは考えたこともありません」
「そうでしょうね。こうして見ているとあなたはどこか現実の世界には住んでないような俗世離れしたものがあります。
 まるで、そう、なにか感覚的な映画を見ているような。兄はそういうあなたの雰囲気に引かれたのでしょう。
 兄も現実逃避をしたがっていますから。兄は昔小説家を夢見ていた時期があったそうですから、あなたのようなぼんやりとした生き方がうらやましいのかもしれません」
「……」
「でもそんなことはできないんです。僕らは常に現実から目をそらすことはできないんですよ」

 ベンの物言いは突き放すようでとても心地いいとは言えない。
 だが、ジェイダンにも、そしてアンナにも言い得ていることだった。

(わたしも現実から目をそむけている……、そうかもしれない……。ジェイダンに本当の自分をさらして、その反応を受け止める覚悟が持てる……?)

 そんな自信はない。
 ベンの言うとおり、アンナは俗世を離れて生きていこうとしているのかもしれない。
 本当の心、核心の部分を、アンナは他人に許すことができないのだ。
 できないから、今日まで逃げ続けているのだ。

(嫌われたくない……)

 アンナは胸の奥でぎゅっと思った。

(ヒューのことは、とても口にできない……)



「なんだって、なぜそんなことに……わかった、すぐに戻る」

 ジェイダンの電話の様子を悟って、ベンは領収書を胸に戻し、名刺をアンナに差し出した。

「必要な額が決まったら連絡してください」

 アンナは受け取ろうとしないので、ベンはやや強引にアンナの手の中に押し込んだ。
 ジェイダンがアンナのとなりに戻ってきた。

「アンナ、すまない。僕は戻らなければならない」
「ええ、本当に助かったわ、ありがとう」
「ここを離れるけど、君が困ったときはいつでも電話してくれ」
「それは……」
「うんと言って、アンナ。彼に電話する前に、彼より前に僕に連絡して、僕を頼って欲しい」
「ジェイダン……」
「お願いだ」
「わたしのことより、今は会社のことを考えて」
「そうするよ。こんなふうになんの前触れもなく弟がここへやってくることがないようにだけはね。君との時間が奪われるのは耐えられない」
「……」
「今度ここへ来る時には……」
 キスの続きを、と言いかけて、ジェイダンの言葉は途切れた。
「……なに?」

 アンナはジェイダンはが自分の唇を見つめていることに気がつき、はっと瞳をそらした。
 なにも言わずジェイダンは一旦口を閉ざし、そして微笑む。

「君のお菓子を食べたいな」

 アンナの手をとると、ジェイダンは甲にキスをした。
 複雑な思いを胸に、アンナはジェイダンを見送った。

(ジェイダンに触れられた手が熱いわ……)

 アンナはしばらくの間じっとその場に立っていた。

 ジェイダンが社に呼び戻されたのは、こういうことだった。
 あのトラブルのあったワインバーで火災が起こり、焼け跡から不審なものが見つかったらしい。
 行方不明になっていた何人もの男女の遺留品、大量の廃棄注射器、さらには血液のついたワインボトルが見つかった。
 そして、当然のように顧客名簿はなく、店長や店の従業員らも姿を消していた。

 つい先日店の記事を書いたばかりの吉村がその関連を疑われ、取り調べを受けたのだが、吉村はルネの新刊本への影響を心配したせいで不本意ながら挙動不審な態度を取ってしまったらしい。それがあらぬ疑いを招いたのか、社全体に疑惑の目が向けられようとしていた。

「僕がうまく説明できなかったのも悪いんですが、警察は僕が関わっていることを頭から決めてかかるような節があって……。会社やルネには関係ないと訴えたんですが……。もちろん、僕もドラッグや大麻なんてやってませんよ!」

 任意の取り調べから戻った吉村の話や、ここまでに明らかにされている事件のあらましをさらって、ジェイダンの頭にはよぎったことがあった。

(面倒なものを手引きしたようだね!……)

