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鏨牙(前編)
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「邪魔するぞ」
落雷と共に試合場に現れたのは、おそらくは人間。
年の頃なら七十代。顔にこそ皺が複数刻まれているが、体格はがっしりとしていて、千彰と比べても遜色がない。
身長は千彰と比較して頭ひとつ高く、手足もそれに準じて長くたくましい。
いや、たくましいと言うには言葉が足りなさすぎる。
以前闘った鶻業。彼以外にも千彰は様々な妖や妖魔と戦ってきたが、そのいずれよりも筋肉は分厚く、うかつな剣術では文字通り歯が立たないと物語っている。
振り返ったふたり、そしてわずかな怒りをもって男を見据える鋏臈。三者の視線を受けながらこちらを睥睨するその瞳を顔を、千彰はある人物と重ねてしまう。
「じいちゃん……?」
千彰の記憶の中にいる祖父の玄壱とよく似ていた。
生きていた。
十年前に行方不明となった玄壱が、あの頃の姿とまるで変わらずに。
それがなにより嬉しく、警戒心を、
「ちがう千彰くん! そのひとが玄壱さまのはずがない!」
すずめの叫びに千彰は我を取り戻し、構える。
「我は鏨牙。妖を滅する者」
名乗り、視線を巡らせ、明香梨に狙いを定める。
「まずは、鬼!」
巨人と言っても過言ではない体躯からは想像もできないほどの速度で男は動き、一瞬で間合いを詰め、明香梨の喉輪へ手を伸ばす。
あまりにも唐突すぎる攻撃に反応できたのはさすがだった。
逃げることは不可能と判断し、峰に左手を添え、鏨牙の突進を受け止めようとふんばる明香梨。
「受けずに捌いて!」
「くっ!」
すずめのアドバイスもあって捌きはしたが、反動で千彰の脇を掠めるように飛ばされ、リングの端まで後退させられてしまう。
「あんた、なんなんだ!」
鏨牙が祖父に似ていることの疑問はあるが、いまは明香梨を攻撃されたことの憤りが先だ。明香梨をかばうように鏨牙の前に立ち、切っ先を向ける。
「童は下がっておれ!」
ぬるり、と切っ先をすり抜けて千彰の奥襟を掴み、無造作にフェンスへと投げ捨てる。
「千彰さま!」
鏨牙を警戒しつつ鋏臈はリングを降り、後ろに伸びた腹部の先端から糸を網状に放出。フェンスへ激突寸前だった千彰のからだを優しく受け止め、地面に下ろした。
驚きつつも立ち上がり、構え直す千彰。その気配を感じてすずめも動く。
「急急如律令!」
鏨牙の背後からすずめが叫ぶ。ふところから大量にばらまいた札が彼女の命ずるまま、鏨牙の足下に進路上に集まり、光を放ちながらイバラへと姿を変え、鏨牙の両足に絡みついていく。
「む」
鏨牙の突進がびたりと止まる。だが時間を稼げたのは数瞬。まとわりつくイバラを、足を上げることで強引に引き剥がし、そのまま歩き始める。突進に移行しないのはイバラが絡み続けるから。
「明香梨さん逃げて!」
くじけることなく札をまき散らしながら叫ぶすずめに、応えたのは千彰。
「おおおっ!」
吠えながら鏨牙の左横から飛びかかり、上段から斬りつける。
「ぬうんっ!」
からだを捻りながらの右拳がくる。巨岩と錯覚するほどの拳圧に、千彰はしかし怯まず拳へ振り下ろす。硬い。いままで斬ってきたどんな妖魔よりも硬く、中指と薬指の間にわずかに食い込ませた以上に刃を進ませることができなかった。そして千彰のからだが一瞬止まった隙を鏨牙が見逃すはずもなく。
「ぬるい!」
突き立てられた刃に滑らせるように鏨牙は拳を打つ。
「がっ!」
刃を鍔を滑り抜けて腹部に命中した拳は、千彰を軽々とリングまで吹き飛ばし、石造りの床を何度もバウンドし、転がる。
「千彰さま!」
それを受け止めたのは鋏臈。糸を放出して網を造って受け止め、勢いを丁寧に殺して最後は自身で受け止めた。
「悪い」
「いえ。伴侶として当然のことです」
