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再婚編
12
目を閉じればヴィクトル様の声も表情もはっきりと思い出せた。後悔と恐怖の間の中で夜は永遠のように長く続いた。
「朝……」
朝の光がカーテンの隙間から差し込むと、新しい朝が来たのだと実感をする。
天井を見上げながら、私はゆっくりと体を起こす。ここはヴィクトル様の部屋だ。
夜のうちに自分の部屋へ戻るべきだったのかもしれないと、今更そう思う。
それなのに立ち上がる勇気も扉を開ける力もその時の私には残っていなかった。ただ静かに夜の中で時間が過ぎるのを待つしかなかった。
どれほど浅い眠りを繰り返しただろう。朝になっても心はまだ落ち着かないままだ。後悔と、少しの安堵と、どうしようもない寂しさが入り混じっていた。
「どうぞ……」
ノックの音が静かに響く。返事をするとそこにヴィクトル様が立っていた。昨日と同じ姿。
「……起きていたか」
ヴィクトル様が部屋の中に入ってくる。近くで見ると、その表情はどこか疲れて見える。
「昨日は……一人にして、すまなかった」
ヴィクトル様が謝っている。そんな様子にまだ慣れなくて、不思議な感覚が広がっていく。
以前なら、謝罪なんて絶対にしない人だった。どれほど私が傷ついても「悪かった」と一言もなかった。なのに今、こんなに静かに真っ直ぐな瞳で。
本当に変わろうとしてくれているんだなと思う反面、落ち着かない。それは不快とか不安とか、そういうものじゃない。
ただ、私が知っていたヴィクトル様と、目の前にいるヴィクトル様の違いにまだ馴染めなくて少しだけ戸惑っている。
「いいえ……謝るの私の方です。私から頼んだのにごめんなさい……」
私はベッドの上で膝の上に手を重ねて謝罪を返した。昨晩このことは拒んでしまった私が本当に悪かったのだから。
「……俺は他人を愛したことがない」
ヴィクトル様はベッドのそばに立ったまま視線を落とした。
私との距離はほんの少し。けれど、そのわずかな空間が痛いほど遠くに感じた。
「どうしていいのか、わからない」
ヴィクトル様の声から重たい不安と迷いが滲み出ていた。
寡黙でどんなことにも動じず、常に強くあろうとする人。そんなヴィクトル様が私の前でだけ酷く脆くなってしまう。あの日……最後に別れた日を思い出す。
幼い頃に親族から見放されたと言っていた。誰にも頼れず、誰にも期待できないまま、生きてきた。他人を愛さなくても生きていけた。
誰かに心を向けることに対して意味を見いだせなかったのかもしれない。
そんなヴィクトル様が私にこんな言葉をこぼすなんて、信じられないことなのだ。
どうして、私なんかがヴィクトル様の心の奥にある小さな弱さを私が引き出してしまったのだろうか。
私は何も持っていない。強くもなれず、誰かを導くこともできず、ただ守られることしか知らない、日陰者なのに。
「……私もよくわからないです……だから、一緒に……頑張りましょう」
愛すること、愛されること。私にもまだ、その本当の形がわからない。
私がもらった愛情はミーティアお姉様から。あの人だけが私に優しくしてくれた。
何も持っていなかった私に言葉をくれて、ぬくもりをくれて。でも、その愛情の正体は結局、最後まで理解できなかった。見返りを求めなかったからこそ、余計にわからなかった。
最後にエレノアお姉様が教えてくれた。ミーティアお姉様は私を甘やかすことで堕落させようとしていたのだと言っていた。
本当にそうだったのか、それとも……違う何かがあったのか。今となって確かめる術はない。
だから私は目の前で黙って立つヴィクトル様と少しずつでも向き合っていくしかない。
◆
朝食の時間。テーブルに磨き上げられた銀器と温かなスープの香りが漂っていた。その空気はどこか張り詰めている。
「ヴィクトル様、本日の予定はこちらに……」
執事が差し出した書類をヴィクトル様は無言で受け取る。
その顔は先ほどまでとまるで違っていた。冷たく、厳格で、威圧感に満ちていて、周囲の従者たちは誰もが目を伏せ、言葉を選びながら動いている。
私はナイフとフォークを手にしながら、静かにヴィクトル様を見つめた。その顔に感情の一片も浮かんでいない。冷徹な軍人。誰にも弱みを見せない完璧な支配者。
ほんの数時間前に私に向かって「どうしていいのか、わからない」と戸惑いを見せていた人と同じ人物だとはとても思えない。
怖い。今の目に見つめられたら、何も言えなくなってしまいそうなほどに。
でも、不思議なことにその姿を見ていると、どこか安心もしてしまう。
誰も近づけない強さ。その中に私は確かに守られている気がしていたから。
◆
私は静かに階段を降りて行き、広い玄関ホールでヴィクトル様を見送る準備をした。
使用人達が出発の支度を手早く整えていたが、私と目が合うとヴィクトル様の視線一つで、全員がすっと頭を下げ、その場を離れていく。
ヴィクトル様は無言のまま、玄関の扉の前で立っている。私が来るのを待っているような気配が伝わってきた。行かないと。
早足で、でも静かにと気をつけながら、ヴィクトル様の所へ向かうが、緊張のあまりに裾を少し踏んでしまい、体が前のめりになってしまった。
