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第10話 確信
第10話 確信
その日、エレシアはふとした違和感に気づいた。
「……あら?」
ベッドの上で身を起こしかけたまま、小さく首を傾げる。
何かがおかしい。けれど、それは悪い意味ではなかった。
しばらく考えて、ようやく分かる。
自分の中に、不安がなかったのだ。
目を覚ました瞬間から、心が静かだった。昨日と同じ。その前の日とも同じ。けれど今日は、その「同じ」がはっきりと意識できた。
(……慣れてきた、のかしら)
そう思って、すぐに違うと気づく。
これは、ただ慣れたのではない。
受け入れたのだ。
エレシアはベッドの上でゆっくり息を吐いた。
前世では、「何も起きない日」は不安の塊だった。仕事がない。連絡が来ない。評価されない。そういう日は、まるで自分が必要とされていない証拠のように思えて、落ち着くどころか、かえって苦しかった。
けれど今はどうだろう。
誰にも呼ばれない。誰にも求められない。誰にも期待されない。
それなのに、胸の奥は驚くほど穏やかだった。
(……必要とされていないのは、事実だけれど)
(それが、どうしたというの)
必要とされなければ生きていてはいけない、そんな決まりがあるわけでもない。なのに前世の自分は、ずっとそう思い込んでいたのだろう。
エレシアはベッドを降りると、窓辺に歩み寄ってカーテンを開けた。朝の空気が静かに流れ込んでくる。冷たすぎず、ぬるすぎず、ちょうどいい。
(……気持ちいい)
窓の外では、今日も王城が動いている。遠くで人が行き交い、誰かが慌ただしく働いているのが見える。けれど、その輪の中に自分はいない。
少し前までなら、そのことに居心地の悪さを覚えたかもしれない。取り残されたような気持ちになったかもしれない。
でも、今は違う。
そのとき、胸の内でひとつの言葉が、はっきりした形を持って浮かんだ。
(私は……何も起こらない世界が好きなのね)
それは、逃げでもなかった。諦めでもなかった。
ただの好みだ。
人と関わるのが嫌いなわけではない。けれど、深く関われば期待が生まれる。期待が生まれれば、応えなければならなくなる。応えられなければ、失望が生まれる。
そういう連なりを思うだけで、少し疲れてしまう。
(……もう、ああいうのはいいわ)
朝食が運ばれてくる。
使用人はいつも通り無言で盆を置き、必要以上の気配を残さず去っていった。
エレシアはその様子を見送りながら、静かに思う。
(この距離感、ちょうどいい)
踏み込まれない。詮索されない。励まされないし、責められない。
ただ必要なものだけが届いて、それで終わる。
それ以上、何を足す必要があるのだろう。
「……いただきます」
小さく呟いて、スープに口をつける。温かさが喉を通っていく感覚が、妙にやさしく感じられた。
前世では、「理想の生活」と呼ばれるものがたくさんあった。
成功すること。評価されること。高い地位を得ること。周囲に認められること。
けれど、そういうものはどれも、自分を満たすより先に疲れさせた。
頑張っても終わりがない。求められるたびに応え続けなければならない。ようやくひとつ越えたと思ったら、また次が待っている。
それを積み上げた先に、本当に欲しかったものがあったのかと言われれば、エレシアにはもう分からなかった。
今はどうだろう。
誰にも期待されない。
誰にも評価されない。
誰にも干渉されない。
誰にも責任を負わされない。
そんな状態を、普通なら不幸だと言うのかもしれない。
けれどエレシアは、心の底から思った。
(……完璧じゃない)
その瞬間、胸の奥がすとんと落ち着いた。
もう、何かを足そうという気持ちが湧いてこない。
(これ以上、何もいらないわ)
昼になっても、何も起こらなかった。
午後になっても、何も起こらなかった。
夕方になっても、やはり何も起こらなかった。
以前なら、それを退屈だと思ったかもしれない。何かが足りないと感じたかもしれない。
でも、今はまるで違う。
(静かね)
(ただ、静かだわ)
それが心地いい。
世界は彼女を急かさない。役割を押しつけない。何かになれとも、何かを証明しろとも言わない。
そのことに気づいたとき、エレシアはようやく完全に理解した。
これは、罰ではない。
祝福なのだ。
もちろん、王太子はそんなつもりで命じたわけではないだろう。秩序を守るため、都合よく遠ざけるため、彼女に無期限謹慎を命じたに過ぎない。
けれど結果としてエレシアに与えられたのは、前世でも今世でも一度も手に入れられなかったものだった。
完全な静寂。
完全な自由。
夜になり、部屋に明かりがともる。
エレシアはベッドに腰掛けたまま、静かに微笑んだ。
(……これ、理想の生活じゃないかしら)
誰も来ない。
何も起こらない。
何も求められない。
それでも世界は続いていく。
エレシアが何もしなくても、朝は来て、昼が過ぎて、夜になる。
だったら、もう無理に何かになろうとしなくていい。
(私は、このままでいい)
いや、違う。
(……このままが、いい)
そこまで思った瞬間、その確信はもう揺るがなかった。
無期限謹慎。
それは彼女を閉じ込めるための檻ではない。
世界の騒がしさから、彼女を解放するための扉だったのだ。
エレシアは灯りを落とし、静かに横になる。
やわらかな闇の中で、胸の内に残るのは不安ではなく、穏やかな満足感だけだった。
(……何も起こらない世界)
(これこそ、最高ね)
その言葉を心の中で繰り返しながら、エレシアは静かな眠りへと落ちていった。
