境界標の彼と終わらない怪異を

りく太

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1章:祭囃子

7(完)

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「沈めるってどうやって……?」

「簡単さ」

冬馬くんの口は月のように甲を描いていて、輝いていた。

「いいかい、僕たちはわざわざ禊をさせられたほど、あの神は“清らか”であることにこだわりを持っている。……逆に言えば、穢せばいいんだよ」

冬馬くんがそう言った時、彼の目はひどく冴えていた。焚き火のような熱を帯びたその光に、私は圧倒される。

「君、血を出せるかい?」

彼はそう問うた後、辺りを見回し、少し尖った石を投げてよこした。
当たり前の事のように言う冬馬くんに対して、私はごくりと唾を飲み込んだ。

白装束の袖をまくる。拾った石の破片を握る手が震えていた。

「……ちょっとだけ、なら」

手のひらに浅く刃をあて、そっと引いた。
ピリッと痛みが走り、じわりと赤い血が浮かぶ。

冬馬くんはその様子を楽しそうに見た後、私の手を強く掴み歪んだ神像の顔に押しつけた。

ギイィ……ッ。

周囲の空気が震え、歪んだ神像の目がわずかに動いた気がした。
どこからともなく目には見えないあたりの何かがざわめき、木造の拝殿が軋む。

「効いてる……っぽいね」

冬馬くんが笑う。けれどその笑いもすぐに冷静な声へと変わった。

「……名前でも、書いておやりよ」

「は?」

唐突な提案に私は声を上げた。

「ちょっと待ってよ、何それ。名前をつけろって事?」

「……今度は相談してくれてありがとう。だけも名前をつけるのよしてくれ。あれにさらに力をあたえるつもりなのかい?」

冬馬くんは呆れたように私を見つめた。

「ということは……書くのは私の、名前を?」

「そうさ。君の名前を書くんだ。
 名前もまた“穢れ”だ。
 君が自分の名前をあの神に書きつけるってことは君の意思で“神を穢す”って宣言になる」

「……冗談じゃない」

私は頭を振った。

けれど、そんな会話をしている最中も神像はじりじりと体を動かしていた。
怪異たちのささやき声が少しずつ下の大きさに戻りつつある。太鼓の音はいつしか狂ったテンポを刻んでいた。

