【完】待ち焦がれてラブ・バージン 職なしパテシエールと訳あり御曹司の甘くおかしなプライマリー

国府知里

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# 待ちこがれて

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 病院につくと、宮岡家が先についており、ジェイダンとマリヤ、ナオミとナツキ、そして二場牧師はそれぞれ横たわるアンナの顔を覗き込んだ。アンナはうっすらと目を開け、エリナの顔を見つけると、即座に手を握り目に涙を浮かべた。それからずっと姉妹は手をつなぎ合っている。

「よかった、エリナ……」
「お姉ちゃん、お姉ちゃん……!」

 エリナは泣きべそをかきながら、姉を呼び続けていたが、その頬には笑顔が満ちていた。基之と久美子は安心したように微笑み、なんども娘たちを愛おしそうに見つめて、その手や肩をさすった。その一家の様子を見て、一同は心から安堵し、ようやく息がつける思いだった。

 しばらくすると、久美子が気を利かせて、渋る基之とエリナを連れて席をはずしてくれた。それに伴い、マリヤ、ナオミとナツキ、二場牧師も部屋を出た。ジェイダンは、ベッド脇の椅子に腰かけ、そっとアンナの手を取った。

「アンナ、よかった……」
「ジェイダン……」

 アンナはゆっくり瞬きすると、手を握り返し、その顔に微笑みを浮かべた。その笑みがジェイダンの心にどれだけの安心と慰めを与えたかはいうまでもなかった。

「アンナ、僕はまた本を書こうかな……」
「本……?」

 アンナは少し眉をあげて見せた。

「ヒューのことを。君と出会って、泉の名前が明らかになって、君が目覚めるまでのことを」

 すると、アンナは不思議そうな視線をジェイダンに向けた。

「ヒュー、って?」

 ジェイダンは小さく笑った。そして、アンナが気を失っている間にあったことをかいつまんで話して聞かせた。話が終わるまで黙って聞いていたアンナは、微笑みながら言った。

「泉の妖精なんて、とても想像力豊かなのね、ジェイダン。さすがは小説家だわ」
「え……?」
「新しい本が書けたら、きっとわたしにも読ませてね」
「アンナ……」

 ジェイダンは二の次が出なかった。アンナはなぜか、ジェイダンの話を、新しい小説の筋書きか何かだと勘違いしている。記憶が混乱しているのだろうか。

「アンナ、ヒューの話だよ? 君とエリナちゃんの友達の……、わかるかい?」
「わたしとエリナの友達……?」

 アンナは少し考えた後、笑って答えた。

「その本が完成したら、きっとヒューとはお友達になれるわね」

 アンナが退院したのはおよそ一週間後だった。ムツカ・ヒユの神が力を取り戻しつつあるおかげかどうかはわからないが、アンナの怪我は比較的完治が早く、包帯も取れた。アンナの輪郭も、久美子やジェイダンたちが運んでくる菓子やちょっとした軽食のおかげですっかり元通りに戻った。再度検査した脳と身体には異常はなく、アンナは心身ともに元気を取り戻した。アンナに残ったのは、日常生活には差しさわりのない程度のごくごく軽い障害だけだった。
 それは、障害が残ったというよりかは、呪いが解けたとでもいうべきかもしれない。事故以来、アンナにはごくわずかな記憶障害が残った。ヒューに関する記憶を、アンナはすっかり失っていた。アンナはこのことに自覚症状すらなかった。今では、アンナはヒューのことを、ジェイダンの作った小説の中の妖精のことだと信じている。

 ***

 アンナは自宅へ戻るなり、先日片付けたばかりの調理器具を車に積み、材料の買い出しに出た。そして今荷物を再び、和泉の家に運び込もうとしているところだ。

「アンナ、僕が降ろすよ」
「ありがとうジェイダン」
「本当に、もう一度ここで店をやるんだね」
「ええ、せっかくだもの。ニュータウン計画の工事が始まるまでは、ここでお菓子を焼きたいわ」

