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再婚編
14
数日後、予定よりも早く、ヴィクトル様が屋敷へ戻ってきた。
朝からの雨がまだ降り続き、玄関扉を開けた瞬間、濡れた外套から冷たい空気がふわりと漂う。
「お帰りなさいませ、ヴィクトル様」
「ああ」
私が出迎えると、ヴィクトル様は一言返事をして、手にしていた小さな包みを差し出した。
「…………」
言葉は無く、ただ視線だけが私に向けられている。そこに「受け取れ」という無言の圧を感じ取れた。
「あ、ありがとうございます」
礼を言ってから包みを両手で受け取り、しばし見つめた。再婚する前にヴィクトル様から何度か花をもらったけど、こうしてまた妻になってから、何かを贈られたのはこれが初めてだった。
視線を上げると、無言で立つヴィクトル様と目が合う。
「あの、この中を見てもいいですか?」
問いかけると、彼はほんの僅かに顎を引き、承諾の仕草を見せたので布をそっと解く。
「失礼します……わぁ……」
中から現れたのは小さな銀細工の髪留め。花を象った繊細な彫りが施されている。指先で触れると、ひんやりと冷たい。
「試してくれ」
そう言って、顔を上げればヴィクトル様は私の手から髪留めを取った。
大きくて、硬くて、武人の手。その手が驚くほど丁寧に私の髪をすくい上げる。痛みはまるでなく、くすぐったくて、気恥ずかしい。
髪留めがぱちん、と留まった小さな音がやけに大きく響いた気がした。
顔を上げると、ヴィクトル様はいつもの無表情のまま、じっと私を見ていた。ここに鏡が無いから似合っているのかどうかわからないけど……
「……すごく、嬉しいです」
「似合っている」
ぽつりと落ちたその一言は、まるで思いがけず触れた熱のように胸の奥まで響いた。
褒められた。それも、ヴィクトル様に。頬だけじゃなく、耳の後ろまで火がついたみたいに熱くなる。
「え、あ……っ、その……」
言葉がうまく続かない。褒められること自体に慣れていないし、ましてやこの人に穏やかな声音で言われるなんて、心の準備なんてできているはずがなかった。
視線が自然と床に落ちてしまい、指先がぎゅっと布をつかむ。
嬉しい。でもどうしていいかわからない。その二つが胸の中でぐるぐる混ざって、呼吸まで少しだけ落ち着かなくなる。
「…………」
「…………」
しばらくの静けさが続き、私は急に息をする方法を忘れてしまったような心地になってしまう。
「あ……すみません。疲れてましたよね。ゆっくり休んでください」
そう言うと私は、はっと自分の中の役目を思い出した。休ませなきゃ。ちゃんと迎えなきゃ。
そして、私は執事を呼び、軍服を預けるよう指示し、湯浴みと食事の準備を命じる。
数日前に「帰ってくるかもしれない」とだけ知らされていたから、心のどこかでずっと準備の手順を組み立てていた。
落ち込んだり、考え込んだりする時間の合間にも何度も何度も頭の中で繰り返した。
ヴィクトル様が帰ったら、まず外套と軍服を預けて、湯浴みを用意して……その間に食事……次に……
「帰りが遅くなると、知らせていたはずだが……ずいぶん手際が良かったな」
考え事をしている時に声を掛けられて、胸の奥がどきりと跳ねた。
「その……ヴィクトル様が疲れていると思って……すぐ休んでもらえるように……そういうのは……妻の、役目ですから……」
言っている途中で、自分の声がだんだん小さくなるのがわかった。妻としてできて当然のことなのに、前の私はそれすらまともにできなかった。
「見ない間に随分と成長したな」
「そ、そんなこと……」
反射的に否定して、胸がきゅっと締まり、指先が落ち着かなくなる。
ちゃんとできているのか、怖かった。
ミーティアお姉様なら、こんなふうに慌てたりせず、優雅に笑って出迎えただろう。
エレノアお姉様なら、もっと完璧に立ち回れただろう。
私はどうしても、あの二人のようにはできない。
それでも、今度こそはこの人を迎える妻として、できる限りのことをしたかった。
◆
夜も遅くなり、寝支度を整えていた頃だった。
寝室の扉が静かに、けれどためらいなくノックされる。
「ユミル」
ヴィクトル様の声。胸の奥がびくりと跳ねた。
扉を開けると、廊下の灯りに照らされた彼が立っていた。無表情なのに、視線だけが強くて、拒むことなんてできるはずもなくて。
「少し話がある」
話。この時間にわざわざ来る理由なんて……きっと……
ヴィクトル様が帰ってきたら今度こそ応えなければいけないのだと思った。
拒んでしまったら、今度は本当に嫌われてしまう。でも、怖い……
「……はい。あの……その、お入りになりますか?」
声が震えてしまう。彼は部屋に入ると、私を見下ろすように立ち止まり、ほんの少しだけ息を吸い込んだ。
そして予想していた言葉とはまるで違うものが降ってきた。
「休みができた。どこか、行きたい場所はあるのか?」
「……え?」
思わず間の抜けた声が漏れた。
夜伽ではなくて。ただ、行きたい場所の話?