 ナオミが言ったことが思い出され、ジェイダンは思わずスーツの上から胸ポケットの十字架に触れた。
 主だった顔ぶれをそろえた社の会議室で、ベンは眉を寄せた。

「せっかく本が順調に売れているこのときに、我が社も取り調べの対象になっているなんてことががマスコミに知れたら、どうなることか」

 しかし、ジェイダンはこの件については落ち着いていた。

「問題ない」
「兄さん、なにが問題ないんですか。このまま手を打たなかったら、この会社は!」
「誰が手を打つ必要がないと言ったんだ」

 全く的を得ないという顔のベンを脇に、ジェイダンは口早に言った。

「吉村、こう言う事件が好きな連中がいるだろう。彼らに情報を流すんだ」
「えっ……?」
「もちろんルネがこの事件に絡んでいることも伝えろ。ネットを炎上させるんだ」

 ベンは思わず叫んだ。

「なにを考えてるんだ、兄さん!」
「吉村、どれぐらいでできる。」
「は、はい! 三十分、いや十五分以内には!」
「十分だ!」
「はいっ」

 吉村が足早に会議室を出ていった。
 ベンはそれを止めることもできず、ただ兄を非難するしかなかった。

「兄さん、気でも狂ったのか!」

 ジェイダンは構わず次の指示を出す。

「アンディ、この件についてうちの主力雑誌で特集ページを組む。ルネの独占インタビューを取りにいかせろ」

 ベンはもはやパニックになっていた。

「ばかな! イメージのぶち壊しだ、ルネが受けるはずがない!」



「それからマスコミリリースは15時間後。記者会見は正午だ。会見の様子をライブで同時配信する。それまでにはインタビュー映像を用意しておけ。さあ、時間がないぞ!」

 ジェイダンの指示にアンディの行動はすばやかった。てきぱきと部下に仕事を割り振った。

「アンディ、俺はこれからアメリカの知り合いの新聞社と出版社に連絡を取る。彼らにもできるだけ派手に宣伝してくれるよう仕向けてくれ」
「わかりました! 社長、主力新聞社にはシェフ・ルネ・ヴィアール。週刊誌にはホラーマニア・ルネ・ヴィアールで売り込みます。それからルネの本と関連書籍の在庫のチェック、それから重版が決まったときの手配も整えろておきましょう」
「ああ、それがいい、そうしてくれ」
「それと、社長」
「なんだ?」
「アメリカの方も僕に任せてもらえませんか?」
「?」
「僕もここへ来るまでアメリカの出版業界で働いてたんですよ」
「へえ、そうだったのか。それなら君に任せる」

 アンディは意味ありげなものをわずかに口の端に浮かべて見せて、そのあとすぐに会議室を後にした。
 残ったジェイダンにベンはすがるように言った。

「兄さん、お願いだから、冷静になってくれ!」
「冷静さが必要なのはお前のほうだ。まだわからないのか。これは本をピーアールする絶好の機会だ」
「ええっ?」
「ルネの本だけでなく、社のグルメ本も売れる。いや、売るんだ」
「な……、え……?」
「日本ではほとんど知られていないが、欧州ではルネはホラーマニアとして自他ともに認められている。彼のツイートを見ていないのか? 彼はあの日のことを自慢げに書いている。彼がこのことを知って放っておくと思うか? 答えは否だ。さあ、それをどう盛り上げて、売り上げにつなげるか、それが今この会社がするべき最優先事項だ」

 戸川グループの出版事業が水面下でどのような働きをしていたのかアンナには知る由もなかったが、それでも実家で見るテレビ番組では、事件の影響でルネの最新レシピ本が取り上げられるのをいくたびも目にすることになった。
 ジェイダンからの連絡はたびたびあった。アンナは極力電話には出ず、それとなく忙しいと言い訳を繰り返していた。

「花束の彼、ぜひ紹介してね」

 父親が長期出張でいない宮岡家は、母のカントリー趣味もあるせいか、どこか女の園という風情だ。
 和泉の家に届くはずの花を、配送屋は実家に運んでくる。
 その頻度や熱烈なメッセージカードに、母は驚きながらも喜んでいた。
 その一方で、アンナはかたくなに言い続けていた。

「彼じゃないってば」
「年頃なのに、今までちっともそんな話がなかったでしょう。だからねえ、お母さんはうれしいの。応援したいと思ってるのよ」
「気持ちはありがたいと思うけど、わたしは恋をする気はないの」
「お店があるから?」
「それもそうだけど……」

 アンナはため息をついた。
 アンナの見下ろす視線の先で、ソファに横たわるエリナがうとうととしていた。
 母はエリナにタオルケットをかけながら、アンナに話しかけた。

「ねえ、アンナ。あなたがかたくなになってしまったのは、どうしてなの?」
「え?」
「一生ひとりでいるつもりじゃないんでしょ?」
「そんなの……わからないわ……」
「あなたはもう大人だから、いちいち詮索するのもどうかと思っているんだけれど……。でもいずれは結婚するつもりなのよね?」
「今は考えてない」
「なにも、花束の君ってわけじゃないのよ。他の誰でもいいから、あなたが好きになった人とよ」
「……今は考えられないのよ……」