 その日、アンナの家には珍しい来客があった。日向潤一とその婚約者の牧村希美が、ついに式を挙げるのでそのウェディングケーキを頼みたいとやってきたのだ。アンナの中では日向とのトラブルに区切りがついたらしく、ふたりの結婚を祝い、快く仕事を引き受けた。

「宮岡さん、受けてくれてありがとう。希美がケーキはどうしても宮岡さんに頼みたいというもんだから」
「アンナさん、ありがとう。本当に楽しみにしているわ」

 希美はふんわりと笑い、アンナがその場で書いたラフデザインを見ると、頬を輝かせて喜んだ。希美はアンナの菓子を焼いているところを見たいといい、ふたりはキッチンに立った。そして作り方や材料、レシピなどの話をしていると、希美がふと言った。

「アンナさん、なんだか感じがわかったわね」
「え……?」
「前となんだか違う雰囲気よ」
「そうですか……?」

 希美もなにがとはっきり言葉にはできないようだ。

「でも、なんだかとても元気そう」

 アンナは笑った。

「それを言うなら、希美さんも前よりもっと幸せそうですよ」
「あら……。わかる?」

 ふたりはくすくすとじゃれあうように笑った。アンナは例によって、ふんだんにお菓子をお土産に包んで、ふたりを見送った。

 その日はそれからも来客が続いた。ナオミとナツキ、そして双子が二場牧師とともに和泉の家へその様子を見に来たのだ。アンナはうれしそうに焼き立ての菓子を振舞い、お茶を入れた。いつかのように双子たちは我先にと競いながら、端からお菓子を平らげていく。ナツキはお茶とお菓子を口にすると、はあ幸せとつぶやき、二場は一口食べるごとに、うむうむと目を閉じるのだった。ジェイダンはキッチンに立つアンナに背を向けて、ナオミの耳に顔を寄せた。

「ナオミさん、アンナの記憶のことですが……」
「いいんだよ。アンナにはなにも言わなくていい。消えたのがヒューの記憶だけでよかったじゃないか。呪いのせいなのか、ムツカ・ヒユの神が力を取り戻したせいなのか、それはよくわからないけどね……」
「エリナちゃんも、ヒューのことは、ぱったりと口にしなくなりました」
「そうかい……。案外あっさりしたもんだねぇ。ムツカ・ヒユの神は、はじめからそのつもりだったのかねぇ」

 ヒューのことを忘れたアンナが、お菓子の腕を落としたかというと、それはそうではなかった。客人たち、とくに小さなふたり組は、ジェイダンの分まで奪い取るほどにお菓子に夢中になった。アンナはそのあとも、アマンディーヌを二皿焼き上げ、お礼だといってホールでナオミたちと二場にそれぞれ持たせた。
 ナオミたちが帰ったあと、アンナは再びキッチンに立った。

「アンナ、まだ本調子じゃないんだから、そんなに張り切らなくても」
「ううん、なんだかすごく気分がすっきりしているの、作りたいのよ」

 アンナはいきいきと菓子作りに励んだ。ジェイダンはアンナの後ろ姿を見つめると、言いようのない気持ちが胸の中をよぎる。不安とも悲しみとも違う、切なさのような、なんだか不思議な気持ちだった。

(アンナ、君は本当にヒューのことをすべて忘れてしまったのか? ……あれほど君の人生に深く関わり、君を君たらしめていたことのはずなのに)

 ジェイダンにとっては、日向潤一と勘違いして嫉妬し続けた日々があり、いつまでもアンナと自分との間に立ちはだかる見えない壁だった。ヒューの正体を知った後も、粉砂糖に残った人型、宮岡姉妹と結ばれた契約。そして、過去に埋もれた泉の本当の名前。……
 ジェイダンにはヒューが見えない。ナオミや二場牧師のように気配を感じることもないし、マリヤのように音にも聞こえない。だが、ジェイダンは知っている。ヒューがアンナのそばに確かにいたことを。そして、きっと今もここにいることを。アンナの記憶からすべてが消え去った今も、ジェイダンの記憶の中には、そのことがはっきりと存在している。

(僕は死ぬまで忘れないだろう……)

 ジェイダンはしずかにアンナの背後に立つと、そっとアンナを抱きしめた。アンナの髪の匂いを嗅ぎながら、ジェイダンは消えてしまったアンナの記憶に、あるいは、ヒューに心で語りかけた。