緊張がほどけるどころか、何かを言おうとして、躊躇う。
行きたい所……会いたい人。
唇が動く。浮かんでしまったものを隠すことなんてできなかった。
朝からの雨がまだ降り続き、玄関扉を開けた瞬間、濡れた外套から冷たい空気がふわりと漂う。
「お帰りなさいませ、ヴィクトル様」
「ああ」
私が出迎えると、ヴィクトル様は一言返事をして、手にしていた小さな包みを差し出した。
「…………」
言葉は無く、ただ視線だけが私に向けられている。そこに「受け取れ」という無言の圧を感じ取れた。
「あ、ありがとうございます」
礼を言ってから包みを両手で受け取り、しばし見つめた。再婚する前にヴィクトル様から何度か花をもらったけど、こうしてまた妻になってから、何かを贈られたのはこれが初めてだった。
視線を上げると、無言で立つヴィクトル様と目が合う。
「あの、この中を見てもいいですか?」
問いかけると、彼はほんの僅かに顎を引き、承諾の仕草を見せたので布をそっと解く。
「失礼します……わぁ……」
中から現れたのは小さな銀細工の髪留め。花を象った繊細な彫りが施されている。指先で触れると、ひんやりと冷たい。
「試してくれ」
そう言って、顔を上げればヴィクトル様は私の手から髪留めを取った。
大きくて、硬くて、武人の手。その手が驚くほど丁寧に私の髪をすくい上げる。痛みはまるでなく、くすぐったくて、気恥ずかしい。
髪留めがぱちん、と留まった小さな音がやけに大きく響いた気がした。
顔を上げると、ヴィクトル様はいつもの無表情のまま、じっと私を見ていた。ここに鏡が無いから似合っているのかどうかわからないけど……
「……すごく、嬉しいです」
「似合っている」
ぽつりと落ちたその一言は、まるで思いがけず触れた熱のように胸の奥まで響いた。
褒められた。それも、ヴィクトル様に。頬だけじゃなく、耳の後ろまで火がついたみたいに熱くなる。
「え、あ……っ、その……」
言葉がうまく続かない。褒められること自体に慣れていないし、ましてやこの人に穏やかな声音で言われるなんて、心の準備なんてできているはずがなかった。
視線が自然と床に落ちてしまい、指先がぎゅっと布をつかむ。
嬉しい。でもどうしていいかわからない。その二つが胸の中でぐるぐる混ざって、呼吸まで少しだけ落ち着かなくなる。
「…………」
「…………」
しばらくの静けさが続き、私は急に息をする方法を忘れてしまったような心地になってしまう。
「あ……すみません。疲れてましたよね。ゆっくり休んでください」
そう言うと私は、はっと自分の中の役目を思い出した。休ませなきゃ。ちゃんと迎えなきゃ。
そして、私は執事を呼び、軍服を預けるよう指示し、湯浴みと食事の準備を命じる。
数日前に「帰ってくるかもしれない」とだけ知らされていたから、心のどこかでずっと準備の手順を組み立てていた。
落ち込んだり、考え込んだりする時間の合間にも何度も何度も頭の中で繰り返した。
ヴィクトル様が帰ったら、まず外套と軍服を預けて、湯浴みを用意して……その間に食事……次に……
「帰りが遅くなると、知らせていたはずだが……ずいぶん手際が良かったな」
考え事をしている時に声を掛けられて、胸の奥がどきりと跳ねた。
「その……ヴィクトル様が疲れていると思って……すぐ休んでもらえるように……そういうのは……妻の、役目ですから……」
言っている途中で、自分の声がだんだん小さくなるのがわかった。妻としてできて当然のことなのに、前の私はそれすらまともにできなかった。
「見ない間に随分と成長したな」
「そ、そんなこと……」
反射的に否定して、胸がきゅっと締まり、指先が落ち着かなくなる。
ちゃんとできているのか、怖かった。
ミーティアお姉様なら、こんなふうに慌てたりせず、優雅に笑って出迎えただろう。
エレノアお姉様なら、もっと完璧に立ち回れただろう。
私はどうしても、あの二人のようにはできない。
それでも、今度こそはこの人を迎える妻として、できる限りのことをしたかった。
◆
夜も遅くなり、寝支度を整えていた頃だった。
寝室の扉が静かに、けれどためらいなくノックされる。
「ユミル」
ヴィクトル様の声。胸の奥がびくりと跳ねた。
扉を開けると、廊下の灯りに照らされた彼が立っていた。無表情なのに、視線だけが強くて、拒むことなんてできるはずもなくて。
「少し話がある」
話。この時間にわざわざ来る理由なんて……きっと……
ヴィクトル様が帰ってきたら今度こそ応えなければいけないのだと思った。
拒んでしまったら、今度は本当に嫌われてしまう。でも、怖い……
「……はい。あの……その、お入りになりますか?」
声が震えてしまう。彼は部屋に入ると、私を見下ろすように立ち止まり、ほんの少しだけ息を吸い込んだ。
そして予想していた言葉とはまるで違うものが降ってきた。
「休みができた。どこか、行きたい場所はあるのか?」
「……え?」
思わず間の抜けた声が漏れた。
夜伽ではなくて。ただ、行きたい場所の話?
緊張がほどけるどころか、何かを言おうとして、躊躇う。
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