72 / 104
弟子と母親編
使えない魔法
大人になるにつれ、その理解は深まった。
母は家を出て行った夫の血を引く娘と同じ屋根の下で暮らすことに嫌気が差していたのだろう。その心情は静かな波のように確実に彼女の中に浸透していた。
初めは記憶を失っていたのは真実なのかもしれない。あの苦しみから逃れるために心が自己防衛を図ったのだろう。
冒険者の男に保護され、新たな家族を得た母は過去の痛みを忘れ、第二の人生を歩み始めた。エルフである彼女は若く美しい姿を保ったまま、再出発を果たすことができた。
エルフの夫婦の中には長い人生を重ねるうちに飽きてしまい、互いの縁を切って新しい相手とやり直す者も少なくないと耳にしたことがある。
そうした話を聞くたび、胸に不安の影が落ちる。
(私はそうなりたくない……)
突然、恐怖が心を襲った。アステルとシリウスは同じ長命の種族だ。死別ではなく、別れの可能性が待ち受けていることを考えると胸が締め付けられる。
誰かが言っていた言葉が頭をよぎった。
『片方が短命の種族であれば美しい夫婦のまま終わりを迎えられる』
その理由は嫌いになる前に一方が命を終えるからだ。病や寿命という自然の流れの中で多少の不満があったとしても、夫婦の絆だけはいつまでも維持されると。
アステルはずっとシリウスやステラと共にいたいと願っている。しかし、その願いすら叶わないかもしれないと考えると恐怖は一層膨れ上がる。まるで冷たい霧が心を覆い、逃げ場を失ったような気持ちだった。
恐れはしっかりとその根を下ろし、彼女の心を離さなかった。
◆
シリウスはしばらくの間、遠征で国の外へ行くことになった。アステルに大量の薬を作って欲しいとの依頼が舞い込んできたのはそのためだろう。
アステルの薬は騎士団の中でも重宝されており、彼女の薬が切れると周囲から困った声が多く上がるという。
いつもの作業部屋でアステルは黙々と薬の調合に取り組んでいた。最後の仕上げに魔法を使おうとしたその瞬間、彼女の心の中に不穏な影が忍び寄った。魔法が発動できない。
精神が不安定である時、魔力は満ちていても魔法の発動には支障をきたすことがあるのだ。
「どうしたんですか?」
「ごめんなさい、魔法が上手く使えなくなったみたいなの。最後だけお願いできる?」
不審に思ったケルヴィンが調合用の鍋の中を覗き込むとアステルは申し訳なさそうに仕上げの魔法を彼にお願いした。
「……?いいですけど」
ケルヴィンは不思議そうな顔で了承すると薬の仕上げを行なった。エルフの弟子をとっておいてよかったと、心から思った瞬間である。
アステルの不調は明らかに母との再会が引き金になっていた。
それ以来、彼女は心ここにあらずといった様子でどこか上の空になることが多くなった。
今の自分が幸せだから大丈夫だと自らを励ましても心の奥底では両親に対する憎悪が芽生えているのかもしれない。
あのクッキーの味は今も忘れられず、眠るたびに父が家を出た時や、母を探して森の中を彷徨う悪夢に苛まれる。
その影響で、最近はほとんど眠れていなかった。心が弱っているのか、日常の簡単な家事ですら失敗が続く。
大量の回復薬の作成は予想以上に時間がかかり、納期ギリギリまで引き延ばされてしまった。
「はい、確かに受け取りました」
道具屋への薬を納品し終えたアステルはほっと一息つく。このまま魔法が使えない状態が続けば仕事のやり方を変えざるを得なくなるかもしれない。
「騎士の方たちは遠征に行きましたね」
「ええ、シリウス……騎士団はどこに行くのか聞いていますか?」
「重要任務だから誰も教えてくれませんでしたよ」
「そうですよね」
アリサとのやり取りにアステルは苦笑を返した。騎士団の任務内容は極秘であり、外部に漏らすことは許されないため、彼らはただ「遠征に行く」と告げるだけで詳しいことは話さない。