(君が忘れてしまった君の大切の一部を、僕は死ぬまで忘れない。これからも、僕がずっと君の記憶を持ち続けるよ……。君が失ってしまったものは、僕が全部持っている。僕の一部は、君でできているんだよ、アンナ……)
「……だから、君は僕から離れることはできないんだよ。絶対に……」

 アンナは不意の抱擁に動揺し頬を染めたが、静かにそのぬくもりと感触を味わった。甘いささやき、ジェイダンの香り、大きな手とたくましい腕。アンナの心臓は早鐘を鳴らした。

「ジェイダン……」

 いつもなら慌てふためくところだが、今日のアンナは違った。ジェイダンの腕に手をやると、ジェイダンを見上げた。

「離れないわ、ジェイダン……。今日はあなたとの約束を守るわ……」

 次に頬を染めたのはジェイダンの方だった。

(……僕の見た夢を? ついに、アンナがその気になってくれた……!)

 ジェイダンは腕の中のアンナを見つめると、いざその唇に狙いをつけたが、アンナは、もうちょっと待ってて、と言ってお菓子作りに戻っていってしまった。ジェイダンは、にわかに急いた心を押さえなければならなかったが、それもそう長くはかからないはずだ。

(ああ、アンナ……。ようやく僕を受けいれてくれるんだね、僕はこの日を待っていた……!)

 シェイクはそばにある椅子に腰かけると、行儀よくそこで待った。まるで大きな犬のように。
 大きな犬が大人しく待っていると、携帯電話が鳴った。

「やあ、マリヤ。どうしたんだ?」
「ジェイダン、朗報よ! といっても……、フェイクが暴かれたという方が正しいけど」
「なにかな、僕はこれからちょっと手が離せない」
「手短に言うわね」

 アート不動産開発とタジミ建設の計画は、どうやらすべてディックが用意した虚構だったということがわかった。タジミ建設に宋という人物はおらず、またアート不動産開発やタジミ建設においても和泉地区ニュータウン建設への入札は検討段階であり、マリヤが見たような数々のプランはまだ土台にすら登っていない段階だという。戸川不動産の売買担当者に確認したところ、和泉地区住人への売買交渉もまだ開始もされていなかった。地元住民が会ったという戸川不動産の人物とは、あの日アンケート調査と称して地区を回った際のデッィク自身だった。ディックはいけしゃあしゃあと戸川不動産の名をかたって住人たちと会っていたのだった。

「……なんなんだ、それは……! ディックは一体何をしたかったんだ……!」
「昔から、こういう人なのよ、ディックは……」

 昔、大学時代のメンバーでゲームアプリが賞を獲ったとき、そのストーリーを書いた人物こそがディックだった。ディックはフェルナンドとイリアナが作ったシステムに、そのストーリーを提供しながら、メンバーの反応を楽しむのが好きな男だった。中でも、マリヤの反応にとくに関心を示し、マリヤが笑ったり驚いたりすることにひたすら情熱を傾けたのだ。メンバーのうち三人が会社を立ち上げたとき、もちろんディックもその仲間に誘われたが、ディックのやりたいことはそうではなかった。ディックの興味の中心はマリヤであり、彼が夢中になるのはマリヤを驚かしたり動揺させたりすることだったのだ。

「おかしなやつだな……。マリヤ、君は大丈夫か?」
「ええ、ベンがびしっといってくれたから。明日、大学時代の仲間のペットと、彼氏のカオが初めて日本に旅行に来るんだけど、ペットが言うには、デッィクが就職した日本の企業は有名なゲーム制作会社だっていうじゃない。まったく……、ゲームのシナリオはゲームの中だけでやってほしいわ。でなきゃ、こっちの身が持たないわよ」
「とにかく、現時点で、アート不動産開発とタジミ建設は、僕らの計画以上のものをなにも持ってもいないということだね」
「そういうことよ。安心したでしょ? じゃあ切るわね。あ、それからアンナにお菓子を二セットほど送ってくれるように言ってくれない? ふたりにお土産用にしたいの」
「わかった」

 今の話をアンナに話すと、目を丸くしながら、マリヤの友達って変わっているわね、といった。アンナのもっともな意見に、ジェイダンもただうなづいた。

「とりあえず、お土産分のお菓子も焼かなきゃね。ジェイダン、ごめんね、もう少し待ってて」
(待つよ、いくらでも……!)

