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第一部
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翌日、唯香は、タケルとカラオケに行ったり買い物に行ったりして過ごした。夕食後、唯香が、ぼーっとテレビ画面を眺めていると、タケルが、唯香の顔色を窺いながら、恐る恐る、
「九時から観たい番組があるんだけど、観てもいいかなあ?」
と訊いてきたので、唯香は、「はい、どうぞー」と言いながら、タケルにリモコンを手渡した。時計の針が九時を指し示すとともに、テレビから、聴き慣れたオープニング曲が流れてきた。新進気鋭の若手ピアニスト、桐谷奏真が奏でる情熱的なピアノの音色がフォルテッシモで激しくコーダを響かせると、『熱情人』というオープニングタイトルが、金色の王冠を模したグラフィックの上に躍り出た。『熱情人』という番組は、各業界で旬な著名人が毎回取り上げられる高視聴率のドキュメンタリー番組だ。この番組で取り上げられるということは、その業界において、一流であることを意味している。海外と思われるコンサートホールで、ピアノ協奏曲をオーケストラと共演する黒髪の小柄な女性のピアニストの演奏シーンが映された途端、タケルが、
「やっぱり、違うの観る?」と訊いてきた。演奏を終え、コンサートホールから万雷の拍手が鳴り響き、小柄なピアニストは、マエストロやコンサートマスターと満面の笑みで抱擁を交わしている。
――紀伊せいら。三十歳。ピアニスト。
というテロップが画面に映し出された。
「なんで? 観ようよ。自分の嫁が『情熱人』に出演するなんてすごいじゃん!」
唯香は、感情が顔に出やすいタイプだ。きっと、怖ろしい形相をしていたのだろう。タケルは黙って頷くので精一杯の様子だった。唯香とタケルの男女の関係は、とっくの昔に終わっている。勿論、未練もない……と思っている。それでも、タケルが嫁や子どもの話をするのは唯香にとって面白いことでもないし、にこにこ笑みを浮かべながら、その話を聞くほど器用な人間でもない。だからと言って、こうして、腫れ物に触れるような扱いをされるのも、不憫な女と思われているようで癪なのだ。その後、唯香は、画面を食い入るようにみつめた。
(こんなおとなしそうな顔して“世界”も“男”も股にかけてるんだから、大した女よね)
と、腹の底で思いながら。
意地で番組を見続けていた唯香だったが、ある場面で、ふっと、憑き物が落ちたように心が軽くなった。それは、彼女が、世界各国の音楽仲間たちと、その土地の言葉(英語であったり、フランス語であったり、ロシア語であったり)で、ネイティブレベルの語学力でコミュニケーションをとっているシーンだった。高校二年の夏休みに行ったアメリカの短期留学での思い出が唯香の中で鮮明に蘇った。
(どうして、今まで、忘れていたんだろう?)
「ねえ、タケル」と呼び掛けると、タケルは、捨てられた子犬みたいにびくっとした。唯香の顔から険がとれたのを確認して安心したのだろう。タケルは安堵した様子で唯香の方を見た。
「せいらさんって、どうして、あんなに語学が堪能なの?」
「えっとね、確か、中学入学前まで、お義父さんの仕事の関係で、家族でイギリスとかアメリカとかに住んでたみたいだし、日本に戻って来てからも、海外のピアノコンクールに出場したり向こうの先生に師事したりしていたらしいから、自然といろんな国の言葉を覚えた……っていうか、死ぬ気で覚えざるを得なかった、って話してたよ。何か気になった?」
「ううん、なんでもない。そっか。せいらさん、努力もしてるんだね」
心の奥底で燻っていた感情に赤い灯が点るのを感じながら、唯香は、ひとりごとのように呟いた。
「九時から観たい番組があるんだけど、観てもいいかなあ?」
と訊いてきたので、唯香は、「はい、どうぞー」と言いながら、タケルにリモコンを手渡した。時計の針が九時を指し示すとともに、テレビから、聴き慣れたオープニング曲が流れてきた。新進気鋭の若手ピアニスト、桐谷奏真が奏でる情熱的なピアノの音色がフォルテッシモで激しくコーダを響かせると、『熱情人』というオープニングタイトルが、金色の王冠を模したグラフィックの上に躍り出た。『熱情人』という番組は、各業界で旬な著名人が毎回取り上げられる高視聴率のドキュメンタリー番組だ。この番組で取り上げられるということは、その業界において、一流であることを意味している。海外と思われるコンサートホールで、ピアノ協奏曲をオーケストラと共演する黒髪の小柄な女性のピアニストの演奏シーンが映された途端、タケルが、
「やっぱり、違うの観る?」と訊いてきた。演奏を終え、コンサートホールから万雷の拍手が鳴り響き、小柄なピアニストは、マエストロやコンサートマスターと満面の笑みで抱擁を交わしている。
――紀伊せいら。三十歳。ピアニスト。
というテロップが画面に映し出された。
「なんで? 観ようよ。自分の嫁が『情熱人』に出演するなんてすごいじゃん!」
唯香は、感情が顔に出やすいタイプだ。きっと、怖ろしい形相をしていたのだろう。タケルは黙って頷くので精一杯の様子だった。唯香とタケルの男女の関係は、とっくの昔に終わっている。勿論、未練もない……と思っている。それでも、タケルが嫁や子どもの話をするのは唯香にとって面白いことでもないし、にこにこ笑みを浮かべながら、その話を聞くほど器用な人間でもない。だからと言って、こうして、腫れ物に触れるような扱いをされるのも、不憫な女と思われているようで癪なのだ。その後、唯香は、画面を食い入るようにみつめた。
(こんなおとなしそうな顔して“世界”も“男”も股にかけてるんだから、大した女よね)
と、腹の底で思いながら。
意地で番組を見続けていた唯香だったが、ある場面で、ふっと、憑き物が落ちたように心が軽くなった。それは、彼女が、世界各国の音楽仲間たちと、その土地の言葉(英語であったり、フランス語であったり、ロシア語であったり)で、ネイティブレベルの語学力でコミュニケーションをとっているシーンだった。高校二年の夏休みに行ったアメリカの短期留学での思い出が唯香の中で鮮明に蘇った。
(どうして、今まで、忘れていたんだろう?)
「ねえ、タケル」と呼び掛けると、タケルは、捨てられた子犬みたいにびくっとした。唯香の顔から険がとれたのを確認して安心したのだろう。タケルは安堵した様子で唯香の方を見た。
「せいらさんって、どうして、あんなに語学が堪能なの?」
「えっとね、確か、中学入学前まで、お義父さんの仕事の関係で、家族でイギリスとかアメリカとかに住んでたみたいだし、日本に戻って来てからも、海外のピアノコンクールに出場したり向こうの先生に師事したりしていたらしいから、自然といろんな国の言葉を覚えた……っていうか、死ぬ気で覚えざるを得なかった、って話してたよ。何か気になった?」
「ううん、なんでもない。そっか。せいらさん、努力もしてるんだね」
心の奥底で燻っていた感情に赤い灯が点るのを感じながら、唯香は、ひとりごとのように呟いた。
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