冗談ではないのだろうが、少し心が軽くなった。
「助かった」
「では援護いたします」
どうやって、と思う間もなく鋏臈は天を仰ぎ、甲高く咆哮する。収まると同時に物影から壁の隙間から蜘蛛が無数に湧き出す。大きさは、小石ほどのものから大型犬ほどまで多様だ。
「明香梨!」
すずめの護符による足止めも功を奏し、鏨牙と明香梨の距離はまだある。明香梨は角髪を展開してはいるが動けないでいる。攻撃の隙をうかがっているのか、威圧されているのかはここからでは判らない。
「……そこか」
蜘蛛が大量に湧いたことで鏨牙がこちらに視線と殺意を送ってくる。ほんの数瞬前に返り討ちにされたというのに、あれだけの殺気を放っているというのに不思議と恐怖は感じない。
となりに鋏臈がいるからかと思ったが、少し違う。
鋏臈とは出会いの仕方こそ最悪に近い形ではあったが、刀を交えて伝わってくる思いに一切の邪気や悪意がなかった。だから信じられると思える。
そんな彼女が味方についてくれることに安堵はしているが、しっくりくるものではなかった。じゃあなにが、と理由を探して出た答えが、鏨牙が強いから、だと行き着いた。
自分はつくづく、と思う。
「千彰さま」
一瞬の思考を中断するように、鋏臈が呼びかけて頷くのを見て千彰は走り出す。
「いきなさい蜘蛛たち!」
鋏臈の号令の後、湧き出した蜘蛛たちが一斉に鏨牙へ襲いかかる。
「むうぅっ!」
拳で脚で蜘蛛を払う鏨牙だが数には勝てず、すぐに埋め尽くされてしまう。最初は人の姿をした山だったそれは蜘蛛たちの圧力により次第に崩れ、間もなく平坦に、
「ぬりゃあっ!」
鏨牙の気合いと共に火山の噴火のように大小の蜘蛛がはじけ飛ぶ。垣間見えた鏨牙の上半身へとそれでも蜘蛛は押し寄せ続ける。
「うぬうっ!」
蜘蛛たちの隙間から鏨牙は両手を左右に突き出し、手近な蜘蛛を左右それぞれに鷲掴みにして、札へと変える。
え、と千彰が驚きの声を上げている間に、鏨牙が手にした二枚の札がばちばちと火花をあげる。まさかそんな、とすずめの顔が青ざめる。
「明香梨さん!」
「七星さん逃げて!」
すずめと鋏臈の叫びも直後の爆発にかき消され、四人は身をすくめてしまう。
「ふんっ!」
その隙をついて蜘蛛の大群の残骸から飛び出し、明香梨の喉輪を掴み上げる。
「くぁ……っ!」
ぎりり、と鬼の肉体であっても危険だとわかる音と苦悶の声に千彰が飛び出す。
鏨牙の背後から。極限まで音と呼吸と気配と殺気を消して。
これを卑怯だと断じていいのは人間同士の、命のかかっていない試合のみ。そして、話せば分かってもらえるなどという戯れ言も。
人間か鬼であれば心臓があるあたりをまっすぐに狙った突き。間合いに入る。寸前。
気付かれた。
「ぬんっ!」
振り返りながら、明香梨を掴み上げながら、鏨牙の左裏拳が迫る。巨岩かと見紛う拳はしかし、千彰ではなく刀身を狙った一撃。だがそれは鏨牙のからだをがら空きにする。
「急急如律令!」
「蜘蛛たち!」
すずめは大木をそのまま加工したような巨大な矢を、鋏臈は無数の蜘蛛を。ふたりの同時攻撃を、鏨牙は裏拳を止めて正面から受ける。
「ぬおあっ!」
裂帛の気合いと共に矢は無数の札へと還元され、はらはらと地面へリングへ舞い落ちていく。それはいい。いま放った矢は鏨牙の気を逸らすことだけが目的。自分の術は未熟。そして鏨牙は強い。だから無効化される。悔しくない。絶対。
それよりも注視すべきことは別にある。
「煩いわ!」
これだ。
鏨牙は大木の矢から還元した札を使って爆発を起こし、鋏臈が放った大量の蜘蛛たちを一斉に退治したのだ。
「やっぱり使った!」
鏨牙は、陰陽師だけが使える札を使える。ならば人間。それも陰陽師だということ。なのに鏨牙の見た目は角髪こそないが、鬼族に比肩するような筋骨隆々とした姿。
そんな存在があることなんて、いままで聞いたことがない。
「おおおおっ!」