 しばし先延ばしされたからといって機嫌を悪くするジェイダンではない。これまで、待ちに待たされた時間を思えば、このくらいは余裕の笑顔を保っていられるくらいだった。
 ようやくアンナが一通りの作業終え、お茶を入れなおした。そしてジェイダンの前にカップを置き、テーブルをはさんで椅子に座ると、にっこりとほほ笑んだ。

「お待たせ、ジェイダン。これで約束を守れるわ」

 アンナの言葉に、ジェイダンはすぐに席を立った。そして、アンナに迫るやそのほっそりした首に手を回した。アンナがびっくりしたように目を開き、ジェイダンを見た。

「な、なにするの、ジェイダン……!」
「約束を果たすんだよ。僕が見た夢の通りにしてくれるんだろ?」

 アンナは、はっと気がついたような顔をすると、慌てていった。

「違うわ! わたし、あなたのためにお菓子を作るっていう約束を……」

 その言葉に驚くのはジェイダンだった。

(……この期に及んで……、そっちか……!)

 なんという律儀。アンナの几帳面さにも困ったものだ。しかしジェイダンは譲らなかった。もう、一生分待った。誰にも邪魔はさせない。

「その約束は、後回しだ」

 ジェイダンのセクシーなささやきに、アンナはあっという間に魅惑の中に連れ込まれてしまった。

「君はもう二度と僕を退けることはできないよ」
「ええ……」

 アンナは頬を染め、うっとりといった。

「本当にわかってる……?」

 アンナは目を閉じることで返事を返した。そして、ジェイダンの誘いに身を任せた。



 ジェイダンははやる気持ちを抑えながら、ゆっくりとアンナの唇をはんだ。やわらかい。食べごろのフルーツソルベのように、やわらかだ。アンナは全神経でジェイダンのキスを感じた。頭の中は一瞬で真っ白になった。ジェイダンの手の熱さ、身体の重さ、香水の香り、そして唇の味わい。思考がすべて消えて、ただ存在だけになったようだ。アンナは首を上げ、口を開いた。

(もっとして、もっと……)

 言葉ではなく行動でそう示した。そのアンナの反応を見るとすぐさまジェイダンに火がついた。さくらんぼ色のつぼみがジェイダンの熱さと勢いでどんどん開かれていく。ふたりは次第に息をつく暇さえないほど激しいキスを求めあっていった。ジェイダンの唇に責められるたびに、歓喜がアンナの全身にわきあがった。

(こうしたかったの、ずっと、ずっと、こうしたかった……!)

 アンナのすべてがジェイダンのキスを迎合していた。ジェイダンの舌がアンナの中にすべりこんできたとき、アンナは不思議とシロップのような甘さを感じた。

(きて……、きて……!)

 アンナはただもう無心にジェイダンの唇に吸い付いていた。ジェイダンもアンナの唇と口内をむさぼる以外なにも考えられなかった。アンナの唇は熟れた果物のように甘美で、口の中はとろけ、舌は淫靡な爬虫類のようにどん欲に絡み合い、その摩擦は狂おしいほどに次なる欲望をそそりたてた。

(こんなキスはうまれてはじめてだ……!)