「あっ……!」
バランスを崩した瞬間、視界が傾いた。
「朝……」
朝の光がカーテンの隙間から差し込むと、新しい朝が来たのだと実感をする。
天井を見上げながら、私はゆっくりと体を起こす。ここはヴィクトル様の部屋だ。
夜のうちに自分の部屋へ戻るべきだったのかもしれないと、今更そう思う。
それなのに立ち上がる勇気も扉を開ける力もその時の私には残っていなかった。ただ静かに夜の中で時間が過ぎるのを待つしかなかった。
どれほど浅い眠りを繰り返しただろう。朝になっても心はまだ落ち着かないままだ。後悔と、少しの安堵と、どうしようもない寂しさが入り混じっていた。
「どうぞ……」
ノックの音が静かに響く。返事をするとそこにヴィクトル様が立っていた。昨日と同じ姿。
「……起きていたか」
ヴィクトル様が部屋の中に入ってくる。近くで見ると、その表情はどこか疲れて見える。
「昨日は……一人にして、すまなかった」
ヴィクトル様が謝っている。そんな様子にまだ慣れなくて、不思議な感覚が広がっていく。
以前なら、謝罪なんて絶対にしない人だった。どれほど私が傷ついても「悪かった」と一言もなかった。なのに今、こんなに静かに真っ直ぐな瞳で。
本当に変わろうとしてくれているんだなと思う反面、落ち着かない。それは不快とか不安とか、そういうものじゃない。
ただ、私が知っていたヴィクトル様と、目の前にいるヴィクトル様の違いにまだ馴染めなくて少しだけ戸惑っている。
「いいえ……謝るの私の方です。私から頼んだのにごめんなさい……」
私はベッドの上で膝の上に手を重ねて謝罪を返した。昨晩このことは拒んでしまった私が本当に悪かったのだから。
「……俺は他人を愛したことがない」
ヴィクトル様はベッドのそばに立ったまま視線を落とした。
私との距離はほんの少し。けれど、そのわずかな空間が痛いほど遠くに感じた。
「どうしていいのか、わからない」
ヴィクトル様の声から重たい不安と迷いが滲み出ていた。
寡黙でどんなことにも動じず、常に強くあろうとする人。そんなヴィクトル様が私の前でだけ酷く脆くなってしまう。あの日……最後に別れた日を思い出す。
幼い頃に親族から見放されたと言っていた。誰にも頼れず、誰にも期待できないまま、生きてきた。他人を愛さなくても生きていけた。
誰かに心を向けることに対して意味を見いだせなかったのかもしれない。
そんなヴィクトル様が私にこんな言葉をこぼすなんて、信じられないことなのだ。
どうして、私なんかがヴィクトル様の心の奥にある小さな弱さを私が引き出してしまったのだろうか。
私は何も持っていない。強くもなれず、誰かを導くこともできず、ただ守られることしか知らない、日陰者なのに。
「……私もよくわからないです……だから、一緒に……頑張りましょう」
愛すること、愛されること。私にもまだ、その本当の形がわからない。
私がもらった愛情はミーティアお姉様から。あの人だけが私に優しくしてくれた。
何も持っていなかった私に言葉をくれて、ぬくもりをくれて。でも、その愛情の正体は結局、最後まで理解できなかった。見返りを求めなかったからこそ、余計にわからなかった。
最後にエレノアお姉様が教えてくれた。ミーティアお姉様は私を甘やかすことで堕落させようとしていたのだと言っていた。
本当にそうだったのか、それとも……違う何かがあったのか。今となって確かめる術はない。
だから私は目の前で黙って立つヴィクトル様と少しずつでも向き合っていくしかない。
◆
朝食の時間。テーブルに磨き上げられた銀器と温かなスープの香りが漂っていた。その空気はどこか張り詰めている。
「ヴィクトル様、本日の予定はこちらに……」
執事が差し出した書類をヴィクトル様は無言で受け取る。
その顔は先ほどまでとまるで違っていた。冷たく、厳格で、威圧感に満ちていて、周囲の従者たちは誰もが目を伏せ、言葉を選びながら動いている。
私はナイフとフォークを手にしながら、静かにヴィクトル様を見つめた。その顔に感情の一片も浮かんでいない。冷徹な軍人。誰にも弱みを見せない完璧な支配者。
ほんの数時間前に私に向かって「どうしていいのか、わからない」と戸惑いを見せていた人と同じ人物だとはとても思えない。
怖い。今の目に見つめられたら、何も言えなくなってしまいそうなほどに。
でも、不思議なことにその姿を見ていると、どこか安心もしてしまう。
誰も近づけない強さ。その中に私は確かに守られている気がしていたから。
◆
私は静かに階段を降りて行き、広い玄関ホールでヴィクトル様を見送る準備をした。
使用人達が出発の支度を手早く整えていたが、私と目が合うとヴィクトル様の視線一つで、全員がすっと頭を下げ、その場を離れていく。
ヴィクトル様は無言のまま、玄関の扉の前で立っている。私が来るのを待っているような気配が伝わってきた。行かないと。
早足で、でも静かにと気をつけながら、ヴィクトル様の所へ向かうが、緊張のあまりに裾を少し踏んでしまい、体が前のめりになってしまった。
「あっ……!」
バランスを崩した瞬間、視界が傾いた。
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