「あの……」
「すみません!」
魔法が使えなくなったことをアリサに伝えようと口を開きかけたその時、道具屋の扉が勢いよく開かれ、冒険者の男・リョウイチが慌てて飛び込んできた。
「どうしましたか?」
息を切らせたリョウイチは、何かをアリサに伝えるために声を絞り出した。
「娘が急に苦しみだしてしまったんです!薬をお願いできますか!?」
その彼の言葉が意味するのは、兎獣人の娘、コルルのことだった。
「落ち着いてください。症状を詳しく教えてください」
「はい、コルルの症状は……」
アリサはリョウイチから詳しい話を聞き、素早く症状を紙にメモした。
「獣人用の医者はまだ隣国から帰って来ないんですか?」
「犬獣人専門ならいましたが……兎獣人も診られる医師は二日後には戻ってくる予定です」
焦るリョウイチにアリサは首を振った。獣人の扱いは難しく、現在王都にいる医師団の大半は隣国での患者対応に追われているそうだ。
「アステルさん、申し訳ありませんが、彼の宿まで同行していただけないでしょうか?」
「お願いします!報酬はいくらでもお支払いしますので!」
「……わかりました。連れていきたい人がいるので、場所だけ教えてください」
二人に深刻な顔で頼まれたアステルは、心の中で葛藤を抱えながらも、彼らのために手を差し伸べる決意を固めた。
母は家を出て行った夫の血を引く娘と同じ屋根の下で暮らすことに嫌気が差していたのだろう。その心情は静かな波のように確実に彼女の中に浸透していた。
初めは記憶を失っていたのは真実なのかもしれない。あの苦しみから逃れるために心が自己防衛を図ったのだろう。
冒険者の男に保護され、新たな家族を得た母は過去の痛みを忘れ、第二の人生を歩み始めた。エルフである彼女は若く美しい姿を保ったまま、再出発を果たすことができた。
エルフの夫婦の中には長い人生を重ねるうちに飽きてしまい、互いの縁を切って新しい相手とやり直す者も少なくないと耳にしたことがある。
そうした話を聞くたび、胸に不安の影が落ちる。
(私はそうなりたくない……)
突然、恐怖が心を襲った。アステルとシリウスは同じ長命の種族だ。死別ではなく、別れの可能性が待ち受けていることを考えると胸が締め付けられる。
誰かが言っていた言葉が頭をよぎった。
『片方が短命の種族であれば美しい夫婦のまま終わりを迎えられる』
その理由は嫌いになる前に一方が命を終えるからだ。病や寿命という自然の流れの中で多少の不満があったとしても、夫婦の絆だけはいつまでも維持されると。
アステルはずっとシリウスやステラと共にいたいと願っている。しかし、その願いすら叶わないかもしれないと考えると恐怖は一層膨れ上がる。まるで冷たい霧が心を覆い、逃げ場を失ったような気持ちだった。
恐れはしっかりとその根を下ろし、彼女の心を離さなかった。
◆
シリウスはしばらくの間、遠征で国の外へ行くことになった。アステルに大量の薬を作って欲しいとの依頼が舞い込んできたのはそのためだろう。
アステルの薬は騎士団の中でも重宝されており、彼女の薬が切れると周囲から困った声が多く上がるという。
いつもの作業部屋でアステルは黙々と薬の調合に取り組んでいた。最後の仕上げに魔法を使おうとしたその瞬間、彼女の心の中に不穏な影が忍び寄った。魔法が発動できない。
精神が不安定である時、魔力は満ちていても魔法の発動には支障をきたすことがあるのだ。
「どうしたんですか?」
「ごめんなさい、魔法が上手く使えなくなったみたいなの。最後だけお願いできる?」
不審に思ったケルヴィンが調合用の鍋の中を覗き込むとアステルは申し訳なさそうに仕上げの魔法を彼にお願いした。