 流れ星のようにそう思った。ジェイダンの手は自然とアンナのブラウスのボタンを探した。すると、はっとしたようにアンナが叫んだ。
「だ、だめよっ!」
 アンナは慌ててブラウスのボタンをはずしかけたジェイダンの手を止めた。ジェイダンは素直に従ったその手でアンナの両手をからめ取ったが、その目は少しも従う様子はない。

「アンナ……」

 ジェイダンは甘くささやいて、アンナの首筋に顔をうずめた。熱くて柔らかい唇が首筋に触れると、びくんと電流が走ったかのようにアンナの全身が震えた。

「あっ、あっ」

 アンナの口から戸惑いと興奮とがないまぜになった上ずった声が漏れた。ジェイダンは身をよじるアンナをそのたくましい腕の中に閉じ込める。だが、アンナは必死になってジェイダンの体を押し返した。

「だめ、だめなのっ!」

 ジェイダンが切なそうにアンナを見つめた。

「まだ早かった?……」

 ようやくアンナと気持ちを確かめ合えたのに、正直、全開を目前にしていたアクセルを踏みとどまるのはつらかった。すると、アンナは顔を真っ赤にして、肩であらい息をついた。

「あの……、わたし……」

 ジェイダンはじっとアンナを見つめている。その熱い視線を見返すこともできず、とられたままの両手も自由にならない。アンナはただ困ったように身を固くしている。もう少し時間が必要そうだ、とジェイダンは思った。

「アンナ、気が進まないなら……」

 ジェイダンが言いかけると、アンナはそくざに染まった顔をあげて首を振った。

「ち、ちがうの! いやなんじゃないの、ただ……」

 見下ろすジェイダンにアンナはためらいがちに告白した。

「は、初めてだから、どうしていいかわからないの……」

 ジェイダンはそのセリフにさらに熱くなった。

(うばいたい……! ああ、今すぐ)

 アンナはジェイダンの胸に頭を押し付けると、はあはあ、と熱いため息をついた。

「わたし、もう、どきどきしすぎて、胸が爆発しそう……」
(……か、かわいすぎる……)

 爆発しそうだというそのアンナの胸の張りをまぢかに感じ、ジェイダンの全身はもだえた。ここでアンナの素直さを発揮されると、ジェイダンにとってはまったく拷問でしかなかった。それでもジェイダンは自我をこらえて、アンナをぎゅっと抱きしめその髪にキスをすることで何とか持ちこたえた。

「わかったよ……」

 しばらくそのまま抱き合っていると、緊張がほどけてきたのかアンナはジェイダンの腰に手を回した。

(う……っ)

 ジェイダンは一瞬びりっと背筋から下半身の筋肉にかけて走る緊張に身体を震わせた。腰をはうアンナの細い指。その感触がどれだけジェイダンを高ぶらせてるかなど、アンナは思いもよらないのだろう。そうでなくても、アンナはすっかり目を閉じて、その豊かな胸とやわらかなふとももをジェイダンの体にそわせている。その感触に、ジェイダンは理性に鞭を撃って固くなりそうな一点に集中させまいと神経を散らした。でなければ、このまま押し倒してしまいそうだった。

(アンナが体を許してくれるまでには、けっこうな時間がかかりそうだな……)

 ジェイダンは心の中で独り言ちた。するとアンナがそれを察したかのように、
「ジェイダン……。心の準備ができるまで、少し待っててくれる?」

「どれくらい?」

 思わず口から出ていた。すると、アンナは少し考えて、ジェイダンを見上げた。

「二年……くらい……?」
(……うそだろ!)

 返す言葉がみつからなかった。なんと、アンナの恋愛経験値から導き出した予測では、あと二年もこんな蛇の生殺し状態が続くという。しかしアンナにはてらいがあるわけではなく、しごくまじめに考えて出した予測なのだろう。それでも、二年とは……。しかし、こういうときこそ役立つのが弁護士時代の口八丁。有利な約束をアンナから勝ち取るのがこのジェイダンという男なのだ。ジェイダンはどう説得するべきが思案を始めた。
 アンナはじっとジェイダンの答えを待つように見つめていたが、ジェイダンはあらかさまにがっかりしたように姿を見て、どうやら二年がジェイダンにとっては長いらしいことを察した。すると、アンナはためらいと恥ずかしさを目いっぱい顔に浮かべて言った。

「で……、でも、もう一度キスしたら、もう少し早まるかも……」

 ジェイダンの体は即座に反応していた。ジェイダンはの手は素早くアンナの頬を包み、ふたりの唇は合わせ貝のようにぴたりと重なった。

(それならするよ、なんどでも……!)

