無実の罪で謹慎中ですが、静かな暮らしが快適なので戻る気はありません

けろ

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第9話 静かな一日

第9話 静かな一日

 その日は、朝から夜まで、本当に何も起こらなかった。

 けれどエレシアにとっては、それこそが何より特別なことだった。

 目を覚まして最初にしたのは、今日の予定を思い出すことでも、急いで身を起こすことでもない。扉の向こうに人の気配がないことを確かめることだった。

 呼び出しはない。伝令の足音もない。時間を告げる声も、急かすような物音も聞こえてこない。

(……うん)

(今日も、何もないのね)

 そう確認してから、ようやくエレシアはゆっくりと上半身を起こした。

 焦る必要はない。急ぐ理由もない。その当たり前ではなかった事実が、今では朝の空気より自然に彼女の中へ馴染み始めている。

 ベッドを降りて窓辺に向かい、カーテンを少しだけ開く。外では庭の木々が風に揺れ、葉擦れの音がかすかに届いてきた。

 それだけだ。

 人の怒鳴り声も、忙しない指示も、慌ただしい足音もない。ただ風が吹いて、葉が揺れているだけ。

(……平和ね)

 その一言が、すとんと胸に落ちる。

 以前のエレシアなら、こんな朝を「無駄」だと思っていたかもしれない。何の予定も入っていない時間。役割も課題も与えられていない状態。それは空白でしかなく、そのままにしておくには落ち着かないものだった。

(何かしなきゃ)

(せめて、意味のあることを)

 そう考えて、自分から忙しさの中へ入っていこうとしていたはずだ。

 でも、今は違う。

(……意味なんて、いらないのね)

 そう思えるだけで、心が少し軽くなる。

 エレシアは顔を洗い、ゆっくりと髪を整え、身支度をした。誰に会うわけでもない。見せる相手がいるわけでもないし、評価されることもない。

 それでも、きちんと整える。

 それは義務ではなく、ただ自分がそうしたいからだった。

(これは、私のためでいいのよね)

 朝食は、いつも通り静かに運ばれてきた。使用人は無言で盆を置き、必要以上にこちらを見ることもなく一礼だけ残して出ていく。

 その距離感にも、もうすっかり慣れた。

「……いただきます」

 小さくそう呟いて、エレシアは食事に手をつける。

 誰に聞かせるためでもなく、習慣のようなその一言が、妙に穏やかだった。

 温かなスープを口にしながら、ふと考える。

(今日一日、私は何をするんだろう)

 問いの形をしているのに、答えはすぐに出た。

(……何もしない)

 それでいい。むしろ、それがいい。

 食事のあと、エレシアは窓辺へ椅子を運び、外を眺めながら静かに座った。遠くから人の声が聞こえる。城内の誰かが忙しそうに動いているのだろう。

(あの中に、私はいない)

 その事実が、なぜだかとても心地よかった。

 もし前世の自分なら、あのざわめきに引き寄せられていたかもしれない。何かをしていないと不安で、動いていない自分だけが取り残される気がして、落ち着いてなどいられなかっただろう。

 けれど今は違う。

 時間はゆっくり流れていた。時計を見る癖も、少しずつ薄れてきている。

(……急がなくていい)

(追われなくていい)

 そのことが、何より嬉しい。

 昼前になって、ふと思い立って本棚に手を伸ばした。取り出した本をぱらぱらとめくり、数ページ読んでみる。

 けれど、すぐに閉じた。

(……今じゃないわね)

 それでいいと思えた。

 誰にも「最後まで読みなさい」と言われない。途中で閉じても責められない。読むことも、読まないことも、自分で決めていい。

 それはとても自由なことだった。

 昼食もまた、静かに運ばれ、静かに終わった。

 午後になると、エレシアはベッドに腰掛けて、しばらく何もせず天井を見上げた。何か考えようとして、でもやめる。

(……考えなくてもいいのよね)

 未来のこと。処分のこと。王太子のこと。自分がどう見られているのか。そんなことを気にし始めれば、きっといくらでも不安になれる。

 けれど、今はそれをしなくていい。

 「何も起こらない」という状態は、最初こそ少し不安だった。本当にこのままでいいのか、何か見落としているのではないか、嵐の前の静けさなのではないか――そんな考えが頭をよぎることもあった。

 だが、その不安は日を追うごとに薄れていった。

 なぜなら、本当に何も起きないからだ。

 誰も彼女を探しに来ない。
 誰も彼女を必要としない。
 誰も彼女を責めない。

(……完璧な放置ね)

 そんなふうに考えて、少しだけ笑ってしまう。

 夕方になり、差し込む光の色が変わる。時間が過ぎたのだと分かるのは、それくらいのものだった。

 エレシアは窓際に立ち、静かに沈んでいく夕日を眺めた。

(今日、私は何かを成し遂げたかしら)

 自分に問いかけてみる。

 答えは、すぐに浮かんだ。

(……いいえ)

 何一つ、成し遂げていない。

 けれど、それを責めたいとは思わなかった。

(成し遂げなくて、いいもの)

 そう思えたことが、むしろ大きかった。

 夜になり、部屋に灯りがともる。エレシアはベッドに横になり、深く息を吸った。

(……疲れていない)

 それが、何より新鮮だった。

 前世では、一日が終わる頃には心も身体もすり減っていた。何かをやり切った満足感ではなく、ただ削られた結果として疲れ果てていた。

 けれど今は違う。

 何もしていないはずなのに、胸の内には不思議な満足感があった。

「……本当に」

 小さく声が漏れる。

「何も起きなかったわね」

 それは失望ではなかった。確認だった。

 この世界は、自分が何もしなくてもちゃんと回る。自分が動かなくても、誰も困らない。

 それは残酷な事実でもある。けれど同時に、救いでもあった。

 もう無理に頑張らなくていい。自分が背負わなくても、世界は勝手に回っていくのだ。

 エレシアは、そっと目を閉じた。

(……この一日)

(悪くなかった)

 いや、悪くないどころではない。

 とても、良かった。

 何も起きない。
 誰も来ない。
 何も求められない。

 それが今の彼女に与えられた一日だった。

 そしてエレシアは、少しずつ理解し始めていた。

 「何も起こらない世界」こそが、自分にとって最も安全で、最も優しい場所なのだと。

 こうして、ただ静かなだけの一日は、彼女の中で確かな価値を持つものとして、静かに積み重なっていくのだった。

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