「君。もう後戻りはできないよ。ほら、渡して」

冬馬くんが、私の手にある血を見つめる。

私は、震える手で、神像の額に――

「藤宮奈百合」と書いた。

ひと文字ごとに、指先から熱が逃げていくような感覚。
書き終えたとたん、神像がビクリと震え、祭囃子が一瞬、止まった。

「今のうちと、言いたいところなんだけどね……」

冬馬くんは困ったような顔をした。
その表情の意図に気がつき、私も同じように少し笑ってしまった。

「ねぇ冬馬くんは……この神、運べるかな……?」

問いかけると、冬馬くんは祭壇に置かれた神像を一瞥し、小さく鼻で笑った。

「そのつもりだけど、見た目以上に重そうだね」

私は神像の肩に手をかけ、持ち上げようとした。だが、像はびくともしなかった。どこか床と結びついているような、そんな抵抗を感じた。

「これ!……引きずるしかっ……!」

私は半ば苛立ちを押し殺すように力を入れた。冬馬くんも咄嗟に手を添えようとした。

その瞬間

石造の神像が前のめりに倒れ込む音とともに、木が割れる鈍く乾いた音が響いた。

私は息を呑んだ。

神像の“首”が、折れていた。

「……うわ……やっちゃったね、これ」

冬馬くんが苦笑を浮かべながら言った。
私は声も出せず、ただ神像の残骸を見つめていた。

その“顔”は、なおも笑っているように見えた。人と獣の合いの子のような双面の像。その片方が、ごろりと床に転がっている。

冬馬くんは、倒れた像の“首”を片手で拾い上げた。

「まぁ――これでもう、充分穢れたよね」

彼はその首を私に手渡しながら呟く。

「どうせ全部持ち出すのは無理だったし。なら、象徴だけで十分だよ」

「……そんなので、いいの?」

「意味は力だよ、藤宮さん。祭りも祈りも呪いも、ぜんぶ意味が先にある。
 ――行こう。全部、沼に返してあげようよ」

太鼓の音はもう、完全に調子を崩していた。ぐちゃぐちゃに潰れたテンポの中、異形のざわめきが遠くから追いすがってくるのがわかる。

私は頷き、彼の背に続いた。
像の首が衣越しに、微かに温かかった

私たちは拝殿を飛び出し、裏の沼へ向かって走った。

壊れた神社を背に、鬱蒼とした木々の間を駆ける。
背後から、再び祭囃子が響く。今度は、狂気じみたテンポで、追いすがるように迫ってくる。

風が重い。足がもつれる。けれど、止まれない。

沼にたどり着いた時、冬馬くんが振り返りもせず言った。

「終わらせてあげて」

私は彼の言葉を聞くと同時に、渇きに抱えていたその首を力一杯、沼に投げた。

――ズブン。

水面が泡立ち、沼全体がグラリと揺れた。

どこからともなく叫び声聞こえた。
其の音に釣られるように、ひとつ、またひとつと、祭囃子の音が水に引きずり込まれていく。

太鼓、笛、錫杖頭……足跡……気配…そして臭い…

やがて、全てが――止んだ。


先ほどの騒々しさが夢だったかのように静けさが広がる。
私は全身の力が抜けたように、その場にへたり込んだ。

「……終わったの?」

そう呟くと、冬馬くんも隣に座り、笑った。

「ああ。終わったよ」

「……結局、あれって……?」

「“逆供物”さ。神に喰われる前に、神を喰ってやるって理屈だよ」

「つまり……?」

「君、神を殺したね」

彼はアハアハと楽しそうに笑っていた。
私はもう何も考えられず、そのまま目を閉じた。



──耳元で、カップのぶつかる音がした。

目を開けると、そこはいつもの電車の車内だった。
朝の通勤時間帯。スーツ姿の人々に囲まれ、揺れる吊り革の列。窓の外を、見慣れた街並みが流れていく。

「……夢……?」

ぼんやりとそう思いかけたとき、カサリト手の中で音がなった。
慌てて開き見てみると、握られていたのは、白い紙で折られたあの“ヒトガタ”であった。

息を小さく呑み、折り目を開くと墨ではっきりと名前が書かれていた。

「冬馬」

その文字を見た瞬間、胸の奥にひやりとしたものが流れ込む。


私はひどい頭痛に襲われたているような錯覚をもち、無意識のうちに電車を降りていた。
会社に向かうはずの足は、別の方向へと向かっていた。

気がつくと、駅前の小さなカフェの前に立っていた。
曇ったガラス越しに、中の様子がうっすらと見える。

そして、その中に――彼を見つけた。

黒いズボン、黒い長袖。ラフな私服のようでもあり、どこか整いすぎていて仕事着のようにも見える。

……冬馬くん……?

心臓が跳ねた。
私はドアを開けると、早足で彼のもとへと向かった。

「冬馬くん……!」

その声に、彼はぴたりと手を止め、ゆっくりとこちらを振り返った。

まるで、最初から気づいていたかのように。

「……ああ、君か」

それだけ言って、ふっと目を細めた。
黒一色の服に包まれた姿は、日常の風景の中でどこか浮いて見えた。けれど、それが不自然とは思えなかった。

「ほんとに……いたんだ……」

私が呆然と呟くと、彼は軽く肩を竦めた。

「ごめんね“冬馬”って名前、偽名なんだよ」

「偽名……?」

「ああいう場所で本名を教えたら、戻れなくなるかもしれなかったからね」

彼はそう言うとイタズラがバレたかのように笑い、人差し指で机をトントンと軽く叩いた。

「え……?」

「本当の名前は……もう少し君が僕を信用してくれるようになったら教えてあげるよ」

からかうように言って、彼はマグカップを持ち直し、カウンターに軽く置いた。
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