 すると母は少し黙った後、アンナの方に体を向けた。

「やっぱり日向君のせいじゃないの? 彼が引っ越すことになったあのころから、あなたはどこかふさぎこむようになったわ。日向君も突然ぱったりと遊びにこなくなってしまったし、あなたも日向君のことはなんにもしゃべらなくなってしまった。あんなにすごく仲が良かったのに……」
「……そうだったかしら……」
「あのころから、あなたがお菓子作りにのめりこむようになったわね。以前にもまして、お菓子を作っているときが一番楽しそうだったわ。そうしてあなたはお菓子屋さんになると言い出したんだわね」
「……そうかもね」

 母はアンナの横顔を見つめる。

「本当のことを言うとね、わたしはあのときもっとちゃんとあなたの話を聞いていればよかったと後悔してるの。あのころエリナに障害があるとわかって、わたしには余裕がなかった。なにもかもが初めてで学ぶことばかりで、それにお父さんもクエートに出張していたころだったし。今思い返せば、エリナにばかりに気を取られて、アンナ、あなたのことをよく見てあげられなかったように思うのよ。あなたは聞き分けがよかったしね」
「……そんな心配することないわ、お母さん。わたしはエリナが大好きだし、お母さんもお父さんも大好きなのよ」

 すると母は少し微笑んで息を漏らした。

「そう、それを聞いて少しほっとしたわ。あなたはエリナのために我慢して自分の気持ちを言えなくなってしまったんじゃないかと心配していたのよ」


 アンナの中には複雑な思いもあったが、それでもアンナは明るい調子で言った。

「わたし、言いたいことは言ってるし、やりたいことはやっているつもりよ」
「そう、それならいいの」
「あのね、アンナ。お父さんとも話し合ったんだけど、あなたのためにしてきた貯金をお店の開店資金にして欲しいの。前にも話したけれど、もともとあなたが大学で学べるくらいの蓄えをしていたの。専門学校の学費との差額の分は、今もあなたの口座に手つかずで入れてあるの。それにあなたはアルバイトをして生活費を稼いでくれていたから、かなりの額が残ってるのよ。それをぜひ使ってほしいわ」
「それは前にも言ったけれど、エリナのために使って。エリナが大きくなるにつれて、きっとお金は必要になるわ」
「あなたもわたしたちの大切な娘なのよ、アンナ」
「お母さん……」
「もっと頼ってほしいわ。あなたの考えていることや感じていることををもっと話してほしいの」
「話してるわ……わたし」
「これでもわたしはあなたの母親よ。あなたがあのころから、そう、あのころからどこか家族の間にもどこか線をひくようになってしまった気がするの。なにか隠し事でもするように、どこか心を開いてくれてないような……」

 こんな話になると思っていなかったアンナは正直驚いていた。
 母がここまであの頃のことに深く切り込んでくるのは初めてだった。
 アンナは複雑な表情を浮かべた。

「……変なことをいうのね、お母さん。……わたしは、お母さんやお父さんにとって扱いにくい子だったかしら」
「そういうことじゃないのよ。これはなんとなく……、そう感じていたんだけれど、わたしがなかなか言い出せなかったことなの。アンナが聞き分けがいいことに甘えて、なにかあなたからのメッセージを取りこぼしたような気がして……」
「そ、そんなことないと思うわ」

 アンナは嘘をついた。

「わたしたち夫婦は、アンナにもエリナにも同じだけの愛情を持っているつもりよ。だけど、不思議なもので、愛は平等にはならないの。
 なんていえばいいのかしら……。誤解しないでね。
 幼いころのあなたは、今のエリナのようにくったくなくて無邪気で、誰にも壁がないようなそんな子だったわ。
 今も確かにあなたはいい子なんだけれど、あのころからどこかに影を作るようになったわ。
 なにかにあきらめのような。それまでのあなたにはなかったものが、確かに、あのころからだと思うのよ」
「それは、多分大人になったのよ。いつまでも ……子どものようなことは、言ってはいられなから」
「あのとき日向君になにを言われたの?」
「え……」
「あなたはなにも話してくれないけれど、あの頃のことを振り返って、わたしはそんな気がしていたのよ」
「別に……」
「あのときわたしは、確かにあなたの話を聞いてやれるだけの余裕がなかったわ」
「……」
「和泉の家で、三世帯で暮らしていた時、わたしはまだ働きに出ていたわね。おばあちゃんとおじいちゃんが家のことをしてくれていたから、私はエリナを産む直前まで勤められたわ。でも、エリナが生まれて、障害があると分かったとき、わたしは悔やんだわ。自分を責めた。アンナのときのように大事をとって仕事を休めば良かった。もっと体を大事にすべきだった。寒いところや、人ごみや、たばこのある場所に行くべきではなかった。食べ物にも薬にも、もっと注意するべきだった。ストレスになるような仕事は引き受けるべきじゃなかった。今でも時々そう思うと苦しくなる時がある。あれがいけなかった、これがいけなかった。でも、過去の原因探しをいくらしても、エリナの障害が治るわけじゃない」
「お、お母さん……」