すずめの動揺を払うように千彰が雄叫びをあげ、鏨牙の、明香梨のノドを掴む右手首を斬り上げる。やはり、硬い。刃は手首の肉を少し裂いただけで止まってしまう。
だがなんだというのだ。
脚を踏ん張り、全身の力を込めて振り上げる。
「あああああっ!」
脚が地面にめり込み、全身を押しつぶすような圧力を超えて千彰は刃を押し上げ、鏨牙の右手首の切断に成功する。
どさりと明香梨のからだが地面に落ちる。すかさず蜘蛛たちが明香梨の首に絡みつく鏨牙の手首を器用に外して放り投げる。別の蜘蛛が同時に明香梨を診察する。意識を失っているが、傷は浅い。その報告を受けて鋏臈は安堵しつつ蜘蛛たちへ新たな指示を出す。
直後に地面との隙間にわさわさと潜り込んで明香梨を持ち上げて主人の元へ走る。
鏨牙が妨害してこなかったのは、その視線が千彰に向けられていたから。気絶したことで明香梨から興味が薄れたのはひとまず幸運だと鋏臈は蜘蛛たちをこちらへ呼び寄せる。
「ふー……っ」
同じく千彰の元へ集まった蜘蛛たちを、千彰は鋏臈に視線を送って拒否。荒い息をどうにか整えながら、鏨牙へ構える。
鏨牙は落とされた右手にも、手首から流れ落ちる血にも興味を示さず、千彰に向き直ってじっくりと観察する。
「童かと思うたが妖士か。まだ若いが、いい剣筋だ」
落ち着いた声音で言われ、千彰は面喰らう。
「なんなんだ、あんた。札を作ったり札を使ったりして」
「もはや覚えてはおらぬ。だが、鬼も妖魔も滅する存在だということは覚えている」
ぐるりと明香梨たちへ顔を向けるよりもはやく、千彰がその視線の先に回り込む。
「すずめ、鋏臈! はやく逃げろ!」
「妖士が妖魔をかばうか!」
胸ぐらを掴まれ、軽々と持ち上げられる千彰。
「あんたこそ、なんだ。妖とは闘うだけだ。殺し合う相手じゃない……っ!」
「妖魔が、妖魔こそが諸悪の根源! 滅ぼさねば、ならぬ!」
一八〇センチメートル近い千彰の長身をさらに持ち上げ、ついにつま先が地面から離れる。
「が……っ」
「あれらをかばうのなら、ぬしもまた敵。滅するのみ!」
反動を付け、頭から地面へ叩き付ける。
落雷と共に試合場に現れたのは、おそらくは人間。
年の頃なら七十代。顔にこそ皺が複数刻まれているが、体格はがっしりとしていて、千彰と比べても遜色がない。
身長は千彰と比較して頭ひとつ高く、手足もそれに準じて長くたくましい。
いや、たくましいと言うには言葉が足りなさすぎる。
以前闘った鶻業。彼以外にも千彰は様々な妖や妖魔と戦ってきたが、そのいずれよりも筋肉は分厚く、うかつな剣術では文字通り歯が立たないと物語っている。
振り返ったふたり、そしてわずかな怒りをもって男を見据える鋏臈。三者の視線を受けながらこちらを睥睨するその瞳を顔を、千彰はある人物と重ねてしまう。
「じいちゃん……?」
千彰の記憶の中にいる祖父の玄壱とよく似ていた。
生きていた。
十年前に行方不明となった玄壱が、あの頃の姿とまるで変わらずに。
それがなにより嬉しく、警戒心を、
「ちがう千彰くん! そのひとが玄壱さまのはずがない!」
すずめの叫びに千彰は我を取り戻し、構える。
「我は鏨牙。妖を滅する者」
名乗り、視線を巡らせ、明香梨に狙いを定める。
「まずは、鬼!」
巨人と言っても過言ではない体躯からは想像もできないほどの速度で男は動き、一瞬で間合いを詰め、明香梨の喉輪へ手を伸ばす。
あまりにも唐突すぎる攻撃に反応できたのはさすがだった。
逃げることは不可能と判断し、峰に左手を添え、鏨牙の突進を受け止めようとふんばる明香梨。
「受けずに捌いて!」
「くっ!」
すずめのアドバイスもあって捌きはしたが、反動で千彰の脇を掠めるように飛ばされ、リングの端まで後退させられてしまう。
「あんた、なんなんだ!」
鏨牙が祖父に似ていることの疑問はあるが、いまは明香梨を攻撃されたことの憤りが先だ。明香梨をかばうように鏨牙の前に立ち、切っ先を向ける。
「童は下がっておれ!」
ぬるり、と切っ先をすり抜けて千彰の奥襟を掴み、無造作にフェンスへと投げ捨てる。