その日、エレシアはふとした違和感に気づいた。
「……あら?」
ベッドの上で身を起こしかけたまま、小さく首を傾げる。
何かがおかしい。けれど、それは悪い意味ではなかった。
しばらく考えて、ようやく分かる。
自分の中に、不安がなかったのだ。
目を覚ました瞬間から、心が静かだった。昨日と同じ。その前の日とも同じ。けれど今日は、その「同じ」がはっきりと意識できた。
(……慣れてきた、のかしら)
そう思って、すぐに違うと気づく。
これは、ただ慣れたのではない。
受け入れたのだ。
エレシアはベッドの上でゆっくり息を吐いた。
前世では、「何も起きない日」は不安の塊だった。仕事がない。連絡が来ない。評価されない。そういう日は、まるで自分が必要とされていない証拠のように思えて、落ち着くどころか、かえって苦しかった。
けれど今はどうだろう。
誰にも呼ばれない。誰にも求められない。誰にも期待されない。
それなのに、胸の奥は驚くほど穏やかだった。
(……必要とされていないのは、事実だけれど)
(それが、どうしたというの)
必要とされなければ生きていてはいけない、そんな決まりがあるわけでもない。なのに前世の自分は、ずっとそう思い込んでいたのだろう。
エレシアはベッドを降りると、窓辺に歩み寄ってカーテンを開けた。朝の空気が静かに流れ込んでくる。冷たすぎず、ぬるすぎず、ちょうどいい。
(……気持ちいい)
窓の外では、今日も王城が動いている。遠くで人が行き交い、誰かが慌ただしく働いているのが見える。けれど、その輪の中に自分はいない。
少し前までなら、そのことに居心地の悪さを覚えたかもしれない。取り残されたような気持ちになったかもしれない。
でも、今は違う。
そのとき、胸の内でひとつの言葉が、はっきりした形を持って浮かんだ。
(私は……何も起こらない世界が好きなのね)
それは、逃げでもなかった。諦めでもなかった。
ただの好みだ。
人と関わるのが嫌いなわけではない。けれど、深く関われば期待が生まれる。期待が生まれれば、応えなければならなくなる。応えられなければ、失望が生まれる。
そういう連なりを思うだけで、少し疲れてしまう。
(……もう、ああいうのはいいわ)
朝食が運ばれてくる。
使用人はいつも通り無言で盆を置き、必要以上の気配を残さず去っていった。
エレシアはその様子を見送りながら、静かに思う。
(この距離感、ちょうどいい)
踏み込まれない。詮索されない。励まされないし、責められない。
ただ必要なものだけが届いて、それで終わる。
それ以上、何を足す必要があるのだろう。
「……いただきます」
小さく呟いて、スープに口をつける。温かさが喉を通っていく感覚が、妙にやさしく感じられた。
前世では、「理想の生活」と呼ばれるものがたくさんあった。
成功すること。評価されること。高い地位を得ること。周囲に認められること。
けれど、そういうものはどれも、自分を満たすより先に疲れさせた。
頑張っても終わりがない。求められるたびに応え続けなければならない。ようやくひとつ越えたと思ったら、また次が待っている。
それを積み上げた先に、本当に欲しかったものがあったのかと言われれば、エレシアにはもう分からなかった。
今はどうだろう。
誰にも期待されない。
誰にも評価されない。
誰にも干渉されない。
誰にも責任を負わされない。
そんな状態を、普通なら不幸だと言うのかもしれない。
けれどエレシアは、心の底から思った。
(……完璧じゃない)
その瞬間、胸の奥がすとんと落ち着いた。
もう、何かを足そうという気持ちが湧いてこない。
(これ以上、何もいらないわ)
昼になっても、何も起こらなかった。
午後になっても、何も起こらなかった。
夕方になっても、やはり何も起こらなかった。
以前なら、それを退屈だと思ったかもしれない。何かが足りないと感じたかもしれない。
でも、今はまるで違う。
(静かね)
(ただ、静かだわ)
それが心地いい。
世界は彼女を急かさない。役割を押しつけない。何かになれとも、何かを証明しろとも言わない。
そのことに気づいたとき、エレシアはようやく完全に理解した。
これは、罰ではない。
祝福なのだ。
もちろん、王太子はそんなつもりで命じたわけではないだろう。秩序を守るため、都合よく遠ざけるため、彼女に無期限謹慎を命じたに過ぎない。
けれど結果としてエレシアに与えられたのは、前世でも今世でも一度も手に入れられなかったものだった。
完全な静寂。
完全な自由。
夜になり、部屋に明かりがともる。
エレシアはベッドに腰掛けたまま、静かに微笑んだ。
(……これ、理想の生活じゃないかしら)
誰も来ない。
何も起こらない。
何も求められない。
それでも世界は続いていく。
エレシアが何もしなくても、朝は来て、昼が過ぎて、夜になる。
だったら、もう無理に何かになろうとしなくていい。
(私は、このままでいい)
いや、違う。
(……このままが、いい)
そこまで思った瞬間、その確信はもう揺るがなかった。
無期限謹慎。
それは彼女を閉じ込めるための檻ではない。
世界の騒がしさから、彼女を解放するための扉だったのだ。
エレシアは灯りを落とし、静かに横になる。
やわらかな闇の中で、胸の内に残るのは不安ではなく、穏やかな満足感だけだった。
(……何も起こらない世界)
(これこそ、最高ね)
その言葉を心の中で繰り返しながら、エレシアは静かな眠りへと落ちていった。
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