 アンナは唐突に始まった母の告白に面食らっていた。
 母の状況を、共に過ごしてきたアンナは理解しているつもりだった。
 だから、あえてこれまでそのことについて母に尋ねようとしたことはない。
 エリナがいて、母がいて、出張で留守がちな父、脚の悪い祖母と祖父、そしてアンナがいるという、ときに問題が浮上したとしても、時間が解決していく淡々とした暮らし。

「わたしは外で仕事をするのが好きだったわ。だから、好きに仕事をさせてくれたお父さんや、おじいちゃんおばあちゃんに申し訳なかったの。なにより、エリナに申し訳なかった。だからアンナも知っての通り、わたしは初め、障害のことを全く受け入れられなかった。どうにかして訓練したら治せるかもしれないという希望を捨てられなかった。エリナにつらく当たってしまうときもあったわ。なぜできないの、どうして他の子みたいにやれないのってね、お姉ちゃんの時はこうだったのにどうしてって……」

 アンナもそれは感じていた。だが、それも少しずつ、少しずつ家族で過ごす時が解決していった。

「福祉センターの職員さんやひまわり園の先生がアドバイスしてくれて、ひまわり園に通うお友達やそのご家族の様子を聞いたり見せてもらいながら、時間はかかったけど、今のわたしはようやくエリナの障害を受け入れることができるようになってきたわ。
 不思議と家を空けがちなお父さんや子どものアンナの方がエリナのことをすんなり受け入れていたわね。亡くなったおばあちゃんも障害のことは気にもせずエリナを可愛がってくれたし、おじいちゃんもわたしを責めるようなことは一言も言わなかった。それなのに、わたしだけが……。わたしは家族の中で孤立している気分だったわ……」
「お母さん、そんな……」

 アンナは思わず母の腕をさすった。

(お母さんがそんなふうに思っていたなんて、知らなかったわ……)
「エリナが四つのころ、おばあちゃんが亡くなって、今度はおじいちゃん入院して、エリナを抱えながらおじいちゃんの世話をするのは、正直とても大変だったの。お父さんがもっと家にいてくれたらよかったんだけど、無理も言えなかったしね……。アンナはお見舞いにお菓子をよく焼いてくれたわね。おじいちゃんはいつもとてもうれしそうだった。でも、わたしはおじいちゃんが亡くなったとき、正直ほっとしていたの。ああ、これで少しは楽になれるって……」
「そうだったの……」



 母久美子の告白は、アンナにとって初めて知る母の本音だった。

「今では、エリナの障害も一つの個性だってすこしずつ受け止められるようになってきたし、あなたは立派に専門学校を卒業して自分の店を持つために自立しようとしている。あなたはすっかり大人だわ。だから、もう話してもいいかと思って、聞いてもらったのよ」
「お母さん、わたし、なにも気がつかなくて、ごめんね……」
「わたしなりに一生懸命やってきたつもりだったけど、あのときは、そうね、それがわたしの精一杯だったの」

 アンナは幼い日の自分と母親を思い出していた。
 日向が最後に和泉の家に来たあの日、そして、母から言われた言葉。
 あれは、多分、そうした母の瀬戸際の心情がこぼれたものだったのだろう。
 子どものアンナは、単純だった。
 家庭、家、親、家族。
 子どものアンナにとっては、それは安全な保護区域だった。
 親はまぎれもない完璧な大人だと信じていた。
 けれど、その場を保つために、母がどれほどの思いを押し殺していたかなど、想像したこともなかった。
 子どもなりの感性で感じ取れることはあった。
 けれど、大人のように論理でわかるそれとは違う。
 母の視点で語られる過去には、母の葛藤や苦しみがあったことを、今改めてアンナはまざまざと知ったのだった。

「だからね、あなたが話してくれるならわたしは聞きたいの。今更って思うかもしれないけど、でも、今だから話せるようになることもあると思うのよ」

 アンナはにわかに唇を震わせた。

(あのときのこと、ヒューのことを……、もう一度お母さんに……?)