「千彰さま!」
鏨牙を警戒しつつ鋏臈はリングを降り、後ろに伸びた腹部の先端から糸を網状に放出。フェンスへ激突寸前だった千彰のからだを優しく受け止め、地面に下ろした。
驚きつつも立ち上がり、構え直す千彰。その気配を感じてすずめも動く。
「急急如律令!」
鏨牙の背後からすずめが叫ぶ。ふところから大量にばらまいた札が彼女の命ずるまま、鏨牙の足下に進路上に集まり、光を放ちながらイバラへと姿を変え、鏨牙の両足に絡みついていく。
「む」
鏨牙の突進がびたりと止まる。だが時間を稼げたのは数瞬。まとわりつくイバラを、足を上げることで強引に引き剥がし、そのまま歩き始める。突進に移行しないのはイバラが絡み続けるから。
「明香梨さん逃げて!」
くじけることなく札をまき散らしながら叫ぶすずめに、応えたのは千彰。
「おおおっ!」
吠えながら鏨牙の左横から飛びかかり、上段から斬りつける。
「ぬうんっ!」
からだを捻りながらの右拳がくる。巨岩と錯覚するほどの拳圧に、千彰はしかし怯まず拳へ振り下ろす。硬い。いままで斬ってきたどんな妖魔よりも硬く、中指と薬指の間にわずかに食い込ませた以上に刃を進ませることができなかった。そして千彰のからだが一瞬止まった隙を鏨牙が見逃すはずもなく。
「ぬるい!」
突き立てられた刃に滑らせるように鏨牙は拳を打つ。
「がっ!」
刃を鍔を滑り抜けて腹部に命中した拳は、千彰を軽々とリングまで吹き飛ばし、石造りの床を何度もバウンドし、転がる。
「千彰さま!」
それを受け止めたのは鋏臈。糸を放出して網を造って受け止め、勢いを丁寧に殺して最後は自身で受け止めた。
「悪い」
「いえ。伴侶として当然のことです」
冗談ではないのだろうが、少し心が軽くなった。
「助かった」
「では援護いたします」
どうやって、と思う間もなく鋏臈は天を仰ぎ、甲高く咆哮する。収まると同時に物影から壁の隙間から蜘蛛が無数に湧き出す。大きさは、小石ほどのものから大型犬ほどまで多様だ。
「明香梨!」
すずめの護符による足止めも功を奏し、鏨牙と明香梨の距離はまだある。明香梨は角髪を展開してはいるが動けないでいる。攻撃の隙をうかがっているのか、威圧されているのかはここからでは判らない。
「……そこか」
蜘蛛が大量に湧いたことで鏨牙がこちらに視線と殺意を送ってくる。ほんの数瞬前に返り討ちにされたというのに、あれだけの殺気を放っているというのに不思議と恐怖は感じない。
となりに鋏臈がいるからかと思ったが、少し違う。
鋏臈とは出会いの仕方こそ最悪に近い形ではあったが、刀を交えて伝わってくる思いに一切の邪気や悪意がなかった。だから信じられると思える。
そんな彼女が味方についてくれることに安堵はしているが、しっくりくるものではなかった。じゃあなにが、と理由を探して出た答えが、鏨牙が強いから、だと行き着いた。
自分はつくづく、と思う。
「千彰さま」
一瞬の思考を中断するように、鋏臈が呼びかけて頷くのを見て千彰は走り出す。
「いきなさい蜘蛛たち!」
鋏臈の号令の後、湧き出した蜘蛛たちが一斉に鏨牙へ襲いかかる。
「むうぅっ!」
拳で脚で蜘蛛を払う鏨牙だが数には勝てず、すぐに埋め尽くされてしまう。最初は人の姿をした山だったそれは蜘蛛たちの圧力により次第に崩れ、間もなく平坦に、
「ぬりゃあっ!」
鏨牙の気合いと共に火山の噴火のように大小の蜘蛛がはじけ飛ぶ。垣間見えた鏨牙の上半身へとそれでも蜘蛛は押し寄せ続ける。
「うぬうっ!」
蜘蛛たちの隙間から鏨牙は両手を左右に突き出し、手近な蜘蛛を左右それぞれに鷲掴みにして、札へと変える。
え、と千彰が驚きの声を上げている間に、鏨牙が手にした二枚の札がばちばちと火花をあげる。まさかそんな、とすずめの顔が青ざめる。
「明香梨さん!」
「七星さん逃げて!」
すずめと鋏臈の叫びも直後の爆発にかき消され、四人は身をすくめてしまう。