 言葉で説得するよりも、このほうがずっといい。

(ああ、やめないで)

 しびれるようにアンナは思った。チョコレートガレットのいい香りが、次第に部屋をたち込めていく。甘い香りに抱かれて、ふたりはガレットが焼きあがるまで、お互いの甘美な唇を味わうのだった。
 しばらくして、電子オーブンが焼き上がりを知らせた。その電子音に理性を引き戻されたアンナが、ささやくようにいった。

「ガレットが焦げちゃうわ……」
「僕はもうずっと君に焦がれているよ」

 そういいながらも、ジェイダンはアンナを自由にした。ふたりは夢見心地のままにゆっくり離れると、アンナはオーブンから天板をとりだした。ジェイダンはしばらくアンナを見つめていたが、我慢できずにアンナを後ろからゆるく抱きしめた。

「気を付けて、火傷しちゃう」
「アンナ、僕に食べさせて……?」
「まだ熱いわよ」

 アンナはそういいながら、セルクルからガレットを外すと、少し冷ましてからジェイダンの口元にガレットを運んだ。ジェイダンはアンナを腕の中に囲いながら、アンナが身をよじり、ガレットを差し出す姿を眺めた。そして、アンナを見つめたまま、ジェイダンはアンナの指からガレットをひとくち口に入れた。その瞬間、ジェイダンはこの味を覚えていた。マリヤがとある職人の菓子だといって食べさせてくれたものの、その味わいだった。それだとはっきりわかるほど、アンナのガレットは味香り触感くちどけ、全てが際立っていた。

「君だったのか……」
「え……?」

 アンナはなんのことかわからないというような顔をしている。その雰囲気から察するに、アンナもマリヤがジェイダンにガレットを渡していたことを知らなかったらしい。

(僕は、はじめから、アンナのガレットを食べていたのか……)

 その瞬間、ジェイダンはすべての出来事が一つに流れに向かって結ばれていく感覚を覚えた。パーティで最悪の出会いを果たしてから三カ月以上経つというのに、何度となくアンナのお菓子を口にするチャンスを逃し続けてきた。改めて考えてみれば、いままで一口も食べることができなかったことが、もはやジェイダンの故意ではなかったことが不思議なくらいだ。

 ひょっとしたら、ヒューは初めから、こうなることがわかっていたのだろうか。マリヤの運んだガレットにより、ふたりは互いと知り合う前に出会い、ふたりの想いが結ばれた今、再びアンナのガレットが答え合わせのようにその役割を果たしたのだ。今日までの出来事は、すべて偶然などではなく、ヒューが泉を復活させるための一連の布石だったかのようだ。

 ジェイダンは思わず、見えないはずのその姿を探した。むろん、ジェイダンになにかが見えるわけでも聞こえるわけでもない。どうしたの、とアンナが不思議そうにジェイダンと部屋を交互に見わたしている。ナオミの言葉が頭の中で静かによみがえった。
 そんなことはわからない。――

 ジェイダンは、ふっと微笑み、アンナと見つめ、確かめるようにアンナをやさしく抱きしめた。アンナはそれに応えるように暖かな瞳でジェイダンを見つめ返す。ジェイダンにはムツカ・ヒユの神の気配というのがどんなものかはわからない。アンナは感じていたとしても、それがヒューだとはもうわからないのだろう。ジェイダンはただ、そこに流れている空気が、自分たちを祝福してくれているように感じた。

「アンナ、君のお菓子は最高だよ」
「ほんとう? 嬉しいわ。ようやくあなたに食べてもらえたわね」
「リクエストしてもいいかな。今度はもっと甘いやつ」
「ええ、もちろん。ここにあるもので作れるものなら」
「今僕の目の前にある。すごく甘そうだ」

 ジェイダンのブルーアイにとらわれ、アンナの思考はショコラのようにとろけた。

「ええどうぞ……、確かめてみて……」

 アンナの甘いつぶやきがもれると、ジェイダンはアンナを引き寄せ、くちびるにくちびるを重ね合わせた。








 アンナとジェイダンを最後まで見守り続けて下さった読者の皆様、本作を楽しんでいただきありがとうございました! 
 この後は、あとがきと閑話です。

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