 母の告白を前にしてアンナは自分の心によく聞いてみた。

(……無理だわ……)

 その一歩踏み出すハードルが越えられない。

「……お母さんに今聞いてほしいことはなにもないわ……。お母さんが言うような影が、わたしにどこかにあるのだとしても、それでお母さんやお父さんを困らせることかがあった?」
「いいえ、ないわ」
「今お母さんが話したように、たとえ家族でも、理解しあえることとそうでないことがあるわ。そういう意味でいえば、わたしは大人になったのね。
 わたしたち家族はこれまでうまくやってきたと思うの。そりゃあ、なにもかもが完璧なんてことはなかっただろうけど、みんなでお互いを思いやってきたし、お互いが知らないだけで、みんながみんな家族のためなにかを我慢したり気持ちを隠したりしてきたのかもしれないわね。でも紛れもなく、誰が何を言おうと、たとえ天地がひっくり返ったって、わたしにとっては最高の家族だと思うわ」
「そうよ、アンナ。お母さんもそう思ってる」
「愛は平等にはならないってお母さんは言ったわね。わたしもそうかもしれないって思うわ。人は誰でも社会の中で生きながら、そうした感覚を学んでいくんだわ。そのためにはときに……傷ついたり悩んだりするものよ。……そうじゃない?」
「ええ、そうね」
「だから、大丈夫よ。多分、わたしは今それを……、きっと学ぼうとしているのかもしれない」
「アンナ……」
「だから、今は話したいことは、なにもないわ」
「そう……、わかったわ」
「お母さん、話してくれてありがとう。これだけは確実に言える」

 久美子は微笑んだ。話してよかったという安堵が漏れたのだろう。
 しかし、アンナの言葉には続きがあった。

「前よりももっと、お母さんのことが好きになったわ」
「アンナ……」

 母と娘は互いに手を取って微笑みあった。

 そのとき、ソファの上でエリナが目を覚まし始めた。

「オレンジ……?」

 目をこすりながら、エリナが唐突に言った。
 久美子はぱっと立ち上がった。

「このところ、エリナがそればっかり言うから、お母さんオレンジを買ってきたのよ。アンナも食べる?」
「あ、違うのよ、お母さん」

 アンナはエリナの言葉を代弁した。

「エリナが食べたいのはマーマレードのことよ、きっと」
「え?」

 アンナはソファに座りなおしたエリナに向かっていった。

「エリナ、そうでしょ?」
「おねえちゃん、オレンジつくろうよ」
「いいわよ」

 久美子は驚きながら二人の娘を交互に見た。
 幼いころから、久美子には不思議でならないことがある。
 久美子には言葉通りにオレンジとしかわからないのに、なぜかアンナにはエリナの意図することがなぜかよくわかるのだ。
 姉妹同士でなにか不思議な力があるのではないか、そんな気がするほど、アンナには言葉の足らないエリナの意思がはっきりとつかめている。アンナよりずっと長い時間を共にしている母親の自分にもわかることはある。おなかがすいているんだ、今は機嫌がよくない、ああこの色は好き、この味は嫌いなのか、そういうことだ。だが、それよりももっと具体的で、エリナの複雑な感情や状況までも、アンナは言い当てる。久美子は冷蔵庫から出したオレンジをテーブルにおいて、ふたりの娘を改めてよく観察した。

「お母さん、キッチン借りていい?」
「ええ、いいわよ。そういうことなら、アメリカ産のオレンジじゃなくて、国産の無添加のみかんでも買って来ればよかったわねぇ」
「大丈夫よ、エリナが食べたいのはチョコレートガレットなのよ」
「え?」
「エリナはチョコレートガレットの中にマーマレードが入ったやつを食べたいのよ」
「えっ……?」
「あ、多分ね」

 こんなことが度々ある。
 久美子は不思議そうに姉妹を眺めて口を閉じた。
 アンナとエリナのお菓子作りが始まった。
 久美子は少し離れてリビングで洗濯物をたたんでいる。

「そうよ、エリナ。フォークで飾りをつけるの。上手ね」
「うん、これパパ、これママの、これエリナの、これヒューの」
「きっと喜んでくれるわ」
「えへへ」

 アンナと一緒にいるときのエリナは、他の誰といる時よりも落ち着いていて楽しそうにしている。

(わたしにはああいうふうにできないのよね……どうしてなのかしら)

 久美子は微笑ましく二人を眺めながらも、エリナに対してはつい自分の価値観を押し付けがちになってしまう。
 それがよくないといつも反省するのが久美子の常でもあった。

「ねえ、アンナ……」
「うん?」
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