「ふんっ!」
その隙をついて蜘蛛の大群の残骸から飛び出し、明香梨の喉輪を掴み上げる。
「くぁ……っ!」
ぎりり、と鬼の肉体であっても危険だとわかる音と苦悶の声に千彰が飛び出す。
鏨牙の背後から。極限まで音と呼吸と気配と殺気を消して。
これを卑怯だと断じていいのは人間同士の、命のかかっていない試合のみ。そして、話せば分かってもらえるなどという戯れ言も。
人間か鬼であれば心臓があるあたりをまっすぐに狙った突き。間合いに入る。寸前。
気付かれた。
「ぬんっ!」
振り返りながら、明香梨を掴み上げながら、鏨牙の左裏拳が迫る。巨岩かと見紛う拳はしかし、千彰ではなく刀身を狙った一撃。だがそれは鏨牙のからだをがら空きにする。
「急急如律令!」
「蜘蛛たち!」
すずめは大木をそのまま加工したような巨大な矢を、鋏臈は無数の蜘蛛を。ふたりの同時攻撃を、鏨牙は裏拳を止めて正面から受ける。
「ぬおあっ!」
裂帛の気合いと共に矢は無数の札へと還元され、はらはらと地面へリングへ舞い落ちていく。それはいい。いま放った矢は鏨牙の気を逸らすことだけが目的。自分の術は未熟。そして鏨牙は強い。だから無効化される。悔しくない。絶対。
それよりも注視すべきことは別にある。
「煩いわ!」
これだ。
鏨牙は大木の矢から還元した札を使って爆発を起こし、鋏臈が放った大量の蜘蛛たちを一斉に退治したのだ。
「やっぱり使った!」
鏨牙は、陰陽師だけが使える札を使える。ならば人間。それも陰陽師だということ。なのに鏨牙の見た目は角髪こそないが、鬼族に比肩するような筋骨隆々とした姿。
そんな存在があることなんて、いままで聞いたことがない。
「おおおおっ!」
すずめの動揺を払うように千彰が雄叫びをあげ、鏨牙の、明香梨のノドを掴む右手首を斬り上げる。やはり、硬い。刃は手首の肉を少し裂いただけで止まってしまう。
だがなんだというのだ。
脚を踏ん張り、全身の力を込めて振り上げる。
「あああああっ!」
脚が地面にめり込み、全身を押しつぶすような圧力を超えて千彰は刃を押し上げ、鏨牙の右手首の切断に成功する。
どさりと明香梨のからだが地面に落ちる。すかさず蜘蛛たちが明香梨の首に絡みつく鏨牙の手首を器用に外して放り投げる。別の蜘蛛が同時に明香梨を診察する。意識を失っているが、傷は浅い。その報告を受けて鋏臈は安堵しつつ蜘蛛たちへ新たな指示を出す。
直後に地面との隙間にわさわさと潜り込んで明香梨を持ち上げて主人の元へ走る。
鏨牙が妨害してこなかったのは、その視線が千彰に向けられていたから。気絶したことで明香梨から興味が薄れたのはひとまず幸運だと鋏臈は蜘蛛たちをこちらへ呼び寄せる。
「ふー……っ」
同じく千彰の元へ集まった蜘蛛たちを、千彰は鋏臈に視線を送って拒否。荒い息をどうにか整えながら、鏨牙へ構える。
鏨牙は落とされた右手にも、手首から流れ落ちる血にも興味を示さず、千彰に向き直ってじっくりと観察する。
「童かと思うたが妖士か。まだ若いが、いい剣筋だ」
落ち着いた声音で言われ、千彰は面喰らう。
「なんなんだ、あんた。札を作ったり札を使ったりして」
「もはや覚えてはおらぬ。だが、鬼も妖魔も滅する存在だということは覚えている」
ぐるりと明香梨たちへ顔を向けるよりもはやく、千彰がその視線の先に回り込む。
「すずめ、鋏臈! はやく逃げろ!」
「妖士が妖魔をかばうか!」
胸ぐらを掴まれ、軽々と持ち上げられる千彰。
「あんたこそ、なんだ。妖とは闘うだけだ。殺し合う相手じゃない……っ!」
「妖魔が、妖魔こそが諸悪の根源! 滅ぼさねば、ならぬ!」
一八〇センチメートル近い千彰の長身をさらに持ち上げ、ついにつま先が地面から離れる。
「が……っ」
「あれらをかばうのなら、ぬしもまた敵。滅するのみ!」
反動を付け、頭から地面へ叩き付ける。
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