「……?いいですけど」
ケルヴィンは不思議そうな顔で了承すると薬の仕上げを行なった。エルフの弟子をとっておいてよかったと、心から思った瞬間である。
アステルの不調は明らかに母との再会が引き金になっていた。
それ以来、彼女は心ここにあらずといった様子でどこか上の空になることが多くなった。
今の自分が幸せだから大丈夫だと自らを励ましても心の奥底では両親に対する憎悪が芽生えているのかもしれない。
あのクッキーの味は今も忘れられず、眠るたびに父が家を出た時や、母を探して森の中を彷徨う悪夢に苛まれる。
その影響で、最近はほとんど眠れていなかった。心が弱っているのか、日常の簡単な家事ですら失敗が続く。
大量の回復薬の作成は予想以上に時間がかかり、納期ギリギリまで引き延ばされてしまった。
「はい、確かに受け取りました」
道具屋への薬を納品し終えたアステルはほっと一息つく。このまま魔法が使えない状態が続けば仕事のやり方を変えざるを得なくなるかもしれない。
「騎士の方たちは遠征に行きましたね」
「ええ、シリウス……騎士団はどこに行くのか聞いていますか?」
「重要任務だから誰も教えてくれませんでしたよ」
「そうですよね」
アリサとのやり取りにアステルは苦笑を返した。騎士団の任務内容は極秘であり、外部に漏らすことは許されないため、彼らはただ「遠征に行く」と告げるだけで詳しいことは話さない。
「あの……」
「すみません!」
魔法が使えなくなったことをアリサに伝えようと口を開きかけたその時、道具屋の扉が勢いよく開かれ、冒険者の男・リョウイチが慌てて飛び込んできた。
「どうしましたか?」
息を切らせたリョウイチは、何かをアリサに伝えるために声を絞り出した。
「娘が急に苦しみだしてしまったんです!薬をお願いできますか!?」
その彼の言葉が意味するのは、兎獣人の娘、コルルのことだった。
「落ち着いてください。症状を詳しく教えてください」
「はい、コルルの症状は……」
アリサはリョウイチから詳しい話を聞き、素早く症状を紙にメモした。
「獣人用の医者はまだ隣国から帰って来ないんですか?」
「犬獣人専門ならいましたが……兎獣人も診られる医師は二日後には戻ってくる予定です」
焦るリョウイチにアリサは首を振った。獣人の扱いは難しく、現在王都にいる医師団の大半は隣国での患者対応に追われているそうだ。
「アステルさん、申し訳ありませんが、彼の宿まで同行していただけないでしょうか?」
「お願いします!報酬はいくらでもお支払いしますので!」
「……わかりました。連れていきたい人がいるので、場所だけ教えてください」
二人に深刻な顔で頼まれたアステルは、心の中で葛藤を抱えながらも、彼らのために手を差し伸べる決意を固めた。
あなたにおすすめの小説
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
「私に愛まで望むとは、強欲な女め」と罵られたレオノール妃の白い結婚
きぬがやあきら
恋愛
「私に愛まで望むな。褒賞に王子を求めておいて、強欲が過ぎると言っている」
新婚初夜に訪れた寝室で、レオノールはクラウディオ王子に白い結婚を宣言される。
それもそのはず。
2人の間に愛はないーーどころか、この結婚はレオノールが魔王討伐の褒美にと国王に要求したものだった。
でも、王子を望んだレオノールにもそれなりの理由がある。
美しく気高いクラウディオ王子を欲しいと願った気持ちは本物だ。
だからいくら冷遇されようが、嫌がらせを受けようが心は揺るがない。
どこまでも逞しく、軽薄そうでいて賢い。どこか憎めない魅力を持ったレオノールに、やがてクラウディオの心は……。
すれ違い、拗れる2人に愛は生まれるのか?
