憂悶日和

喜島 塔

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 会計を済ませて処方箋を受け取った私は、襤褸車を走らせ、世間から身を潜めるための家へと向かった。道すがら、母に買い物を頼まれていたことを思い出した私は、スーパーマーケットに車を停めた。
『キャベツ(二分の一) 豚バラ肉 人参 玉ねぎ もやし しょうゆ(減塩) 水 お茶 食パン』
 と、書かれたメモをバッグから取り出し、マスクを付け、黒いバケットハットを深めに被り、どうか、誰にも会いませんようにと、敬虔な信者のように祈りながら車を降りた。ふと、ノベルのことが心配になる。家を出てから四時間ほど経っている。家にノベルのお世話ができる人が居れば安心なのだが、父は猫嫌いだから頭数にカウントできない。昔、庭に入って来た野良猫を追い払おうとして縁台に乗って、シッシッ、シッシッ! などとやった拍子にバランスを崩し縁台から転げ落ち手首を骨折し入院したくらいの猫嫌いなのだから、寧ろ、ノベルと関わってくれない方が安心だ。母は、いちおう、ノベルのことを可愛いと思っているらしく、何かにつけて、私の部屋に入出して来て「ノベルちゃん、いい子でちゅねえ、可愛いねえ」などとケージの外から話し掛けているが、触れることは怖くてできないらしく、お世話をすることができないのだから、実質、私のワンオペということになる。とっとと買い物をやっつけて家に帰らなければ、と思った。私はメモにもう一度目を通し、入口からいちばん近い青果コーナーに足を向け、キャベツ、人参、玉ねぎ、もやしを、ポイポイと、ショッピングカートに乗せた買い物かごに投げ入れた。病院へ向かう道すがら立ち寄ったガソリンスタンドのスタッフから百円玉三枚をぞんざいに渡されたことを思い出して、腹の底から黒いもやもやした感情が突き上げてきた。一刻も早く、こんな、どうでもいい、つまらない用事は済ませて、ノベルのところに戻らなければと、私はショッピングカートを乱暴に押す。タイヤがカラカラと不協和音を奏でる。ふと、脳裏に、潰瘍性大腸炎で入退院を繰り返していた頃の記憶が過る。一日三度の食事の時間を報せる院内放送と配膳車が走る音、空きっ腹にこたえる食事の匂い……普通の人なら、入院時の記憶なんて思い出したくないに違いない。でも、私は、もう一度入院してみたいだなんて、不謹慎なことを思ってしまう。きっと普通じゃない、変人なのだろう。何もかもがくるくると狂っているのだろう。入院して俗世間から隔離されている間、私は、清廉な人間でいることができた。主治医をはじめとする医療スタッフはとても優しくて、私は、不思議と、普段、忌々しく思っている両親にも、ご年配の患者さんにも慈悲深く接することができた。模範的患者と言っても過言ではないほどに、私は、良き患者であったと自負している。それがなんだ? 退院した途端に、俗世間の毒にあてられて、吐瀉物がこみあげてくるときみたいな酸っぱい胃液が、臓物、血管、脳細胞、爪先、毛先までを、すっかり浸してしまって、私は、清廉から最もかけ離れた薄汚く、みすぼらしい人間に戻ってしまった。嗚呼、入院したい。入院したい。綺麗に消毒された病院のシーツみたいな清廉な人間に成りたい。そんなことを考えながら、ショッピングカートを走らせて精肉コーナーあたりで豚バラ肉を物色していた時、背後から、名前を呼ばれた気がした。きっと、気の所為に違いない。そうに決まっている。私は、何も聞こえませんでしたよ、という体を装って、豚バラ肉を物色している振りをした。正直、どの肉だって良いのだ。私は、料理などしないのだから。料理なんて、三十五歳の時に婚活で知り合って結婚を前提にお付き合いしていた男のためにしたのを最後に、ずっと、やっちゃいない。私は、どうしても、その男と結婚したくて、好きでもない、いや、大嫌いな料理を、それはもう一所懸命に頑張ったのだ。だって、昔ほどではないにしろ、伴侶が料理上手で厭だと思う男なんてそうはいない筈だもの。私は、食べることが、ちっとも好きではないのだから、その男との結婚の話が水泡に帰してしまった時点で、料理をやる必要性がなくなってしまった。だから、それ以降、私は一切、料理をしていない。
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