焦ったい恋と陰謀+バトルのラブファンタジー。
王宮地味女官、只者じゃねぇ
宵森みなと
恋愛
地味で目立たず、ただ真面目に働く王宮の女官・エミリア。
しかし彼女の正体は――剣術・魔法・語学すべてに長けた首席卒業の才女にして、実はとんでもない美貌と魔性を秘めた、“自覚なしギャップ系”最強女官だった!?
王女付き女官に任命されたその日から、運命が少しずつ動き出す。
訛りだらけのマーレン語で王女に爆笑を起こし、夜会では仮面を外した瞬間、貴族たちを騒然とさせ――
さらには北方マーレン国から訪れた黒髪の第二王子をも、一瞬で虜にしてしまう。
「おら、案内させてもらいますけんの」
その一言が、国を揺らすとは、誰が想像しただろうか。
王女リリアは言う。「エミリアがいなければ、私は生きていけぬ」
副長カイルは焦る。「このまま、他国に連れて行かれてたまるか」
ジークは葛藤する。「自分だけを見てほしいのに、届かない」
そしてレオンハルト王子は心を決める。「妻に望むなら、彼女以外はいない」
けれど――当の本人は今日も地味眼鏡で事務作業中。
王族たちの心を翻弄するのは、無自覚最強の“訛り女官”。
訛って笑いを取り、仮面で魅了し、剣で守る――
これは、彼女の“本当の顔”が王宮を変えていく、壮麗な恋と成長の物語。
★この物語は、「枯れ専モブ令嬢」の5年前のお話です。クラリスが活躍する前で、少し若いイザークとライナルトがちょっと出ます。
【完結】「元カノが忘れられないんでしょう?」と身を引いた瞬間、爽やか彼氏の執着スイッチが入りました
恋せよ恋
恋愛
「元カノが忘れられないなら、私が身を引くわくべきよね」
交際一周年、愛するザックに告げた決別の言葉。
でも、彼は悲しむどころか、見たこともない
暗い瞳で私を追い詰めた。
「僕を捨てる? 逃げられると思っているの、アン」
私の知る爽やかな王子の仮面が剥がれ落ち、
隠されていた狂おしいほどの独占欲が牙を剥く。
🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。
🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。
🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。
🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。
🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!
王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る
家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。
しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。
仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。
そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。
王宮の万能メイド、偏屈魔術師を餌付けする
葉山あおい
恋愛
王宮で働く勤続八年のメイド、エレナ・フォスター。仕事は完璧だが愛想がない彼女は、いつしか「鉄の女」と呼ばれ恐れられていた。
そんな彼女に下された辞令は、王宮の敷地内にありながら「魔窟」と呼ばれる『北の塔』の専属メイドになること。そこの主である宮廷魔術師団長・シルヴィス・クローデルは、稀代の天才ながら極度の人嫌い&生活能力ゼロの偏屈男だった!
ゴミ屋敷と化した塔をピカピカに掃除し、栄養失調寸前の彼に絶品の手料理を振る舞うエレナ。黄金色のオムレツ、とろける煮込みハンバーグ、特製カツサンド……。美味しいご飯で餌付けされた魔術師様は、次第にエレナへの独占欲を露わにし始めて――?
意地悪な聖女や侯爵夫人のいびりも、完璧なスキルで華麗に返り討ち。平民出身のメイドが、身分差を乗り越えて幸せな花嫁になるまでの、美味しくて甘いシンデレラストーリー。
死ぬまでに叶えたい十の願い
木風
恋愛
「あなたを妻として、愛することはない。おそらく、生涯抱くこともないだろう」
三年間の白い結婚——捨て置かれた王太子妃エリアーナに、側妃が『死の呪い』をかけ余命一年を宣告する。
離縁を願うも拒否され、代わりに「死ぬまでに十の願いを叶えて」と契約する——
二人きりの外出、星空、海…ささやかな願いが王太子の心をほどいていく。